2009/09/03

「奥の細道」をよむ

長谷川櫂著『「奥の細道」をよむ』(ちくま新書)を読みました。

著者、長谷川櫂氏は私とほぼ同年。俳壇内外で精力的に活動しておられます。氏は東大法科から読売新聞記者というエリートながら、一念発起して40代で俳句一筋の生活を送っておられます。
俳句創作はもちろん、俳句論や一般の読者も楽しめる季語の本など多くの著作があります。また、朝日新聞の「朝日俳壇」選者としても知られています。

長谷川氏とは面識がありませんが、30代の一時期、二人とも平井照敏主宰(故人)の『槇』という結社に所属していて名前は知っていました。その頃からすでに俳壇的活躍もされており、私たちの世代を代表する俳人としてみるみる頭角を現されたのです。

近年は「古池に蛙は飛びこんだのか」という論を発表して俳壇に波紋を投げかけました。これは芭蕉が俳句開眼したとされる

 古池や蛙飛びこむ水のおと

という句の解釈。以前から様々な解釈はあるものの一貫して古池に蛙が飛び込んだという実景だとされてきました。ところが氏はこれを否定します。芭蕉は蛙が飛び込む水の音は聞いたが古池は実景でなく想像である。つまり「蛙飛びこむ水のおと」という現実から導かれた「古池」という心の世界だというのです。長谷川氏はこれを単に推察したのではなく芭蕉の弟子の支考が書いた『葛の松原』という俳論集から解き明かしています。

「古池の句は蛙が水に飛びこむ現実の音を聞いて古池という心の世界を開いた句なのだ。この現実のただ中に心の世界を打ち開いたこと、これこそが蕉風開眼と呼ばれるものだった。」(41ページ)

と氏は書いています。そして「奥の細道」の旅はこの世界を深めるために挑戦したのだと説きます。この件はなかなかスリリングな展開ですが、俳壇にも賛否のさざ波を立てました。

芭蕉の流派を蕉風といいます。それまでの俳諧は文字通り諧謔的な滑稽を旨としていました。芭蕉は古池の句を通して新しい風雅の「誠」の世界に目覚め、蕉風を起こします。その最高の境地が「不易流行」であり「かるみ」です。

長谷川氏はこの本で『奥の細道』の構造に秘められたさまざまな仕組みを解明していくと同時に、芭蕉がその旅の過程で境地をさらに深めたことに気付きます。旅中の人との出会いや別れ。何より壮大な大自然、宇宙の運行との遭遇。これらが芭蕉をして芭蕉ならしめたのです。

「不易流行」は芭蕉の説いた俳句論です。「不易」とは不変的なもの、「流行」は刻々と変化するもの。物事にはこの両面があるが「其元は一つ也」ということです。これは不易と流行のどちらがいいということではありません。現象は刻々と変化しているが宇宙の運行は不変であるというある種の世界観です。これを長谷川氏は

「人の生死にかぎらず、花も鳥も太陽も月も星たちもみなこの世に現れては、やがて消えてゆくのだが、この現象は一見、変転きわまりない流行でありながら実は何も変わらない不易である。この流行即不易、不易即流行こそが芭蕉の不易流行だった。」(189ページ)

と書いています。壮大な論立てで感動的です。

そこかららさらに「かるみ」へと進みます。「かるみ」とはまさに軽み。これは俳句表現を重くしないで軽くしようということだと考えられていました。重い表現は「おもくれ」として嫌われるのです。この「かるみ」を長谷川氏は次のように説明しています。

「人生はたしかに悲惨な別れの連続だが、それは流行する宇宙の影のようなものである。そうであるなら、流行する宇宙が不易の宇宙であるように、悲しみに満ちた悲惨な人生もこの不易の宇宙に包まれているのだろう。
そう気づいたとき芭蕉は愛する人々との別れを、散る花を惜しみ、欠けてゆく月を愛でるように耐えることができたのではなかったか。これこそが『かるみ』だった。」(196ページ)

旅での別れや大自然との出会いで得た悟りのような境地。これが「かるみ」であって、単に軽く表現するということではないのです。

長谷川氏は若い時から俳句論を宇宙論として説いていました。それが年齢を重ねることでより深く、より身近になったのではないでしょうか。

氏は以前ほど難しい俳論は書かれていないような気がします。むしろ深いことを軽く表現しているように思えます。日本文化の中の俳句を深く追求することでそこに宇宙的広がりを見出す。これは芭蕉の俳論に共通するものだと思えます。


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