2020/07/30

俳句季刊誌「いぶき」が特集して下さいました。




「いぶき」は「藍生」会員でもある今井豊、中岡毅雄両名によるW主宰の季刊誌。
第一号は私の50句を特集して下さいました。
そのときにまとめた経験が句集への道を開いてくれたのです。
このことは句集のあとがきに書きました。

今月号では句集『天職』を三名の方が丁寧に読んで下さっています。
澁谷達生さん、長尾たか子さん、森尾ようこさん、ありがとうございます。

驚くしかない、3DAR

Google chromeの新しいサービス。

昆虫や恐竜、人体など検索して3Dの表示の告知があるる場合、それをクリックするとAR画面でリアルな画像が見られる。動きもリアルである。

試しにヘラクレスオオカブトとアゲハチョウ、ティラノサウルスを出してみた。

以下の写真を観て下さい。
実際には動きも魅力的です。











2020/07/26

慢性痛とは 半場道子著『慢性病のサイエンス』より

慢性痛とは 半場道子著『慢性病のサイエンス』より

慢性病とは(2頁)
定義
「治療に要すると期待される時間の枠組みを超えて持続する痛み、あるいは進行性の非がん性疾患に関する痛み」
通常は発症から3ヶ月以上続く痛みと考えられている。痛みが強くて日常生活に支障が出るような難治性の痛みは、期間が短くても慢性痛と考えられている。

慢性痛の分類
①侵害受容性(52頁)
末梢組織に炎症の源が存在して、感覚神経終末が炎症メディエータ(仲介者・筆者)によって刺激され、終わりのない痛みが続く場合をいう。変形性関節症(osteoarthritis:OA)、関節リウマチ(rheumatoid arthritis:RA)、悪性腫瘍などのように、末梢組織に損傷と炎症が長期にわたって持続する場合、痛みはエンドレスに続いてしまう。

②神経障害性(64頁)
末梢神経が圧迫、絞扼、切断されたり、熱/科学的刺激、ウイルス感染、高血糖などで傷つけられたときに生ずる痛みを指している。脳梗塞、脳出血、頭部外傷などによって、中枢神経系の一部が損傷されたときの痛みも含まれる。

痛みの特徴:電撃が走るような激痛、自発痛、アロディニア(allodynia 通常では疼痛をもたらさない微小刺激が疼痛として認識される感覚異常のこと・筆者)を伴う特徴があり、hyperalgesia(些細な痛み刺激を強い痛みと感じる痛覚過敏)、persistent pain(末梢組織の外傷が治癒した後も、灼けつくような痛みが持続する)、dysesthesia(不快な異常感覚)などが続くことがある。

言葉による訴え:痛みの訴えは、「キリキリ」、「ピリピリ」、「ビリッビリッ」、「ジリジリ」、「ジンジン」、「鋭い痛み」、「剣山を突き立てられたような」、「針でチクチク刺されるような」、「電気が走るような」と表現されることが多い。

痛みが慢性化しやすい

整形外科領域多発する:Cー神経繊維の特殊性。神経可塑性が大きく、興奮性が長期に維持される性質があり、ひとたび損傷されると、生じた興奮性は時間とともに増大し、長期増強と呼ばれる現象を惹起する。

③非器質性(79頁)
痛みの源が末梢組織のどこにも同定されないのに、全身の多領域に拡がる痛み。消炎鎮痛薬や神経ブロックが奏功しない痛みであって、随伴症状は睡眠障害、意欲の低下、慢性的疲労感、うつ状態など多彩である。

例としては慢性腰痛、線維筋痛症、顎関節症、過敏性腸症候群などが挙げられるが、診断名のつけようのない不定愁訴の場合が多く、診断も治療も難渋する。

2020/07/25

『慢性病のサイエンス』 脳からみた痛みの機序と治療戦略 半場道子著

昨年、八事整形会で著者の半場先生から慢性痛に関して直接お話しを聞く機会があった。
この著書の46から47頁に興味深い記述がある。Placebo analgesia(プラセボ鎮痛)と脳内変化の項である。

「Placebo analgesiaが一定値を保つように調節した実験系で、被験者に対し『研究中の薬の鎮痛効果を検定するために、これから薬を静脈に注入する』と音声で予告してから、0.9%生理食塩水1㎖を静脈内に注入した。これを数回繰り返したところ、被験者の脳内にドパミン&μ-オピオイド受容体を介した神経伝達が実際に起きたのである。
(中略)
被験者が『鎮痛効果のある薬』の作用を大きく期待した場合ほど、NAc(側坐核・筆者)におけるドパミン活性が大となり、μ-オピオイド活性も増加して鎮痛効果が大きくなった。
(中略)
被験者脳内にドパミンやμ-オピオイドの代謝変動を起こした『薬』とは、ただの生理食塩水にすぎない。脳内に劇的な変化を起こさせた鍵は、『期待すること』『希望すること』だけであった。
(中略)
これらの研究成果は、医師への信頼、医療への期待感がもたらす治癒力の大きさをも示唆している。Placebo analgesiaが成立するには医師の言葉や表情、白衣、錠剤の形状、病院の建物など、期待を抱かせる根拠となる学習や記憶、認知機能が必要である。」

と書かれている。

以前、精神科クリニックで勤務していたとき、職員から製薬会社の関係で薬の形状が変わったら前の薬より効かなくなったという患者がいて困ったという話を聞いた。上記に錠剤の形状がPlacebo analgesiaに関係あると書かれている。この事実は薬の形状が変わることでPlacebo analgesiaが作用しなくなり、薬の薬理効果のみとなったため、結果として効果が弱まったと想像できる。興味深い体験談だ。

著書の内容は医師や医療機関に関して書かれているが、我々の施術においてもそのまま当てはまるのではないだろうか。

八事整形会で著者の半場先生は「慢性痛の緩和には医師が患者の話をしっかり聞くことが極めて重要です」と締めくくられた。

これもまた我々鍼灸マッサージ師に通底することだろう。


2020/07/22

朝顔

恐れ入谷の鬼子母神の朝市で買って送って頂きました。
句集のお祝いです。










2020/07/16

三島鍼灸指圧治療室開設35周年のご挨拶


三島鍼灸指圧治療室開設35周年のご挨拶

名古屋市千種区今池で開業して35年が過ぎました。自宅開業から数えますと40年になります。右も左も分からない今池の地でこれほど長く営業を続けられたのは多くの方の支えがあってのことです。心より感謝いたしております。

私もその間に年齢を加え、66歳となりました。9年前には大きな手術も経験しました。しかし今後も身体が動き、頭が働く限り頑張って参ります。

現在、新型コロナウイルスの影響が医療や経済、人々のメンタルに暗い影を落としています。それだからこそ三島鍼灸指圧治療室は今後も皆様の養生や健康の為に励んで参ります。今まで以上に感染症対策を丁寧に実施し、安心して利用できる施術所となれるよう努力致します。何卒今後ともよろしくお願い申し上げます。
 

予約に関して
電話にはなかなか出られません。留守番電話にお名前だけでも入れていただけるとこちらからかけ直します。
メールやFAX(東京番号ですがメールに添付されます)が助かります。

株式会社オフィス三島
三島鍼灸指圧治療室
464-0850 
名古屋市千種区今池5丁目3番地6号サンパーク今池303号室
Tel:052-733-2253
Fax:03-6368-9005
h-mishima@nifty.com
https://sites.google.com/site/ofisumishima/
三島広志

2020/07/12

NHK俳壇と光秀の母

コロナ禍によりNHKの「麒麟がくる」の収録が停滞し、古い大河ドラマで繋いでいる。
本日は秀吉(竹中直人)と光秀(村上利明)の特集だった。
番組最後の頃、人質に出ていた明智光秀の母(野際陽子)が磔によって処刑されるシーンが流れた。私は思わず「アッ」と小さい叫んだ。
何故なら故あってその場面をstudioで生で見たからだ。
詳細は昔書いた游氣風信を。
最後まで読んで頂けるとありがたいです。

游氣風信 No77「NHK俳壇出演」

 http://h-mishima.cocolog-nifty.com/yukijuku/2011/06/no77-a0d1.html


三島治療室便り'96,5,1
 
三島広志
E-mail h-mishima@nifty.com
https://sites.google.com/site/ofisumishima/
 

≪游々雑感≫
NHK俳壇出演

 宮沢賢治の名作童話「どんぐりと山猫」の冒頭は次のように始まります。
 おかしなはがきが、ある土曜日の夕がた、一郎のうちにきました。
  かねた一郎さま 九月十九日
  あなたは、ごきげんよろしいほで、けっこです。
  あした、めんどなさいばんしますから、おいで
  んなさい。とびどぐもたないでくなさい。
                              山ねこ 拝

 この手紙を受け取った金田一郎少年はどんぐりの裁判という不思議な体験をするのです。
 さて、三月四日。 わたしのところにも驚くべきファックスが届きました。
  三島広志様
   私の主宰する「NHK俳壇」がこの四月から(向こう二年の契約で)スタート
  します。(中略)
  ご出演お願いしたくお伺いします。
                                  黒田杏子

 これは一大事。
 なぜなら、わたしの所属している俳句結社「藍生」の黒田杏子先生が今年の四月からNHK俳壇の主宰をされることは知っていましたし、藍生の先輩方が出演されるだろうことは予想していました。しかし、しょっぱなに地方在のわたしのところに出演依頼が来るとは思ってもいなかったからです。

 大体、わたしはいい年をしてはにかみ屋ですので、人前で話をするのが大の苦手です。人と面と向かってしまうと、緊張して思うことの半分も言えない、それどころか、頭の中が混乱して何を話そうかと言葉がもつれるだけで、浮かんでもこないという性格なのです。(と、自分では思っていますが、みんなは違うと言います)

 そんな小心者にテレビに出ろだなんて、相当なプレッシャー。しかも、一緒に出るのはシェークスピアの学究、演劇論の坂本宮尾さんと、若き有力作家として俳句界で広く名を知られた岸本尚毅さん。
「こいつぁー荷が重いぜ」
と言うのが正直な感想でした。

 坂本さんは昨年「天動説」という句集を出され注目されました。その前には「子連れ留学体験記(記憶が不確かですが、こんな題でした)」というルポルタージュ(事実に基づいた報告)も出版されています。彼女は英米両国の大学留学をされているのです。
 普段から大勢の学生の前に立って演劇論を講じている女史ならテレビなどお手の物でしょう。既にBS俳壇(衛星放送)にも出演されていますし、人前で上がらずにお話しできることは誰でもが知っています。内緒の話ですが心臓に○が生えていてもおかしくない方なのです。

 「鶏頭」「舜」と出された二冊の句集がともに評判となり、数年前三十才そこそこで栄えある俳人協会新人賞を受賞されているのが俳句界の若きプリンス岸本さん。彼もBS俳壇に出た経験がおありですし、岩波新書の「俳句という遊び」「俳句という愉しみ」(ともに小林恭二著)という紙上句会に最年少として参加、俳句を志している人なら誰でもその名を知っている俊英です。現在サンケイ新聞で俳壇時評を担当、近々俳句の入門書を出されるとお聞きしました。
 膨大な量の古今の名句を頭の中に貯蔵して自由自在に取り出せるというず抜けた頭脳の持ち主。

 それに比してわたしは句集も出さず、評論集も書けず、著書と言えば治療論文集の共著があるきりで、俳句関係の本には全く縁がありません。ただ二十数年という期間、俳句を細々と続けて来たというだけなのです。
 それが図らずも「藍生」という若い結社に入って三年目に新人賞をいただいた、これが唯一のわたしの俳句のキャリア(誇れる履歴)ですが、それはあくまでも身内のもので、広く俳壇に知られたものではないのです。

 したがって今回のNHK俳壇が表に顔を出す第一回目ということになります。
 四月十七日、収録の日です。
 新幹線の中でコーヒーを嗜みつつ、午後からのテレビ出演に備えるため俳句の雑誌などひもときながらも、ときおりは窓の外を流れて行く景色に注目していました。
 静岡の茶畑に魅入られつつ大井川を過ぎ、霞みの向こうの富士山を眺め、海になだれ込む伊豆の山々に心奪われている内に早くも新横浜に到着です。もう東京はすぐそこ。

 車中では「生活者・三島広志」を「俳人・三島広志」に切り替えるため、車窓の景色から俳句などひねってけなげにも心を高めていたのです。
 渋谷のNHKは丘の上に仰々しいアンテナを突き立てていましたからすぐ見つかりました。約束の時間よりかなり早く到着したので正面玄関にある喫茶コーナーで再びコーヒーを飲みながら手帳を出して中庭の新緑を題材に俳句を作ったり、アドレス帳から縁の切れた会うことがないだろうと思われる人の電話番号を抹消したりして時間を過ごしておりました。

 そうこうする内にアシスタントディレクターの中根さんという知性にくるまれたさわやかな女性が迎えに来て下さいました。

 彼女の先導によって迷路のような廊下をぐるぐる巡って、建物の一番奥の、一番隅の控室に案内されました。その道程は森の奥に捨てに行かれるヘンゼルとグレーテルという気持ち。ヘンゼルのように目印のパンくずを捨てながら来なかったのでもはや一人で逃げ帰ることはできないという諦めが脳裏をよぎりました。NHKがラビリンス(迷宮)のような構造になっているのは複雑な道中でゲストが次第に本番に向かう覚悟を決めることができるようにするための配慮だったのでしょう。

 昼食を食べながら簡単な打ち合わせがありました。

 手元に渡されたのは選りすぐりの十五句がプリントされた紙一枚と、当日のシナリオ。この十五句は前もって黒田杏子先生が全国から寄せられた四千句近い投句から選ばれたもの。始めて見るシナリオは赤い表紙の結構分厚いものでしたが中は簡単なものでした。それは当然でしょう。ドラマと違って台詞が書かれていないのですから。
 打ち合わせと言ってもお弁当を食べながらの雑談に近いもので、収録に際しての細かな話はありませんでした。NHKもいいかげんなものです。

わたし「ざっと撮って、あとから編集するのですか」
局の人「いいえ、三十分で撮っちゃいます。時間を計るために各人が選ばれた句を二回ずつ読み上げていただきますが、あとはその場でアドリブでお願いします(シナリオもそうなっている)」
わたし「細かな打ち合わせは?」
局の人「一度やってしまうと臨場感がなくなるので、ぶっつけでやります」
わたし「ぶっつけ本番ですか?」
局の人「三十分間、カメラを長回しします。その緊張が撮りたいんですよ」
こんな感じ。

「では化粧して来てください」
「眉を濃く描いてもらえますか」と岸本さん。
「どうぞ、いろいろご注文ください」

 メイク室ではあっさりと肌色のものを塗られただけで、頬紅も口紅もありませんでした。拍子抜け。もっとも岸本さんは念願がかなってていねいに眉をこしらえてもらっていました。

 メイク室からなかなか帰って来ないのが坂本さん。
 こんなに時間をかけているのだからびっくりするほど奇麗になって来るだろうと皆で期待していましたらびっくりするほど元のままなのでびっくりしました。

 坂本さんが
「あら、ソバカスが隠れたわ」
と喜んだらメイクさんが腕によりをかけてソバカスつぶしをしてくれたようです。聞くところによると、NHKでも三本指に入るほどのメイク名手だとのこと。

 とりあえず十五句の中から三句を選ぶようにと言われ、あわてて選出に集中しました。句を紹介しますと

1 白神の里におくれて辛夷咲く       浅倉滋
2 辛夷咲く頃ばちやばちやと魚釣りぬ   斎藤芳雄
3 花冷や体操服の背番号        遅沢いづみ
4 辛夷咲くひと日何かにせかされて    廣田絹子
5 あともどりできぬ病ひや辛夷咲く    各務雅憲
6 花冷や久しく妻と争わず        角間鋼造
7 花冷や兄を叱れば弟泣く        武内毬子
8 ははのこゑきかむ辛夷の花に佇ち    松川ふさ
9 一堂に女生徒会す辛夷かな       木下信夫
10 花冷や横笛の穴まくれなゐ       竹村竹聲
11 辛夷咲く土曜日曜アルバイト      山本敏雄
12 何となく下駄はき出づる花辛夷     本郷熊胆
13 花冷の仏間に帰り来たりけり      酒井章子
14 花冷や我れ晩学の灯をともす      寺本家治
15 彗星に巡り会ひたる花辛夷         荒尾

 この時点でそれぞれ選んだ句をディレクターに報告しましたから、互いの選んだ句が明らかになり

坂本宮尾選 2 13 15
岸本尚毅選 3 7 13
三島広志選 5 7 13
黒田杏子選 3 5 13

ここで奇しくも13番、酒井章子さんの
 花冷の仏間に帰り来たりけり
が満票であることが分かったのでした。

 選が重なったので念のために第四候補も各人選んで置きました。

 この段階で選考の理由など話す時間的余裕はなく、講評に関してはすべて録画撮りでぶっつけ本番で明かされることとなったのです。各自がどんなことを述べるか分からないという緊張を伴ってスタジオに行くことになりました。

 スタジオはすでにセッティングが完了していました。いつでも取り掛かれるよう準備万端、スタッフが落ち着いた表情でわたしたちを待っていたのです。
 わたしは指定された席に腰掛けてぐるりを見回しました。
 背景にはNHK俳壇でおなじみの和風の飾り戸が置かれていて、花が飾ってありました。よく見るとセットは埃だらけ。それもものすごい埃。スタジオ中に霜が降ったみたい。

 NHKにはきっと野際陽子さんのような怖い怖い姑がいないのでしょう。指で障子のさんをすっと払って
 「あら、○子さん。ここの掃除が行き届いておりませんことよ。当家の嫁にそんな人は要りません」
などと嫁いびりに情熱を傾ける人がいないのでしょう。

 しかし、この埃はありがたいものでした。なぜなら、
 「テレビにこの埃が映らないということは案外たいしたことないぞ」
と、すごい安心感をわたしに与えてくれたのです。テレビ組し易し。
 この埃こそゲストに対するNHKの思いやりに違いありません。この番組の多くの出演者は初めての人です。その人たちがこの埃を見てどんなに安心することか。まさに、地獄に仏、掃きだめに鶴、砂漠にオアシス、NHKに埃。
NHKのこの配慮。だてに放送料を徴収している訳ではないのです。

 さてカメラが回って順調に録画撮りが進行しました。大きな間違いはたった一回だけ。
 何と初めて三分位のところでカメラが黒田先生でなく坂本さんを写していたのです。
改めて撮り直し。これもゲストをリラックスさせるための意図的なミスなのでしょうか。全員の緊張がどっと緩みました。

 さて、あとはテレビを見ていただいた人は見たとおりですし、ご覧にならなかった方はご想像にお任せします。
 多くの人の感想は
「多少緊張しているものの、いつもの三島とあまり変わらない」
ということでした。
 チーフディレクターからは、講評が前の人を受け継ぐ形で進行し、暖かみがある良い絵がとれたとの総評をいただきました。多くの場合、自分の意見を言うことに一生懸命で他人のコメントを引き継ぐ余裕がないのだそうです。

 ということで、まずまず好評の内に収録が終わったのでした。

 収録のあと、朝の連続テレビ小説「ひまわり」と「秀吉」の撮影現場の見学をさせていただき、楽しいときを過ごしました。

 ここだけの秘話ですが、なんと「秀吉」のスタジオでは磔(はりつけ)にされた白い着物の女性が
 「明智光秀の母じやー」
と絶叫して処刑される場面をやっていました。こともあろうにその女性が野際陽子さん。スタジオの埃を見つけて嫁いびりする余裕などあろうはずが無かったのです。

家庭教師のトライ|最新CM「ミルクボーイ」篇

2020/07/10

游氣風信 No63 忘れ得ぬ患者「三百万円の納得」

最近若い在宅鍼灸師さん達とお話しする機会があります。

ふと、昔書いたものを思い出したのでアーカイブスから引き出して掲載します。

 

游氣風信 No63 忘れ得ぬ患者「三百万円の納得」

游氣風信 No63 忘れ得ぬ患者「三百万円の納得」
三島治療室便り'95,3,1
 
三島広志
E-mail h-mishima@nifty.com
https://sites.google.com/site/ofisumishima/

《游々雑感》
忘れられない患者さん

 二十五歳から治療の仕事を始めて今年で十六年目に入ります。

 そのうちには忘れられない患者さんが何人もおられました。そういう方たちの魅力
は様々です。ある人はその闘病精神に感服させられました。また別の方の生きて来し
方の素晴らしさに静かな感動を覚えたこともありました。病に倒れた現在の生きよう
がご家族を含めて実に魅力な印象の人も多くいます。いずれの方々も治療するわたし
の方に素晴らしい喜びをを残してくださったのです。

 中でもN氏はとりわけ強く印象に残る方でした。この方に関しては以前にある機関
紙に書いたことがあります。その原稿をもとに改めて書き直しました。

[三百万円の納得]
 N氏は十年ほど前に八十歳で亡くなりました。
 最後の三年間は脳卒中の後遺症でほとんど寝たきり状態でしたが、明治生まれの頑
固さで毎日仏間の椅子に腰掛けて、自分は「寝たきり老人」ではないと得心していま
した。

 私はN氏が退院して半年目からリハビリに往診し、約二年半のお付き合いをしまし
た。大変明晰な頭脳の持ち主で、時事に関してはテレビ報道を欠かさず見て、絶えず
社会の動きに注意しておられた。とりわけ好きだったのが国会中継。時の総理大臣中
曽根氏のファンのようでした。

 私がリハビリに訪問した初期の頃は、N氏の目的はひたすら歩行能力を回復するこ
とにありました。症状安定と病室不足のため、病院から歩行できないままに退院とな
りましたので、氏は病院から見捨てられたとひどく怒っていました。そこで私は氏の
病院に対する恨みのエネルギーを逆利用して訓練を行うことにしたのです。

 その結果は大成功。N氏の努力と人並み以上の体力の賜物でしょう、一月経った頃
には一本杖で室内の歩行ができるほどになったのです。
 N氏はまだまだ良くなり、何としても自転車に乗れるようになるまで頑張るつもり
でした。しかしどうも私には、それまでの進歩の状況や現在の残っている手足の運動
能力から室内歩行が限界のように思えました。

 リハビリの困難な点は、身体調整(訓練や治療)の結果、必ずしも以前の健康で障
害のない時の状態には回復しないと思われる人に対しても、希望を与えつつ身体調整
を行なわなければならないことです。
 さらに、身体調整の成果が本人にとって、もはや限界と考えられる時点で、以前に
比べれば不満であろうけれども、現在の状態がその人の今から将来への最高の状態な
んですよと、諦めと希望の両方を持って本人や家族に受け入れてもらうように心掛け
なければならないこと、これも大変難しくつらいことなのです。

 患者は元のように上手に歩けるようになると信じています。なりたいと強く願って
いるのです。わたしの方としてもそれに極力応えたいのですが、しかし、多くの場合、
現実にはもう回復はこれ以上は無理と思われるときが必ずやってきます。その時、い
たずらに甘い期待を抱かせるのはリハビリの本意ではありません。といって、絶望感
を持つことは本人にとって耐え難く苦しいことであろうし、看病している家族の失望
も計り知れません。

 どうやってN氏と対応すれば良いかさんざん迷った揚げ句、私は努めて体や病気の
話を避け、N氏の生い立ち、戦争体験、戦後の苦労話や商売のコツなどの聞き役に徹
しました。

 N氏の家はI市にあります。そこは戦争中、名古屋の人々が荷物の疎開をする程の
田舎でしたが、皮肉なことに空襲によって爆弾の直撃を受け全焼してしまいました。
 当時N氏は出征中で、家には奥さんと三人の幼い子供がいました。しかしその時の
爆撃で上の子二人が爆死し、奥さんと背負っていた子だけが助かりました。その子が
今の跡取り息子さんです。

 奥さんは、
「自分たちが何不自由なく暮らしていけるのは、死んだ子どもたちがあの世から見守っ
てくれているお陰だと思っているけど、当時の悲しさはとても言葉には言い表せない。
アメリカを恨み、東条英機を憾み、気も狂わんばかりだった。」
と言われます。

 爆撃されたとき、お母さんと子どもたちはそれぞれ家の表と裏に逃げ出しました。
そのままなら助かったのに、子どもたちは再びお母さんを追って家の中に飛び込んだ
ために爆弾の衝撃と炎で亡くなったそうです。
 お母さんは自分が子どもたちの手を引いて外に飛び出していたら死なせずに済んだ
と今でも強く後悔しているのです。こういう人にとって戦争は一体何時になったら終
わるのでしょうか。

 四十歳過ぎての復員後、N氏は家が焼け、二人の愛児が爆死したことを知り、呆然
自失の日々を送りました。しかし持ち前の気丈さで家の復興に立ち上がったのでした。
 廃材を入手して大工に家を建ててもらい、中古の仏壇を購入し、毎日、自転車で箒
や箕(み)の行商に出て、田畑を買い、米や野菜を作りながら必死で働いたそうです。

 七十七歳で脳卒中になるまでひたすら行商の毎日で、リヤカー付きの自転車で朝早
くから夜遅くまで1日百キロ近く走り回ったと懐かしそうに語ってくれました。
 七十五歳で逆上がりができたというのが自慢の、人一倍丈夫な体の持ち主でした。
ところが頑健と過信していた体が脳卒中で突然動かなくなったのです。雪の早朝、上
半身裸で鍬をふるっていた位元気だったそうですが無理を重ね過ぎたのでしょう。
 N氏は倒れた時のショックは子供を失ったショックと等しい位であったと述懐され
ました。

 N氏が自転車に再び乗る日を夢見るのは、自転車こそまさにN氏のN氏たる証明だ
からなのでしょう。
 しかし日々回復に努めるにも関わらず、歩行能力が向上するどころか次第に低下し
始めました。本人はその事実を必死で否定し、
「今日は体調が悪いからだ。」
「今日は雨模様の気候のせいだ。」
と毎日歩けない理由を探して口にしていましたが、とうとう自分ながらに真実を認め
ざるを得ないところまできてしまいました。

 以前なら横に奥さんを従えて軽く一人で歩いて来れた寝室から居間までのおよそ十
メートル。今では息子さんにしっかり抱えてもらってやっと歩いて来るという状態に
なってしまったのです。
 その頃からN氏は極めて無口になりました。日がな、絶えず何かを考えているよう
でした。いくら否定しても、歩く力が衰えた現実は否定できないことに気がついたの
でしょうか。あるいはほかのことを考えたり、思い出にふけっていたのでしょうか。

 ある日、
「先生よ、わしはお経に書いてあるようになも、往生安楽国に暮らしたいわや。」
とポツリと言われたことがありました。
 私は答えに窮して、
 「安楽国に住むにはその前に書いてある菩提心が必要なんだよ。」
とお経の本を見せてもらい、ほほ笑みでごまかしながら答えたりもしたのです。
 すっかり寡黙になられたN氏を見て、私は父がガンで亡くなる前の数週間を思い出
しました。

 父は、痛み止めの注射のために四六時中意識が朦朧としていたようでした。しかし、
時々頭がはっきりするするらしく、当時二十歳の私に向かって、子供の頃の他愛ない
罪を懴悔することがあったのです。

 「友達と蟹を路面電車の線路の上に置いてひき殺して遊んだことがあったが、今思
うと可哀想なことをしたもんだ。」

などという具合に。

 その経験から、もしかしたら人は死ぬ前に人生を清算する期間が与えられているの
かも知れないなと感じたのでした。父は死を目前にして、自分の人生の肯定作業に取
り掛かっていたのではないでしょうか。死んで行くにあたって心残りないように心の
整理をしているように見えたのです。

 そう考えると闘病期間が与えられた病気はとてもありがたい病気です。昨今、闘病
記を読む機会が増えましたが、どの著者も皆そのようなことを書かれていますから、
あながち間違いではないのかも知れません。あるいはそう考えないとやり切れないの
かも知れませんが。
 N氏もまさに人生肯定に取り組み始めたのでしょう。

 ある時奥さんに対して
 「われ(お前)はわしみたいな男と一緒になって損な人生だったなも。」
と問いかけたそうです。
 奥さんは
 「いいえ。何を言やぁす。おじいさんと一緒に生活ができて、とても良い人生を送
らせてもらったがなも。」
と答えたと言われました。

 その返事を聞いたN氏はめったに見せない割れるような笑顔を見せたと、N氏の死
後、奥さんが話してくださいました。なにしろN氏はいつも苦虫を噛み締めていたの
です。

 再入院される半年程前、N氏は孫ほどの年齢の私に向かって
「先生、わしはなも、もうこの人生に思い残すことはないんじゃ。ただ一つ気になる
ことはなも、氏神様の井戸の屋根が伊勢湾台風で壊れたままじゃろ。あれをわしの手
で建て直したいんじゃ。」
と話されました。

 N氏は息子さんや奥さんと相談して神社に建立費用を寄付することを快諾させ、宮
大工に見積させると約三百万円かかるというので、N氏が全額寄付して、井戸の屋根
の建築が始まりました。

 それから半月程して再入院されることになりました。今度は手足の機能だけでなく
言葉さえも失ないましたが、一生苦虫を噛み続けていた顔が、再入院してからはニコ
ニコ笑い、奥さんの話かけにも愛想良く頷(うなず)いていたそうです。問いかけに
対する判断力はしっかりしていて決して惚けてはいなかったのです。

 入院して一カ月ほどしてN氏は亡くなられました。

 N氏は井戸の屋根を作るという行為に自分の人生を代表させ、それを実現させるこ
とで人生を納得されたのでしょう。私はN氏によって人生を肯定できた人の本当の穏
やかな表情を見せていただくことができました。

 屋根が完成する前に亡くなられたことを惜しむ人もいましたが、N氏にとって大切
だったのは、井戸の屋根を自分の手で建設の方向へ持っていったという事実であって、
その後のことはさほど重要なことではなかったに違いありません。

 それから数年して懸命に看病に励まれた奥さんも亡くなられました。

2020/07/03

父と暮らせば

井上ひさし原作「父と暮らせば」の朗読劇。
ネットで公開されます。

広島の原爆で父に助けられた娘。
父は自分のために死んだとサバイバーズギルトで苦しみます。
そんな娘を見かねた亡くなった父は。。。。。

演ずるのは俳句仲間の岡崎弥保さんとお仲間。
詳しくは以下をご覧下さい。

https://ameblo.jp/ohimikazako/entry-12608073496.html

2020/07/02

【Aloha】高木ブー家を覗いてみよう Part1




87歳。
お元気です。
歌声もよく出ておられます。

アーカイブスに俳句関係

私がアーカイブスとして利用しているココログに文章を保存しました。

俳句結社誌「藍生」に連載している「俳句とからだ 」第159号から第165回までと、俳句と韓国舞踊の融合を目指した金利惠さんの「俳舞」についてです。

よろしければお読み下さい。

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俳舞 金利惠、名古屋に降臨

俳舞 金利惠、名古屋に降臨
愛知 三島広志

二つの国を、二つの言葉を自在に行き来する舞姫。彼女がひとたび身を翻せば舞となり、地を這う風が空へと駆け巡る。思慮深く声を発すれば口唇から言葉が俳句となって零れ散る。彼女の身体は二つの国の歴史を個人史として受け止めつつ未来へと開く。舞と言葉は彼女の魂の、そしてもっと大きな何かの化身なのである。
(「俳舞」パンフレットより 三島広志)

プロローグ
二〇二〇年一月十六日。ついにこの日が来た。
金利惠さんの「俳舞」の名古屋での公演を支えるため、前年十月、名古屋在住で金利惠さん旧知の張・李夫妻、韓国古典芸能団主宰の蔡さんと酒向さん、韓国語学校経営の韓さんにより「ゆるやかな応援団」が結成され、俳句仲間として著者も加わった。月に一度集まり集客や当日の運営手伝いの相談をしてきた。

『俳舞』、それは俳句と韓国伝統舞踊のコラボレーションという雲を掴むような企画だった。人に紹介するにも難渋した。金利惠さんも一度話合いに参加し、その構想を語ってくれたが、具体的なものが想像できず、拝聴していたメンバーも些か困惑した表情だった。いたずらに日々が過ぎていく。うまくいくのか、開催できるのか。日韓の関係も戦後最悪と言われている。
そんな心配をよそに民族の団結や民族を超えた友情が作用した。チケットの売れ行きが上々であることが分かった時は全員ほっと胸をなで下ろした。最終的にチケットはほぼ完売。あとは当日混乱無く運営できれば大成功。

当日午後、無事この日を迎え心からの安寧を得た。開場前、期待と安堵の混じった気持ちで、会場のロビーから外を眺める。ホールのある九階の窓からは寒晴れの空のかなたに雪の御嶽山が輝いている。少し東に木曽の山脈。こちらも真っ白だ。普段はビルに埋もれてこうした山々を見ることはできない。
本番前、最後の打ち合わせで各自の役割などを確認しているうちに、寒晴れの空は徐々に暮れ、淡い闇が名古屋市千種区今池を包み始めた。ここ今池は戦後、焼け跡に闇市が立ち、民族が入り乱れるというカオスの中から出立した町だ。東西の交通の拠点として昼は会社や商店で賑わい、夜はやや癖のある飲み屋やライブハウスが林立する。この地で金利惠さんが舞うことの意味は、偶然の経緯ではあるが意味深い。いつしか窓外の白い山脈は漆黒の闇に沈み、ビルの灯りやネオンが瞬き始めた。
ロビーに溢れる開場を待つ人々を見ながら気を引き締める。人生初めてのチケットもぎりを担当することとなる。

開演
観客全員が席に着いたあと、密やかにロビーに現れた金利惠さん。客席後方のドアから入場するサプライズ演出のようだ。暗い会場に一条の光が舞手を射すと、会場には動揺と響めきが起こった。

杖鼓 (チャンゴ)は金利惠さんのご主人金德洙氏。韓国を代表するアーティストで、彼のことを知らない人は韓国にはいないという。時に優しく、時に激しく、舞に合わせ、舞を支え、舞と一体になって世界を構築していく。眼差しは慈愛一杯に舞手を見つめつつも厳しい。
「ぽんっ!」と空気を柔らかく切り裂く鼓の音。歌舞伎の囃子方仙波清彦氏の変幻自在な鼓が会場の空気をどんどん耕していく。太鼓の音が会場を一気に晴れの舞台に一変させる。金氏と仙波氏が互いの出方を見つつ緊迫感のあるジャズセッションを奏で舞台を盛り上げる。
柔和で上品な顔立ちの笛方、若い福原寛氏の澄んだ音色が会場に響き、その息吹が場内隅々まで染み通ってゆく。笛は呼吸そのものだ。聴く者の身体にイキを吹き込んでくる。
正歌(チョンガ)の女性は姜権洵さん。初めて聴く唱法だ。鈴を転がすソプラノのように美しい発声からさりげなくタンゴのカンテの嗚咽へシフト、一転してモンゴルのホーミーのような高声と低声を自在に操る力強く野太い声。実に不思議な発声であり、場内を感嘆させていた。

ユネスコ・アジア文化センター (ACCU)によると、韓国伝統舞踊サルプリチュムの動きには、オルヌムヒョン(控え目に緊張を解くこと)、メズムヒョン(感情を放出する前に一時的に呼吸を停止すること)、そしてプヌムヒョン(感情を放出して完全に緊張を解くこと)という三つの基本要素がある。また静中動(チョンジュンドン)すなわち静の全体環境の中に動がある。抑制された動作は、内なる感情や強い意志を反映し、その起源は古代に遡るとされる。

金利惠さんの舞。その身体は広く長い袂を広げると立方体(四角)、両手を天に伸ばすと円錐(三角)、回転すると球()になる。四角の安定、三角の方向、球の運動。視覚を通して観衆の気持ちを変転させる。音楽と伴に幾何学模様が会場を引き締め、観衆の感情を鼓舞する。美、哀切、喜び。間、静謐、豊穣。一挙手一投足が観客の身体に投影され細胞に漣が立つ。

 語るとき語らぬときも花の下
 ひらひらと夢に火照りぬ酔芙蓉
 鷄頭花胸の高さに佇ち炎ゆる
 旅人に風の峠の飛花落花

これら自作の俳句を朗詠し舞で表現する。言葉で世界を招聘し舞で世界を構築していく。

当夜の舞台で金利惠さんは胸の高さに抱いた深紅の鶏頭花を槌に持ち替えて砧を打った。砧は本来楽器ではない。洗濯物を鎚や棒で打って乾かしたり伸ばしたりする道具だ。衣板(きぬいた)が砧(きぬた)となったもので、鎚ではなく板のことである。

声澄みて北斗に響く砧かな 芭蕉

砧は秋の季語。古く前漢の蘇武の故事に繋がる。匈奴に捕われの身となった前漢(紀元前一〇〇年頃)の蘇武を心配する妻が夫の身の上を思いやり、砧を打って慰めたところ、その音が蘇武に届いたという中国の故事である。この故事は有名なもので、蘇武が雁の脚に手紙をつけて漢帝に送ったところから雁書の由来ともなっている。

 この故事に影響を受けたかどうか明確ではないが、藤原公任編集の「和漢朗詠集(一〇一三年頃)」に白居易の詩「聞夜砧」が掲載されている。

誰家思婦秋擣帛 月苦風凄砧杵悲
八月九月正長夜 千聲萬聲無了時
應到天明頭盡白 一聲添得一莖絲

秋の夜に女性が戦争に行った夫を思って砧を打つという漢詩である。この詩が蘇武の故事と結びつき、それを世阿弥が「砧」という能に仕立て上げたと言われている。

西より来る秋の風の吹き送れと間遠の衣打たうよ
夜嵐 悲しみの声、蟲の音、まじりておつる露涙、ほろほろはらはらはらといづれ砧の音やらん

 砧は韓国では一九七〇年代まで利用されていたようだ。中国、朝鮮半島、日本を繋ぐこの道具とそれに込められた思い。このテーマは金利惠さんの長年の課題だ。彼女の中には韓国と日本の歴史、社会、文化が混在している。さらにそれらを包摂するアジア文化圏。これらの象徴として砧は今後も表現されることだろう。

「俳舞」
「俳舞」は俳句の韻律や内容と舞や音楽とのコラボレーションという全く新しい試みだ。俳句は歌の一種である。歌は「(神に)訴う」が語源という説がある。感情や意思を言語にして訴えた。同様に、喜び、悲しみ、愛憎、祈りなどから自ずと身が動き出す。これが洗練され宗教儀式や芸術となったものがである。俳句も舞も、内面の感情や意思を言語あるいは身体動作として表現する。
金利惠さんは上演後のアフタートークで興味深いことを語っていた。「ひらひらと」は三拍子なのだという。あえて記述すれば「ひらひら○○」というリズムだろうか。それは韓国のリズムであり、伝統舞踊のリズムでもあるという。なるほど、言葉(俳句)も動作(舞)も彼女の内なるリズムから湧き上がってくるのか。だとすれば、言葉と動作を改めて融合させて「俳舞」としたのではなく、そもそも彼女の中で両者は本来一つのものなのかもしれない。

金利惠さんの企図はいったい何だったのだろうか、そしてそれはどこまで観衆に伝わっただろうか。俳句、舞、音楽全て完成されたレベルの高いものであったことは言うまでもない。洗練された舞や音楽が表現する美しさや切々たる思いは存分に伝わった。しかし、俳句朗詠と舞が生み出す重奏は内面世界の深みを十分表現しえただろうかと些かの疑問は残った。今回の目的はまさにここにあったはずだ。詩と異なり一瞬で終わる俳句朗詠。その言語世界と舞の綾なす世界、展開する美があるはずだ。そこが私には十分に見えなかった。しかし「俳舞」は端緒についたばかりの試みである。この新たな表現形態はさらに熟成していくことだろう。

エピローグ
慰労会はサービス精神旺盛で闊達なオモニの店で盛り上がった。
当夜を楽しみにしていた高校の後輩である観世流能楽師は最近俳句を始めたという。彼は賢治や中也をテーマにした新作能も創る精鋭である。賢治の「ひかりの素足」は死の世界と現世が交錯するまさに能の世界観に繋がる。彼は自らの世界を深め開拓しようという思いが金利惠さんと相通じたのだろう、すっかり俳舞の醸し出す世界と酒興に浸っていた。近い将来「俳能」などという試みも生まれるかもしれない。ここにもまた大きな世界が待ち受けている予感がある。私も酒杯を傾けながら様々な熾火の仄めきを確信して長い一日を終えた。