敬愛する三嶋寛さんから同人誌『遊民』が届きました。
志の高い、しかも内緒ですがさほど若くない数名の人たちが創刊された『遊民』。高いレベルを維持したまま第7号まで到達しました。
同人方々の熱い思いが伝わってくる雑誌です。
三嶋さんの書かれた論文は「日本とはどんなことばだろうか」。
副題は「私たちはなにを話し、聞き、書いたり読んだりしているのか」。
古代から現在まで私たちの国に伝わる実に身近であるはずの日本語や国語の構造を内外の眼を通して再確認しようという力作です。
文字を持たない古代から漢字を表音文字として流用する時代、そこから平仮名や片仮名の派生とそれらの入り混じる独特の表記体系。
さらに黒船渡来より改めて日本の言語を異国へ明らかにしなければならなくなった衝撃。ここで日本人は初めて日本の言語を意識したのではないか、なぜなら当時まだ日本の言語は地域や階級によって統一されていなかったからと説明されています。
意外なことに、明治の終わり頃(1904)やっと国定教科書が作られたそうです。そして国語を通じて国家意識の教育もなされ、国語教育を通して日本人が生産されていきます。
日本語という言語は歴史とともに大きく変化しています。
実際私には日本語で書かれたはずの江戸の古文書を読むことができませんし、明治の小説でさえ歴史的仮名遣に苦戦します。今日明治の小説として読んでいるのは現代文に翻訳されているから何とか読めるのです。
俳句は今日でも多くの人が歴史的仮名遣で書いていますが、それは俳句の生まれた100年前を踏襲しているに過ぎません。
もちろん英語やドイツ語、フランス語も歴史の中で変化しています。シェークスピアなどの古典は勉強しないと読めないと聞きます。
ところが英語は英語、ドイツ語はドイツ語であって「国語」とは呼ばないのだそうです。
そこに日本語と国語の不思議な関係。両者の間に意図的な何かが存在すると読み取れます。
三嶋さんはその辺りを丁寧に掘り起こしておられます。
ぜひ読んでみたいと思われる方は上の写真の連絡先へどうぞ。
あるいは版元の風媒社まで。
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