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2023/11/15

恩師増永静人の言葉

恩師増永静人の言葉

 「健康を云々する人間が病気になるのは情けないと思うだろう。しかし、僕だって病気をし、年を取り、死んでいく。だからこそ治療ができる。考えてみなさい。もし僕が病気もせず、年も取らず、死なない鋼鉄のような人間だとして、そんな人間に治療ができるだろうか。そんな鋼鉄みたいな人間に治療してもらって病人はうれしいだろうか。患者は不死身で頑健な理想的な健康体を期待するだろうが、それでは病人に真に共感することはできない。そこからは死や老いが見えてこない。自分自身、いつ病気になり、死ぬか分からない脆弱な存在だからこそ、ここまで真剣に医療について考えてきたんだ。指圧という民間療法を医療の視点で再構築して医療の一端を担うものとして、思想的には医療の根本を為すものとして研究してきたのだ。僕だって病気になる。窮す。でも僕は孔子の言うように乱れたりはしたくない」

2021/05/21

俳句とからだ 173号 視覚と経験

 連載俳句と“からだ” 173

 

愛知 三島広志

 

視覚と経験

 夜明け前の空を観るのが好きだ。20分ほど歩くと東方が一望できる高台に出る。暗黒の山稜や公園のタワーの向こうから赤い暁光が噴き上がる。赤色は中空に向かって薄まり橙から黄、黄緑から淡い青、そして濃紺の空へと移る。色彩の変化は虹の配列と基本的に同じだ。濃紺の空に金星が輝き、振り返ると西空に月が傾く。これは柿本人麻呂(660頃~724)の詠んだ

 

東の野にかげろひの立つ見えて

かへり見すれば月かたぶきぬ

 

と同じ光景だ。692年冬の作と伝えられている。宇宙の巡行とそれを記した歌の世界が時空間を超えて今ここに存在することに感動を禁じ得ない。

 

私達は外界からの情報を五感で受容する。五感とは視・聴・嗅・味・触を示す。中でも視覚から得る情報量は大きい。人間の情報処理は感覚、知覚、認知で表される。その違いは外界から情報が刺激として感覚受容器に入り興奮が生じると感覚、知覚は対象を知ること、認知はさらに高次の処理で情報の選択、判別、決定、理解、記憶、推論、理解であるとされる。赤い林檎があると感覚は赤い光とそうでない部分の素朴な判別、それが赤い円形であると分かるのが知覚、そして林檎と理解するのが認知であるという。(「感覚情報の知覚メカニズム」工業技術院製品科学研究所清水豊氏の論文参照)

 

 夜明けの空の色彩を感覚受容器である目の網膜が捉えると、その情報は視神経を介して脳へ伝わる。色の感覚を知覚し認知した時、光の情報は心身に何らかの影響を及ぼし感情や思考へ影響する。それが連日のように明けの空へ私を導く動機となり、人麻呂の歌を想起させる。絵心があればその色を印象派の画家のようにカンバスへ塗り込めるだろう。詩心があれば詩歌の一つも詠むであろう。

 

古里は霜のみ白く夜明けたり 

山口青邨

 

 五感を研究しているのは最新科学だけでは無い。哲学者カントは我々のうちにア・プリオリに「形式」が存在し、感覚は空間の形式として知覚され、時間の形式の中に保存され一つの経験と為すと説く。つまり夜明けの空の色という空間に存在する情報を脳に伝え、記憶という時間に留めるということである。それによって外部情報は受容され、時空を保ち経験となる。それが言語化され詩歌として保存されると今度は読者の経験として感動を呼ぶ。

 

夜明けの空を眺める時、認知された色彩や形態の情報は時空を超えて宇宙と自分が一如となる貴重な認知経験となる。詩歌もまた共通経験として感動を呼ぶのだ。

 

ガンジスに身を沈めたる初日かな

黒田杏子

2021/02/28

Zoomセミナーのダブルブッキング

 今日は産業医科大学の整形外科医師内田宗志先生の股関節セミナーと東大附属病院リハビリテーション部鍼灸部主任の粕谷大智先生のセミナーが被ってしまいました。

どちらもZoomセミナーです。

二代のパソコンを付け、同時に受講するという暴挙にでました。幸い、産業医科大学は後日ビデオを観ることが出来るというので粕谷先生に集中できました。

内田先生の講義は二度目ですが、股関節の鑑別に4つのレイヤーを用いるというお話しは画期的でとても腑に落ちるものでした。レイヤーの3と4は鍼灸師でも対応可能の予感がします。実際整形外科医師はハイドロリリースで対応しますから、鍼灸師はアキュパンクチャーで対応可能です。

粕谷先生のお話はいつものことですが整理された資料と分かり易い説明で鍼の学習になると同時に鍼治療の現実的可能性が見えて誠に勇気づけられるものです。昨夜のんNHKの番組にも登場されていました(私は未見です)。

内田先生の講義もまだ続きますし、来月は粕谷先生による糖尿病による足趾の問題へのアプローチの講義があります。

コロナ禍で仕事はほとんど無いのですが、学習意欲だけは維持していきたいと思っています。

2021/01/02

新しい本


整形外科医の精鋭藤井先生が整形外科を専門にしない医師のために書かれた分かり易い本。
まえがきに「整形外科で働く看護師や理学療法士の方も大歓迎」とありますが、開業鍼灸マッサージ師にとっても必携のレファレンスブックになると確信します。



こちらは藤沼先生の「総合診療」。特集が「コロナウイルス・パンデミック」ですので購入しました。

2020/11/23

忘れられない在宅ケア

忘れられない在宅ケア

再々録です。冒頭、25歳から仕事を始めて16年目とあります。現在(2020年)、41年目となります。この方のことは折に触れて思い出されます。そこでまた懲りずにnoteへ掲載します。一部修正しています。

この方の半身麻痺という障害を受容する過程はまさにコーンの分類そのものでした。


【コーンの分類】

1.ショック
突然の障害を受け、混乱して事態を理解できない。
2.回復への期待
いずれ障害が治ると期待している。
3.非嘆
治らない現実に直面し、希望を失い、無気力となり生きる意欲を失う。
4.防衛
「障害は良くならない」と思いながらも、このまま頑張れば良くなるのではと今までの方法に執着する。
5.適応
現実を深く見つめ、障害は新しい自分の個性であると受容し安寧な気持ちを抱く。


忘れられない在宅ケア

 二十五歳から往療マッサージの仕事を始めて今年で十六年目に入ります。
 そのうちには忘れられない患者さんが何人もおられました。そういう方たちの魅力は様々です。ある人はその闘病精神に感服させられました。また別の方の生きて来し方の素晴らしさに静かな感動を覚えたこともありました。病に倒れた現在の生きようがご家族を含めて実に魅力な印象の人も多くいます。いずれの方々も訪問するわたしの方に素晴らしい喜びをを残してくださったのです。

 中でもN氏はとりわけ強く印象に残る方でした。

[三百万円の納得]

 N氏は十年ほど前に八十歳で亡くなりました。(1985年に亡くなりました)
 最後の三年間は脳卒中の後遺症でほとんど寝たきり状態でしたが、明治生まれの頑固さで毎日仏間の椅子に腰掛けて、自分は「寝たきり老人」ではないと得心していました。

 私はN氏が退院して半年目から往療マッサージに訪問し、約二年半のお付き合いをしました。大変明晰な頭脳の持ち主で、時事に関してはテレビ報道を欠かさず見て、絶えず社会の動きに注意しておられた。とりわけ好きだったのが国会中継。時の総理大臣中曽根氏のファンのようでした。

 私が訪問した初期の頃は、N氏の目的はひたすら歩行能力を回復することにありました。症状安定と病室不足のため、病院から歩行できないままに退院となりましたので、氏は病院から見捨てられたとひどく怒っていました。そこで私は氏の病院に対する恨みのエネルギーを逆利用して訓練を行うことにしたのです。その結果は大成功。N氏の努力と人並み以上の体力の賜物でしょう、一月経った頃には一本杖で室内の歩行ができるほどになったのです。

(当時、まだ地方の病院には理学療法士がいなかったため、十分な機能訓練を経ないで退院している方が多かったのです)

 N氏はまだまだ良くなり、何としても自転車に乗れるようになるまで頑張るつもりでした。しかしどうも私には、それまでの進歩の状況や現在の残っている手足の運動能力から室内歩行が限界のように思えました。

 機能回復訓練の困難な点は、身体調整(訓練や治療)の結果、必ずしも以前の健康で障害のない時の状態には回復しないと思われる人に対しても、希望を与えつつ身体調整を行なわなければならないことです。

 さらに、身体調整の成果が本人にとって、もはや限界と考えられる時点で、以前に比べれば不満であろうけれども、現在の状態がその人の今から将来への最高の状態なんですよと、諦めと希望の両方を持って本人や家族に受け入れてもらうように心掛けなければならないこと、これも大変難しくつらいことなのです。

 本人は元のように上手に歩けるようになると信じています。なりたいと強く願っているのです。わたしの方としてもそれに極力応えたいのですが、しかし、多くの場合、現実にはもう回復はこれ以上は無理と思われるときが必ずやってきます。その時、いたずらに甘い期待を抱かせるのは機能訓練の本意ではありません。といって、絶望感を持つことは本人にとって耐え難く苦しいことであろうし、看病している家族の失望も計り知れません。

 どうやってN氏と対応すれば良いかさんざん迷った揚げ句、私は努めて体や病気の話を避け、N氏の生い立ち、戦争体験、戦後の苦労話や商売のコツなどの聞き役に徹しました。

 N氏の家はI市にあります。そこは戦争中、名古屋の人々が荷物の疎開をする程の田舎でしたが、皮肉なことにN氏の家だけ空襲によって爆弾の直撃を受け全焼してしまいました。米軍が岐阜の基地を爆撃した帰りのことです。

 当時N氏は出征中で、家には奥さんと三人の幼い子供がいました。しかしその時の爆撃で上の子二人が爆死し、奥さんと背負っていた子だけが助かりました。その子が今の跡取り息子さんです。

 奥さんは、
「今、自分たちが何不自由なく暮らしていけるのは、死んだ子どもたちがあの世から見守ってくれているお陰だと思っているけど、当時の悲しさはとても言葉には言い表せない。アメリカを恨み、東条英機を憾み、気も狂わんばかりだった。」
と言われます。

 爆撃されたとき、お母さんと子どもたちはそれぞれ家の表と裏に逃げ出しました。そのままなら助かったのに、子どもたちは再びお母さんを追って家の中に飛び込んだために爆弾の衝撃と炎で亡くなったそうです。お母さんは自分が子どもたちの手を引いて外に飛び出していたら死なせずに済んだと今でも強く後悔しているのです。こういう人にとって戦争は一体何時になったら終わるのでしょうか。

 四十歳過ぎての復員後、N氏は家が焼け、二人の愛児が爆死したことを知り、呆然自失の日々を送りました。しかし持ち前の気丈さで家の復興に立ち上がったのでした。

 廃材を入手して大工に家を建ててもらい、中古の仏壇を購入し、毎日、自転車で箒や箕(み)の行商に出て、田畑を買い、米や野菜を作りながら必死で働いたそうです。

 七十七歳で脳卒中になるまでひたすら行商の毎日で、リヤカー付きの自転車で朝早くから夜遅くまで1日百キロ近く走り回ったと懐かしそうに語ってくれました。七十五歳で逆上がりができたというのが自慢の、人一倍丈夫な体の持ち主でした。

 ところが頑健と過信していた体が脳卒中で突然動かなくなったのです。雪の早朝、上半身裸で鍬をふるっていた位元気だったそうですが無理を重ね過ぎたのでしょう。N氏は倒れた時のショックは子供を失ったショックと等しい位であったと述懐されました。N氏が自転車に再び乗る日を夢見るのは、行商で暮らしを支えたときの相棒である自転車こそまさにN氏のN氏たる証明だからなのでしょう。

 しかし日々回復に努めるにも関わらず、歩行能力が向上するどころか次第に低下し始めました。本人はその事実を必死で否定し、
「今日は体調が悪いからだ。」
「今日は雨模様の気候のせいだ。」
と毎日歩けない理由を探して口にしていましたが、とうとう自分ながらに真実を認めざるを得ないところまできてしまいました。

 以前なら横に奥さんを従えて軽く一人で歩いて来れた寝室から居間までのおよそ十メートル。今では息子さんにしっかり抱えてもらってやっと歩いて来るという状態になってしまったのです。

 その頃からN氏は極めて無口になりました。日がな、絶えず何かを考えているようでした。いくら否定しても、歩く力が衰えた現実は否定できないことに気がついたのでしょうか。あるいはほかのことを考えたり、思い出にふけっていたのでしょうか。

 ある日、
「先生よ、わしはお経に書いてあるようになも、往生安楽国に暮らしたいわや。」
とポツリと言われたことがありました。
 私は答えに窮して、
 「安楽国に住むにはその前に書いてある菩提心が必要なんだよ。」
とお経の本を見せてもらい、ほほ笑みでごまかしながら答えたりもしたのです。

 すっかり寡黙になられたN氏を見て、私は父がガンで亡くなる前の数週間を思い出しました。
 父は、痛み止めの注射のために四六時中意識が朦朧としていたようでした。しかし、時々頭がはっきりするするらしく、当時二十歳の私に向かって、子供の頃の他愛ない罪を懴悔することがあったのです。
 「友達と蟹を路面電車の線路の上に置いてひき殺して遊んだことがあったが、今思うと可哀想なことをしたもんだ。」
などという具合に。

 その経験から、もしかしたら人は死ぬ前に人生を清算する期間が与えられているのかも知れないなと感じたのでした。父は死を目前にして、自分の人生の肯定作業に取り掛かっていたのではないでしょうか。死んで行くにあたって心残りないように心の整理をしているように見えたのです。

 そう考えると闘病期間が与えられた病気はとてもありがたい病気です。昨今、闘病記を読む機会が増えましたが、どの著者も皆そのようなことを書かれていますから、あながち間違いではないのかも知れません。あるいはそう考えないとやり切れないのかも知れませんが。

 N氏もまさに人生肯定に取り組み始めたのでしょう。ある時奥さんに対して
 「われ(お前)はわしみたいな男と一緒になって損な人生だったなも。」
と問いかけたそうです。
 奥さんは
 「いいえ。何を言やぁす。おじいさんと一緒に生活ができて、とても良い人生を送らせてもらったがなも。」
と答えたと言われました。その返事を聞いたN氏はめったに見せない割れるような笑顔を見せたと、N氏の死後、奥さんが話してくださいました。なにしろN氏は若いときからいつも苦虫を噛み締めていたのです。

 再入院される半年程前、N氏は孫ほどの年齢の私に向かって
「先生、わしはなも、もうこの人生に思い残すことはないんじゃ。ただ一つ気になることはなも、氏神様の井戸の屋根が伊勢湾台風で壊れたままじゃろ。あれをわしの手で建て直したいんじゃ。」
と話されました。

 N氏は息子さんや奥さんと相談して神社に建立費用を寄付することを快諾させ、宮大工に見積させると約三百万円かかるというので、N氏が全額寄付して、井戸の屋根の建築が始まりました。

 それから半月程して再入院されることになりました。今度は手足の機能だけでなく言葉さえも失ないましたが、一生苦虫を噛み続けていた顔が、再入院してからはニコニコ笑い、奥さんの話かけにも愛想良く頷いていたそうです。問いかけに対する判断力はしっかりしていて決して惚けては(認知症)いなかったのです。

 入院して一カ月ほどしてN氏は亡くなられました。

 N氏は井戸の屋根を作るという行為に自分の人生を代表させ、それを実現させることで人生を納得されたのでしょう。私はN氏によって人生を肯定できた人の本当の穏やかな表情を見せていただくことができました。

 屋根が完成する前に亡くなられたことを惜しむ人もいましたが、N氏にとって大切だったのは、井戸の屋根を自分の手で建設の方向へ持っていったという事実であって、その後のことはさほど重要なことではなかったに違いありません。

 それから数年して懸命に看病に励まれた奥さんも亡くなられました。

 

2020/09/03

経絡指圧と利休百首

1997年12月に書いた文章です。お茶を稽古されている方はよくご存じ利休百首。茶道具の扇にも書かれています。この歌はお茶だけで無く稽古一般論としてとても優れています。経絡指圧創始者で恩師の増永静人先生はこの中から指圧の稽古に流用できるものを幾つか紹介されていました。今回はその再録です。


経絡指圧と利久百首

 右の手を扱ふ時はわが心左のかたにありとしるべし

 これは千利休が茶の湯の稽古の心構えを説いた「利休百首」のひとつです。全くの門外漢のわたしが何故に茶の湯の道歌を知っているのか。それは経絡指圧の師・増永静人の著書に度々出てくるからです。

 増永静人は卓越した理論家指圧師として知られていましたが、昭和五十七年に惜しまれて亡くなりました。享年五七才。無念の夭折でした。

 増永はそれまでの理論的根拠を西洋伝来のマッサージの理論である血液・リンパ循環論やカイロプラクティク(米国で生まれた脊椎矯正法を主とした医療。米国では六年間の大学教育を終了してドクターの資格が必要。日本では無認可)の脊髄神経反射論に依存していた指圧を東洋的な観点からまとめ経絡指圧として体系づけた功労者です。

 どうして日本生まれの指圧を西洋的でなく東洋的に理論化することが斬新であったかは不思議ですが理由はその歴史に準拠します。

 もともと指圧の原型である按摩術と鍼灸術は中国に発し、朝鮮半島を経て日本に伝えられました。婆羅門導引(ヨガのこと)天竺按摩という言葉もありますから、中国以前にインドで原型が生まれている可能性もあります。これは中世以前の他の外来文化と軌を一にしています。

 按摩は古くは按蹻導引(あんきょうどういん)と呼ばれ、黄河文化圏に起こり日本には五六二年に伝わったとされています。「按」は揉んだり押したりすること、「蹻」は手足を動かして骨格を整えること、「導引」は大気を導き体内に引き入れることで今日の気功体操に分類されます。

 奈良時代の大宝律令(養老令)(701)には医生・医師・医博士の制度と共に按摩生・按摩師・按摩博士という制度が明文化されています。同様に鍼生・針師・鍼博士。灸生・灸師・灸博士も。湯液(漢方薬)は医師や薬剤師が、鍼灸は鍼灸師が、按摩術はあん摩マッサージ指圧師が引き継ぎ、今日まで続いています。江戸時代以降、鍼や按摩術は視覚障害者の職業としても伝承されました。

 按摩術は軽医療として家庭でもできる簡便さがありますが、同時に医療体系の中に止めておきたいという人達も多くいました。その具体的なものとしては江戸時代に生まれた按腹術があります。これは字の通り腹部を重点的に処置することで疾病治癒を目指したもので思想的、原理的には中国医学の古典である『黄帝内経』という本に拠ります。

 明治になって、西洋からマッサージという按摩にそっくりの技術が伝わってきます。按摩の理論的根拠は漢方医術で言うところの「気血の巡り」を良くすることで、そのために《経絡》というスジを用いることです。経絡はいのちの元となるエネルギーである《気》や、栄養分である《血》が流れるというスジのことで内臓に関係し、心理面も反映するとされています。このスジ上にツボがあるのですが実態は明らかではありません。

(追記:近年、ファシアという組織間物質が注目され、これと経絡の実体が近いと考えられています)

 対してマッサージの理論は筋肉や血液・リンパ循環など解剖学や生理学を根拠としていて科学性があり、名称もハイカラなので按摩を自称する人は減り、いつしかマッサージと名乗るようになりました。しかし、それでもまだ治療対象が血液循環改善や疲労回復に止まっているという不満がありました。手技と言えども、もっと幅広い分野の治療が可能ではないかと模索する人達も大勢いたのです。

 そんなところにアメリカからカイロプラクティックという脊椎矯正法がやってきました。これは神経生理学的に自律神経を調整し得るという一見科学的整合性があり、多くの病気に対応できるということで多くの治療師が飛びつきました。しかも技法は在来の柔道などに伝わる活法に酷似しています。活法とは姿三四郎などの映画で気絶した人の背中に膝を当てて「エイッ!」と気合一閃、蘇生させるというあれです。

 というような顛末で、明治末期から大正、昭和の始めにかけて独自性を主張する〇〇療法が雨後の竹ノ子のごとく発生しました。戦後、政府はそれらを法的に整理するために紆余曲折の果て、指圧として統合しました。按摩業界から猛然たる反発があったとは今でも語り種です。なお、指圧という名称は大正時代に玉井天碧という人が使用していたのが最初と言われています。

 今日でも、カイロプラクティックは指圧ではないから法的に指圧に統合されては困る、わたしの療法は神のお告げによって生まれた独自の技術で如何なるものとも異なると称していろいろな治療術が雨後の竹ノ子どころか雲霞のごとく大発生しています。

 何故なら、正式な業者として指圧とか按摩とかマッサージと名乗るためには最低三年間学校に通い、国家試験を受けなければなりませんが、我が国には違う名称さえ名乗れば免許は関係ない、いかなる法的拘束は受けないというすばらしい抜け道があるからです。

 ちなみに鍼灸のための学校は京都に大学が一校、大阪に短大が一校、その他全国に十数校の専門学校があり、さらに各都道府県の盲学校でもそのための教育がされています。鍼灸学校を出た後、大学の医学部の研究室で研究し、医学博士を授与された人も昨年から今年にかけて愛知県で三名います。まさに大宝律令の鍼博士を地で行くものですね。

(追記:現在は鍼灸大学、鍼灸専門学校が大変増えています。マッサージの専門学校は増えていません)

 さて、最初の「利休百首」と増永静人に戻ります。
 増永静人はわたしにとっては指圧の先生というだけでなく、医療の思想や人生哲学など実に多くのことを与えてくださった人です。増永から授与された認可証は次の文面で、今も書斎に掛けてあります。

     証

                        三島広志

  右者医王会に於て現代医学を基礎とし東洋古来の経絡治療
  と日本独自の按腹術を加えた高度な指圧療法を学び証診断
  治療の指圧臨床技術を習得されたので本状を授與します
昭和五三年五月廿日

日本東洋医学会員
日本臨床心理学会員
日本指圧協会理事
                   医王会会長 増永静人

 昭和53年ですからもう二十年も前のことになります。増永の肩書に東洋医学会員(後に評議員)と指圧協会理事というのがあります。これは当然ですが、日本臨床心理学会員というのは不思議でしょう。書いてありませんが日本心理学会員でもありました。これはなぜかというと、増永は京都大学の哲学科心理学部を卒業しているからなのです。

 大学卒業後、増永は「指圧の心、母心。押せば命の泉湧く」で有名な浪越徳次郎先生の日本指圧学校を卒業し、そのまま教員として後進の指導にあたりました。そこでは心理学と病理学、症候概論、漢方概論などを教えていたようです。しかも増永の恩師は西田幾多郎の弟子ですから、増永のバックグラウンドは心理学と西洋医学と東洋哲学ということになります。これらのことが先の認可状の文面に反映されているのです。

 そんな増永の好きなもののひとつが茶の湯です。やっと冒頭の利休にたどり着きました。わたしは増永から利休の道歌「利休百首」を指圧用に作り替えたことがあると直接聞きました。しかし、増永が著書で紹介しているのは冒頭の「右の手を」と

  茶を振るは手先をふると思ふなよ臂(ひじ)よりふれよそれが秘事なり

でした。これを「指圧をば指で押そうと思うなよ肘より押せよそれが肘なり」と替え歌にして紹介していたのです。

 それに習ってわたしも二十年前、自分なりに利休百首を読み、替え歌にしてみました。増永に「五十首くらい変換できた」と言いましたら氏は、「いや、七十首以上できるはずだ」と答えました。残念ながらそのノートは行方不明ですが、もう一度本を読んでいくつか紹介したいと思います。

 今日、受験勉強(この場合、受験だけを目的とした勉強であって、受験を通過点として学習することとは違う)の弊害で習うとか学ぶということが知識の伝達だけになりがちですが、元来文化の伝達には稽古という技法があり、これには「教える側が習う側よりさらに学ぶことができる」という利点があります。学生側が成長するためには早く一派を起こし教える側に回ることが大切だったのです。かくしてさまざまな流派が乱立するという問題点はあるものの、身をもって学ぶという意味で稽古は古臭い言葉ではありますが重要な方法なのです。

 冒頭の歌「右の手を扱ふ時はわが心左のかたにありとしるべし」とはどういうことでしょう。右手を使うときに右手を意識すると緊張して堅くぎこちない動作になるからあえて左手を意識してごらん。右手が無意識的な自然の動きができるから・・というような意味です。これは全ての身体技法に共通する原理と言っても過言ではありません。
 類似した歌に

  何にても道具扱ふたびごとに取る手は軽く置く手重かれ

があります。

 さて、気に入りの歌をどんどん紹介しましょう。

  その道に入らんと思ふ心こそ我身ながらの師匠なりけり

 決意こそが心の中にある師匠なのだと言うのです。

  ならひつゝ見てこそ習へ習はずによしあしいふは愚なりけり

 まずはやってみなさい。体験してみなさい。あれこれ言うのはその後だよということでしょう。体験する、これが稽古の基本です。体験を経験にするという内的処理こそがヒトが人間であるゆえんなのです。

  心ざし深き人にはいくたびもあはれみ深く奥ぞをしふる

 志の高い人でなく深いというところに意味があるようです。そういう人には奥深いことまで教えるのです。ここにすばらしい弟子を持つ喜びがあるのでしょう。師弟は相互に高め合う関係こそが素晴らしい。アメリカの大学教授はうるさく質問する学生を歓迎します。それによって自分が高まるからに外なりません。

  はぢをすて人に物問ひ習ふべしこれぞ上手のもとゐなりける 

 こちらは教わる人の心構え。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥ということわざもあります。

  上手には数寄ときようと功つむと此の三つそろふ人ぞよくなる

 数寄とは興味や好奇心。好きの当て字。きようは器用。功つむとは努力して励むこと。この三つがあれば成長する。

  稽古とは一より習ひ十をしり十よりかへるもとのその一

 これはわたしの大好きな言葉。一から習って十を知ってまた一に帰るのですが、この一は決して最初の一ではありません。次元の異なる一。

  もとよりもなきいにしへの法なれど今ぞ極る本来の法

 本来の法に行き着きたいという強い志。人類未到の世界を目指そうというのです。

  規矩作法守りつくして破るとも離るゝとても本を忘るな

 規はコンパスのこと。矩は物差し。どちらも測定の基準となる道具で手本を意味します。中国では修行の段階を守破離に分けます。書道で説明すると楷書・行書・草書に置き換えることができます。まず先生から教わったことをそのまま守って練習することを守。次にそれを少し壊して自分なりに変化させることを破。外見的には全く異なるまで自分のものにしてしまうことを離。しかし本質は変えないというのです。ここに芸事の流派がどんどん増える理由の一つがあります。

 百首のうち、冒頭と最後に一般性のある、どの道にも通じる歌を置き、真ん中にはお茶の具体的な技法の教えを説いています。その演出は見事なもの。ここで紹介した歌はすべて芸事一般に流用できる歌です。すなわち「本意」の歌なのです。

 お茶の技法という特殊性を歌ったものも指圧に置換すれば、指圧を習う歌に替えることができます。むろん、料理でも裁縫でも踊りでもなんにでも流用できるところにこの歌の妙味があります。

 道はともすれば形式主義の塊、形の上にほのめいている観念的なものと言えるでしょう。しかし形の上、もしくは奥に潜んでいるあらゆるものに共通する普遍性を垣間見ることは重要なことです。そこに今日一部の西洋人が道(ダオイズム)に関心を抱く理由があるのです。

 増永静人の書いた「禅指圧」はアメリカでロングセラーです。指圧と言えば増永静人というほど知られています。外国人に「君の指圧のスタイルは何だ」と聞かれ「増永のスタイル。禅指圧だ」と答えるととても驚き、さらに直接の弟子だと知ると大喜びします。

 わたしの所に来る西洋人は指圧に対して医療の側面と道の側面の両方を求めています。それに答えたのが増永静人だったわけです。これも西洋人の東洋回帰、物事の奥に本質を見いだそうとする道、ダオイズム大好きの流れに乗っています。

 「虎は死して革を留め、人は死して名を残す」
 増永静人先生は没後もわたしを助けてくださっています。わたしが遺せるのは・・・借金ぐらいかなぁ。

 ところで千利休はこんな歌も遺しています。

  釜一つあれば茶の湯はなるものを数の道具を持つは愚な
  数多くある道具をば押しかくしなきがまねする人も愚な

 うーむ。お茶の先生はこの歌を知っているのでしょうかね。形式の中の本質を見ようとしない時、形式主義は形骸主義になり、道は奈落への道、ダオイズムはダメイズムになります。

 

2020/08/16

佐久総合病院若月俊一先生二題

 今回紹介するのは長野県の佐久総合病院を田舎病院から日本を代表する地域医療の中核病院に作り上げられた若月俊一先生(1910~2006)に関する文章です。「権利と責任」は1993年9月、「信州に上医あり」は1994年2月発行の個人通信「游氣風信」に書きました。当時も今も多くの病院が佐久総合病院をお手本にし、沢山の医師が若月俊一先生を尊敬しています。

 私は一度だけ病院の食堂で若月先生をお見かけしました。患者さん達とにこやかにお話しされていましたが、戦争末期に赴任されたときは地元の人に受け入れられず大変なご苦労をされたようです。

 ここに書いた二つの文章は今から30年近く前のことになります。その間に佐久市は周囲の村を飲み込んで大きくなっています。病院のあった臼田町も今は佐久市臼田になっているようです。病院を取り囲む社会情勢や、日本全体を覆う経済状態も大きく変化しています。

権利と責任

 この夏長野県に行ったとき、所用で地元の病院にでかけました。病院の名前は佐久総合病院。千曲川に沿った小さな町の驚くほど大きな農協系の病院です。総合の名に恥じず、歯科から脳外科・精神科まであらゆる専門科を網羅しています。設備も常に時代の先端をいく病院ですが、初めて見た時は何ゆえ山間の町にこんな大規模の病院が必要なのか、経営的に存在できるのか不思議でした。町の人全員が入院できるのではないかと思うほど大きいのですから(これはまあ大袈裟ですが)。

 一つの科に常に先生が2人から5人ほど詰めていて大勢の患者さんと親切に応対しています。また受付には英語・タイ語・ポルトガル語などのパンフレットが置いてあって急増している外国人にも医療サービスを心掛けているようです。

 創立者は現院長の若月俊一先生です。NHKテレビでもおなじみだと思いますが老人医療と農村医療、とりわけ農村医療の先駆者として著書も多く書かれておられます。

 病院創立は戦争末期だそうです。戦後、医師や看護婦が各村を回って公衆衛生や予 防接種、栄養の知識などの重要性を村芝居の形式で啓蒙に励んだことは有名です。

 その病院の壁に病気の説明や医師・看護婦の画いた絵とならんで[患者さんの権利と責任]という文が掲示してありました。読んでなるほどと感心しましたのでここに 無断で紹介します。

患者さんの権利と責任

1 適切な治療を受ける権利
2 人格を尊重される権利
3 プライバシーを保証される権利
4 医療上の情報の説明を受ける権利
5 関係法規や病院の諸規則を知る権利など

 これら人間としての倫理原則をお互いに大切にしなければならない。しかし患者さ んも病院から指示された療養については専心これを守ることを心掛けなければならな い。
 医師と協力して療養の効果をあげることこそが大切なのである。
1983年1月
佐久総合病院

 どうです。見事なものですね。
 ともすると最近は患者の権利ばかりに目が向かいがちですが、この文では患者さん も療養については医師の指示を守ること、医師と協力することというように権利に付 帯する義務を果たすことが必要と書いてあります。

 調整にみえた方々の中には嫌な経験をお持ちなのでしょうが、病院や医師を誹謗する方がいます。しかし重度な病気や障害に対する医療は医師や医師を取り巻く医療職 にある人達(看護婦、薬剤師、理学療法士、臨床検査技師、放射線技師、心理療法士、 社会福祉士など)と患者およびその家族のチームワークによって初めて成立するもの です。一度医療に身を委ねたならお互いに全力を尽くして協力し合わねば治る病気も 治りません。
 ただし医師側に上記の1から5がまったく守って貰えないようなら医師を変えるべき でしょう。これは指圧や鍼灸の施術でも同じことです。

 社会福祉士という患者の側に立っていろいろと相談に乗ってくれる専門職が国家資格になりました。鍼灸専門学校の同級で大きな病院に理療師として努めている友人も かなりの難関を乗り越えて見事にこれに合格しました。
 医療やそれにかかわる経済的問題、在宅ケアなどは彼らに相談すると親身になってくれます。大きい病院ならたいてい何人か勤務しているはずです。

 医師と患者との意志疎通を図ることをインフォームドコンセントと言いますがこれ によってともすれば秘密主義的になりがちな医療の内容を患者が知る権利が保障され ます。しかし同時に今までよりずっと患者に責任が覆いかぶさってくるということで もあります。何事も医者任せにしないで自分自身の知性と理性を総動員し、強い意志と自覚をもって病気と向き合っていかなければならないということですから。

 テレビで人気司会者逸見政孝氏がガンの宣告を受けたから、仕事を休んで闘病に入 る、全力でガンと戦うという意志を表明しましたが、彼にガンを宣告した医師たちは 全力で治療に取り組むでしょうし病院のスタッフも協力を惜しまないでしょう。家族も以前に増して支えあっていかなければなりません。逸見さんがあそこに至るまでにそうとう厳しいインフォームドコンセントがなされたに違いありません。

 これからの医療は従来の「死なせない医療」から、人は必ず死ぬのだからより人間 らしく「尊厳をもって生をまっとうさせる医療」が求められています。

 そのよりよい成果を生む原動力の大半は患者側にあることは何より明白ですね。逸見さんの緊迫した顔が示していたように決して甘くはないのが現実です。

信州に上医あり
 -若月俊一と佐久病院-
          南木佳士著 岩波新書

 長野県南佐久郡臼田町(現在は佐久市)は浅間山と八ケ岳に挟まれた佐久平の千曲川沿いの小さな町です。その川の堤防沿いにまるで要 塞のごとくそびえているのが佐久病院です。
 佐久病院と院長の名は当時すでに知ってはいました。しかし実際に建物を見て、足を踏み入れてみますと、何でこんな田舎にこんな巨大な病院があるのか、経営は成り立つのか、そもそも若月俊一とはいかなる人かという疑問がふつふつと沸き出たのでした。

 その疑問はわたしだけでなくそこを昭和51年、採用試験のために訪問した若き著者、南木先生も同様の感慨を持たれたのです。次のように。

「佐久平と呼ばれる田園地帯を四十分余り走ると、いきなり右側の車窓に七階建ての巨大な建物が姿を現した。(中略)いよいよ八ケ岳山麓の過疎地帯に入って行くのかいささか心細くなっていた私の目に、この建物の大きさは異様に写った。(中略)実際に周囲のひなびた風景を背景にして見ると、佐久病院はあたかも城のような大きさであった。その依って立つ基盤は何なか。交通の便も悪いこんな田舎町になぜこれほどの大規模な病院が建てられたのだろう。誰が、いかなる情念で・・・。」

 著者の興味は院長の若月俊一先生にあります。あるときはその理想に感銘し、またあるときはその俗物的側面に落胆もしますが、著者自身がタイの農村医療に関わった経験から、若月院長が初めて赴任した昭和19年当時の農村とは現在目にしているタイの農村の状況と同じではないかと思い至り、若月院長の心に深く共感を覚えるくだりはなかなか感動的です。
 著者南木医師はタイの現実の前にこう考えました。

「貧しいタイの農村を前にして、絶望感しか抱けなかった私は、これとおなじような状況の戦後の信州の農村で、文字どおり『病気とたたかった』若月のバイタリティーに素直に脱帽した。(中略)私の胸の中に若月に対する尊敬の念が湧いたのはこのときが初めてだった。『あなたはえらい』」

 著者はタイの極貧の農民の現実に対して全くの無力感にさいなまれてしまいます。腹部にガン性の腫瘤を触れた患者に入院を勧めても金が無い。医者にかかるのは大変な贅沢なこと、これは佐久地方に限らず日本中の戦前から戦後のある時期までの農村の実態と重なるのです。

 若月院長はそこでの現実に屈せず、学生時代に学んだ理想的マルクス主義と現実主義の間を縦横に駆け回ってついに小さな村の診療所を今日医師総数130名という大病院に作り上げました。

 もともと若月院長が東大医学部卒業というエリートでありながら何故佐久くんだりまで来たのかと言えば、学生時代反戦運動をし、その後1年間留置された結果、都落ちしたというのが事実であって決して最初から農村医療、地域医療に貢献しようという高邁な理想からスタートしたのではありません。悲惨な医療状況を目の当たりにして学生時代に描いた理想を彼の地に実現しようと持ち前の不屈の反抗心で腐心したのでしょう。

 我が国の農村医療、地域医療の目標とされる病院として、国の内外に高く評価されている佐久病院はこの傑出した院長の力量とそれを支えてきた医師や医療従事者の手によって今日の巨大な近代化された総合病院として発展成長してきたのでしょう。

 この本で特にうれしかったのは次のくだりです。昭和20年11月に医師や看護婦など病院勤務者によって劇団が創設されたのです。

 病院で手遅れの患者ばかり診せられてきた若月は、病気の早期発見と予防のためには自ら村に入って行くしかない考えたのだった。診療も大事だが、予防のための啓蒙活動はより重要だったから、演劇を通じて予防医学を分かりやすく説明した。
 若月が農村演劇に力を入れたのは宮沢賢治に影響されてのことだった。若月は松田甚次郎の著書「土に叫ぶ」の中で、次のような賢治の言葉と出会った。
 「農村で文化活動をするに当たって、二つのことを君たちにおくる。一、小作人たれ。二、農村演劇をやれ。」

 松田甚次郎は明治42年山形県最上生まれ。盛岡高等農林の賢治の後輩に当たります。19歳の時31歳の賢治を訪問し上記の言葉を受けました。
 卒業後村に帰り賢治の教えを実践すべく「最上共働村塾」を主宰し、農村演劇を頻繁に行い、農村活動に奔走。その記録を「土に叫ぶ」と題して出版しますが、昭和18年35歳の若さで世を駆け抜けてしまいました。詳しくは([「賢治精神」の実践 松田甚次郎の共働村塾]安藤玉治著 農文協出版“人間選書”)を参考にしてください。

 長年の賢治ファンとしては「ああここにも賢治が生きていたか」と感じいるばかりです。

 さてこの本にはきれいごとが並べてある訳ではありません。佐久病院と若月俊一をテーマに据えながら、現代の医療の抱える問題のみならず、農業問題やそれを取り巻く社会、さらには理想を実現するために生まれた組織が逆に理想を封じ込めようとする矛盾にも言及されています。初期には理想に燃えた組織の求心力が人を呼び込みますが、組織の肥大化ととも遠心力が高まり分裂を生み出すというどこにでも見られる困難な現実です。

 現在、佐久病院では内視鏡検査を早朝6時から行っているそうです。仕事前に受診できるので検査を受ける人は大変助かりますが、そのための医師や看護婦の労力は大変でしょう。人件費も莫大なものになります。

 気になる点もあります。
 送り手の努力ばかりが見えて、受け手はいつも受け手とし てしか現れてこないのです。
 送り手と受け手の相互浸透が発展を呼ぶのが唯物論の基本にあるし、そこから若月院長が若い時情熱を傾けた共産主義が生まれてきたと思うのですが、その観点からすれば一方的に送る側の努力ばかりが犠牲的に継続できるとは考えられません。むろんこんなことは若月院長にはとうにお解りのはずですからそこに何か大きな壁があったのかもしれません。宮沢賢治も現実にぶち当たって「その真っ暗き大きなものが俺にはどうにも動かせない」と嘆いていましたから。

 今日、巨大化した佐久病院は新たな問題と矛盾を抱えています。医療費抑制策から平成になって赤字にあえいでいるとも書かれています。若月院長の理想がもう若い医師たちには届いていないとも。なぜなら純然たる農村などもはやこの国には無いのですから。

 今日の農民は金も土地も持っていてある意味で都会人より実質裕福になっています。ただそのお金が農業収入でなく給料であるところに農村のみならず今の社会の矛盾が象徴されているように思えます。

 また理想は実現に尽力した人には燦然と輝くものですが、後から実務的に引き継ぐ者にはえてして重荷になるものでしょう。

 それらを踏まえて著者は最後に次のように文学的に見事にまとめます。

 「旅人の目に、小海線の電車の車窓から見える佐久病院の巨大な建物と周囲のひなびた風景がミスマッチと映るのは、旅人の目がおかしいからではなく、若月の抱え込んだ矛盾がいかに大きなものかであるかの証明なのである。佐久病院は若月と昭和という時代の間にできた子供だと書いたが、もしかしたら、この子は人工交配のために子孫を残すことができない一代かぎりの雑種かも知れない。(中略)若月が赴任した当時の理念を失ったとき、佐久病院は単なる大病院の一つに過ぎなくなってしまうのだろうが、少なくとも私は、そうなってしまった佐久病院については二度と書くことはないだろう。」

 農村医療、地域医療に関心ある方のみならず、一人の傑物の一代記として、また組織論としてとても興味深い本に仕上がっています。さすがにすぐれた筆力です。しかもこの手の評伝は何よりその人に対して愛情ある人が書くべきという証明です。さもないと批判のための批判になりがちですから。その点この著者は若月俊一とい言う人物に魅了されながらも、努めて平静に中立にと自らの立場を注意深く保って書かれているところがとても読後感、後味の良い一冊になっています。どうぞ一読を。とても読みやすい文体ですから。わたしの紹介文の読みづらさがこの本の読書欲をそぐとしたらとてもつらいものです。

 

2020/08/07

論語読みの論語知らず「師・増永静人の思い出」

 

かつて発行していた月刊個人誌「游氣風信」の2000年6月号と7月号に増永静人先生の論語について書きました。

 本文の終わりの方に書いた以下の言葉は私にとって増永静人先生の遺言です。

 「健康を云々する人間が病気になるのは情けないと思うだろう。しかし、僕だって病気をし、年を取り、死んでいく。だからこそ治療ができる。考えてみなさい。もし僕が病気もせず、年も取らず、死なない鋼鉄のような人間だとして、そんな人間に治療ができるだろうか。そんな鋼鉄みたいな人間に治療してもらって病人はうれしいだろうか。患者は不死身で頑健な理想的な健康体を期待するだろうが、それでは病人に真に共感することはできない。そこからは死や老いが見えてこない。自分自身、いつ病気になり、死ぬか分からない脆弱な存在だからこそ、ここまで真剣に医療について考えてきたんだ。指圧という民間療法を医療の視点で再構築して医療の一端を担うものとして、思想的には医療の根本を為すものとして研究してきたのだ。僕だって病気になる。窮す。でも僕は孔子の言うように乱れたりはしたくない」

 

游氣風信 No,126 2000,6,1 論語読みの論語知らず「師・増永靜人の思い出」(上)同2000,7,1(下)

《游々雑感》

 ある名人落語家の枕(落語の本題に入る前の軽い話)に「無学者は論に負けず、無法は腕ずくに勝つ、などと申しますが・・・」というのがあります。

 これは主として学を見せびらかす人を揶揄する話(「薬缶」や「千早振る」など)の枕に使われるようです。これについては以前《游氣風信》で「知ったかぶり IN 落語」として取り上げました。

  「学問の無い人は、理論的に筋道だった話をすることなく自分の思いを強弁するので、学のある人が論を持って諭そうとしてもかなわない。同様に、法を守らない無法者は暴力的に意を通してしまう。どちらも困ったものだ」というような意味合いでしょう。

 元憲法学者で今は著名な国会議員になっている女性党首が一時「駄目なものは駄目!」「やるっきゃない!」と言い張ったのはこの類いの強弁でしょう。学者を出自をする人でも政治家になると論理を吹っ飛ばす発言をするのだと驚いたことがありました。

 もっともこれは永田町という魑魅魍魎の巣窟、百鬼の夜行する不条理世界に伝わる「永田町の論理」に対抗するために取った特別措置であるとも考えられますが。

 先程の落語の枕に戻ります。前述したように「無学者は論に負けず、無法は腕ずくに勝つ」は、無学者や無法者を困った存在と見なしていますが、別の見方もできます。それは学があっても知に溺れ、行動力のない人をからかっているのではないかということです。

 諺(ことわざ)にも「論語読みの論語知らず」というのがあるではありませんか。

 「論語読みの論語知らず」の意味は、蛇足ながら辞書を引きますと 

「書物の上のことを理解するばかりで、これを実行し得ない者にいう」(広辞苑)

ということです。

 一般的には学識のみで常識のない人を揶揄することばですね。

 論語!?

 さる国の総理大臣が好みそうなテーマですが、今月はなんと論語の復習をすることにしました。なぜかと言うと、わが指圧の師の増永静人先生が晩年「論語」を愛読されていたからです。

  ある日、先生が病気をおしての講習の後の会食のときでした。先生はしみじみと言われました。

 「この頃、論語の『朝に道を聞けば、夕べに死すとも可なり』が身に染みてくるんだ」と。

 続けて

 「今の僕は孔子の言うように、もし朝に、誰かが僕の言うことを本当に分かってくれるなら、もう夕暮れには死んでもいいという心境だ。本当に伝えたいことはなかなか伝わらないし伝えられない。おこがましいが、孔子の気持ちが分かる気がする。孔子は生涯を通して君子という理想を追い求めた人であって、決して自らが君子ではなかったはずだ。だったら僕が自分の心境を孔子のそれに置き換えても決して偉ぶったことにはならないだろう。もし、孔子が君子でわれわれが凡人としてそれに遠く及ばないなら、孔子が凡人に道を説く意味がない」

 当時まだ二十代前半、しかも無学者のわたしはなるほどと頷きながらも生意気に口を挟みました。

 「先生、『朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』は、学ぶ側の心境ではありませんか。つまり朝、ものごとの本質を知ることができたら、夕方には死んだっていい、それほど道とは得難いものである、ということではないでしょうか。確か学校でそう習ったように記憶しています」

 増永先生は穏やかに答えられました。

 「それは教室なら正解だ。しかし僕の心境からすると僕の解釈も成り立つと思う」

わたしは今度は「成る程」と納得したのでした。

 なぜなら増永静人先生の生涯は、常に中国医療の古典をご自身の指圧臨床体験を通して再措定されるものだったからです。古典医療を現代の目でもう一度再検討し、臨床で確認し、現代人にも納得のいく指圧理論として編成されたのでした。

 それゆえに、今日海外では指圧と言えば増永静人先生創案の「経絡指圧」を指すようになったのです。ただし出版社の意向により海外では「禅指圧」という名称で広がっています。
 
 残念ながら指圧のお膝下、日本では指圧は既に忘れられかけた存在になりつつあり、医療としての本分を忘れ、慰安行為としてのみ細々と命脈を保とうとしています。これはわたしどもにも大なる責任があります。

  さて、早々と断っておかなければなりませんが、わたしは「論語読まずの、論語知らず」です。あるいは「論語読めずの、論語知らず」。

 わたしの論語に関する知識。それは高校の古典の時間に少しばかり論語に触れただけです。これはおそらく皆さんも同じだと思います。

 戦前の教育を受けた方は、儒教が社会の制度的安定のための根本思想であった意味合いから、修身の根幹を為すものとしてしっかり学ばれたことでしょうが、わたしのように戦後に生まれた者はほとんど習っていません。

  まして今の高校の教科書を見ますと、漢文という独立した教科書はなく、古文の教科書の終わりの方に申し訳程度に漢文のパートがあるだけで、その量はわたしたちの頃(約三十年前)よりずっと少なくなっている感じです。そうなると近い将来、「論語(内容でなくそのことば自体)」は一般教養としてではなく特殊な素養の部類に入るやも知れません。いや、既になっていると言っていいでしょう。


 今回は論語の有名な部分をいくつか紹介します。論語を知らない人も、昔習ったけど忘れてしまっている人も、論語なんか大嫌いな人も、とりあえずわたしと一緒に論語に入門(再入門)しましょう。

  参考は高校の教科書、大修館書店の「新制高等漢文」、明治書院の「漢文」と講談社学術文庫の諸橋轍次著「中国古典名言辞典」です。


 ところでそもそも「論語」とは何でしょう。また孔子とは。

 例によって「広辞苑」に当たってみます。

論語

 四書の一。孔子の言行、孔子と弟子・時人らとの問答、弟子たち同士の問答などを集録した書。(中略)孔子の理想的道徳「仁」の意義、政治、教育などの意見を述べている。わが国には応神天皇の時に百済より伝来したと伝えられる。

 孔子の語ったことを弟子たちが書き留めた語録集。これが論語です。

 辞書の説明の中に色々難しい言葉がたくさん出て来たので同じく広辞苑で細かく調べます。

四書

 大学、中庸、論語、孟子。儒教の枢要の書。

 まあ、中国の儒学の最も重要な本のことですね。

 そもそも孔子とはいつの時代のどんな人でしょうか。

孔子

 中国、春秋時代の学者・思想家。儒家の祖。名は丘。字は仲尼(ちゅうじ)。

今の山東省出生。古来の思想を大成、仁を理想の道徳とし、孝悌と忠恕とを以て理想を達成する根底とした。諸国を歴遊して治国の道を説くこと十余年、用いられず、時世の非なるを見て教育と著述に専念。その面目は言行録「論語」に窺われる。(前551~前479)

 
 孔子は紀元前500年前後の中国の思想家ですね。結局、役人として採用されることはなくフリーターとして諸国を旅した人のようです。その頃日本はまだ縄文時代。おそるべし中国4000年の歴史。

 
 ギリシャの「イソップ童話」もこの頃のものです。
 中国では「老子」もこの頃編纂されています。

 「論語」は孔子の死後ですからもう少し後の紀元前450年頃。

 同時代の著名な思想家(宗教家)として釈迦(前566~前486)やソクラテス(前470~前399)がいます。


 こうしてみると古代中国に孔子や老子、古代インドに釈迦、古代ヨーロッパにソクラテスなどのギリシャ哲学という具合に、人類の文明の黎明はほぼ同時に世界各地に散在して始まったようです。果たして文化の交流はあったのでしょうか。

 もう一度言いますがその頃、即ち孔子が旅に仁を語り、釈迦が菩提樹の下で慈悲を説き、ソクラテスが悪妻にいじめられた鬱憤(うっぷん)を弟子との対話で哲学していた頃、日本はまだ縄文時代末期。竪穴式住居に住んで平和な集落を作り、採集・漁労・狩猟という採取経済に基づく生活をしていました。時あたかも弥生時代との端境期です。

 考古学では縄文時代は「先史時代」と呼ばれ文献の無い時代に分類されます。弥生になれば文献が多少存在する「原史時代」となります。

  弥生時代の中頃(57年)、日本の倭奴国から後漢に遣使を送り光武帝から金印を授かり、弥生の終わり(239年)にはかの邪馬台国の女王卑弥呼が魏に遣使を送ります。これらは中国の歴史書「魏志倭人伝」に登場します。

 魏は有名な「三国志」の三つの国つまり魏(曹操)・呉(孫権)・蜀(劉備)の一つです。後漢の滅んだ後のいわゆる三国時代。ついでに言うと呉服は呉の織物を起源とします。

 日本にとって中国は圧倒的に進歩した国だったのです。

儒学

 孔子に始まる中国古来の政治・道徳の学。(中略)日本には応神天皇の時代に「論語」が伝来したと称せられるが、社会一般に及んだのは江戸時代以降。

 儒学の歴史はいろいろ複雑なようです。日本で広まったのが江戸以降というのはちょっと意外でした。

 孔子の思想の中心にあるのが「仁」です。これは何でしょう。仁丹というおじさん好みの口臭防止薬がありますがこれは関係ないでしょう。

 フーテンの寅さんが、中腰になって右手を差し出し
「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又、帝釈天で産湯をつかい、姓は轟、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します」と仁義をきります。高倉健などのやくざ映画でもおなじみです。

 仁義は孔子の思想の中心をなすものですが、では、果たしてフーテンの寅さんは儒者でしょうか。どうも少し違うようです。

仁

 1 孔子が提唱した道徳観念。礼にもとづく自己抑制と他者への思いやり。忠と恕の両面をもつ。(中略)封建時代には、上下の秩序を支える人間の自然的本性とされたが、近代、特に中国では、万人の平等を実現する相互的な倫理とみなされるようになった。

 2 愛情を他に及ぼすこと。いつくしみ。おもいやり。博愛。慈愛

 学生時代、少林寺拳法を習っているとき、「仁」の字はずばり「二人」。つまり人と人との関係を表すと習いました。

忠

 1 いつわりのない心。まごころ。まこと。まめやか。
 2 君主に対して臣下たる本分をつくすこと。

  これも少林寺拳法で「忠」は「中心」、つまり嘘偽りの無い心の真ん中であると聞いたことがあります。これは1の意味になります。

 しかし一般的には2の意味に使われるようになり、これが武士の心構えとなり、後には軍国主義と結び付きました。武士は軍人ですから当然でしょう。戦後、軍国主義と一緒に「忠」という言葉を排除する傾向にあります。孔子にとっては「忠」はいつわりのないまごころのことですからこれは不本意でしょう。言葉は手垢にまみれるという分かりやすい例です。

恕(じょ)

 1 おもいやり。同情心。
 2 ゆるすこと。寛恕。

 「恕」はあまりなじみのない字です。字を分解すれば「心の如し」。心素直にあるがままの意味でしょうか。

義

 1 道理。条理。物事の理にかなったこと。人間の行うべきすじみち。
 2 利害をすてて条理にしたがい、人道・公共のためにつくすこと。

  これも少林寺拳法では「羊(大切なものの意味、羊は大切な財産だった)と我」で、自分を大切にする意味だと習いました。

孝

 よく父母に仕えること。父母を大切にすること。

  少林寺拳法で「孝」の字は「老と子」からなり、子が老人を背負うて歩く姿の象形だと教わりました。

  こうして見ると「忠」とか「仁」、「義」などの元の意味、即ち孔子の唱えたものと日常生活で用いる場合とは意味が異なっているようです。

 今日一般的に使われているのは長い歴史の経過の内に、為政者が治世に便利なように意図的に歪曲させた意味合いが強いようです。それによって孔子の考え全般が忌避されるようになるとすれば、孔子の本意ではないと考えられます。

 「仁・義・忠・恕・孝」とは人間関係において、我を大切にして、心の中の本当の心に従い、思いやりの心を持ち、父母を大切にすることだというのです。それを拡大解釈して行くと臣下としての忠誠心や自分を殺してまでも主君の言い付けを守れなどということになるのではないでしょうか。

  フーテンの寅さんの「仁義」は二人の人が出会ったとき、互いの素性を明らかにして、すじを通す裏街道を生きる人たちの知恵が生んだ格式なのでしょう。

これもやはり孔子のいう「仁・義」から派生したものと言えます。

 孔子の言葉は「仁義」「義理」「任(仁)侠」「忠誠」など政治家とある筋の人の共に好む言葉でもあります。どちらの世界も強引な秩序を好むからでしょうか。

  さて、ざっとおさらいをしたところで、「論語」に入りましょう。読み下しと口語訳はわたしがしました。間違いがあると思います。仮名遣いも現代仮名遣いにしてあります。

 

子曰、「吾十有五而志于学。三十而立。四十而不惑。五十而知天命。六十而耳順。七十而従心所欲、不踰矩。」

  子曰(いわ)く、「吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こえ)ず。」

  孔子先生は言われた、「私は十五才で学の道を志した。三十才で自立した(方向を定めた)。四十才で惑うことはなくなった。五十才で天命を知った。六十才で人の意見を素直に聞き、理解できるようになった。七十才で心の欲するままに行動をしても軌道を誤ることがなくなった」

 孔子が自分の人生を振り返ってみるとこうであったというのです。なかなか耳の痛いことです。

  わたしは十五の頃は漠然と生きていました。三十の頃は生活に追われていました。四十はもっと生活に追われています。五十はきっと生活に疲れていることでしょう。

 六十才や七十才になると自然体に生きてもそれが道を踏み外すことが無くなるというのですが、現実にはどうでしょうか。孔子が自らの生涯を振り返るとこうであったということで、誰もがこうしろ、こうなるべきだとは言ってはいないようですね。助かります。

 わたしもあと数年で天命を知る年ですが、天命がどういうものか分かりません。

 天命は辞書では「天によって定められた宿命。天運。または天から与えられた寿命」とあります。

 宿命は「前世から定まっている運命」。

 運命は「人間の意志にかかわりなく、身の上にめぐって来る吉凶禍福。それをもたらす人間の力を超えた作用。人生は天の命によって支配されているという思想に基づく」

 
 一般的に解釈すれば天命を知るとは天によって定められた自己の社会的存在意義を明かにするとなるのでしょうか。天という形而上学的存在を認め、それに従って生きるというのが孔子の理想だったです。

  同時代の老子の道教は逆に無為自然を旨として人為的秩序を廃し、宇宙の本体である「道」に沿って生きることを理想としました。柔道や茶道の道はここに由来します。「道」はタオイズムとして欧米でも人気があります。

 孔子の儒教、老子の道教。これら全く異なる思想が同時代すでに存在していたことは面白いですね。

 
 老子も天の存在を重要視しています。

 老子に「天網恢々、疎而不失」という言葉があります。「天網(てんもう)は恢々(かいかい)として、疎にして失わず」です。
 天は大きな網を張っていて、その目は粗いが何事も漏らさずすくい取り、決して漏らすものではない、天は全てを知っている。あるいはすべてはその仕組みの中でうまく動いているという意味でしょう。

  いずれにしても天という思想は古代中国において孔子・老子という二大思想家に共通する概念です。もしかしたら人格化されていませんが、キリスト教の神のような大きな存在だったかもしれません。

 先の論語に戻ります。

 孔子は加齢により人間的成長を遂げるとしています。孔子自身がそうであったというのです。しかし現実にはどうなのでしょう。

 人は六十才になると耳順というより耳が次第に遠くなりますし、七十になれば、心欲しても体動かずという点が無いとは言えません。現実には難しいが、努力することが大切だということなのでしょう。

 人生をトータルに把握する時、よく引用される一節です。

子曰、「学而不思則罔。思而不学則殆。」

 子曰く、「学びて思わざれば、則ち罔(くら)し。思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し。」

 
 孔子先生は言われた、「学んでも自分自身や社会に当てはめて思うことをしなければ、学んだことの道理がよくわからない。反対に、狭い経験や知識に頼ってさまざまに思いを馳せても、深く、謙虚に学ぶことをしないと独断におちいって危険である」

  立派な大学を出た人がどうしてあんな過ちを犯すのか、ということが巷間よく囁かれます。それは孔子によれば、学ぶだけで考えることをしないからだというのです。学ぶことと思うこと。この両方のバランスが大切なのですね。

 日本の学校教育はどちらかと言うと学ぶに比重が片寄り、思うことの機会が少ないようです。

 
子曰、「温故而知新可以為師矣」

 子曰く、「故(ふる)きを温(あたため・たずね)て新しきを知れば、以て師為るべし」

 孔子先生は言われた、「古いことをしっかり学んで、そののち新しいことを知ろうとするならば、それはすぐれた師を得たようなものだ」

  これは「温故知新」として今日でもよく使われます。「温」は「たずねて」とも「あたためて」とも読まれます。

 現在は過去の集積ですし、未来の原因になりますから、新しいことを学ぶときは過去の成果や歴史などをあたらめて勉強してみればよい。そうすれば古臭いと思われることも良き師匠のように道を示してくれるということでしょう。


子曰、「其身正不令而行。其身不正雖令不従。」

 子曰く、「その身正しければ、令せずして行わる。その身正しからざれば、令すといえども従わず。」

 孔子先生は言われた、「その身が正しい生き方をしていれば、命令しなくても民は行動を起こす。その身が正しく生きていなければ、どんなに命令しても誰も従いはしない」

  これは為政者に身を正しく修めることが肝心であると説いたものです。「修身」は政治家こそが学ぶものなのです。


子曰、「君子和而不同。小人同而不和。」

 子曰く、「君子は和して同せず。小人は同して和せず。」

  孔子先生は言われた、「君子は道理に従って一つに和すが、他人に調子を合わせたりはしない。小人は仲良く調子を合わせているように見えるが、真に深い交流はしていない」

 
 君子は徳の備わった品格・人格の立派な人のことです。聖人君子と並列されることもあります。聖人は万人の仰いで師表とすべき人と辞書にあります。どちらも知徳の秀れたお手本となる人、あるいは理想的な人物像を示している呼称です。

  君子は人と交わるとき、仲良くするが道理からはずれてまでも一緒にいこうとはしない。つまり付和雷同はしないということでしょう。それに対してわれわれ小人は仲良く群れても道理に沿った深い協同調和はしないというのです。

 そういえば「君子の交わりは淡きこと水の如し」とも言います。心の奥深くで互いに響きあうものがあればべたべたくっついていなくても十分満たされた交流はあるのだということでしょうか。

 
 君子でなく、われわれ凡人にだって懐かしい心満たされた交流はありますね。否、そうした交流をしているとき、人は君子なのかもしれません。

 
 余談ですが酒に四君子という名を持つ商品があります。四君子とは「梅・菊・蘭・竹」のことで、君子の持つ高潔な美しさにたとえたものです。

 
 増永靜人先生は大病をされ、57歳でこの世を去られました。そのとき、ご自身を励まし叱咤されるためでしょう。論語から次の一節を引用されました。

 
子曰、「君子固窮。小人窮斯濫矣。」

  子曰く、「君子固(もと)より窮す。小人窮すれば斯(ここ)に濫(らん)す。」

  孔子先生は言われた、「君子といえども困窮することはある。しかしそれで乱れたりはしない。小人は困窮すると乱れて道に反するものだ」

  この一節のあと、次のように言われました。

 「健康を云々する人間が病気になるのは情けないと思うだろう。しかし、僕だって病気をし、年を取り、死んでいく。だからこそ治療ができる。考えてみなさい。もし僕が病気もせず、年も取らず、死なない鋼鉄のような人間だとして、そんな人間に治療ができるだろうか。そんな鋼鉄みたいな人間に治療してもらって病人はうれしいだろうか。患者は不死身で頑健な理想的な健康体を期待するだろうが、それでは病人に真に共感することはできない。そこからは死や老いが見えてこない。自分自身、いつ病気になり、死ぬか分からない脆弱な存在だからこそ、ここまで真剣に医療について考えてきたんだ。指圧という民間療法を医療の視点で再構築して医療の一端を担うものとして、思想的には医療の根本を為すものとして研究してきたのだ。僕だって病気になる。窮す。でも僕は孔子の言うように乱れたりはしたくない」

 
 この言葉は今でもわたしの心に深く沈殿しています。


 論語は我が国に最初に渡来した文献で、そのために最も日本人に好まれた古典となりました。古人は論語などの漢文の勉強を通じて、語学と同時に中国の哲学を学んだのです。

  それは後世になってドイツ語の勉強をすることで西欧の哲学を学んだのと同じ軌跡です。すなわち言語を通じて文化を学んだのでした。今日の英語学習の大きな欠点は、その実用性にのみ目を奪われて、英語によって築かれた文化の学習がおろそかになりがちなことです。

 
 言語と文化は不可避です。
 万国共通語という崇高な理想を抱いたザメンホフによって人工的に作られたエスペラント語が、その内に文化を有さないがゆえに逆に広がって行かなかったという皮肉な結果を生むことにもなったのはそのためでしょう。
 

〈後記〉

 七月七日は七夕祭りです。同時にこの日は経絡指圧の創始者であり、わたしの師匠でもある増永靜人先生のお亡くなりになった日でもあります。昭和56年(1981年)のことでした。大正14年生まれで享年57歳でした。

  決して長くない人生を指圧のために駆け抜けた方でした。最近、西欧で国際指圧シンポジウムが開かれましたが、海外では指圧と言えば増永靜人の影響なしには語れません。その日のパネラーのほとんどが先生の直接の教え子だったようです。

 最近、イギリス人がロンドンの指圧カレッジの教科書を持参しました。その本は完全に増永先生のものを踏襲していました。愚直と思えるほどに。もはや海外においてはバイブルの如しです。
 
 西洋医療を主体とした国家により制定された医療(正統医療)に対し、民衆の間で伝統的に保存されて来た医療を非正統医療もしくは代替医療(オータナディヴ・メディスン)と呼びます。アメリカや英国では医療費の高騰から代替医療に注目を集めています。その中には鍼や指圧も含まれます。

  19世紀まで人類を苦しめた感染症が正統医療によってほとんど駆逐されたことが、逆に民間医療に目を向かせることにもなりました。

  現代は仕事や人間関係からくるストレスから心身共にがちがちにされる社会になりました。その傾向はこれからもますます厳しくなるでしょう。そんなときこそ、指圧などの代替医療がもっと必要とされていくことでしょう。

 そのとき、論理的普遍性を持つ増永靜人先生による経絡指圧は有力な存在感を示していくに違いありません。
 

 それに引き換え、国内では指圧はあまりに低迷しています。
 わたしも微力ながら経絡指圧の普及に努めては来ましたが、残念ながら全く不如意に終わっています。しかしそれで諦めることなく、これからも、先生の意志を引き継いで、先生に「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」と心から安心していただきたいものです。

(游) 

2020/08/02

身体から見える景色 何故身体を問うのか

身体から見える景色 何故身体を問うのか


「身体から見える景色 何故身体を問うのか」は所属している俳句結社「藍生」の結社誌に毎月連載している「俳句とからだ」の集大成を書けと言われて100回を超えた頃に書いた文章だ。集大成のつもりだったが未だ連載は続き160回を超えている。

noteでは上手にイラストが入れられていない。慣れたら挿入を試みてみたい。

                              三島広志

一 出会った書物を通して

ポスト印象派の画家ゴーガンの大作に「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」という名画がある。このタイトルは極めて普遍的な疑問を呈しており誰もが若いとき、一度は思い詰めるものであろう。否、この自分探しを生涯追い求めながら迷いの人生を送る人も多いことだろう。

自分もまたそんな青年であった。ある時、偶然出会った書物からヒトは動物的ヒトとして生を受け、教育によって社会的・歴史的生物即ち人間になると学んだ。ヒトは教育によって人間になるのだ。人は霊長類の一種ヒトとして生まれ、成長過程で社会性と歴史性を学び人間になる。人間とは時間と空間、世間などを内包してそれらの関係性の中で生きていることを自覚した生物だ。こうして自然的ヒトが個としての人、そして環境に生きる人間となる。そこに動物や植物にはない人間独自の文化が創造される。同時に人は自分を教育する能力も持っていると考えた。そう、人は生まれてから死ぬまでヒトから人間になろうともがく過程的生物なのだ。刻々と変化しながら好きな方向を目指せば良い。それに気づいて以来生きることがとても楽になったのだった。

さらに畢竟身体という器が生の始まりから死の間際まで自分の存在の基本としてあり、精神はその器に乗ることで存在し、死とともに全ては消滅すると思い至った。むろんこれに反論する人も多いだろう。これらはあくまでも個人的見解だ。

 私自身、十代後半から二十代前半にかけて人並みに自分の存在の根底を求めて足掻いた時期があった。そして自分の人生は身体のある間のみ存在し、身体が極めて重要であると考え、何名かの同志を集め私塾のようなことを始めた。その時の趣意が以下である。今読めば若書きで気負いが溢れており些か気恥ずかしいが紹介しよう。

我々は生きていく限り<身体>の問題を通過する訳にはいかない。そしてそれは単に健康とか病気だけの問題でもない。

 なぜなら、すべての情報は<身体>によって感受(認識・自覚・勘等)、処理(判断・整理・選択等)され、あらゆる創造(活動・表現・技術等)は<身体>から発せられるからだ。即ち、我々の<身体>とは我々の<存在>そのものなのだ。  

 しかし、現実には我々の肉体は、社会という鋳型の中で精神の僕として隷属を強いられ、感性は鈍麻し頽廃し、心身は疲れ強ばり日常に漂流している。

 日常に埋没した自分に気付いたなら、この未知で、大切で、ままならない、いつかは捨てねばならない<身体>をじっくり見直し、親しく対話してみようではないか。

 否、むしろそんな<身体>に委ねきってしまうことで、もっともらしい権威やおかしな常識、偏った先入観等の束縛から解放されようではないか。それに応えるべく、<身体>は完全なる世界を体現しているのだ。

 そこから、活性の湧き出る身体と、自律性に富んだ生活と、共感性に包まれた環境(人と人・人と自然)を得て、健やかな個性の融合した生命共同体が築かれるのではないだろうか。

 何故か私は十代から柔道や少林寺拳法、合気道などの武術、さらに東洋医療の指圧や鍼に興味を抱き、学業とは別に施術の指導を受けに専門家の元へ通っていた。それは単に武術や健康法という意味だけではなく身体というものの摩訶不思議な魅力への関心だった。挙げ句、社会性や協調性の乏しい自分には会社勤めは無理と判断し、独立できる東洋医療の道へ進んだ。しかし、それは生業として口に糊するためだけとして選らんだのではなく、興味の対象の延長としての意味も大きかった。これは還暦を超えた今日でもさほど変わらず、結局生涯を書生として過程的に過渡期の存在として過ごしてきたことになる。

 およそ九年前、藍生俳句会の編集部から「俳句と健康について連載して欲しい」と手紙が届いた。それに対し「藍生俳句会には歴としたお医者さんが何人もおられるのでそれは私の任ではない、しかし、身体論ならある程度書けるかもしれない」と返答したところ、編集部から「それでいい」と言われ五里霧中の海に羅針盤も無いまま書き始めたのが「俳句とからだ」である。それがなんと百回を超えるまでの連載になった。これから書くことはおそらくそれらの総論となるだろう。そして当然それは編集部の目論見でもある。初めは若い頃出会った幾つかの書物を通して身体およびそれに纏わる事柄を書き綴ろう。

武道の理論

十八歳の時、弁証法で武道を解くという大言壮語にも思える本に出会った。これが南鄕継正著『武道の理論』である。この書で興味深かったことは「技には創出と使用がある」という技の弁証法的解釈だった。現象の中に弁証法性(矛盾、運動性)を見いだすことの重要性は学生時代に学んだマルクス経済学の基礎、「商品には価値と使用価値がある」に通底する。南鄕の技の解析もまさにそれと同構造だろうと関心を抱いた。

 マルクスの説は「商品」、たとえば萬年筆としよう、これには字を書くという使用価値と同時に五万円という交換価値があるということだ。つまり商品に本来の使用価値のみならず金銭的交換価値があるという二面を見いだすこと、これが弁証法なのだ。

 南鄕の「技の創出と使用」も同じだ。たとえば柔道の技に有名な背負い投げがある。これはヒトが生得的に持っている訳では無い。歴史の中で多くの人たちが命懸けで発明し今日に遺した伝統文化だ。この文化を有するのが人類の特徴となる。柔道を学ぶ者は背負い投げという歴史的文化を何百何千何万回と打ち込む鍛錬をすることで身体的技として作り出す。これが技の創出だ。次いでこれを乱取りや試合の中で使用する。相手は防御しつつさらに攻めてくる。その攻めをかいくぐりながら背負い投げを仕掛ける。これが技の使用だ。

 さらに南鄕は剣について述べる。剣は素人が手にしても十分に武器たり得る。刃先が相手にそっと触れるだけでも致命的だ。柔道の背負い投げはそれを技化するために膨大な努力を必要とする。しかし剣(剣の創出者は刀鍛冶)は手にしたとき構造的には背負い投げをマスターしたことと同じ域にいることになる。柔道で背負い投げを身につけ相手を投げることは、剣術で刀をひょいと振って相手に切りつけることと構造的には同じなのだ。したがって剣術は技の創出の部分を端折り、いきなり使用から稽古を始めればいいのだ。 

この解析に私は大変興奮した。さらに以前から別の書で知っていたことだが中国では昔から「技術」という言葉が作られている。その解釈に諸説あるが、私は「技は創出、術は使用」と理解している。「技」の中にある弁証法性はすでに「技・術」として分かっていたことなのだが、それを南鄕は見事に理論化した。これは二十歳前の私をいたく刺激したのだった。

武道では分かり難い面もあろうから、俳句に置換してみよう。俳句の五七五という形式は初めから与えられている技としての器、つまり刀と同じだ。牽強付会に思えるだろうが、俳人は何も考えずともことばを五七五という形式に載せればその出来栄えは別にして、とりあえず俳句になる。これが自由詩なら詩人は初心者が背負い投げを身につけると同様に、ことばに適合した表現形式を苦闘しながら創出しなければならい。俳句が入門しやすい文芸である所以の一つがこれであろう。むろん困難なのはそこから先であることは言を待たない。短歌や俳句の形式は歴史的に創出された技という踏み台だ。詠み手は初めからその上に立って歌や句を創出できるという恵まれた立場にあるということだ。これは俳句が海外にも広がっていった理由でもある。

極意

 そのあと手にしたのは坪井繁幸(現、香譲)の『極意』とう本だった。これは各界の優れた人を取材して「意を極めるとは如何なることか、極められた意とはなにか」を追求した本だ。坪井は傑出した人たちとの出会いを通じて天才的な人たちに共通する法則性を見いだす。彼が出会った人たちとは著名なスポーツ選手や武道家、演奏家や舞踊家、教育家や宗教家、さらには無名だが優れた職人などだ。坪井は天才的な人は皆、身体に対する意識や感覚が突出しているというのだ。そうした身体の中の共通性を彼は「身体の文法」と名付けた。優れた人たちの身体運用や身体意識には現象面は異なっていても内面に共通した構造があると洞察したのだ。

例えば釣りとバイオリン演奏のように現象面は全く異なっていても、それぞれの身体の中の微妙な動きや意識操作、周囲から伝わる感覚に対して開かれた身体。そこに通底する本質的な何かがある。つまりものごとには普遍的本質があるということだ。しかし、その本質を見いだすことは簡単では無い。

坪井とは二十代の一時期かなり濃密に交流した。今思い返すと、坪井の著書と本人との出会いは私の人生に相当大きな影響を与えたと言わざるを得ない。

経絡と指圧

高校生の頃、テレビの影響で指圧ブームであった。浪越徳治郎というタレント性のある指圧師が巻き起こしたものだ。彼の弟子の一人に増永静人がいた。増永は旧帝大で心理学を修め、卒業後、浪越の日本指圧学校に入って指圧の勉強をした。浪越にその才能を見込まれた増永は卒後そのまま教師として十年ほど教壇に立った後、理想の指圧を目指すため独立して多くの本を著した。私は高校生の時その著書『家庭でできる指圧』を手にして驚嘆した。多くの健康法の本はこの症状にはこのツボを押さえると治る、あるいはこれを食べれば健康になるという一対一対応の教条的な素人向けの本が多い。

増永の本(代表として『経絡と指圧』)はそれらとは一線を画していた。概論として「命とは何か、生きるとはどういうことか」と問い、そこから健康や病気、医療、さらには如何に生きるかを考えようとしていたのだ。そして冒頭から身体が存在するために不可欠の環境と命の関係を強調した。これは彼が心理学を学んだことによるだろう。身体は身体としてのみ存在する訳ではない。身体は環境にある素材を元に形成され、環境から必要なものを取り込み、不要なものを排泄しながら維持されている。この関係性の瓦解が身体の存在を危うくするのだ。これは中国古来の哲学で漢方医療の基礎ともなる「天人合一」に酷似した考えだ。

私たちは誰でも健康が大切であると思っている。それは間違いではない。病気になったとき健康のありがたさを思い知る。しかし健康は目的ではない。冒頭に述べたように私たちは多かれ少なかれ否応なく自分が生まれてきた理由や生きていく意味を問い求めている。自分自身の価値を見いだし精一杯人生を送ろうと考える。そのとき人それぞれのレベルでの健康が必要となる。決して健康のために生きているわけではないのだ。生まれつき障碍のある人、何らかの持病がある人、ある日忽然と倒れ後遺症に苦しむ人。人には避けられない宿命のような有り様がある。それぞれの有り様の中で健康は有り難いのだ。健康を失ったとき人は自分の身体に思いを寄せざるを得ない。これは負の身体観だ。それぞれの人がそれぞれの有り様の中で前向きに生きようとする時、正の身体観が発生する。身体を問うと言うことは正負両方を包括して考えるということになる。

増永は指圧を現代医学的基礎と心理学的素養、そして漢方的哲学で追求しようとした。そのとき重要視したのが経絡という中国古来の身体観だ。全身を縦に貫く十二本のスジ。解剖学的には見いだすことが不可能だが機能的あるいは感覚的には存在を確信できる経絡を東西医療および精神と肉体との架け橋として生涯研究をした。志半ばで夭折したがその思想は今日も読み継がれている。

イラスト【経絡図】

ある講習のとき増永の言った言葉がとても印象的である。

「患者さんは私たち治療師が腰痛になったり病気を患うと不思議がる。先生でも腰が痛くなるのですか?病気をされるのですか?と。しかし考えて欲しい。痛みも病も知らない、死ぬことも無いロボットのような治療師に患者の苦しみや悲しみが共感できるだろうか。弱く儚い命を共有しているからこそ治療師は患者の苦しみに共感し治療に当たれる。死の恐ろしさに涙する。頑健で鈍感な人の痛みや苦しみ、死の恐怖が理解できないような治療師に治療されて患者は嬉しいだろうか」

同じようなことは著書にも書かれてあるが、このときの師の声や表情は四十年近く経た今でもはっきりと脳裏に焼き付いている。

精神としての身体

 市川浩著『精神と身体』は「人間的現実を、心身合一においてはたらく具体的身体の基底から、一貫して理解することをめざす」という身体論の名著だ。中でも一番興味を引いたのは自己中心化と脱中心化だった。著書から引くと

「われわれは生きているかぎり多かれ少なかれ自己に中心化しているわけですが、その自己中心化と、他者の側に身をおいてみる脱中心化、そして脱中心化を経由した再中心化という形で自己意識と他者意識が次第にふかまってゆく」

となる。こうした身体は十九世紀以降復権したもので、それまでは身体は精神に隷属した存在とされていた。

 私たちは自分の身体を主体として理解すると同時に客体として対象化している。これは社会生活を送る大人にとって当たり前のことである。こうして人は身体を通して他社との関係性を学び、社会生活を送っているのである。

二 創造される身体

オフィスの近くにバレエスタジオがある。そこへ通う少女たちは一目で分かる。頭に独特のおだんごのシニヨンを作っているからだ。しかしそれだけではない。皆スレンダーで背筋が伸びセンターが天地を貫いている。バレエのように重力を超越したダンスを踊るため幼い時から激しい身体訓練を行い、そのための生活を送っているのでバレエ体が形成されるのだ。同じく近くにヒップポップのダンススタジオもある。ここに集う少女たちも独特の雰囲気を醸し出している。バレエは身体のセンターを見事に鍛え上げ垂直の美しい超日常的体躯を形成するが、ヒップホップは身体を日常の動作では有り得ない非日常的に操作する。あたかも日常に逆らう反権力のように。これはブレイクダンスと呼ばれるものである。実際そのダンスの発生は不良の暴力バトルの代替としてのダンスバトルが元になっている。これらは決して無関係では無いだろう。

このように身体は幼い少女でさえ目的的に創出される。その極限とも言える創出体が力士だろう。力士は行住坐臥全てを相撲のために費やす。眠ること、食べること、衣装、履物、もちろん稽古もそうだ。彼らは日常の全てを非日常的な相撲社会に置き、非日常の生活を彼らにとっての日常とすることで生活体を相撲体に作り上げる。意識も身体と直接して力士として成長する。これは能や歌舞伎の家に生まれた子が生活全体を芸のために捧げながら一流の役者として成長していくことと同じ構造である。

私たちは生物体として生まれ、日常社会に生きる生活体を創出する。これは日常的なことだ。それがバレエや相撲などの芸のための特殊体に創出される。スポーツ選手の身体が競技ごとに異なることはそのいい例だ。レスリングと水泳、短距離走と長距離走などあきらかにそれぞれの競技向きの身体に作り上げられている。バレーボールやバスケットボールのように初めから背が高い方が有利という競技は生得的身体そのものが武器になっている部分も多いが、体重性で生得的利点を平等に制限しているスポーツ、例えばボクシングでは明らかに創出された身体が平等な土俵の上で競う状況が見られる。これもまた立派な文化であり、ボクサーは自らを文化的身体として創出した結果をリングの上で表現しているのだ。

拡大縮小する身体

イギリスの数学者チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンが筆名ルイス・キャロルとして著した『不思議の国のアリス』は作者の友人リデル氏の娘たち、とりわけお気に入りのアリスのために彼女を主人公として書いたファンタジーだ。作品の中でアリスは薬やケーキを食べるごとに身体が拡大したり縮小したりする。また、アイルランドの風刺作家ジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』は小人国リリパットや巨人国ブロブディンナグに漂着する。アリスは自分が巨大化したり縮小したりするが、ガリヴァーは周囲が小人になったり巨人なったりすることで自分の身体が拡大したり縮小したりと錯覚する。いずれにしても自分の身体が規格外れになるという設定だ。

現実に身体がサイズを変えることはあり得ないが、測定値百七十センチの人が感覚的に大きくなったり小さくなったりする体験は誰にもあるだろう。ガリヴァーのように環境が変化する場合もあればアリスのように自分自身の思いが身体を拡大したり縮小したりする状況を生み出すこともある。そのときの身体感覚は非日常のものとして新鮮なものであろう。例えば広々とした高原で深呼吸する時、身体は向かいの山に対峙するほど大きいと感じたり、蟻の行動を観察する時は蟻のように小さくなったりする。皮膚に包まれた身体のサイズは同じだが感覚としての身体は自在に拡大縮小するのだ。

また感覚だけではない。以前、若者の間で花魁道中のような上げ底靴が流行ったことがある。社会の目は批判的だったがある板前さんは「調理場で高下駄を履いているが目線が高くなって気持ちが変わるよ、若者の気持ちも分かる」と教えてくれた。同様に駅のホームや電車内にしゃがみ込む迷惑な若者も多くいた。これも実際にやってみると「社会が違って見える」とある学者が体験を書いていた。身体状況が変われば見える世界も変わる。身体と環境は互いに影響し合う相対的関係だからだ。

延長と同化

鍼師は患者に鍼を用いて治療行為を行う。だが鍼を刺す前の段階がある。患者を見て、気持ちで包み、近くに寄り添い、気持ちに即して患者の皮膚に手で触れる。実際に触れる前に気持ちで触れるのだ。そしてその後初めて手で押したり擦ったりしてツボと呼ばれるポイントを見つけ、やっとツボに鍼を刺入する。指で圧すれば指圧となる。鍼師にとって鍼は身体と同化し延長した道具だ。これは鍼師に限ったことではない。板前と包丁、理容師と鋏や髭剃り、事務員とキーボード、運転手とハンドル(自動車)。いずれも身体と道具が同化し、身体の延長としての道具と化している。

リアルな身体と観念としての身体

 ここに奇妙な解剖図がある。漢方医学の古典に書かれている図だ。

イラスト【漢方解剖図】

そこへオランダからターヘル・アナトミアという解剖書が入ってきた。ドイツで1722年に初版、日本へはオランダ語版(1734年出版)が1770年には入っている。

イラスト【ターヘル・アナトミア】

これらの図から何が分かるか。おそらく漢方は現象や機能を観察することを重要視し、実態はあまり気にしなかったということだ。つまり実際の身体では無く現象として顕れる観念としての身体を観ていたのだ。

季語と季題

 季語は季節を表す具体的な季物を示す。それに対して季題は歴史的美意識を纏っている季節の題目であるとされる。それはリアルな季物と季物が受け継いできた観念としての季節感の違いとなる。これは先ほどのリアルな身体と観念としての身体と相似すると考える。私たちは本当の物を観ることは実は大変難しく、リアルな物と観念とが重なり合ってしか現象を観ることが出来ないのだ。宮澤賢治の詩「春と修羅」には次の一節がある。

   (前略)

草地の黄金をすぎてくるもの

ことなくひとのかたちのもの

けらをまとひおれを見るその農夫

ほんたうにおれが見えるのか

まばゆい気圏の海のそこに

  (後略)

「ほんたうにおれが見えるのか」とは賢治の生涯に亘って抱えてきた疑問だがその軽重は別にして誰もが抱く問題でもある。観る側にしても観られる側にしても。

 私たちは身体を見ていて実は見ていない。これが様々な疑問の根底に通底している。人体そのものを精神から分離して客観的に、即物的に見ようとするデカルトの心身二元論が生まれてくる必然はそこにあったのだ。

冒頭のゴーガンの「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」この設問自体、本当のわれわれを見ようとしているのかは疑問であり、画家が画家の目で主観的に見ることに留まっていると思われる。むしろそれだからポスト印象派なのだ。

心身二元論は科学を科学たらしめるため登場したが、それとて決して人を幸せにするものではない。私たちは生物として客観的に見える身体と直接して創造的文化的身体を有し、その有り様に振り回されながら生きている。これは科学がどんなに正しいと言ってもそれのみを肯え無い人間の性なのだ。

宮澤賢治に『月天子』という詩がある。その一節を紹介してこの稿を終えよう。

  (前略)

もしそれ人とは人のからだのことであると

さういふならば誤りであるやうに

さりとて人は

からだと心であるといふならば

これも誤りであるやうに

さりとて人は心であるといふならば

また誤りであるやうに

(後略)

あとがき

 「健康は身体を意識しない状態だ」という意見がある。確かに私たちは普段は身体のことを忘れている。肩がこる、腰が痛い、膝が曲がらない、おなかが張る、頭が割れそうなどの症状が出てはじめて身体への意識が生じることが多い。つまり健康ではないときに身体の各部位や全体の重だるさなどを感じるのだ。

病気でなければ自発的にスポーツをするとき、心臓の動悸や激しい息づかい、軋む筋肉の悲鳴などで身体を意識することもあるだろう。スポーツと同様肉体労働に従事する人は常に身体と一緒に仕事をする意識を持っている。

現代の生活は様々な道具や機械によって環境を住みやすく安定させたため身体への意識は薄らいでいる。暑さや寒さからの影響も従来とは比較にならない。身体への意識が希薄になるとき、それを郷愁のように深奥から呼び覚ますのがセックスや酒、嗜好としての食や身を揺さぶる音楽だろう。ジョギングなどのスポーツも同様だ。

こちらから身体に働きかけずとも身体の側から意識させるのが病気や障碍なのだ。その時健康はありがたい、普通に生活できる身体は道具として実に有り難いものだと理解する。

 では冒頭に述べた「健康は身体を意識しない状態だ」は本当だろうか。この稿で貫いてきた考えはその小さな身体観からの脱出を意味している。身体は自己存在そのものなのだ。「身体は動物として存在すると同時に文化である」と書いた。私たちは生涯を通して自らの身体を文化的に創造する。文化が身体を通して育まれてきたように己の身体自体を文化として所有しているのだ。

 私はこの原稿である程度身体に対する思いを整理しようと考えた。九年に亘って書いてきたことを俯瞰してそれなりの道標が出来るのだろうと軽く思っていた。しかし、書けば書くほど迷宮に彷徨い、出口が見つからなくなってしまった。結局、若い時愛読し、実弟清六氏の家まで訪ねた宮澤賢治にすがることになってしまった。

 畢竟身体は蜃気楼のように追えば逃げてしまう存在なのだろう。浅学非才が追っても炎天の逃げ水さながら永遠に掴むことは困難なものだ。安直だが、だからこそ人生は豊かに楽しめるものとしてこの稿を閉じることにしよう。

2020/07/29

句集『天職』を読んで下さいました。

同業の方が今年上梓した句集『天職』について読後感を書いて下さいました。

俳句などには興味を持っておられない方ですが、きちんと読んで下さいました。

2020/07/26

慢性痛とは 半場道子著『慢性病のサイエンス』より

慢性痛とは 半場道子著『慢性病のサイエンス』より

慢性病とは(2頁)
定義
「治療に要すると期待される時間の枠組みを超えて持続する痛み、あるいは進行性の非がん性疾患に関する痛み」
通常は発症から3ヶ月以上続く痛みと考えられている。痛みが強くて日常生活に支障が出るような難治性の痛みは、期間が短くても慢性痛と考えられている。

慢性痛の分類
①侵害受容性(52頁)
末梢組織に炎症の源が存在して、感覚神経終末が炎症メディエータ(仲介者・筆者)によって刺激され、終わりのない痛みが続く場合をいう。変形性関節症(osteoarthritis:OA)、関節リウマチ(rheumatoid arthritis:RA)、悪性腫瘍などのように、末梢組織に損傷と炎症が長期にわたって持続する場合、痛みはエンドレスに続いてしまう。

②神経障害性(64頁)
末梢神経が圧迫、絞扼、切断されたり、熱/科学的刺激、ウイルス感染、高血糖などで傷つけられたときに生ずる痛みを指している。脳梗塞、脳出血、頭部外傷などによって、中枢神経系の一部が損傷されたときの痛みも含まれる。

痛みの特徴:電撃が走るような激痛、自発痛、アロディニア(allodynia 通常では疼痛をもたらさない微小刺激が疼痛として認識される感覚異常のこと・筆者)を伴う特徴があり、hyperalgesia(些細な痛み刺激を強い痛みと感じる痛覚過敏)、persistent pain(末梢組織の外傷が治癒した後も、灼けつくような痛みが持続する)、dysesthesia(不快な異常感覚)などが続くことがある。

言葉による訴え:痛みの訴えは、「キリキリ」、「ピリピリ」、「ビリッビリッ」、「ジリジリ」、「ジンジン」、「鋭い痛み」、「剣山を突き立てられたような」、「針でチクチク刺されるような」、「電気が走るような」と表現されることが多い。

痛みが慢性化しやすい

整形外科領域多発する:Cー神経繊維の特殊性。神経可塑性が大きく、興奮性が長期に維持される性質があり、ひとたび損傷されると、生じた興奮性は時間とともに増大し、長期増強と呼ばれる現象を惹起する。

③非器質性(79頁)
痛みの源が末梢組織のどこにも同定されないのに、全身の多領域に拡がる痛み。消炎鎮痛薬や神経ブロックが奏功しない痛みであって、随伴症状は睡眠障害、意欲の低下、慢性的疲労感、うつ状態など多彩である。

例としては慢性腰痛、線維筋痛症、顎関節症、過敏性腸症候群などが挙げられるが、診断名のつけようのない不定愁訴の場合が多く、診断も治療も難渋する。

2020/07/25

『慢性病のサイエンス』 脳からみた痛みの機序と治療戦略 半場道子著

昨年、八事整形会で著者の半場先生から慢性痛に関して直接お話しを聞く機会があった。
この著書の46から47頁に興味深い記述がある。Placebo analgesia(プラセボ鎮痛)と脳内変化の項である。

「Placebo analgesiaが一定値を保つように調節した実験系で、被験者に対し『研究中の薬の鎮痛効果を検定するために、これから薬を静脈に注入する』と音声で予告してから、0.9%生理食塩水1㎖を静脈内に注入した。これを数回繰り返したところ、被験者の脳内にドパミン&μ-オピオイド受容体を介した神経伝達が実際に起きたのである。
(中略)
被験者が『鎮痛効果のある薬』の作用を大きく期待した場合ほど、NAc(側坐核・筆者)におけるドパミン活性が大となり、μ-オピオイド活性も増加して鎮痛効果が大きくなった。
(中略)
被験者脳内にドパミンやμ-オピオイドの代謝変動を起こした『薬』とは、ただの生理食塩水にすぎない。脳内に劇的な変化を起こさせた鍵は、『期待すること』『希望すること』だけであった。
(中略)
これらの研究成果は、医師への信頼、医療への期待感がもたらす治癒力の大きさをも示唆している。Placebo analgesiaが成立するには医師の言葉や表情、白衣、錠剤の形状、病院の建物など、期待を抱かせる根拠となる学習や記憶、認知機能が必要である。」

と書かれている。

以前、精神科クリニックで勤務していたとき、職員から製薬会社の関係で薬の形状が変わったら前の薬より効かなくなったという患者がいて困ったという話を聞いた。上記に錠剤の形状がPlacebo analgesiaに関係あると書かれている。この事実は薬の形状が変わることでPlacebo analgesiaが作用しなくなり、薬の薬理効果のみとなったため、結果として効果が弱まったと想像できる。興味深い体験談だ。

著書の内容は医師や医療機関に関して書かれているが、我々の施術においてもそのまま当てはまるのではないだろうか。

八事整形会で著者の半場先生は「慢性痛の緩和には医師が患者の話をしっかり聞くことが極めて重要です」と締めくくられた。

これもまた我々鍼灸マッサージ師に通底することだろう。


2020/07/10

游氣風信 No63 忘れ得ぬ患者「三百万円の納得」

最近若い在宅鍼灸師さん達とお話しする機会があります。

ふと、昔書いたものを思い出したのでアーカイブスから引き出して掲載します。

 

游氣風信 No63 忘れ得ぬ患者「三百万円の納得」

游氣風信 No63 忘れ得ぬ患者「三百万円の納得」
三島治療室便り'95,3,1
 
三島広志
E-mail h-mishima@nifty.com
https://sites.google.com/site/ofisumishima/

《游々雑感》
忘れられない患者さん

 二十五歳から治療の仕事を始めて今年で十六年目に入ります。

 そのうちには忘れられない患者さんが何人もおられました。そういう方たちの魅力
は様々です。ある人はその闘病精神に感服させられました。また別の方の生きて来し
方の素晴らしさに静かな感動を覚えたこともありました。病に倒れた現在の生きよう
がご家族を含めて実に魅力な印象の人も多くいます。いずれの方々も治療するわたし
の方に素晴らしい喜びをを残してくださったのです。

 中でもN氏はとりわけ強く印象に残る方でした。この方に関しては以前にある機関
紙に書いたことがあります。その原稿をもとに改めて書き直しました。

[三百万円の納得]
 N氏は十年ほど前に八十歳で亡くなりました。
 最後の三年間は脳卒中の後遺症でほとんど寝たきり状態でしたが、明治生まれの頑
固さで毎日仏間の椅子に腰掛けて、自分は「寝たきり老人」ではないと得心していま
した。

 私はN氏が退院して半年目からリハビリに往診し、約二年半のお付き合いをしまし
た。大変明晰な頭脳の持ち主で、時事に関してはテレビ報道を欠かさず見て、絶えず
社会の動きに注意しておられた。とりわけ好きだったのが国会中継。時の総理大臣中
曽根氏のファンのようでした。

 私がリハビリに訪問した初期の頃は、N氏の目的はひたすら歩行能力を回復するこ
とにありました。症状安定と病室不足のため、病院から歩行できないままに退院とな
りましたので、氏は病院から見捨てられたとひどく怒っていました。そこで私は氏の
病院に対する恨みのエネルギーを逆利用して訓練を行うことにしたのです。

 その結果は大成功。N氏の努力と人並み以上の体力の賜物でしょう、一月経った頃
には一本杖で室内の歩行ができるほどになったのです。
 N氏はまだまだ良くなり、何としても自転車に乗れるようになるまで頑張るつもり
でした。しかしどうも私には、それまでの進歩の状況や現在の残っている手足の運動
能力から室内歩行が限界のように思えました。

 リハビリの困難な点は、身体調整(訓練や治療)の結果、必ずしも以前の健康で障
害のない時の状態には回復しないと思われる人に対しても、希望を与えつつ身体調整
を行なわなければならないことです。
 さらに、身体調整の成果が本人にとって、もはや限界と考えられる時点で、以前に
比べれば不満であろうけれども、現在の状態がその人の今から将来への最高の状態な
んですよと、諦めと希望の両方を持って本人や家族に受け入れてもらうように心掛け
なければならないこと、これも大変難しくつらいことなのです。

 患者は元のように上手に歩けるようになると信じています。なりたいと強く願って
いるのです。わたしの方としてもそれに極力応えたいのですが、しかし、多くの場合、
現実にはもう回復はこれ以上は無理と思われるときが必ずやってきます。その時、い
たずらに甘い期待を抱かせるのはリハビリの本意ではありません。といって、絶望感
を持つことは本人にとって耐え難く苦しいことであろうし、看病している家族の失望
も計り知れません。

 どうやってN氏と対応すれば良いかさんざん迷った揚げ句、私は努めて体や病気の
話を避け、N氏の生い立ち、戦争体験、戦後の苦労話や商売のコツなどの聞き役に徹
しました。

 N氏の家はI市にあります。そこは戦争中、名古屋の人々が荷物の疎開をする程の
田舎でしたが、皮肉なことに空襲によって爆弾の直撃を受け全焼してしまいました。
 当時N氏は出征中で、家には奥さんと三人の幼い子供がいました。しかしその時の
爆撃で上の子二人が爆死し、奥さんと背負っていた子だけが助かりました。その子が
今の跡取り息子さんです。

 奥さんは、
「自分たちが何不自由なく暮らしていけるのは、死んだ子どもたちがあの世から見守っ
てくれているお陰だと思っているけど、当時の悲しさはとても言葉には言い表せない。
アメリカを恨み、東条英機を憾み、気も狂わんばかりだった。」
と言われます。

 爆撃されたとき、お母さんと子どもたちはそれぞれ家の表と裏に逃げ出しました。
そのままなら助かったのに、子どもたちは再びお母さんを追って家の中に飛び込んだ
ために爆弾の衝撃と炎で亡くなったそうです。
 お母さんは自分が子どもたちの手を引いて外に飛び出していたら死なせずに済んだ
と今でも強く後悔しているのです。こういう人にとって戦争は一体何時になったら終
わるのでしょうか。

 四十歳過ぎての復員後、N氏は家が焼け、二人の愛児が爆死したことを知り、呆然
自失の日々を送りました。しかし持ち前の気丈さで家の復興に立ち上がったのでした。
 廃材を入手して大工に家を建ててもらい、中古の仏壇を購入し、毎日、自転車で箒
や箕(み)の行商に出て、田畑を買い、米や野菜を作りながら必死で働いたそうです。

 七十七歳で脳卒中になるまでひたすら行商の毎日で、リヤカー付きの自転車で朝早
くから夜遅くまで1日百キロ近く走り回ったと懐かしそうに語ってくれました。
 七十五歳で逆上がりができたというのが自慢の、人一倍丈夫な体の持ち主でした。
ところが頑健と過信していた体が脳卒中で突然動かなくなったのです。雪の早朝、上
半身裸で鍬をふるっていた位元気だったそうですが無理を重ね過ぎたのでしょう。
 N氏は倒れた時のショックは子供を失ったショックと等しい位であったと述懐され
ました。

 N氏が自転車に再び乗る日を夢見るのは、自転車こそまさにN氏のN氏たる証明だ
からなのでしょう。
 しかし日々回復に努めるにも関わらず、歩行能力が向上するどころか次第に低下し
始めました。本人はその事実を必死で否定し、
「今日は体調が悪いからだ。」
「今日は雨模様の気候のせいだ。」
と毎日歩けない理由を探して口にしていましたが、とうとう自分ながらに真実を認め
ざるを得ないところまできてしまいました。

 以前なら横に奥さんを従えて軽く一人で歩いて来れた寝室から居間までのおよそ十
メートル。今では息子さんにしっかり抱えてもらってやっと歩いて来るという状態に
なってしまったのです。
 その頃からN氏は極めて無口になりました。日がな、絶えず何かを考えているよう
でした。いくら否定しても、歩く力が衰えた現実は否定できないことに気がついたの
でしょうか。あるいはほかのことを考えたり、思い出にふけっていたのでしょうか。

 ある日、
「先生よ、わしはお経に書いてあるようになも、往生安楽国に暮らしたいわや。」
とポツリと言われたことがありました。
 私は答えに窮して、
 「安楽国に住むにはその前に書いてある菩提心が必要なんだよ。」
とお経の本を見せてもらい、ほほ笑みでごまかしながら答えたりもしたのです。
 すっかり寡黙になられたN氏を見て、私は父がガンで亡くなる前の数週間を思い出
しました。

 父は、痛み止めの注射のために四六時中意識が朦朧としていたようでした。しかし、
時々頭がはっきりするするらしく、当時二十歳の私に向かって、子供の頃の他愛ない
罪を懴悔することがあったのです。

 「友達と蟹を路面電車の線路の上に置いてひき殺して遊んだことがあったが、今思
うと可哀想なことをしたもんだ。」

などという具合に。

 その経験から、もしかしたら人は死ぬ前に人生を清算する期間が与えられているの
かも知れないなと感じたのでした。父は死を目前にして、自分の人生の肯定作業に取
り掛かっていたのではないでしょうか。死んで行くにあたって心残りないように心の
整理をしているように見えたのです。

 そう考えると闘病期間が与えられた病気はとてもありがたい病気です。昨今、闘病
記を読む機会が増えましたが、どの著者も皆そのようなことを書かれていますから、
あながち間違いではないのかも知れません。あるいはそう考えないとやり切れないの
かも知れませんが。
 N氏もまさに人生肯定に取り組み始めたのでしょう。

 ある時奥さんに対して
 「われ(お前)はわしみたいな男と一緒になって損な人生だったなも。」
と問いかけたそうです。
 奥さんは
 「いいえ。何を言やぁす。おじいさんと一緒に生活ができて、とても良い人生を送
らせてもらったがなも。」
と答えたと言われました。

 その返事を聞いたN氏はめったに見せない割れるような笑顔を見せたと、N氏の死
後、奥さんが話してくださいました。なにしろN氏はいつも苦虫を噛み締めていたの
です。

 再入院される半年程前、N氏は孫ほどの年齢の私に向かって
「先生、わしはなも、もうこの人生に思い残すことはないんじゃ。ただ一つ気になる
ことはなも、氏神様の井戸の屋根が伊勢湾台風で壊れたままじゃろ。あれをわしの手
で建て直したいんじゃ。」
と話されました。

 N氏は息子さんや奥さんと相談して神社に建立費用を寄付することを快諾させ、宮
大工に見積させると約三百万円かかるというので、N氏が全額寄付して、井戸の屋根
の建築が始まりました。

 それから半月程して再入院されることになりました。今度は手足の機能だけでなく
言葉さえも失ないましたが、一生苦虫を噛み続けていた顔が、再入院してからはニコ
ニコ笑い、奥さんの話かけにも愛想良く頷(うなず)いていたそうです。問いかけに
対する判断力はしっかりしていて決して惚けてはいなかったのです。

 入院して一カ月ほどしてN氏は亡くなられました。

 N氏は井戸の屋根を作るという行為に自分の人生を代表させ、それを実現させるこ
とで人生を納得されたのでしょう。私はN氏によって人生を肯定できた人の本当の穏
やかな表情を見せていただくことができました。

 屋根が完成する前に亡くなられたことを惜しむ人もいましたが、N氏にとって大切
だったのは、井戸の屋根を自分の手で建設の方向へ持っていったという事実であって、
その後のことはさほど重要なことではなかったに違いありません。

 それから数年して懸命に看病に励まれた奥さんも亡くなられました。

2020/06/14

愛知ケアマネ研究会より連絡


今年の愛知ケアマネ研究会は残念ながら新型コロナウイルスの影響で年間を通して中止となりました。

もう何年続けて参加しているか忘れましたが少なくとも5年以上は継続していると思います。

現在はケアマネをやっておりませんが情報のブラッシュアップのため参加しています。
この研究会はケアマネージャーに医学的な知識を伝えようとお医者さん達が様々な情報を披露してくださいます。また来年も開催されたら参加する予定です。

研究会は中止になりましたが中心で関わっておられる葛谷先生達の主催される動脈硬化学会の案内が届きました。 これはWebで行われるセミナーで誰でも視聴可能です。

ご興味のおられる方はどうぞ。


2020/05/29

埼玉医科大学 東洋医学科 presents「CHANGE is a CHANCE!」医療としての鍼灸!!

埼玉医科大学 東洋医学科 presents「CHANGE is a CHANCE!」医療としての鍼灸!!

これから拝聴します。

https://www.youtube.com/watch?v=-Zncux80fdk
埼玉医科大学


2020/05/20

酒造会社の消毒用アルコール

鹿児島県濱田酒造会社が消毒用アルコールを作って下さいました。
近所のリカーショップ大竹さんで購入可能です。
施術再開に向けてたいへん助かります。




2020/04/26

愛知県の理美容室休業要請

昨日、以前セミナーでお世話になった愛知学院大学歯学部教授(退官)のお宅へ自費出版した拙句集をお届けした。そのついでに切らした珈琲豆とケーキを買いにしばらく散歩した。
 
道中気づいたのは理容室や美容室が軒並み休んでいることだ。不思議に思って帰宅後検索すると愛知県からの要請で休業に入ったようだ。鍼灸マッサージも極めて似た環境なので感染の危険性に変わりは無い。
 
私はcloseしているが、頑張って営業している同業の方。くれぐれも気を抜かないようにしてください。