2023/11/15

恩師増永静人の言葉

恩師増永静人の言葉

 「健康を云々する人間が病気になるのは情けないと思うだろう。しかし、僕だって病気をし、年を取り、死んでいく。だからこそ治療ができる。考えてみなさい。もし僕が病気もせず、年も取らず、死なない鋼鉄のような人間だとして、そんな人間に治療ができるだろうか。そんな鋼鉄みたいな人間に治療してもらって病人はうれしいだろうか。患者は不死身で頑健な理想的な健康体を期待するだろうが、それでは病人に真に共感することはできない。そこからは死や老いが見えてこない。自分自身、いつ病気になり、死ぬか分からない脆弱な存在だからこそ、ここまで真剣に医療について考えてきたんだ。指圧という民間療法を医療の視点で再構築して医療の一端を担うものとして、思想的には医療の根本を為すものとして研究してきたのだ。僕だって病気になる。窮す。でも僕は孔子の言うように乱れたりはしたくない」

2023/11/09

俳句と“からだ” 200 まなざし(黒田杏子先生追悼) 

 藍生俳句会の月刊俳句誌『藍生』に連載した「俳句とからだ」。丁度200回で終了した。これは黒田杏子先生の逝去によって藍生俳句会が幕を閉じたからだ。

黒田杏子先生にはたくさん書く機会を頂いた。ただ感謝するのみである。数日前、藍生俳句会の事務局から完全に会が終了する旨の連絡があった。黒田杏子先生の生涯のパートナーで写真家の黒田勝雄氏のご挨拶も同封されていた。この文章は「俳句とからだ」というタイトルにもっも相応しい内容になったと思っている。
今後会員はそれぞれの俳句の径に散っていく。
黒田杏子先生、運営に携わったスタッフの皆さん、藍生の会友、ありがとうございました。


花は咲き、花は散り、季節は一気に過ぎ去った。その間に黒田杏子先生も逝かれてしまった。山梨県で講演をされた翌日。巡礼者として生涯を全うされた。

 

みな過ぎて鈴の奥より花のこゑ 杏子

 

大きな喪失感を埋め合わせるため俳句を詠んだ。多くは桜と黒田先生に関係のある句となった。ところが推敲しようと読み返しているときあることに気づいた。俳句を詠むとき自分のまなざしだけで無く、同時に常に黒田先生のまなざしにも包まれていたのだ。勿論我々はあらゆるとき、自分と他者のまなざしを共有して物事を見ていることは知っている。大人とは、社会人とはそうあるべきである。実生活において自分の行動を相対化し、俯瞰して律することこそ道徳的に成長した人間である。

 

花を待つひとのひとりとなりて冷ゆ

杏子

 

実生活から離れた俳句などの創作においても鑑賞者を思いながら普遍的表現と独創的表現の狭間を模索する。それは自分の個性をどのように表現するかという作家的意識だ。そのことは十分理解していた。しかしそこに黒田先生のまなざしが常に自分を支えるように存在していたことに師を失ってから気づいたのである。

 

花巡る一生のわれをなつかしみ 杏子

 

黒田先生との縁はおよそ四十年前に遡る。今は無き牧羊社から刊行されていた総合誌『俳句とエッセイ』が若者向けに始めた雑詠欄「牧鮮集」の選者と投句者の関係だ。その後その関係は黒田先生創刊の「藍生」に移り、三十年以上継続した。その間、師弟関係は存在するのが当たり前のこととして無意識化されていた。

自分が俳句を詠むとき、読み手としての黒田先生のまなざしが無意識の下で影響していたのだ。自作の良し悪しを自分で判断するときも常に黒田先生のまなざしが方向を示して下さっていたのだった。

 

黒田先生亡き後、このまなざしはどうなるのだろうか。おそらく黒田先生のまなざしはこれからも変わらずに自分の脳裏で作品を照射することだろう。年月を重ねるうちに師のまなざしはすっかり身体化しているからだ。

 

黒田杏子先生。長い間大変お世話になりました。ありがとうございます。師恩の本当の深さや広さは未だ見えておりません。しかし、これからも我が句作の指針としてお導きください。身体化した黒田先生のまなざしは今後も圧倒的な力で私を指導し続けることでしょう。私はそれをさらに深く学び直します。これこそ師恩に報いることに違いありません。

 

花に問へ奥千本の花に問へ 杏子

俳句と“からだ” 199 歳時記 鮓 

 


俳句初学の頃、先輩から「馬手に歳時記、弓手に字引」と教えられた。ともかく小まめに歳時記と向き合い、辞書を引けという指導だ。

 

比較文学研究者前島志保氏の書評によると、東聖子・藤原マリ子編『国際歳時記における比較研究――浮遊する四季のことば』(笠間書院2011)において、歳時記には「①一年中の季節に応じた祭事、行事、自然現象など百般についての解説を記した書。②誹諧で、季語を四季順に整理、分類して解説した書物。季寄」の二種類があるとされている。また同書中の東聖子「『増山井』における詩的世界認識の方法」では、なぜ北村季吟・湖春親子の『増山井』が現代の歳時記スタンダードとなったのかについて論じられる。季吟が刊行した『山の井』が初めての独立した季寄せであり、「現代の歳時記の形式そのものである」として、「季吟が新文学の誹諧における〈俳言〉の重要性を認識していたことがわかる」と述べられている。中国と朝鮮半島には「①の意味での歳時記のみが存在している」ともある。

 

鮒鮓や三たび水打つ石暮れて

水原秋桜子

 

『俳文学大辞典』(角川書店)の「歳時記」の項に「歳時記の名称は本来、中国の『四民月令』『荊楚歳時記』など行事歴・生活歴に関する書」と書かれ、「詩歌の暦としての歳時記の先蹤としては、十世紀後半に成った『古今六帖』の歳時部が挙げられる」とある。俳句を作るとき参照するのは②に分類される歳時記であり、これは明確に「俳句歳時記」と称するべきではないだろうか。

 

 今月の季語は「鮓」を取り上げる。鮓は通年の食物だが季語としては夏に分類される。何故なら元来鮓は夏、鮒鮓のように魚の腹に飯を詰めて作る発酵食品だったからだ。近世以降特に関西では箱鮓(押し鮓)が一般化し、江戸後期には今日の主流である握り鮓が広まった。

 

鮒ずしや彦根が城に雲かかる  蕪村

 

季語は季節の客観的事物や事実のみならず人々に共通の歴史的・社会的認識も備えている。例えば鮒鮓は鮓実体を超えて近江の歴史や琵琶湖の波風を纏っている。さらに季語には作者個人の経験も絡みつく。句が鑑賞されるとき読み手の思いも重ねられる。字義通りに読んだとしても自ずから作者の表現を超えた読み手の世界が産まれる。私事ながら箱鮓は夏休みに母の里を訪れた時、祖母が必ず作ってくれたご馳走である。今でも箱鮓を食すと田舎の家を囲む山容や祖父母の面影、幼い自分の様子などが偲ばれる。

 

季語には(季語だけではないが)このように字義を超えた意味の伝達や状況の展開という可能性が秘められている。

俳句と“からだ” 198 季語 紫雲英


 『俳文学大辞典』(角川書店)には次のように記載されている。

 

季語とは連歌・誹諧・俳句において季を表す詩語。古くは「四季の詞」「季の詞」「季詞」といい、「季語」という言いかたは大須賀乙字(『アカネ』明治四十一年六月号)に始まる。

 

このように、季語は伝統的詩歌において用いられる季節を表す言葉である。したがって有季俳句、無季俳句に関わらず季語を勉強することは詩歌に関わる者にとって必須の課題となる。そこで今回、自分なりに季語に対峙してみようと思う。

 

 鋤き込みし紫雲英に満たす山の水

斎藤夏風

 

 日本は北海道から沖縄と南北に長い国だ。また太平洋側と日本海側では背骨に当たる山脈を介して全く異なる気候となり季節もずれる。北の地が雪で囲まれているとき南の地では櫻が咲き始める。季節は暦通りではない。さらにその土地には土地の文化と歴史があり、日本全体を統一出来るものではない。それを宮坂静生氏は地貌季語と称してその土地のいのちの言葉を見出そうとされている。季語は普遍的な歳時記的意味に加え、その土地独自の意味を包摂している。さらに季語には一人一人の想いも託される。それらによって季語の彩りが豊かになるのであろう。

 

 どの道も家路とおもふげんげかな

田中裕明

 

今回取り上げる季語は春の「紫雲英」である。マメ科の紫雲英は空気中の窒素を蓄える根粒菌と共生しているため鋤込めば有用な窒素肥料となるため化学肥料が普及する前の緑肥として利用された。前年の秋、農家が種を撒いて田植えに備えておく。決して自然発生ではない。また、紫雲英の「英」は「はなぶさ」で中央の凹んだ花を表す。これは蒲公英も同じことだ。子どもの頃、田植え前の田圃を紅紫に染める紫雲英田は春の彩りであった。遙かに聳える伊吹山や養老山系。蜜蜂が飛び回る辺に座り子ども達は花の首飾りを編む。中には相撲を取って農家の人から叱られた思い出もあるだろう。紫雲英のしっとりとした湿り気は今でも身体の記憶として残っている。

 

これら様々な情報が季節感を超えた紫雲英のイメージを形成する。読み手は鑑賞を通して詠み手の紫雲英からさらに自分の紫雲英世界を展開させる。そこには両者による新しい世界が立ち上がっていることだろう。その世界を産み出すためには教養や想像力が求められるに違いない。つまり季語は教養なのである。

 

げんげ田や昼は遺影が家を守る

鈴木鵬于

連俳句と“からだ” 197 『語りたい兜太 伝えたい兜太』

 

 董振華が聞き手と編集を担った『語りたい兜太 伝えたい兜太』(コールサック社)が上梓された。黒田杏子監修のもと、中国出身で日本在住の董が金子兜太に深く関わった13名へ行ったインタビューをまとめている。同社から再刊され話題を呼んだ『証言・昭和の俳句』(聞き手・編者黒田杏子)の形式を踏襲し、各人各様の兜太観が対談によって燻り出され興味深い。ぜひ一読を勧めたい。

 

 特に共感した部分を紹介しよう。

関悦史は「岡本太郎とか丹下健三とかみたいに昭和史と絡み合うように大成して、そのことで俳句の世界から外の世界への窓口になってしまい、それを引き受けていた」という見解を示している。たしかに金子は時代を引き受ける役割を担っていた。国会デモなどで使用された「アベ政治を許さない」という言葉。澤地久枝の発案で揮毫を依頼されたのが金子であることは俳句界では知られており、大胆な「一発書き」だと本人が述べている。

 

人体冷えて東北白い花盛り

 

 宮坂静生は「あなたによって俳句史は生きた人間の心の表現史に書き換えられた」として、「秩父の『山国の田舎っぺ』の兜太さんが土に培われた『美の型のようなもの』に俳句表現の源があると気づかれた」と述べている。この着眼点もこれからの俳句にとって欠かせないものとなるだろう。

 

 強し青年干潟に玉葱腐る日も

 

 筑紫磐井の話は戦後俳句史の講義のようだ。「金子さんの場合は(中略)同時代と競い合って生き残り、それから下の(稲畑)世代と競い合ってほぼ同じ時期まで生きて二世代分の活動をしたけれども、まさに活動をしながら亡くなった」と位置づけ、「誰も兜太の後を継げるような人はいないのではないか」としている。

 

 朝はじまる海へ突込む鴎の死

 

 最年少の神野紗希は「人間であり続けるということを選んだ人だったと思います。俳人である以前に、人間である。いや、俳人とは人間である。その当たり前の真実を、愚直に強く広く実践された作家でした」と64歳年長の金子を偲ぶ。

 

子馬が街を走っていたよ夜明けのこと

 

高山れおなの帯文は「我々の俳句は、これからも、なんどでも、この人から出発するだろう。(中略)李杜の国からやってきた朋が、これらの胸騒がせる言葉をひきだした」と核心を突いている。

 

他の証言も興味深いが字数の関係で紹介できない。改めて思う。畢竟、兜太とは語り尽くせない存在者なのだろうと。

(句は全て金子兜太作品)

2023/11/08

俳句と“からだ” 196 賢治と米

 

「悦凱陣(よろこびがいじん)」は四国香川県琴平にある酒造の醸す銘酒である。ラベルを読むと原料米が「花巻亀の尾」とある。地名と米の名前から即座に宮澤賢治(18961933)が想起された。賢治の人生は稲と深く関わっていたからだ。

 

生きかはり死にかはりして打つ田かな

村上鬼城

 

1893年、山形の農民阿部亀治が、冷害で倒れた稲の中に3本だけ元気な稲穂を見つける。彼はそれを譲り受け4年かけて新品種を産み出す。これが「亀の尾」である。倒れ難く害虫に強く早く育つという利点がある。彼はこの種を無償で提供したため瞬く間に広がったという。現在人気のササニシキ、コシヒカリ、ひとめぼれ、あきたこまち、つや姫などのルーツである。今日、「亀の尾」自体は飯米ではなく酒米として人気がある。(山形県庄内町観光情報サイト参照)

 

その後、「亀の尾」は秋田県の農事試験場で「陸羽(りくう)20号」と交配され「陸羽132号」という米が生まれる。味の良好な「亀の尾」と冷害に強い「陸羽20号」の良いところを活かした品種だ。 (「農業共済新聞」より)

 

「亀の尾」と「陸羽132号」は宮澤賢治が農民のために無償で肥料設計をしていたとき推奨していた稲だ。詩「稲作挿話」には「君が自分で設計した/あの田もすつかり見て来たよ/陸羽百三十二号のはうね/あれはずゐぶん上手に行つた/肥えも少しもむらがないし/いかにも強く育つてゐる」と詠んでいる。

 

宮澤賢治は詩人・童話作家として知られる。同時に皆の幸福を願った社会活動家としても評価されているが、過大評価や毀誉褒貶もある。生まれた明治29年が明治三陸大津波、亡くなった昭和8年は昭和三陸大津波といういずれも東北大震災に匹敵する災害の年だった。1932(7)1934(9)は大凶作で、当時の貧困な農民達は食べることに困窮することも多かった。凶作に活躍したのが「陸羽132号」だ。早生で冷害を免れたのである。現在、秋田県の新政酒造はこの米を自家米として育て、賢治の思想を纏めた「農民藝術概論綱要」にちなんだ「農民藝術概論」という酒を造っている。

 

賢治の亡くなった1933(8)は豊作だった。賢治は917日から19日まで晴天の下で実施された鳥谷ヶ崎神社の祭を家の前で見た後、辞世となる歌を詠み21日、家族の見守る中で息を引き取った。37歳。その歌は生涯を象徴する稲への想いと豊作の喜びだった。

 

方十里稗貫のみかも稲熟れてみ祭三日そらはれわたる(稗貫は地名)

病のゆえにもくちんいのちなりみのりに棄てばうれしからまし

俳句と“からだ” 195 季語と心情


季語は季節の物事および季節感を表す言葉である。俳句に詠み込まれることで

「作者と読者との共通理解の媒介」(尾形仂)となる。

 

原爆図中口あくわれも口あく寒 

加藤楸邨

 

 掲句は句集『まぼろしの鹿』(1967年刊)に収められている。戦後8年を経た昭和28(1953)の冬、広島を訪れ原爆図と対峙して詠まれた。「原爆図」と前書きがあり、「原爆図唖々と口あく寒鴉」など26句が記されている。「原爆図」は丸木位里・俊夫妻の筆による「原爆の図」で原爆投下直後の阿鼻叫喚を描いた作品群だ。多くの人が爆死、破壊された市街で生き残った人々は炎に包まれ爛れた皮膚で生死の狭間を藻掻いた。原爆投下は人類が人類に対して犯した最大級の愚行、蛮行である。筆を尽くして描かれた一連の「原爆の図」を前に圧倒され立ち尽くす楸邨が想像できる。

 

 この句は「原爆図中口あく」「われも口あく」「寒」と三つに分けて読むべきだろう。原爆図の中の人々は口をあいている。戦火に逃げ惑う人々の飢渇と苦悶、怨念と憤怒や絶望などが口をあくことで象徴されている。無音の叫びである。絵の前に立ち尽くす楸邨自身も作中に引き込まれ、描かれた人々と同じ驚愕や怒り、悲しみと無力感から同様に口をあくしかない。ふと我に返った楸邨を冬の寒気が包んでいるが、それだけではなく作者の心も寒々と凍えている。

 

 「寒」は冬の季語である。時候で言えば二十四節気の小寒と大寒。一月初旬から節分までとなる。また「寒し」ならば冬の冷え冷えとした体感となる。しかし掲句の「寒」は現実の寒さを表しているだけではない。平井照敏編『新歳時記』には「心理的な寒さ、心の寒さ、時代の寒さまでを含めていう」とある。この一語で尾形のいう「作者と読者との共通理解の媒介」が成立している。「原爆の図」を見たことがなくともその描画や楸邨の思いが伝わってくる。これが季語「寒」の作用だ。

 

しかし季語に関しては異なる意見もある。季語は季節や季物、季節感を表す言葉、言い換えると純粋季語であるべきではないか、季語に心情を代弁させることは季語への冒涜ではないか、その方向へ走ると季語が手垢に塗れて純粋性を失うのではないかという主張だ。

 

これは難しい問題だが、いずれにせよ季語は科学用語ではなく、長い年月、人と共に育まれた人文用語である。季語を活かすか季語に委ねるか。そこに俳人の有り様が示されるのだろう。

 

広島や卵食ふ時口ひらく 西東三鬼

俳句と“からだ” 194 『鈴木しづ子100句』


 戦後俳壇を駆け抜けた俳人鈴木しづ子の生涯はさまざまな伝説に包まれている。

 

 鈴木しづ子 俳人。生没年未詳。大正14(1925)14生れとも。戦時中は神奈川県川崎市の岡本製作所、戦後は東京府中の東芝に勤め、昭和23(1948)に職場結婚。一年余で離婚し、米軍基地周辺で働く。俳句は同18年から松村巨湫に師事し、『樹海』に拠る。句集『春雷』(21)、第二句集『指環』(27)には奔放な私生活を詠む句が多い。同28年、岐阜県各務原から失跡。「肉感に浸りひたるや熟れ柘榴」(村上 護) 俳文学大辞典(平成7年刊 角川書店) 註:『鈴木しづ子100句』には本名鈴木鎮子、1919(大正8)生とある。

 

 『鈴木しづ子100句』(黎明書房)は長年鈴木しづ子顕彰記念事業に関わっている武馬久仁裕と松永みよこによる新刊である。彼らはしづ子の俳句に纏いつく伝説を極力排除し、テキストに沿って解釈鑑賞しようと試みる。「はじめに」に「とかく、スキャンダラスな衣装をまとわされてきた彼女の俳句から、その衣装を取り去り、自由に読もうとするものです。(中略)その見事な言葉さばき(言葉の綾、レトリック)は、鈴木しづ子の俳句に、他の俳人とは違った不思議な輝きをもたらしています。自由に読むとは、彼女の俳句を書かれた通りに読むということです。」と書かれている。

 

 雪の夜を泪みられて涕きにけり

 

武馬はこの句の眼目は「雪の夜に」ではなく「雪の夜を」としたことだという。「に」では「泪みられて涕」くことが、「雪の夜の中の狭い一点にすぼんで」しまう。「雪の夜を」だと「涕く人を包む大きな雪の夜にな」ると説く。また「泪みられて涕きにけり」のひらがなは「なみだの粒」を文字の姿形で視覚的に示す表現法で、武馬は文字の形象化と呼んでいる。しづ子はひらがなを多用しているが、前衛俳句へ繋がる技法であるという。

 

 作品には作者の人生が否応なく投影される。芭蕉や山頭火などは寧ろその生涯と作品が密接に関係するところが評価される。俳句は短さゆえに署名があって完成するという考えもある。その反面、句の独立性を重視し作者と離れて句自体を鑑賞するという意見もある。武馬らは鈴木しづ子の俳句を伝説から切り離すことで真に作家としての実力を紐解いていこうと試みた。

 

雛まつるおほかたは父わからぬ子

 

この句に関して松永は「雛を飾っている子どもたちの多くに父親がいないのです」とそのままの解説をしたのち、史実から戦災混血児であることを述べている。周辺情報とテキストから丁寧に読まれることで鈴木しづ子の俳人としての存在に新たな価値を見出した本として推奨できる。

俳句と“からだ” 193髙田正子著『黒田杏子の俳句』後編


 黒田の7冊の句集には〈花を待つ〉を詠んだ句が21句ある。髙田は「当然のように〈花を待つ〉を季語として受け止めてい」た。ところが髙田の所持する歳時記には〈花を待つ〉を季語の見出し語とした本がないという。試みに手持ちの数種の歳時記を確認したがその見出しの季語はない。

髙田が抽出した〈花を待つ〉で最も古いのは平成7(1995)刊の『一木一草』にある。

 

 花いまだ念佛櫻とぞ申す

 

季語は〈花を待つ〉そのものではなく〈花いまだ〉であるが「紛れもなくそのこころが汲めるので抽い」たと記している。平成5(1993)44日、西国吟行第6回滋賀県長命寺の作である。髙田はその場にいたと記しているが、実は私もその場にいた。黒田から「寒い中、花を持つ気分を花未だというのよ」と直接声を掛けられた記憶がある。本書によれば当日の表記は「花未だ」であり、句集に掲載するとき「花いまだ」に添削されたようである。漢字と平仮名の誓いを吟味するのは興味深い。

 

 実際に〈花を待つ〉が登場するのは平成17(2005)に刊行された次の句集『花下草上』である。髙田は〈花を待つ〉を「季語」とカギ括弧で括り「哲学の領域に入っている」として、その理由を「三十歳で櫻花巡礼を発心し、自ら満行とみなし得るまでおよそ三十年。日常生活を送りながら千日回峰行を修めるに似た荒行である。その行を果たして初めて流麗に口をついて出るようになったことばを、思想、概念と呼ぶと抽象的に過ぎ、語と呼ぶといささか部品っぽいと考えたところで、はたと膝を打った。季語とは両者を兼ね備えたもの、まさに言霊そのものではないかと」述べている。

 

花を待つひとのひとりとなりて冷ゆ

 

高田は3年間、「藍生」誌上にて師黒田杏子の句を、季語や「ちちはは」などのキーワードを基に整理し、年齢的変化や身辺環境からの影響を熟慮しながら鑑賞した。同時に黒田の師である山口青邨や同時代の俳人の句を視野に入れて読み解いていった。その過程で高田自身の俳句観にも変化が生じたのではないか。先の引用はその好例である。あたかも黒田の7冊の句集という山嶺を巡礼者として一足一足吟味しつつ歩いていく行であったに違いない。読者もまた髙田と同行二人、杏子俳句の新しい表情を見せて貰うことが出来た。黒田は7年前、大病で斃れた。しかし治癒後の結社や協会を超越した活躍には目を見張るばかりだ。その功績に、所属していない現代俳句協会からも大賞を受けた。黒田の巡禮者としての歩みはこれからも続く。

この書は遊行の軌跡であると同時に新たな発心の道標ともなるだろう。

俳句と“からだ” 192 髙田正子著『黒田杏子の俳句櫻・螢・巡禮』

 


 髙田正子著『黒田杏子の俳句 櫻・螢・巡禮』が出版された。黒田杏子の誕生日2022810日を発行日とする記念すべき大書である。黒田杏子の俳句を弟子の髙田正子が季語を中心としたキーワードで丁寧に読み解いている。本書は藍生俳句会結社誌「藍生」に「テーマ別黒田杏子作品分類」として20191月号から202112月号まで連載された文章の再構成である。

 

髙田の文体は静謐で精緻、平明で自然体である。しかし、その筆の奥に深い読みが記されており油断ならない。冒頭の「『はじめに』代えて 黒田杏子の〈葱〉』と題された「まえがき」も師との出会いを書きながら、〈葱〉に纏わる様々な考察をさらりと示しているが、その内容には驚かされる。

 

白葱のひかりの棒をいま刻む(1977)

この冬の名残の葱をきざみけり(1993)

 

髙田はこの両句を対比して後者を「直感的に歳月が詠ませた句だ」と推測する。何故なら「平成五年(筆者註:1993)の杏子は五十代の半ば。変わらず溌剌としていたが、還暦やら定年やらが意識される年ごろ」だからだ。髙田は続けて「作者の現在が、作者に選びとらせる言葉があるということを、私はこの句から教わったのである」と深く学ぶ。優れた弟子は常に学びの触手を伸ばしている。かくして読者は髙田正子と同行二人、杏子俳句の巡礼に旅立つこととなる。

 

 黒田の既刊七句集に収められた〈葱〉の句はたった六句である。その意外性を髙田は「え!これだけ?」と驚きを隠さず記している。読者も同時に「なるほど、そうだったのか!」と肯うだろう。こうしたメリハリのある文章がともすれば黒田俳句の堅苦しい資料集とも成りかねない内容を親しい読み物としている。

 

 髙田は黒田の〈葱〉の句の数が少ないことに対して「詠んでいないのではなく、句集に残していないのだと悟った」と述べる。それは黒田が『黒田杏子句集成』のあとがきに「句集に収めたいと思う作品は、自分のこころとかたち、想いの深くしみこんでいるものという自選基準」と認めているからだ。

 

 さらに髙田は黒田の師である山口青邨の〈葱〉の句を紹介する。青邨の十三冊の句集に葱の句は九句あるという。

 

 楚々として象牙のごとき葱を買ふ

 葱白く象牙の如し肉と飾る

 

がある。前者が1950年、後者が「ひかりの棒」と同じ1977年である。象牙からひかりの棒への飛躍。髙田は〈葱〉を「オブジェ」と見る青邨と「刻む」杏子の違いと読み取る。(以下次号)

俳句と“からだ” 191 小川楓子句集『ことり』

 


 小川楓子(1983年生まれ。金子兜太の「海程」、山西雅子の「舞」に参加)の第一句集『ことり』が話題となっている。2022年2月刊行、早くも6月に増刷とのこと。句集の登場に黒岩徳将、相子智恵、大塚凱ら若い俳人達による読書会がZoomで行われた。その評価の高さが理解できる。旧来の俳壇に見られた結社縦割りの評価ではなく、作品自体が横断的に評価されるという風通しの良さの表出である。俳壇にはびこる権威主義を超えてこのような評価のあり方が一般的になれば新しい才能が参加しやすくなるのではないか。

 

 くちのなかほんのり塩気かも雷鳥

 身に入むやつてことあるんだか寝ぐせ

 

Zoomの読書会で大塚凱は「豊旗雲の上にでてよりすろうりい 完市」を引用して小川の調べは『海程』の阿部完市の影響を受けていると説明した。肯える指摘である。自在な調べと言葉の飛躍に満ちた詠み振りは読んでいて実に楽しい。「くちのなかほんのり塩気かも」から突然「雷鳥」への飛躍は驚きと戸惑いを招くが不快では無い。言葉の意味ではなく、むしろ躍動感が煌めく。音の調べと意味の調べに程良いズレがあり、下五に置かれた「寝ぐせ」も読み手の想像を超えつつ受け入れられる飛躍となっている。但し、これらの句は、次の句も含めて下五の最後の三文字に落とし込む形となっており作者ならではの定型として成立しているが常用すると形骸化する懸念もある。

 

 椎若葉こころちひさくなつてきのふ

 

初めから「こころちひさくなつて」までは読み下せる。ところが最後に「きのふ」が出てくると時間が反転して過去に向かう。心細さが時間に絡め取られて昨日に向かって流れ込んでいくようだ。

 

噴水にしてもあなたはスローリー

下唇突きだしなんか涼しさう

 

これらの句は完市や兜太へのオマージュだろう。先達の句業を身体化して自らの世界を作り上げようというところに感性に委ねるだけではない作家の思いが見えてくる。

 

 小川は「あとがき」に「作品は、わたしでもわたしの所有物でもないと思っています。なぜなら、スープのにおい、くすぐったい蟻、通りすがりの鼻歌などを授かって(いえ、率直に言うと、ひょいと掴まえて)放ったものだからです」と書いている。小川にとって、作句とはcreationではなく、「わたし」を通過する何かを「ひょいと捕まえて放つ」serendipityなのかもしれない。するとその先には小川の師匠金子兜太のアニミズムの世界が広がってくる。  

 (句は全て小川楓子作品)

2023/01/21

寒中お見舞い申し上げます。

 

寒中お見舞い申し上げます。

 

元旦で69歳になりました。旧暦で勘定すると古稀になります。それでも仕事がいただけているので頑張って続けていきます。

俳句も落ち着いて深めていきたいものです。

三島広志

 

 

 

この写真は昨年のクリスマス。寝る前には何の気配も無かったのですが起床したら驚愕の積雪でした。珍しいので写真に収めました。場所はオフィス三島のバルコニーです。シマトネリコが寒そうですね。








 

 

初詣は近くの高牟神社。物部氏と関わりのある古いお宮です。昼間は大勢の人が参詣するので深夜に行きました。