2021/03/12

哀悼 萬福鮨の田中さん。

 哀悼、萬福鮨 田中さん

 

昨日は2011311日の東北大震災、津波、原発事故から10年という節目の日でした。しかし、節目などは都合のいい言葉であって、現場で生きている人々にとっては単なる日常でしかありません。

 

その年のその頃、私は自分の身体に異常を感じていました。脚が痺れて、腰が痛く、尋常ではない状態でした。結局6月末に手術を受けることになりました。術前、今生最後かも知れないと美味しいものを頂きに今池の老舗寿司店萬福鮨へ行ったのです。

 

全く知人のいない今池に施術所を出したのが三十年前、30歳の時でした。なかなか経営が軌道に乗らず周囲の飲食店に出かける余裕はありませんでした。やっと何とか目処がたって近隣のお店に顔を出し始めたのが40歳過ぎでした。当時、今池の人気店六文銭という炉端酒房へ時々出かけました。ある時、名物店主ひげおやじこと三嶋さんからカウンターにいる同世代のご夫婦を紹介頂きました。それが萬福鮨の大将と女将さんでした。

 

それから時々、萬福鮨さんへも顔を出すようになりました。といっても年に数える程です。当時、萬福鮨さんは代替わりの頃で、先代ご夫婦も厨房に立っておられました。店内は作り替えたばかりで赤と黒の洒落たイメージで統一され、一般の鮨屋とはかなり趣が異なっていました。トイレも大変清潔に設えてありました。「赤と黒は僕の案だよ」と店を引き継ぐ若大将が決意とともに仰っていたのがとても印象的でした。

 

コロナ禍で二度目の緊急事態宣言が出た後の今年2月半ば、テイクアウトをお願いしようと久し振りに店を覗くとコロナ禍で休むと貼り紙がしてありました。さもありなんとさほど気にもとめていませんでした。

 

ところが昨日、知人からメールで萬福鮨の大将が亡くなったと連絡がありました。卒然のことで大変驚きFacebookを開くと、友人の張さんが詳細な状況報告を書いておられました。今年になって体調を壊していたこと、大病であったこと、大動脈の破裂によりご自宅で亡くなったことなど。

 

気持ちを落ち着かせることはできません。こうしてタイプを打っていてもミスタッチばかりです。萬福鮨には今池の人々が人生を背負って訪れながら、それを感じさせないように楽しく深く歓談する雰囲気がありました。何より先の六文銭が閉店して以後、多くの人の安息の場となっていました。それは朴訥とした大将と温和な女将の醸し出す店の色だったのです。客はそこにいて安穏と鮨を食べ、酒を呑み、歓談できたのです。

 

先に書いたように大震災の年、私は歩行困難となり手術を受け、復活しました。最後の晩餐とばかりに萬福鮨へ出かけ、術後無事生還してから再び訪れると大将と女将が本当に喜んで下さいました。私は照れ隠しに「このお鮨は病院食よりずっと美味しいよ」などと言って楽しく叱られたりもしました。

 

40歳を目前にした息子が高校受験の年、彼の友だちと一緒に萬福鮨へ行きました。しかし彼らに好き勝手に食べられたら適わないので、まずは辛いことで有名な中華へ連れて行きおなかを満腹にしてから萬福鮨へ行きました。味はどうかと尋ねると口の中がヒリヒリして味が分からないといいます。大将は「コースが逆だよ。うちで一個二個食べて貰ってからあちらへ行けば良かったのに」と大笑いしていました。

 

大将は琵琶湖の近くの名店で修行していましたから鮨以外に様々な料理もできます。俳句の会では時々席を設けて貰いました。腕を振るった大将は本当に嬉しそうでした。

 

常連の大学教授が一頻り呑んだ後、自宅に帰る目前に輪禍で亡くなったことがありました。大将は大変悔やんでおられました。もう少し呑ませて引き留めておけば良かったと。

 

思い出は次々湧いてきます。もう止めましょう。


大将、64歳は若すぎる。これから落ち着いてお鮨を頂きたかった。お酒も呑みたかった。得意の和食も賞味したかった。もう全て適いません。どうかあちらで大学教授のSさん、名物講師のMさんなどと一緒に美酒美食を堪能して下さい。心置きなく呑んで下さい。仕事中はいつも店内を注視して粗相がないように気を配っておられましたね。客と節度を持って対応しておられました。でももう自由です。

 

本当にお疲れ様でした。