2020/08/25

青は藍より出でて・・

 1997年10月に書いた文章。改めて読み返してショックを受けました。それは文中に出てくるサクソフォニスト原博巳さんのことです。彼は高校の同級生でクラシカルサクソフォンの世界でとても有名な服部吉之君の教え子です。そのお陰で何度か演奏を生で聴きました。文中には日本一と書いてありますが、その後、2002年、ベルギーで行われたの第三回アドルフ・サックス国際コンクールで優勝しました。アドルフ・サックスはサクソフォンの発明者です。その名を冠した権威ある国際コンクールの1位は素晴らしいものです。2019年11月に行われた同コンクールでは日本人が大活躍。以下をお読み下さい。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019111000166&g=int

日本人が1位、2位、6位に入ったのです。しかし丁寧に読むと「日本人の栄冠は2002年大会の原博巳さん(今年8月に死去)以来、2人目」とあります。44歳の急逝。これからますますご活躍という年齢でした。改めて哀悼の意を表します。

青は藍より出でて・・

 十月三日、名古屋のザ・コンサートホールで高校の同級生服部吉之君とその夫人真理子さんによるサクソフォン(吉之)&ピアノ(真理子)のリサイタルがありました。

 服部君は小学校からサックスを始め、東京藝大から同大学院を経てパリの音楽院を一等賞で卒業。以後、ソロやサクソフォン・アンサンブル「キャトルロゾー」などの活動。指導者としても洗足学園や尚美で後進の指導に当たっています。(現在は洗足学園音楽大学の教授です)

 奥様の真理子さんとピアノの出会いは幼少3歳。幼稚園にもいかずにピアノにしがみついたそうです。その精進の結果、東京藝大付属高校から同大学卒業。演奏活動、主として管楽器の伴奏者として活躍しておられます。歌手の故藤山一郎に可愛がられていく度も伴奏したと聞きしました。尚美で芸大を卒業したプロのピアニストの指導をしています。

 二人は個々の活動を精力的に行っていますが、それとは別に、東京、名古屋、北海道などでほぼ毎年一回、「デュオ服部」として夫婦でリサイタルを行っています。今回はなぜか趣向を変えての特別企画でした。

 特別企画。
 それは服部君の弟子で昨年度の日本サクソフォンコンクールで見事一等賞に輝いた原博巳君(尚美・東京藝大)と服部君によるサクソフォン・デュオ。
 もう一つは真理子さんが3歳から親炙(しんしゃ)している師の吉田よし先生(東京音楽学校現東京藝大卒業)と真理子さんによるピアノ・デュオという変則のプログラム。即ちピアノとサクソフォンの師弟デュオということです。デュオとは二人で演奏することでデュエットのこと。

 今回はなぜ師弟なのでしょう。それは文化一般から考えてみる必要があります。
 そもそも文化とは歴史と社会を持つことで初めて成立する人間独自の営みです。他の生物には決して見られないものなのです。蜂や蟻が社会を形成しているといってもそれらは本能のままに営まれていて、歴史に裏打ちされたものではありません。後代に教育的に継続させるものではないのです。

 文化は広義には科学技術から料理、スポーツ、格闘技、政治、経済、産業などあらゆる分野を含みます。狭義に限定すれば文化庁があつかう音楽や美術、書道や文学、歌舞伎や文楽、演劇、映画などの芸術や芸能がその代表的なものとなるでしょうか。

 もし文化が歴史を持たなければその人限りで滅んでしまいますし(多くの人間国宝がその危機にある)、同じようにもしそれが社会性を得ることがなければ単なる孤立、独りよがりに終始してしまいます。

 そういう意味で師弟とはまさにその歴史性を担う極めて重要な関係であり最小単位の社会なのです。
 40歳を過ぎて服部君も先代から受け継いだモノに自分の得たモノを付加して後代に伝えるという仕事に比重を置いてきたのでしょうか。彼もまた立派に歴史と社会に生きている人と言えます(おお、それに引き換えわたしのふらふらした根無し人生・・自嘲)。

 ついでに社会性のことを言うなら芸術の受け手が社会性の大部分を支えています。同時に俳壇や画壇、文壇のように作り手の側の社会性もあります。

 さて当夜の演奏は毎度のことながら素晴らしいものでした。

 「俺は原博巳君の師匠ではない。原君のファンなのだ」
と公言して憚(はばか)らない服部君は実にうれしそうに愛弟子と共演していました。例えて言うなら一人前に成長した若鶏をそっと優しく抱くような師匠らしい喜びとゆとりのある暖かい演奏でした。
 弟子の原君は170名の中でトップに立ったというだけあって21歳とは思えないテクニックとステージ度胸、立ち姿や音色の良さなど器の大きさを師匠を前にしてなんら臆すところなく発揮していました。

 服部君と真理子さんの演奏は時に争うような緊張感(夫婦喧嘩ではない)を醸し出していましたが、当日の師弟コンビはそういった緊張感は漂わせてはいませんでした。むしろほのぼのとした雰囲気を客席まで伝えて来ていたのです。
 ただし知り合いの演奏家に聞くとプログラムは非常に高度なもので相当な技量を要する曲ばかりだそうです。そうした難しい曲を演奏しながらも客席にはゆとりある至福感として伝わって来たということは両名の音楽技量がいかに高いかを証明するものと言っても過言ではないでしょう。

 ピアノはどうだったでしょう。
 吉田よし先生は女性ですからお齢を書くことは失礼ですので控えます。ただ、原君が21歳でよし先生は彼よりほんの半世紀だけ早くお生まれであると記しておきます。

 率直に申し上げて、先生の演奏は齢のことを考慮する必要の無いまるで若々しいものでした。ピアノに向かった美しい姿勢から時に激しく、時に幽かに、あるいは情熱的に、あるいは冷ややかにと鍵盤の上を自在に動き回る指から奏でられる演奏は全く現役の演奏家でした。
 演奏歴はおそらく60年を超えられるのではないでしょうか。まさに練りに練られた動き、それは難曲をあたかも魚が水中を泳ぐがごとくの自然さで弾きこなされるのです。円熟の極みというものでしょうか。日ごろのたゆまない習練の成果以外のなにものでもないでしょう。であればこそ音楽を深く理解し、頭でイメージしたように自然体で奏でることがお出来になると思うのです。

 よし先生の音色は甘く、真理子さんの音は聡明。
 お互いがそれぞれの音をきっちりと受け止め合い、音楽としてまとめていく。服部君たちと同様、まことに師弟の演奏とは素晴らしく、拝聴していて気持ちの良いものでした。

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 「出藍の誉」という言葉があります。
 「青は藍より出でて藍より青し」
とも言います。これは荀子の次の言葉に基づきます。
 「青出于藍而青于藍」
 広辞苑によれば、青色は藍から作られるが藍よりも青い。弟子が師よりもまさりすぐれるたとえ、ということです。
 余談ながらわたしの属している俳句会はこの故事からとって「藍生(あおい)俳句会」と言います。主宰は黒田杏子。

 一般には辞書にある通り、青は藍より出でて藍より青いから出世しと解釈します。だから「出藍の誉」。けれども本当にそうなのでしょうか。ささやかながらも異論を申し上げたいですね、仮に荀子がそういう意味で言ったとしても。

 「出藍の誉」とは言うものの決して青が藍より優れているということではないはです。それよりも藍という個性から青という新しい個性が藍を踏み台として花開いたと見たほうがいいのではないでしょうか。

 確かに「出藍の誉」とは言いますが、決して青と藍を比較して青が優れているという意味ではなく、師から教わったことに、わが個性を加えて新しい世界を開くことができたというように考えたいのです。師を乗り越えるとは師から受けた教育の成果を通して質的に転換をなし得たということなのでしょう。
 本来、優れた師とは本来乗り越えられないほどの境地にある人なのですからその境地が超えられるならその人は最初から師匠ではないのです。

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 演奏会の後の酒宴で元全日本レベルのサッカー選手で今は酒屋を継いでいるA君が言いました。

 A君が服部君に質問しました。
 「おい、服部。ちょっと聞きたいけど、上手な弟子が出てくるとうれしい反面、追い越されるという焦りを感じないかい」
 体力を必要とする元スポーツ選手らしい率直な質問です。
 「そんなことは全く無い」
と服部君は切り返します。
 「弟子が自分の技量を引き継いで、自分を追い越してさらに成長してくれたら師匠としてはうれしいもんだ。弟子の成長ぶりは自分の励みにもなるし」
 お店の商品をおなかに一杯詰め込んで既にいい気分でやって来たA君はそれには納得せずさらに突っ込みます。

 「弟子の進歩を喜ぶのはある意味でもう敵わないからと、弟子の成長ぶりに目を細めるというポーズで逃避することではないか」

 「体力が技術の大きな部分を占めるサッカーと違って、音楽などの芸能はその年齢に応じた魅力が出せるのだから、追い抜かれるという気持ちはそんなに起きないのではないかな。サッカーみたいにレギュラー人数も決まっていないし。俺は俳句をやっているからそう思う。青春の俳句、働き盛りの俳句。老境に遊ぶ俳句。音楽も同じでは・・」と、わたしも議論に参加しました。

 「そうそう、みっちゃん(わたしの小学校からの愛称)の言うとおり」
服部君も同意します。

 「ま、話し合いもそれくらいにしとかんと、パパラッチのみっちゃんがまたこのやり取りを密かに取材して前みたいに通信に書かれるぞ。ネタにされてまうぞ」
 元不良で今はこわもて刑事のT君が職業意識のこもった配慮で穏やかに話の中に入って来ました。

 「だいたいよー、Aは天才肌で、途中でクラブを止めても戻って来たら即レギュラー。また止めても戻ってきたらすぐレギュラー。まじめにずっと練習しとっても一回も試合に出れんかった奴もおるのに。俺だってレギュラーになれんから勉強に精を出せとやんわり退部勧告されたんだ。天才のおまえにとっては後進に指導とかは縁のない話だ」

 「いや、実は俺、今、小学校のクラブを指導しているんだ・・・」

かつての天才サッカー少年もすでに歴史に参加しているのでした。

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 わたしの指圧の師匠は増永静人という人でその世界では有名な人です。師事できたのはほんの3年ほどで、先生は亡くなられてしまいました。晩年、先生が言われた言葉で記憶に残っているものがあります。

 「論語に
   朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり
  という言葉がある。
 これは朝、真理を知ったらもういつ死んでもいい、それほど真理とは得難いものなのだと解釈されている。しかしわたしは別の解釈をする。それは朝、弟子に真理を伝えることができたらいつ死んでもいいということだ」

 当時、先生はガンに罹っていました。心底切実な思いがあったに違いありません。50代半ばで死を自覚された先生はまだ自らの研究が途中であることと、自分を本当に理解している弟子が一人もいないという二重の寂しさを直視されていたと思うのです。それが論語の解釈になったのでしょう。
 その寂しさは歴史が途絶える寂しさです。先生没後十八年。わたしは未だに不肖の弟子どころか弟子と呼ばれるレベルにも達していません。(没後40年、未だし)

 それを思えば服部君が原君という優れた弟子に出会えた喜びは計り知れないものがありましょう。同様ににサッカー小僧を相手にし始めたA君や、まるで刑事ドラマさながらに異星人のような若手刑事を現場教育しているT君にも同じ思いにつながるものがあることは想像に難くありません。

 不肖の弟子にもなれていないわたしに弟子が持てるはずもなく、また、現実にいるはずもありません。それは寂しいことですが、まだ成長過程にある、いうならば青春期にある万年青年と呼ばれるわたしにとっては当然のことでしょう。今、中途半端のままでいっぱしの師匠気取りになればそれはおそらく師匠でなく支障にしか過ぎないことは自明のことなのです。

 (附記:文中に出てくる真理子さんとはFBでやり取りしています。原さんの逝去のことを尋ねたら、「あんなに哀しいお葬式は無かった」と痛切にお答えになりました。)

今野義孝著 『癒し』のボディ・ワーク(学苑社)

 1997年9月に書いた書評です。

今野義孝著 『癒し』のボディ・ワーク(学苑社)

 20年来身体のことにかかわってきた私にとってとても興味深い本「『癒し』のボディ・ワーク(学苑社)」。著者は長年障害児の動作法などを身体運動と心理の両面から研究実践してこられた今野義孝先生。現在は(出版当時は)文教大学教育学部教授。専攻は、障害者心理学、臨床心理学、健康心理学。

 今野先生の「『癒し』のボディー・ワーク」は東洋の手技療法の研究をしてきた者にとってはその一般論的な有効性を実験検証的に証明してくれているというありがたい本です。「まえがき」の今野先生の心情吐露は学者として画期的なもので、そこまで内省的な思いを研究者が表明していいのだろうかと心配になるほどのものですが、クライアントの立場に立てばこれほど素晴らしい先生は滅多にいないだろうという感動的なものです。

 意訳抄出すれば

 「自分の発見した『腕あげ動作コントロール訓練』という動作法は、それまでの脳性まひの身体動作の援助を中心とした指導法から、こころの動きの援助する方法へと飛躍を遂げた。身体とこころの調和的な体験を援助することが自己活動の再体制化をもたらすことをあたらめて確信できた。
 しかし大きな不安が渦巻いてきた。それは『腕あげ動作コントロール訓練』はクライアントへの一方的な指導・訓練的なかかわりが中心で、真のコミュニケーションを欠いていたのではないだろうか。今にして思えば、私は功名心のとりこになり、自分が他者によって生かされているということや他者の存在の大切さを忘れていたのである。

 そうして辿りついたのが『とけあう体験の援助』である。これは『指導者・クライアント』や『援助者・被援助者』といった主従の対立的な関係を乗り越え、快適な心身の体験を互いに共有することによって真のコミュニケーション関係の確立を目指すものである。つまり、『指導者による一方的なかかわりから、相手との相互のかかわり合いへという視点』や『相手を対象化した客観的理解から、相互のかかわり合いによる間主観的な理解へという視点』が基調になった」

と言われています。

 ご自身の成果を大転換してさらに成長して行こうという態度が率直に書かれていて極めて好感と信頼を感じる文章です。その根底にあるのは学者・研究者としての態度ではなく、障害者にかかわって指導すると同時に学び、その成果を自らと障害者で分かち合い、さらなる発展を共に目指そうという姿勢からくるものでしょう。

 今野先生がこうした大きな変化の渦中にいる間に出会ったものに、ボディー・ワークと東洋的な行法があります。

 おなじく「まえがき」に

「それらに共通すること。ひとつは自分自身の身体の体験に浸り、味わうことによって自分のこころを捉え直すこと。もうひとつは集団で互いに援助しあうことによって、身体の体験やよこに漂う雰囲気を共有することができること。これは『他者とともに存在し、他者とともに癒される』ということであり、個人のレベルや自-他の境を越えた癒しの世界につながる。
 援助を受ける人も援助をする人も互いに癒される関係にあることこそが、“健常者”と“障害者”の違いを越えた真の“共生”の実現につながるということである」

とあります。

 この場合の“障害者”や“健常者”は字面だけでとらえることなく、ひとつの比喩として大きく“何らかの基準によって区別される者”と受け取った方がいいでしょうね。

 さて、この本のうれしいことはもう一つあります。それは私が直接講習会に出て指導を受けた人や縁あって出会った人、あるいは直接の出会いは無いものの書かれた本に深く親しんだ人の研究が多く掲載されていることです。今までこうした学術的な本にはなかったことで、大変驚くと同時に喜んでいます。多少なりとも縁のある人を紹介しましょう。それがある程度この本の内容の紹介にもなるでしょう。

 原口芳明先生は15年くらい前でしょうか、気流法(身体技法のひとつ。坪井香譲師提唱)の名古屋セミナーに何回も参加しておられて知り合いました。障害者教育のために裾野を拡げて貪欲に研究されておられた方です。現在(当時)愛知教育大学の教授。障害者を持つ親から絶大な信頼を集めておられます。この本には「『さわる』ことは相手をモノとして扱うことであるのに対して、『ふれる』ということは人格をもった相手への働きかけである」という意見が紹介されています。

 増永静人先生は私の指圧の先生。亡くなって15・6年経ちます。「指圧の時、相手を指導者に持たれかけさせ、指導者も相手にもたれてゆくとき、それがもちつもたれつの状態である。これが生命的一体感の状態である」と引用してあります。

 西村弁作先生は言語療法の大家。直接お会いしたのは一度だけです。西村先生の奥さんは優秀な心理療法士でしたが数年前48歳で亡くなられました。西村先生とは彼女の亡くなる数日前にお見舞いに行き、病室でお会いしただけなのです。夫人とは神経難病ALSの患者を協動で担当したことがありました。彼女が心理面を私が身体面を主に受け持っていたのです。
 亡くなる数日前、彼女をマッサージしました。「寝たままで腰が痛いでしょう。マッサージして上げるから横向きになってよ」と言いましたら、「三島先生の名人芸を見せて頂戴」と冗談を言いながら腹水の溜まった体をさっと横向きにされたのを昨日のことのように覚えています。

 野口晴哉(はるちか)さんは有名な野口整体の創始者。今日の民間医療の思想的な面で多大な功績を遺しています。明治以降、民間医療界最大の巨人と呼んでも差し支えないでしょう。私が整体協会へ勉強に行ったとき既に鬼籍の人で、息子さんが指導していました。無意識運動を発現させる「活元運動」と手のひらからの「気」を送るという「愉気法(ゆきほう)」は有名ですがフロイトやユングを彷彿させる自在な人間観察は見事なもの。生前、作家の間で大変な信頼を得ていました。

 野口三千三(みちぞう)先生。野口体操、別名コンニャク体操で知られています。長く東京藝術大学で体操の教授をしておられました。「からだは水の詰まった革袋である」という持論からなるユニークな体操です。増永静人先生とも親交がありました。藝大の演奏家の卵たちは、授業でコンニャクのようなくねくね体操をさせられて、「なんじゃこれは」と無為な時間を過ごしていたのですが、一人前になって、特に体の無理がきかなくなって演奏に行き詰まったとき、無性にこの体操が懐かしくなるそうです。

 高岡英夫さんは今日、武道やスポーツ界で最も精力的に活動しておられる方の一人。ただし、権力や権威からは最も遠い存在での活動です。東大大学院で運動科学を修めた後、野に下って今は自ら興した運動科学研究所所長。ご自身武道家でもあります。現在、武道・スポーツの分野だけでなく音楽家や舞踏家などさまざまな人が氏の指導を受けています。この本には著書「身体調整の人間学」の一説が紹介されています。
「世界はそれ自体では意味のあるものではなく、主体によって意味づけられるものである。そのときの主体とは、意識以前の主体、すなわち身体的実存である。(中略)空間を意味づけているのは身体の『運動性』である」

 竹内敏晴教授は名古屋の南山短大の教授(当時)。主として演劇を身体と言語の表現の場として教育されています。故林竹二先生と同行の教育活動でも知られています。林竹二先生のことは昔《游氣風信》に書きました。竹内さんの「ことばが闢かれるとき」は感動的な本でした。

 以上のようにアカデミズムの方も市井の方も同じ土俵に上げて説かれている点でも「『癒し』のボディ・ワーク(今野義孝)」はユニークな本です。学苑社刊、3800円(現在AMAZONで中古ですが購入できます)

2020/08/22

逢うは別れの。。。禅指圧Zen Shiatsu の縁

1995年に書いた文章です。

この頃、私の小さな指圧教室に大勢の外国人が出入りしていました。この中に書いたうちの何名かはその後Facebookで交流が復活しました。いきなりパソコン画面に知り合いかもと出てきて驚きました。現在の状況がはっきりしている人に関しては附記しました。

逢うは別れの。。。(禅指圧の縁)

1995年6月

 

 逢うは別れの始めと言います。これは白居易の「和夢遊春詩」の句「合者離之始」を出展とすることばで、逢った人とはいつかは必ず別れなければならないという無常(無情ではありません)を表した有名な詩句です。(大辞林参考)

 会った人だけでなく、出会った風景とも必ず別れなければならないことは昔の人ほど身に染みて分かっていたのだと思いませんか。現代と違って新幹線も飛行機も自動車も電話も無い時代には、遠方の人と次に会えるという確たる信念など持てなかったに違いありません。

 また、世に戦乱が続き、病気に対しても手をこまねいてただ看病するのみという厳しい時代にあっては、人との出会いと別れは今よりずっと真剣なものであったの思うのです。 戦後五十年もの間、国内においては全く平和であったという希有な時代を生きて来た者としては、別れをさほど深刻には考えません。「またいつか会えるさ。」という思いがあるからです。

 茶の湯の文化の基本理念のひとつに「一期一会」がおかれているのは、四百年続いた戦乱の世に生きた千利休の切実な思いの反映に外ならないでしょう。同時に武将達に茶の湯が愛されたのもその理由でしょう。

 最近、私は三名の親しい外国人と別れを経験しました。二人はアメリカ人、一人はカナダ人です。仲よくしている外国人がぽつりぽつりと帰国することはいつものことなのですが、特に親愛の情をもって交流していた人達が三人ほぼ同時に帰国するというのは初めてでした。そこで冒頭のことば「逢は別れの始め」が身をもって響いてきたのです。

 今日のように飛行機が飛び交う時代となると、たかが日本とアメリカやカナダ、いつでも会いに来ることができるし、行くこともできるという気持ちはあります。現に彼らが三名とも「今までは自分が日本に来たのだから次はそちらが我が国にくる番だよ。」と同じことを言い残して帰って行ったのです。おそらく今の日米加の距離は、江戸時代の人達が江戸と京都に離れ離れになることよりずっと身近な距離であることは間違いないでしょう。

 彼ら三名はわたしの指圧教室の生徒であり、身体調整のクライアントでもありました。(彼らは特に病んでいたのでなく、養生法として調整を受けていたので、患者ではなくクライアントと呼びます。意味は心理療法に訪問した来談者のこと。広告の依頼主の意味もあります。)

 五月末に帰国した米国人女性のBさんが初めてここへやって来たのははもう5年くらい前になるでしょうか。アメリカ人男性と結婚している日本人女性Sさんの紹介で指圧が習いたいとやって来たのです。ところが通訳と期待したSさんがすぐに妊娠され、通訳なしで教えなければならなくなってしまいました。しかしこれはいい経験になりました。はるか昔に習った英語の単語を乏しい脳みそを絞りながらの会話はそれは楽しいものでした。わたしのとんでもない英語を聞かされた彼女はいい迷惑でしょうがしかたありません。ここは日本なのですから。

 体の細いBさんはその体躯通りに神経質で日本の生活とはうまく馴染めないようでしたが、それでも多くの日本人の友達を作っていろいろな活動をしていました。彼女はつごう12年近く日本で暮らしましたがついに日本語は上手になりませんでした。そのかわり彼女の英語は日本人にとってとても理解しやすいもので、わたしの拙い英語力でも互いに話し合いができたのです。その理由の一つとして彼女が上げたのは興味深いものでした。

 彼女の親族に耳が聞こえない人がいたのです。Bさんはその人が理解できるように、唇の動きやことばの使い方を工夫しながら成長したので、自分の英語は日本人にも理解しやすいのではないかというのです。これはおもしろい見解です。

 そもそもなぜ外国人が指圧を学びにくるのでしょう。
 海外に指圧を広めたのは、国内に指圧ブームを作った例の「指圧の心母心。押せば命の泉湧く。」で知られる浪越徳次郎先生です。そのブームを学術的に固めたのがわたしの恩師増永静人先生でした。

 増永静人先生は五十才を過ぎてから外国人の弟子ができて、必死で英会話の勉強をしておられたのをよく記憶しています。カッセトテープを片時も話さず、外国人生徒と英語で丁々発止とやっておられました。発音はお世辞にもうまいとは言えませんでしたが、ともかく根性で聞き取り、情熱で理解させるという感じ。いかに三高・京都帝大という秀才コースを履歴に持たれる先生とは言え、敵国語禁止の時代に十代を過ごされた方ですから大変だったと思います。

 先生のそうした努力で指圧は海外に広がり先生の本の英語訳(数カ国後に訳されています)はベストセラーになりました。今日でShiatsu(指圧)は英語としてかなり知られています。そのお陰でわたしも外国人生徒を持つことができたのです。なにしろ、何人かの生徒はアメリカで買った増永先生の英語版テキスト「禅指圧」Zen Shiatsuに一杯赤線を引いてぼろぼろになったものを持参したのですから。

 わたしは東京の先生の治療センターにしばらく泊まり込んで勉強させていただいたのですが、そこにイタリア人Mさんがいて、彼とはなんとか英語でコミュニケーションをとっていました。そのとき、言葉などなんとかなるという経験があったので、Bさんとも案外平気で指圧授業ができたのです。

 Bさんの夫のお父さんが亡くなり、年老いた姑ひとりになったので帰国して世話をすることになり、急遽アメリカへ小学生の娘さんを連れて立ちました。嫁が姑の面倒をみるというのは日本と同じですね。
 Bさんの夫R氏は日本にあと数年残って大学教授を続けるそうです。
 「タンシンフニン(単身赴任)デス。」
と寂しがっていました。

(附記:このご夫妻の娘Fちゃんは大学生の時日本に二ヶ月来て、わたしのところの指圧を勉強していきました。Twitterで交流が繋がっています。)

 このBさんから多くの外国人生徒が派生しました。
 Bさんは自分のパートナーに友人のアメリカ人女性Sさんを連れて来たのです。彼女はアースデイ(地球の日)という世界的な環境保護市民運動の名古屋のリーダーで長良川河口堰の反対運動などでも活躍していましたが、2年前帰国して、マッサージの学校に進みました。驚いたことに、わたしのところで勉強していた時間が考慮されて、向こうの学校の授業時間が短縮できるのだそうです。わたしはSさんに頼まれて証明書を2通書いて送ったのです。

 SさんはD君というハンサムな米国人青年を連れて来ました。今度はそのD君がカナダ人のT君という大きな熊のような青年を伴って勉強するようになりました。
 D君はニューヨークに住む母親が肺ガンで余命いくばくもないという理由で帰国し、その後アフリカに2度ほどわたり、現在ニューヨークに戻っているそうです。今、彼の弟のC君が調整に来ています。D君がカメルーンで買ったお土産のお面が施術所に今も掛かっています。

 熊のようなT君はいったん帰国して大学に戻り、先生の資格を取りしばらくパートの教員をしていましたが、前から興味のあった禅の勉強のために再来日、広島県にある国際禅堂で9カ月修行したのち、今年の5月末に帰国しました。
 帰国の数日前、わたしのところに調整を受けがてら別れの挨拶にきました。プレゼントに白隠禅師の「夜船閑話」という健康法として有名な本をくれました。その表紙裏にメッセージが書いてありました。

Misima-sensei,
You are a perfect example of living Zen.
Your work, your effort and your compassion
shows the true spirit of a BOSATSU.
Thank you, Gassho(合掌).
                   呑海

 呑海というのは得度を受けた彼の仏弟子としての名前です。
 メッセージの意味は、気恥ずかしくて訳せません。辞書を片手にどうぞ。
ことほどさように彼は真摯に禅を日常生活の中に取り込み、あらゆるものを我が師匠としてとらえた行き方を念願しているのです。実に人当たりのよい好青年でした。カナダにはJさんという以前からのガールフレンドが待っていますから、近い将来結婚の報が入ることでしょう。彼女も私のところに出入りしてました。

(附記:カナダ人TさんとJさんは子どもを一人得て三人で仲良く暮らしています。Tさんは二度来日、息子さんも一緒に来ました。また、私の息子がカナダへ旅行したとき大変お世話になりました。今もJさんは毎日Instagramを更新しているのでカナダの雄大な風景を楽しむことが出来ます)

 T君からA君、A君からS、R、P、M、R、C・・・という具合にもう数えきれない程の外国人がやって来ては帰国していきました。

 さて、親しかった3人のうち、Bさん、T君については書きました。最後のひとりはJ君です。
 J君はアメリカでアマレスを8年練習し、日本では合気道を2段までとって帰国しという格闘技の好きな青年です。優しい顔と頑丈な体と周囲に対する気配りの行き届いた心の持ち主でした。その幅広い心くばりはアメリカの大学でユングの心理学を学んだためでしょうか。
 現在アジア各国を旅行中で、9月からアメリカのマッサージ学校へ通うそうです。わたしは彼のために入学に必要な紹介状を書きました。

 この紹介状の中にアメリカ的な考えを表すおもしろい例があります。
 たくさんの質問のうち、彼の人生観、知的能力、他人から見た長所、短所などはまだ分かるのですが、中に、

  彼がこの学校に入ることで我が校はいかなる利益を得るか

という項目があったのには驚きました。

 生徒として我が校に入学するからには当校から生徒に利益(知識・技術・資格)を与えると同時に生徒も我が校に利益をもたらす人物でなければならないという考えでしょう。何につけ自主性・自立性を重んじる国民性です。自分を中心に世界を眺め、そのために負う責任を明確に自覚することを大切にするのです。なるほど、こうことがアメリカ的なのかと深く考えさせられました。

 その点日本人は自分が益を得ることばかり考えて、先方に自分がいかなる益を与えられるかをあまり考えないのではないでしょうか。その代わり相手の責任もあまり深追いしないのです。自分も権利を主張する代わりに相手の権利も尊重するという二方向性の視点、これは日本人も大いに学ばねばならない点でしょうね。

 今、大リーグで野茂投手が活躍しています。その実力と活躍をアメリカ人も素直に評価してくれています。すごいものはすごいと。それに対して、横綱曙が勝つと座布団が舞うという日本人の狭量さ。自分の応援チームが不利になるとグラウンドにものを投げ込むという幼稚さ。敵味方を越えて素晴らしいプレーを評価できないのです。今後、野茂投手のように日本人もどうどうを自分の実力を示していけば、だんだんこうした島国的劣等感はなくなっていくのでしょうか。そうありたいものです。

 J君は5年間の日本での生活でアメリカの独立心と日本人の相互にもたれ合う生活を体験し、今は日本の方が暮らしやすいと言っています。名古屋が一番リラックスできるとも言います。確かに彼の目配りには日本的な印象を受けました。いつも皆の調和を取ろうという正確でした。どちらかというとアメリカ人は集団の中で常にリーダーであろうとします。

 その点ではJ君は日本に住むほうが気楽なのかもしれません。しかし、彼は他国の文化を素直に認める腹の大きさを持っています。タイの文化も、韓国の文化も素晴らしいもの、同様に日本人も好き、つまり、物事の良いところを素直に掬い上げることができる性格なのです。これはアメリカ人というより彼の独自のものでしょう。国際関係で練り上げられた真の国際人と言えるかも知れません。こうした好漢が日本にも大勢増えることを願います。

(附記:彼は帰国後マッサージ師になりましたが、その後Naturopathyというアメリカ独自の医療のドクターになって海の近くにオフィスを構え、暇があるとサーフィンをしています。彼ともFacebookで再開できました。)

 今、わたしの教室にはアメリカ、オーストラリア、イギリス、オランダ、ニュージーランド、ブラジル、ルーマニア、カナダ、日本の人が来てわいわいがやがややっています。そのわたしとオランダ人の会話の仲立ちをルーマニア人が英語でするという奇妙な組み合わせ。

 そこに共通している感情はとにかく指圧の勉強を通じて、みんなでうまく仲良くやっていこうというものです。この互いに互いを思いやること、これは洋の東西を越えた人類の持っている共通の優れた感情であり、知性なのだと思っています。そしてそれは努力を必要とするものであることも特記しなければならないでしょう。

 

2020/08/18

宮澤賢治生誕百年(1995年)

 宮澤賢治生誕百年(1995年)

賢治生誕百年で映画や出版が騒いだのはついこの前だと思っていましたが、1995年のことでした。もう25年も経つのです。以下の文章は1995年8月に書きました。

 

 先だって、敬愛する俳句仲間で鳳来寺在住のOさんのお母さんが九十九歳で亡くなられました。九十九歳と言えば俗に言う白寿。世間的には天寿を全うしたということになりましょう。

 しかし、ここ数年、忙しい山の管理業の傍ら、献身的にお母さんのお世話をしてこられたOさんからは、六十三年間ずっと一緒に暮らしてきた母との決別の寂しさはとても深いものであること、またその寂しさは時間によって解決してもらうしかないという内容のお手紙をいただきました。

 特にお父さんが亡くなってからの二十五年間の自分の人生はお母さんの大きな愛に支えられてきたと言われるのです。なぜなら、江戸時代から続く広大な森を相続し、それを維持し、働く人達の生活を保障しなければなりません。円高で輸入材がとても安く、国内の林業不況は深刻です。林業家にとって相続はもっとも厳しい選択と言えます。

 森は景観と空気と水の最後の砦です。今、その森を保護している人達が大変苦しんでいるのですが、Oさんはあえて、森を相続して維持するという厳しい道を選びました。売って相続税を払ってしまった方がどんなに楽か分からないと言います。

 そんなOさんをお母さんが励ましてくださった訳ですね。もちろん、日常の生活全体にお母さんとの掛け替えのない交流があったことでしょうが。
 そのお母さんとの六十三年に及ぶ暮らしが終わってしまったと言う寂しさの中におられるのです。

 他人は九十九歳という年齢を聞くと
「大往生だね。」
と簡単に言いますが、当人にとっては年齢は関係ありません。

 俳句仲間の話では、Oさんのお母さんの訃報は林業に多大な功績のある人の死として新聞にも書かれていたそうです。長寿であり、業績も果たした、つまり、功なり名とげた立派な人生を静かに終えられたのです。
 ご冥福をお祈りいたします。

 ところで、Oさんには大変失礼ですが、わたしは全く別の意味で感慨を覚えました。それは、Oさんのお母さんが明治二十九年生まれとお聞きしたからです。

 この《游氣風信》にも度々書いたようにわたしは少年時代から宮沢賢治が好きで、二十代には拙いながら研究論文を書いたり、作品の舞台になった岩手県を徒歩や単車で旅行したことがあります。当時はまだ今ほど賢治ブームではなく、地元の人もなんで宮沢賢治なんか訪ねてきたのか不思議そうでした。むしろ、空襲を逃れて賢治の実家にやって来て、そのまま花巻の田舎に生活の場を求めた高村光太郎の方を地元の人々は尊敬していました。
 その宮沢賢治が生まれたのも明治二十九年。賢治とOさんのお母さんの生まれが同じ年と知って、ひとしお感慨深いものがあったのです。

 賢治は昭和八年に三十七歳で亡くなっています。当時不治の病であった結核でした。

 わたしが初めて賢治の童話「どんぐりと山猫」を読んだのが小学校五年位の時でした。その時すでに賢治は遥か昔に死んだ偉い人という印象だったのです。なにしろ、図書室の本棚には賢治の偉人伝まであったのですから。これではまるっきり歴史上の人ではありませんか。

 ところが、Oさんのお母さんを知って、賢治の人生が本当はさほど遠くないのだと改めて思い至りました。賢治と同じ時代の空気を呼吸した人が身近に生きておられたのですから。

 このことは意外な驚きと同時に、賢治をより身近に感じる契機ともなったのです。しかし、これは本当にOさんには失礼な感慨でした。お詫びします。

 折しも、来年は宮沢賢治生誕百年。出版業界を中心として演劇やテレビ、その他で大きなイベントが計画されているようです。

 とりわけ、近年、賢治の生態学を先取りしたような環境に対する付き合い方の先見性や、教育者として卓越した感性(八十才を過ぎた教え子たちが今でも賢治から受けた当時の授業を再現して懐かしむことができるのです)を持っていたことなどが評価され、以前からの詩人、童話作家、広範な芸術活動、農村運動家、信仰者、土壌科学者などという実に多くの側面を見せていた賢治像にまた、新たな照明が当たりそうなのです。

 生誕百年に先駆けて、筑摩書房から新校本「宮沢賢治全集」の発刊が始まりました。これは二十年前に刊行された校本が改定されるものです。前回は十四巻(十五冊)、今回は十六巻に別巻一冊という計画だそうで、現在までに四冊出ています。

 校本というのは遺された賢治の原稿はもちろん、手紙、絵画やいたずらがき、学校の作文や手帳のメモまで全ての遺墨を明らかにして世に示そうというものです。さらに原稿の書き直した所はもちろん、消しゴムで消したあとの凹みまで光を当てて解読して明らかにしてしまおうという徹底的な試みです。それによって、賢治の創作や思考の後を、逐一時間的変化を鑑みながら辿るという他の作家全集には行われていない画期的な個人文学全集でした。

 二十年前は、わたしはまだ貧乏学生でしたから、食費を削って一冊数千円の本を買ったものです。何しろ、わたしの一カ月の小遣いでは買えない額でした。今回は驚いたことに当時とそんなに値段が変わらないので助かります。ただし、本の置き場にはいささか困窮していますが。

 また、すでに「宮沢賢治の世界」展が各地で行われており、名古屋では九月十四日から二十六日まで栄の松阪屋本店大催事場で朝日新聞社主催で開催されます。東京では新宿の小田急美術館で開催され大好評だったようです。
展示品は賢治の原稿や手帳、初版の心象スケッチ「春と修羅」、童話集「注文の多い料理店」、作曲した楽譜、手紙、賢治の画いた絵、当時の写真、愛用のチェロなどで、わたしも今からわくわくして待っています。

 先頃、宮沢賢治学会から「賢治イベント情報 賢治百年祭」というパンフレットが届きました。それを見ますとあるはあるは・・・。

 賢治の出身地岩手県花巻市主催の「賢治百年祭」。色々な展示、講演、映画、劇、外国人が見た賢治、合唱、縁(ゆかり)の地のウォーキング、トークショウなどが、文化会館や河川敷、賢治設計の花壇の前、市内の公園などで行われ、同時に東京でも有楽町マリオンで外国人研究者の講演が行われるようです。

 その他、各地でもさまざまな催しが計画されています。
 全国的に活動して評価の高い林洋子さんの薩摩琵琶の弾き語り「なめとこ山の熊」。作曲家林光さんのクラシックコンサート「セロ弾きのゴーシュ」。オペレッタ「かしわばやしの夜」。映画観賞「風の又三郎」。茨城大学による公開講座「イーハトーブの世界-宮沢賢治入門」。賢治の学校主催の「よむ・キク・話す・舞う・演じる プラス オイリュトミーとクラウン」。オペラシアターこんにゃく座によるオペラ「セロ弾きのゴーシュ」。花巻出身のベテラン女優、長岡輝子による朗読会。その他、合唱、リーコーダー、偲ぶ会、エスペラント大会、農民劇。
とても書き切れません。

 変わったところでは阪神大震災チャリティー「賢治白寿祭 映画と朗読の会」や、俳句大会、なんとイーハトーブレディース駅伝まであります(イーハトーブについては後述)

 出版の方ではいくつかのCDや、カレンダー、絵葉書など。研究書や賢治の作品集などの計画は目白押しでしょう。

 それらが地元の岩手県だけでなく北海道、東京、関東、愛知、大阪、神戸、徳島。その他、広い地域で行われるのですから驚きです。
 主催も大学や愛好者グループから子供会、地方自治体や教育者のグループ、詩人を中心とした会、宗教団体などさまざま。

 紹介した中にイーハトーブという聞きなれない言葉がありました。これは宮沢賢治が生まれ、生涯を過ごした岩手県をドリームランドとして呼ぶときに名付けたもので、エスペラント風に呼んだのだとされています。
 エスペラントとは「希望のある人」という意味で、ポーランドのザメンホフという眼科医が考案した世界共通語です。明治時代に日本エスペラント協会ができていますが、賢治はその理念に打たれて一生懸命勉強したようです。

 「世界が全体に幸福にならないうちは個人の幸福はありえない。」

と望んでいた賢治にとって世界共通語はまさに理想の言葉だったのでしょう。

 今日、実質的な世界共通語は英語ですが、これは大英帝国の植民地が世界中にあったという名残でしかありません。つまり強者の言語に従わなければならなかったという歴史的な現実主義によるものです。
 同様にアジアにおいて、今でも韓国や台湾の高齢者が日本語を上手に話すのは、戦前の日本の植民地政策によって母国語を禁じられ日本語を無理強いされたという歴史の証なのです。英語のアジア版と言えます。

 しかし、エスペラントはそういう弱い者が強い者から無理やり押し付けられた言葉ではない点で高く評価できます。が、現実的な実用性でははるかに英語に劣っています。それが、エスペラントが広がらない理由でしょう。

 それから、知り合いのアメリカ人が興味深いことを言っていました。
 「言葉にはその国の文化がある。しかし、エスペラントにはそれが無い。だから僕はエスペラントの理念に賛同はするけど勉強はしない。それなら、タイ語や日本語の勉強をしたほうがいいのだ。」
 これも優れた見識です。彼は各民族の精神を研究していました。アジア、中でも特に日本に興味があって、日本に住み、いろいろな体験をしたのち、アフリカのセネガルに二年ほど暮らし、今はニューヨークに戻っています。

 賢治に話を戻しましょう。なぜ賢治は岩手県をわざわざエスペラント風にイーハトーブなどと名付けたのでしょう。
 賢治は厳しい気象と、封建性の厳しかった時代の岩手に生活する貧しい農民たちに、宗教・科学・芸術を統合した精神革命を通して、希望を持って欲しかったのです。そのために農村の青年を集めて、ささやかながらオーケストラを結成したり農民劇を作って貧しく暗い農村の生活を少しでも明るく創造性あるものに変換したかったのです。

 「そこでは、生きることそれ自体が芸術なのだよ。」

と。大ざっぱに言えば、それが岩手県をイーハトーブとエスペラント風に名づけた理由なのです。

 この試みは今日でも多くの人々によって静かに各地で実践されています。

古書店の思い出

 古書店の思い出

1993年8月

 最近なかなか行けないのですが、わたしは古本屋が大好きです。


 薄暗い店内にカビとホコリの入り混じった湿っぽい匂いが立ち込め、帳場には鼻眼鏡をかけたおやじが新聞を読みながら時々積み上げられたカウンターの隙間からぐるっと店内を上目使いに見渡します。

 客はうしろめたいことをしているかのごとくうつむきがちに本を立ち読みしながら、 何か堀り出し物はないかと物色するのです。物色と言っても古書マニアのように売値の高い希覯書を探しているのではありません。読みたくても新刊書では高くて手が出 ない本だとか、すでに絶版になっている本などを探しているのです。あるいは探すという行為自体を楽しんでいる場合もあります。

 古書には深い思い出があります。それは宮沢賢治が自費出版した2冊の復刻版を苦労して買い求めたことです。

 宮沢賢治が大正時代に自費出版した詩集「春と修羅」や童話集「注文の多い料理店」 は現在1冊200万円もの値がついているといううわさです。希少価値ゆえの投機的な側面もあるようですが、賢治ファンは別の意味で「春と修羅」や「注文の多い料理店」 を入手したいのです。


 理由は、それらの本の紙の質から表紙の材質、挿絵、色まで賢治自らが細心の注意 を払い当時の技術で望める最高の本として発行していたからです。つまり今日の本の ように出版社が装丁をいっさい仕切るのではなく、すみずみまで賢治の心が配られて いたからこそ、何としてもその本を手にしたいのです。ですから本物が無理なら実物 に近い復刻版でもかまわないわけです。


 実際問題として古書店で本物を入手することは金銭的問題だけでなく困難でしょう。誰も手放さないからです。

 ということで実物の入手は現実的に無理でしたが、わたしはこれらの本のレプリカ (本物そっくりに作られた偽物)を手に入れることができたのです。それは学生時代 のことですからすでに20年近い年月が過ぎ去りました。

 当時「ほるぷ」という出版社から日本の名著復刻版シリーズが出たのです。その中 に賢治の「春と修羅」「注文の多い料理店」はともに別々のシリーズとして発行され ました。わたしは先に述べた理由からレプリカでもそれらが欲しくてたまりませんで した。
 けれどもそれらは何十冊かのシリーズの一巻として出ましたから、その中の一冊だ けを入手することはできません。そのためには大枚をはたいて全部買わねばならない のです。両方を手に入れるためには2つのシリーズを買わなければなりなせんからそ れは貧乏学生としてはなっから無理な話でした。

 しかし希望は簡単に諦めるものではありません。東京に指圧の勉強にひと夏の間行っ たとき、わたしは日本一の神田の古書店街を数日かかって何百件も回りました。ここ なら絶対あるという信念があったのです。けれどもそれは徒労に終わりました。
 名著復刻版シリーズの本はばら売りで結構陳列してあるのに目当ての本はどこにも ないのです。当然でした。そのシリーズを買った人だってその中の数冊あるいは一冊 が目的だったのです。要らない本は売りに出して資金を少しでも回収しようとしたに 違いありません。そして宮沢賢治の本を目当てに買った人も多いに相違ないのです。意外に思われるかもしれませんが、賢治の愛読者はけっこう熱烈な人が多いのです。わたしでもお金さえ自由になるならそうしたに決まっているのですから。

 それでも東京に来る機会はそんなに無いのだからと諦めませんでした。神田がだめ なら高田馬場があるさと、古書店マップ(地図)を買って、時間のあるときはあちこ ちと足を延ばしました。そしてついに所要で訪れた荻窪の小さな書店の高い棚の上に 置かれている復刻版「春と修羅」を発見したのです。その本は復刻版と言えども貧乏学生にはかなりの値段でした。

 さてもう一方の「注文の多い料理店」の方はひょんなことから入手できたのです。

 弟が地元一宮の古書店に行ったとき、家に電話をよこしました。なんとそこに復刻 版「注文の多い料理店」がある、しかしお金がないから店に購入予約をしてもいいか と言うのです。わたしはもちろん頼むと答え、すぐに財布を持って書店に向かいまし た。思い返せばこのときばかりは、我が人生に弟がいてよかったと心底思いました。正直言って、わたしはそれらの復刻版が欲しいという理由だけで大学を卒業したら ほるぷ出版に就職しようかと真剣に考えていたくらいなのです。

 名古屋の本山は学生街ですから、ご多分に漏れず何軒かの古本屋があります。10年 くらい前、その付近の一人暮らしのおばあさんのお宅へ定期的に往療に行ってい ましたが、その往路復路、ふらふらと古書を見に立ち寄るのが楽しみでした。

 ある日、大学生が不要になった学校のテキストを売りに来ていました。

 「どうして、上巻しかないんですか。」気難しそうな店のおばさんが聞いていまし た。
 「上巻だけでは買ってもらえないでしょうか。」
 「だめということはないけど、上巻を売り払って下巻だけ手元に置くなんておかし いでしょう。」
 「下巻は大学の講義ではやらなかったから買ってないんです。」
 「講義でやらなくても、わたしが学生のころは自分で下巻を買って読んだものです よ。もっとやる気を出さなきゃ。大学に行きたくても行けない人が一杯いるのに。し かもあなたは○○○大学でしょう。もっとしっかり勉強しなさいよ。国立大学だから 税金だって無駄になります。」
  学生の向学心の無さが信じられないという呆れと怒りの声が店中に響いていまし た。

 同じ店で風采芳しからぬ青年がときどき古ぼけた詩集や格安の美術書や俳句の本を購入していました。店のおばさんは眼鏡の奥の大きなまなこをぎょろぎょろさせてそ の貧相な男に興味があってたまらないという顔をしていました。ある日ついに興味が高じて勘定のとき口を開きました。

 「あなたは良く買いに来るわね。学生さんにしては年がいっているし、昼間からふ らふらしているけど何をしているの。」
 「いや、まあ適当にやってます。」
 「まさか失業中なの。」
 「まあ、仕事はしてますが失業者と似たようなもんです。」
 「本が好きなようだけど、無理して買っているのではないでしょうね。家族に苦労 をかけてはだめよ。仕事は何。」
 「指圧や鍼。」
 おばさんは目をぱちくりさせて失業者風の青年を哀れみとも励ましともつかぬ顔で 見ながら、どうしても欲しい本があって支払えないときは分割にしてあげると言いました。そしてその青年の買いたい本の値札よりほんの少し安くしてくれたのです。

 こういう気概のある店主が古本屋には多いので大好きです。
 先の風采の上がらぬ貧相な青年ですか。あれから10年たって今はこうしてワープロ が買えるまでになりました。

追記)いつだったかこの店の近所へ行く機会がありました。既に建物は跡形も無く大きなビルになっていました。

柳宗悦「手仕事の日本」

 柳宗悦「手仕事の日本」
                              ことばの饗宴 岩波文庫 

                                    1993年8月

 わたしたち身体調整に携わる者は自分たちを職人だと思っています。時々芸術家に なりたがるのですが、それでは患者さんの意向を無視した独りよがりの身体調整にな りがちです。

 
 おおげさな言い方ですが、いのちの主役は本人自身です。その人達の健康に何らか の形でかかわるわたしは職人であるとの本分を逸脱することはできません。身体調整の主役は本人であり、実際に癒すのはその人の体に潜む治癒力に外ならないからです。

 
 本人の意向を十分にたずね治癒力を生かす最良の方法を確認したうえで初めて身体調 整は成立するのです。 


 しかし方法においては信念を曲げることはできませんし、技術の修得向上には心を 砕きます。これもまた職人の習性でしょう。

 普通の職人の仕事は柳宗悦の文章のように品物として後世に残りますが、わたした ちの仕事は無形ですからかかわりのあった方の心の中にのみ残ります。 


 時に臨んで最善を尽くす心掛けが何より大切になりますが、これは技術や知識の修 得と同じように生涯をかけて磨いていくしかありません。

哀悼 佐藤勝治先生

「哀悼 佐藤勝治先生」は1992年10月に書いた哀悼文です。佐藤先生はこの前再録した「宮沢賢治は何故舞ったか」を書く切っ掛けと「盛岡タイムス」掲載の機会を創って下さった方です。

哀悼 佐藤勝治先生

 佐藤勝治先生・・決して広く知られている名前ではありませんが、宮沢賢治の研究書にいささかでも関心を持つ人なら誰でも知っている名前です。

 先生は市井の学者・野の宮沢賢治研究者としてその持てる情熱と才能全てを(あるいは多くの時間と経済も)宮沢賢治研究に費やした類いまれなる意志の人です。 

 その佐藤勝治先生が去る1992年8月28日に幽明境を異にして、鬼籍に入られました。大正2年(1913)生まれ、79歳。実に一途な充実した人生を送られたことと思います。

 わたしと佐藤先生の出会いはおよそ15年前に逆上ります。
 大学2年の夏、以前から愛読する宮沢賢治ゆかりの岩手県を旅行し、賢治作品の舞台の地を徘徊してきました。次いで大学を卒業した夏、オートバイで再び訪問しました。前回のテーマは自然との触れ合い、二回目のそれは人との邂逅を目指したものでした。そしてそれらはとても具合よくことが運んだのでした。

 旅に出ると旅先の書店でその地方でだけ出版されている本を見ることにしています。当然岩手でも大きな書店に寄っては地方出版物を探しました。ですから昭和51年に花巻市の店で賢治や啄木の研究誌「啄木と賢治」(みちのく芸術社)を見つけたときはそれはうれしかったものでした。その主幹が佐藤勝治先生だったのです。もちろんその頃には佐藤勝治という名前はよく知っていました。わたしの書棚にも「宮沢賢治入門」という氏の本が収まっていたのですから。


 帰宅して早速今後の購読とバックナンバーが欲しいという由を書いた手紙を出しました。何冊か送っていただくうちに、突然先生から原稿を依頼されたのです。しかも「啄木と賢治」に載せると言うのです。

 そこで、自分なりの賢治観を書いて送ったところ「プロの評論家には書けない云々」という褒められたのか要するに素人の作文という意味なのか分からない批評のお返事を戴きました。さらに「どんどん書いて下さい。」とも付け加えてありました。

 それではと、さらに勢い込んで「宮沢賢治は何故舞ったか」という文を書き上げました。こちらは先生から激賞されました。

 ところがいかなる理由でしょうか。原稿不足か経営的な問題か、あるいは先生の体調のためか、「啄木と賢治」がなかなか発行できなくなりました。個人誌や同人誌にはよくあることです。しばらくして、佐藤先生から「貴君の原稿は盛岡タイムスに載せる・・」という連絡を戴きました。

 盛岡タイムスにはその言葉どおり一作目は「今こそ賢治と共に」というタイトルで二回連載、「宮沢賢治は何故舞ったか」は四回に分けて掲載されました。昭和56年のことです。

 肩書がなんと「宮沢賢治研究家」、当時のわたしが27歳。母親からおおいにひやかされたものです。しかし、いかに発行部数の少ないローカル紙とはいえこうした形で活字になることはしがない施術師にとって生涯何度もある経験ではないので感動的でした。(後に至文社刊「国文学解釈と鑑賞 宮沢賢治特集号」で「宮沢賢治は何故舞ったか」の方が新聞掲載論文と認知されましたからこれは素人として自慢していいでしょう。)この点で佐藤勝治先生はわたしの恩人なのです。

 しかし佐藤先生とはついに一度も直接お会いすることができませんでした。写真で拝見したお顔は「頑固な意志」が白い長髪のかつらを被ってこちらをにらんでいる風貌。現代に少ない筋の一本通った雰囲気がひしひしと伝わってくるものでした。

 佐藤先生の労作には『宮沢賢治の肖像』と『宮沢賢治批判』があり、昭和49年両方をまとめて『宮沢賢治入門』とされました。わたしが所持しているのはこれです。

 『宮沢賢治の肖像』には仏教、とりわけ法華経の視点から賢治作品が深い信仰と実践からなることを解き、有名な「雨ニモマケズ」は、仏教の十界、四諦八正道、苦集滅道が曼陀羅のように織り成されていると解釈されています。
 それが『宮沢賢治批判』では一転して共産主義の立場から、賢治の持つ現実不条理に対する認識の甘さを衝きます。つまり宗教は「慈悲」という概念を用いることで階級性を革命的に打ち砕き平等の世界を作ろうとするものではなく、上部構造から下部構造に対する「施し」という形でごまかし是認するものだと批判しているのです。

 この佐藤先生個人の大転換は、実は賢治の評価の歴史でもあります。戦前、谷川徹三氏に代表される「賢者の文学」「善意の文学」という賢治観が軍部によって戦争中の耐乏生活のために利用された事実があり、戦後、共産主義が強く広まったとき中村稔氏や国分一太郎氏などによる賢治批判があったのです。とりわけ農地解放に対する賢治の考えの甘さがその標的となりました。

 わたしは当時『宮沢賢治入門』を読んで、前半と後半のあまりの極端な差異に戸惑ったものでしたが、佐藤先生があとから来る賢治愛読者や研究者にいろいろな論点を提供するという意味で両方の意見を一冊にまとめたというところに先生の賢治に対する愛情と見識を感じます。

 どんな作品も人も時代にさらされて、鍛えられていくのでしょう。賢治の作品は時代の変化やさまざまな毀誉褒貶を超えてますます広く深く読まれています。それは作品の深部に真の古典となるべく条件を包括しているからに相違ないでしょう。

 昭和59年、519頁という分厚い本が送られて来ました。タイトルは『宮沢賢治・青春の秘唱“冬のスケッチ”研究』〈増訂版〉十字屋書店刊。著者はもちろん佐藤勝治。

 賢治の習作期の作品と言われる「冬のスケッチ」を詳細に研究したもで、そのエネルギーたるや大変なものと想像できます。この労作を贈呈されたのでした。

 わたしは感想を簡単に葉書にまとめてお送りしました。すると昭和61年、今度は『佐藤勝治著“冬のスケッチ研究”読後感想書簡集』という小冊子が届きました。その内容はタイトルの通り先の大著に対して寄せられた書簡をアルファベット順に集成したものです。わたしの文章も載せてありました。

 先の大著は惜しむべくは研究書として少し感情が表面に出過ぎていました。論文とするからには「理」でものごとに切り込んでいく、その過程と成果のみをたんたんと書き記さねばなりませんが、この本は個人的な感情が出てしまったのです。せっかくの研究がその点で減点されてしまうのはとても残念なものでした。内容には見るべくものがたくさんあるからです。市井の学者ということでアカデミズムからどうしても無視されがちな経験がついそうさせたのかもしれません。情熱家の熱情があふれてしまったのかもわかりません。

 わたしは感想書簡の最後に「もっと感情を押さえられたほうが良かったとも思います。」と書きました。

 佐藤先生は小冊子の後書きに「これらのお手紙を寄せられた方々へ、重ねて心から厚く御礼申し上げます。中にも御注意やら御忠告を(御遠慮がちに)お書き下さった方々の御友情は特に忘れません。(後略)」としたためておられます。

 いろいろとお世話になりながらついにお会いして御礼をいうことができなかったわたしとしては、この後書きを読むと、ささやかながらもご恩を少しはお返ししたことになるのかと思いにふけるのです。

 佐藤勝治先生のご冥福を心からお祈り致します。

 

2020/08/17

宮沢賢治は何故舞ったか

  これは今から40年前、まだ20代半ばの頃、盛岡市在住の宮沢賢治研究家佐藤勝治先生に乞われて書いた宮沢賢治論。地方紙「盛岡タイムス」に4回連載という形での発表されました。佐藤先生は本業写真館経営の傍ら、市井の宮沢賢治研究家として精力的に活動しておられました。生前の賢治を実際に知っている方で、東京から宮沢家に疎開し、さらにそこでも空襲に遭った高山光太郎を花巻郊外の山荘へ案内した方として知られています。その跡は光太郎記念館になっています。訪れたとき、トイレの光取りが「光」と削ってありさすが彫刻家の光太郎だと感心しました。光太郎自らが彫ったものです。

宮沢賢治は何故舞ったか

                           三島広志


 宮沢賢治の聖人君子像は広く世間に喧伝されているが、その奇人ぶりは余り知られていない。しかし、農学校の生徒達や同僚達の聞き書き等から推察すると世の天才と同様、かなりの奇行の持ち主であったことは確かである。

 もし私が生前の賢治と知り合っていたなら、彼の本質を見抜くことができないまま、その奇行に眉をひそめて絶縁したであろう。多分に脚色された聖人君子的賢治像であったからこそ賢治に魅力を感じたのかもしれない。

 ところが、今回私が問題にしたいのは、賢治の奇行である。そしてその内でも自然との交流という形で現れた奇行である。農学校の教師時代、教室に窓から出入りしたとか、土足で廊下を歩いた、あるいは女性に好意を持たれたとき、顔に炭を塗って嫌われようとしたなどというのはここでは取り上げない。

 農学校の同僚、故白藤慈秀氏の著書「こぼれ話宮沢賢治」に月夜の麦畑での賢治の奇行が書かれている。

 「・・・麦の穂はよく実って、そよ吹く風に手招きするかのように柔らかにゆれている。

 皓々たる月は大空にかかっている。

 この風景を見た宮沢さんは、何を思い出したのか、突然両手を高くあげ、脱兎の勢いで麦畑の中に入っていった。手を左右にふり、手を高くまた低く、向こうに行ったと思うと、すぐ引き返してきた。こうしたことを数回くり返してもとの場所に戻って路上の草の上に腰をおろし、大きなため息をしていた。

私は奇異に思い「いま何をしたのですか」と聞きただすと、宮沢さんは平気で、「銀の波を泳いで来ました」といった。・・・」

また、同書に次の話も書かれている。

「その晩は樹にも石にも黒い影をおとしているほど月の光は皓々としてかがやいていた。宮沢さんは、レコードの音律と月の光に誘われて全身躍動し、大空にむかって両手をはばたき躍動し、狂踊、乱舞、ただ踊り四肢高く舞うなど、寄宿舎の生徒がこの状を見て全く不思議であったと私に話してくれた。

 後日、宮沢さんに、宿直の晩のできごとについて糺すと、あれはあまりに月がよかったので、その光に誘われ無茶苦茶におどったのです。それは踊りの練習でもなく、ただ詩を作るときはどうしても身体にリズムの感覚が必要なので、身体にその訓練をつけるためであった」

と語ったとある。

 賢治は自然の中にいて風や月や木霊などと共感する精神の持ち主だったので、自然に誘発されて舞い叫び出したのだろう。そして、次には内なる自然が目覚め、身体を激しく動かし、それは賢治の意識ではなく無意識の力で全身の筋肉が躍動したに違いない。そういった無意識的な運動を賢治自らが経験していることは、中学時代、父に宛てた手紙に書き残している。

 明治45年11月3日、賢治16歳の時、父政治郎に出した手紙に、佐々木電眼と称する人物から正坐法の指導を受けるとあり(校本宮沢賢治全集第13巻12ページ 筑摩書房)、翌日の葉書には「本日電眼氏の下に正坐仕り候ところ40分にして全身の筋肉の自動的活動を来し・・・」とある
(同書13ページ)。

 賢治はその後、冬休みに同人物を自宅に呼び、家族が正坐法を試みている。妹トシは自動的活動が発現したが、父政治郎は笑っているだけでなんら効果はなかったと弟清六氏が記憶しているそうである(校本14巻452ページ)。

 ところが、この正坐法による自動的活動は今日でも色々流派が存在し、それぞれ信望者を集めている。故野口晴哉氏はこの運動を活元運動と名付け、無意識的な錐体外路系の運動と説明し、そのグループ「整体協会」には同氏亡き後も多くの病める人や芸術家や知識人が集まって盛んに活動している。 健康法としての人気もさることながら、その運動を行うと芸術的勘や学問的直感力が増すからである。

 坪井香譲氏のグループ「メビウス気流法の会」でも、独特の運動瞑想法があり、古来からの集団的解放(祭り)を現代に掘り起こし、整体協会と同様の理由で芸術家や武道家、東洋的治療に携わる人々が集まって来ている。

 賢治の行った正坐法はおそらく活元運動と同じで、全身をリラックスさせポカーンと正坐をしていると身体が勝手にユラユラと動いてくるものであろう。動きは人によって全く異なり、同じ人でも身体の状態で全く違った動きが出てくる。

 ひとしきり身体の動きに任せていると全身の歪みが矯正され、身体の感覚が甦り、滑らかな身体の動きと新鮮な感性が得られるのである。だからこそ、芸術家が多く集まっているのだ。しかしその動きを始めて見ると何かに憑かれているようでとても気味が悪い。

 理性の勝ちすぎる人はなかなかこの自然な動きが出てこない。導き方にもよるが、賢治が40分で自動運動を得たと言うのはかなり早いほうである。

 賢治のこの佐々木電眼の指導による正坐法の体験が、先に引用した月夜の乱舞、狂舞にどこかで係わっているような気がしてならない。しかも賢治は白藤氏に対して、あの踊りは詩作のリズム感覚を身体につける訓練だと言っている。これは今日の芸術家達が同種の運動を行うことと軌を一にしているではないか。

 そもそも人は何故舞うのだろうか。

 形式化した舞踏ではなく、賢治の乱舞のように人が内面から揺すられ弾まされる舞いには、単に楽しむだけではなく自然への接近もしくは同化の願望が込められているという。

 多くの原始的な宗教には舞いが不可欠であるし、天照大神(アマテラスオオミカミ)が天の岩戸に隠れたとき、神々は光を求めて天鈿女命(アメノウズメノミコト)に舞いを舞わせた有名な神話もある。

 人は舞うとき、日常を離れて非日常の世界に漂う。日常の中で形式化、形骸化した心身を何かの機会に日常の枠を破って内なるエネルギーを爆発させるのだ。

 群衆の乱舞はそれ自体が大きなエネルギー体となって集団を包み、自然と深く呼応する。ついには宇宙との一体感に浸り出す、すなわち神の世界と同化するのである。

 そういったハレの日(春、秋の祭りなど、あるいは秘められた行事)を我々はついこの前までもっていた。有名な江戸時代の「えじゃないか」や、熱狂的な一揆になだれ込んだりもした。為政者はそのエネルギーを恐れ、ガス抜きの場を設けた。岐阜の郡上踊りや四国の阿波踊りはその名残である。

 今日でも多くの宗教ではこれに近いハレの場を秘密裏にあるいは公然と持ち、信者に至福感と同時に束縛感を植え付けている。それを企業化した「人格改造」会社も近年乱立している。

 賢治のような型破りな個性が社会という鋳型の中で生存することは非常に困難であったろう。社会から見て賢治や山頭火のような自らが自らの個性を持て余すような天才は受け入れ難い。彼らが自ら崩壊に至らないためには芸術に拠るしか方法はないであろう。 

 しかも賢治は己の生き方を宗教的善意と天性の他人に対する優しさで厳しく律した。恵まれた出生をさえも社会的犯罪者として罪の意識で自責することもあった。さらに山頭火のように酒や女で紛らわすことは決してなかったのである(山頭火はその愛すべき堕落性が逆に彼の魅力となっている)。

 そんな賢治の内向するエネルギーが突如として外に向かったとき「ホーホー」という奇声や奇妙な舞踊が生まれたのではないだろうか。そのきっかけを与えたのが月の光であり、実った麦の銀の波であったのだ。

 手足を自由に、身体の命ずるままに動かして奇声をあげるとき、その動きは岩手に伝わる鬼剣舞(おにけんばい)の手つきに似てくる。わたし自身が自動的活動を試みた経験ではそうなる。その動きはゆっくりなら盆踊りの手つき、腰を落とせばどじょう掬いにも似ている。バリ島の踊りやトルコの円舞にも共通するところがある。

 そしてその動きは一見何かに憑かれて支配されているトランス状態のようで、実は反対に理性や感性はより一層研ぎ澄まされているのである。

 これらの自然との原初的交流に対して精神分析の立場から福島章氏は

  「女性を愛することよりも「自然」を愛し、風や雨雲と「結婚」することを考え、台地を「恋し」、青い山河を自分と<同一視>したのは、おそらく躁状態にあって自然の生命性に対する感受性が高揚していた時代の賢治であったろう。そのような状態において、彼は自然と合体、融合してなお自分を保つことができたにちがいない。」

              (「愛の幻想」中公新書)

と述べている。

 賢治はまさに自然と合体、融合していながらなお感性、理性はより明確に保たれていたに違いない。

 賢治が舞うとき、自然も舞い、自然が舞うとき、賢治が舞う。そのエネルギーは賢治の作品に触れた我々一人一人の内に通じ、我々も舞っているのだ。賢治の作品を読むときすでに我々は熊や鹿や山男たちと柏林の中で月光を浴びながら舞っている。

 この大きな自然や人との交流を、賢治は

「すべてがわたくしの中のみんなであるように みんなのおのおののなかのすべてですから」

と表現したのだろう。 

 賢治の内から発せられた「ホーホー」という奇声に伝達の意志が加わったとき、詩や童話、短歌や絵に姿を変えたのである。自然に触発され賢治の内なる自然からほとばしりでた舞いこそ賢治文学の原点であるとひとまず考えられる。さらに考察を続けたい。

 一般に踊りのことを「舞踊」というが、「舞」と「踊」の2字は、本来意味が違うそうである。現在では明解な区別はしていないが、「舞」はスリ足で舞台を回ることで、「踊」はリズムに乗った手足の躍動であると広辞苑に書いてある。

 さらに藤堂漢和大辞典によれば、

 「舞の字の上半分」→人が両手に鳥の羽飾りを持って舞う様

 「舞の字の下半分」→人が左足と右足を開いた様

 「舞」→人が両手に飾りを持って左足と右足を開いて舞う様

とある。

 そこから、手足を動かして神の恵みを求める(舞踏)、心を弾ませる(鼓舞)、むやみにデタラメなことをする(舞文・舞幣)などの意味が派生したそうである。

 賢治の月夜の狂気とも思える奇行は、自然=神への接近、同化及びどうしようもない内面からの躍動がでたらめな動きや奇声となって現れたもので、まさに原初的、自然発生的ないわばシャーマンの舞の原型ではなかったろうか。

 秋の風から聞いた「鹿踊りのはじまり」という童話には、鹿の素朴な行為が人間の側から鹿の世界に同化する形で書かれている。彼の最も有名な作品「風の又三郎」は全編これ風の世界という不可思議な透明感で貫かれている。その他多くの作品でも賢治の常套手段として一陣の「風」が舞台を急展開させたり、道案内したりする。

 「風」に代表される天の気象が人間の心身に大きく係わっているのは、生命体の存在そのものが環境と分離・交流という矛盾の中にのみ確立できることを示唆している。

 学問的には生態学が生命体と環境の関係を明らかにしつつあり、人は環境と支え合い、影響し合うことで人間存続の道を歩むしかないことが広く知られるようになった。そこから環境破壊に対する反省、未来に対する不安、それ自体が商品価値を生むなどと複雑に入り交じって今日のエコロジーブームを生み、支えている。 

また、経験的にも湿気と神経痛、低気圧と喘息のように気象と病気の関係は昔から「年寄りの痛みは天気予報より正確」だなどとため息交じりの冗談として言い伝えられている。

 しかしそうした具体例を出すまでもなく、「もののけ」とか「気」ということばで示すようなメンタルな自然との交流に日本人は特に敏感なようである。

 俳句の季題、季語はその集大成であり、次に上げるような人口に膾炙した短歌も日本人なら誰もが心を動かされるものである。

  秋きぬとめにはさやかに見えねども風の音にぞおどれかれぬる  敏行

  わが宿のい小竹群竹ふく風の音のかそけきこの夕かも 家持 

 これら古歌にも自然と人間との交流がみずみずしい感性で歌われている。無気質な都市空間に囲まれて閉塞感に窮している現代人が失いつつある新鮮な感覚であろう。

 賢治文学は短歌に始まったが、賢治に内在するイマジネーションは31文字にはとうてい収まり切らなくなって詩や童話に移行した。それは賢治が「めにはさやかに」とか「かそけき」のようなさらっとした日本的情緒を逸脱していたからであり、人間の存在の根源を示すような土着的怨念性と宇宙的透明感という一つの肉体に収めきるには不可能な巨大なエネルギーを持て余していたからだろう。

 賢治はその持て余したエネルギーを舞として昇華することで辛うじて自らを保つことができたに違いない。

 では、賢治は自然に触発され詩や童話を書き、それだけでは発散しきれない身を焦がすようなエネルギーを舞や叫びに表現したのだろうか。

 それとも、月や雲や風から透明なエネルギーを得た賢治は、舞い叫ぶことでエネルギーを昇華し、その残滓を作品にすることでかろうじて狂気から脱出、日常性を回復していたのだろうか。

 いや、そうではない。舞いこそ全てなのだ。

 鬼剣舞のあの地中から天に向かってドロドロしたものが噴出したような激しいほとばしり、人間の怒りの根源から、自分を押さえるものを打ち破るような動きは「つばきしはぎしりゆききする」一人の修羅を引き付けて止まなかったろう。

 また、世界を循環する季節風から透明な安らぎの力が農作業の汗に濡れた賢治の心身を満たし、喜びは溢れ、人々に対してほほ笑まずにはおれなかったろう。

 そして、一人の修羅は月夜の麦畑の銀の波の中を舞い出したのだ。もはや他人の眼などどうでもよかった。賢治の全存在を賭けての最高の交響詩、メンタルスケッチ・モディファイドがそこで演じられたに違いない。

 残された膨大な量の原稿は、その断面に過ぎないのだ。

        (初出 「盛岡タイムス」 を加筆修正)

2020/08/16

俳句の効用?

 1993.3

俳句の効用?

1993年9月、ある俳句の機関紙に書いた俳句についてのミニエッセイです。

底冷えやこれより小さくはなれぬ

 俳句は生活や仕事、自然などいろいろな場面に出会ったとき、写真を写すように好きな場面や景色を選び出して写し取ることで、ともすると同じことの繰り返しになりがちな惰性的日常生活を一種の不思議な空間に作り替えることができます。
 それは五七五という一瞬の短い詩だから可能なのです。できあがった作品が自分の思い以上に深みを持ったりしますがそれは短くて言葉足らずのために解釈がかえって自由にできるからです。

逃げ水の奥より猫を掴み出す

 俳句を書き留めるということは時の流れに楔を打ち込んで、文字の上に安定した情景を記録することです。なぜなら観じたもの(見て心に焼き付いたもの)・感じたこ と(心が揺り動かされたこと)は時間とともに薄らぎ喪失してしまいますが、俳句は 写真と同じように好きなときに引っ張り出して昔を懐かしむことができます。
 ですから人は俳句を作ることで精神的安心感とものを創作するという満足感に浸る ことができるのです。

秋風は湖水のなかに潜むらし

 反対に俳句には毎日の繰り返しの中で固定しがちな観念を自在に解放する作用があります。俳句作品は絵や写真と違って文字だけで示されていて具体的な像が描かれていませんから、常に架空の現実を生み出し続ける力があるのです。読むたびに想像力でいろいろな場面や情景が創り出せるからですね。
 その想像の世界では全く自由ですから日々生を新たにし、深々とした息吹を肺に躍 らせ、そこから心身の活性と環境との調和・生きる方向の発見といった喜びに満ち溢 れることも可能なのです。

 以上は俳句にこんな効用があればいいなという願望です。またそんな俳句を作るこ とができたら本望だなという希望でもあります。果たしてどこまで実現できるかは分かりません。でも一度俳句に手を染めたからには切望し続けていこうと思っています。

 わたしが俳句にかかわって実に20年が過ぎようとしています。自分自身それに気付 いて大変驚きました。

桃の実を地球味はふごとく食ぶ

 以上の俳句は初公開の若いときの作品です。

忘れられない贈り物

 1994.2

忘れられない贈り物

 絵本は子供のための本でしょうか。

 
 明らかに子供を読者と意識して書かれた本もありますが、良質の絵本はむしろ大人
をより引き付けるものです。そうでない本は子供に媚びていて子供から敬遠されるか
その場限りの読み捨て本になってしまいます。 


 親の情というのか、子供時代に読んだ質の高い絵本を自分の子供に読ませたくなる
ものです。現実に親子二代で愛読するに耐える絵本も実に多いのです。

 「どろんこハリー」(ジオン著 グレアム絵 わたなべしげお訳 1956年)という
イギリスの絵本があります。これは洗われるのが大嫌いなハリーという白黒のブチ犬
の物語です。

 
 洗われるのが嫌なハリーは風呂のブラシを隠した後、町中を駆け回ってどろんこに
なって帰宅しますがあまりの汚さにハリーと気付いてもらえません。芸をしても駄目。
そこで隠したブラシをくわえて風呂に飛び込みます。家族がきれいに洗ったところど
ろんこ犬が実はハリーと分かって子供も犬のハリーも大喜びという他愛ない話です。

 「ハリーだ。ハリーだ。やっぱりハリーだ。」というところに差しかかると子供達
は何度でも嬉しがって、もう一度最初から読んでくれとせがむのです。
 案外元は風呂嫌いの子供に読み聞かせる教養絵本だったのかも知れませんが、その
生き生きと駆け回る楽しげなハリーの絵が子供にとても人気がありロングセラーになっ
ています。

 イエラ・マリの「あかいふうせん (1976年)」という絵本は上質のイラスト集と呼
べるもので、文章は一切ありません。色も赤と白だけ。風船ガムがリンゴの実、ちょ
うちょ、傘に変化していく絵によるストーリーです。言葉が無いからよけいにイメー
ジが広がっていきます。同じ作者の「りんごとちょう」も優れた作品です。さすがイ
タリアという芸術性ですが、子供にはあまり人気がありませんでした。

 レイモンド・ブリッグスの「さむがりやのサンタ (1974)」ウクライナ民話「て
ぶくろ (1950年)」
岸田衿子の「かばくん (1962年)」なども人気作品でしょう。

 いつも苦虫をかんでいる不機嫌なサンタクロースの作品全体から醸し出されるユー
モアはイギリスならではのもの、「てぶくろ」は落ちている手袋の中にねずみやかえ
る、うさぎやきつね、おおかみ、いのしし、果ては熊までが入って一緒に生活すると
いう荒唐無稽さが愉快です。何回繰り返して読まされたか分かりません。「かばくん」
は日本語の美しさをたっぷり感じさせてくれます。

 そんな中で評論社から出ているスーザン・バーレイ(イギリス)の「わすれられな
いおくりもの (1984年)」
こそはそれこそ忘れられない絵本です。
 内容の深さと控えめな文章、著者自身による温かい絵が子供だけでなく広く大人ま
で考えさせるだけの問題意識をはらんでいて、決して読者におもねっていません。
 テーマは死です。そして支え合って生きることと伝え合って生きることの素晴らし
さです。 


 ストーリーは年老いたアナグマとその仲間の交流を通して死と別離とその克服につ
いて著者自身の考えを物語として決して押し付けないよう十分な配慮の上で展開して
いきます。 


 冒頭はアナグマの老いの自覚と受容で始まります。そして死。
 森の仲間はアナグマの遺書「長いトンネルの むこうに行くよ さようなら アナ
グマより」を読んでとても悲しみますが、それをどうやって克服して行くのでしょう。

 モグラはアナグマからはさみの使い方を習い、紙を切ってさまざまな形を表せるよ
うになったことを思い出します。カエルはスケートをアナグマから親切に教わりまし
た。キツネはネクタイの結び方、ウサギはパンの作り方をそれぞれアナグマから習い、
皆自分なりの工夫までできるようになったのです。

 「みんなだれにも、なにかしら、アナグマの思い出がありました。アナグマは、ひ
とりひとりに、別れたあとでも、たからものとなるような、ちえやくふうを残してく
れたのです。みんなはそれで、たがいに助けあうこともできました。」

 このように仲間たちはアナグマの思い出を語り合い、学んだことを自分なりに工夫
発展させることで助け合いながら寂しさを克服していったのです。

 技術や知識などは楽しい思い出とともに世代と集団を越えた共通財産として伝達・
普遍化さらには発展していくものです。私たちの暮らしはこうした親から子へ、大人
から子供へ、教師から生徒へ、師から弟子へとずっと受け継がれてきた結果で成立し
ているものでしょう。

 人間は肉体として皮膚の中だけに存在しているのではなく、皮膚をはみ出して広く
人々の心の中に思い出としても生きているのです。ですから本当の死は人々のこころ
から忘れ去られたときを言うのだと思います。

 「わすれられないおくりもの」は優しい絵本の形式を用いてそれらのことを子供に
もさりげなく考えさせてくれますし、大人が読めば胸中深くさざ波が立つことでしょ
う。

 一番の驚きはなんとこの本、小学生低学年向けの課題図書だったのです。わたしは
こと課題図書に関してはつまらない本が多すぎると思っていたのですが、これは別格。
文部省侮るべからずと感心したものでした。今から6・7年前のことです。

佐久総合病院若月俊一先生二題

 今回紹介するのは長野県の佐久総合病院を田舎病院から日本を代表する地域医療の中核病院に作り上げられた若月俊一先生(1910~2006)に関する文章です。「権利と責任」は1993年9月、「信州に上医あり」は1994年2月発行の個人通信「游氣風信」に書きました。当時も今も多くの病院が佐久総合病院をお手本にし、沢山の医師が若月俊一先生を尊敬しています。

 私は一度だけ病院の食堂で若月先生をお見かけしました。患者さん達とにこやかにお話しされていましたが、戦争末期に赴任されたときは地元の人に受け入れられず大変なご苦労をされたようです。

 ここに書いた二つの文章は今から30年近く前のことになります。その間に佐久市は周囲の村を飲み込んで大きくなっています。病院のあった臼田町も今は佐久市臼田になっているようです。病院を取り囲む社会情勢や、日本全体を覆う経済状態も大きく変化しています。

権利と責任

 この夏長野県に行ったとき、所用で地元の病院にでかけました。病院の名前は佐久総合病院。千曲川に沿った小さな町の驚くほど大きな農協系の病院です。総合の名に恥じず、歯科から脳外科・精神科まであらゆる専門科を網羅しています。設備も常に時代の先端をいく病院ですが、初めて見た時は何ゆえ山間の町にこんな大規模の病院が必要なのか、経営的に存在できるのか不思議でした。町の人全員が入院できるのではないかと思うほど大きいのですから(これはまあ大袈裟ですが)。

 一つの科に常に先生が2人から5人ほど詰めていて大勢の患者さんと親切に応対しています。また受付には英語・タイ語・ポルトガル語などのパンフレットが置いてあって急増している外国人にも医療サービスを心掛けているようです。

 創立者は現院長の若月俊一先生です。NHKテレビでもおなじみだと思いますが老人医療と農村医療、とりわけ農村医療の先駆者として著書も多く書かれておられます。

 病院創立は戦争末期だそうです。戦後、医師や看護婦が各村を回って公衆衛生や予 防接種、栄養の知識などの重要性を村芝居の形式で啓蒙に励んだことは有名です。

 その病院の壁に病気の説明や医師・看護婦の画いた絵とならんで[患者さんの権利と責任]という文が掲示してありました。読んでなるほどと感心しましたのでここに 無断で紹介します。

患者さんの権利と責任

1 適切な治療を受ける権利
2 人格を尊重される権利
3 プライバシーを保証される権利
4 医療上の情報の説明を受ける権利
5 関係法規や病院の諸規則を知る権利など

 これら人間としての倫理原則をお互いに大切にしなければならない。しかし患者さ んも病院から指示された療養については専心これを守ることを心掛けなければならな い。
 医師と協力して療養の効果をあげることこそが大切なのである。
1983年1月
佐久総合病院

 どうです。見事なものですね。
 ともすると最近は患者の権利ばかりに目が向かいがちですが、この文では患者さん も療養については医師の指示を守ること、医師と協力することというように権利に付 帯する義務を果たすことが必要と書いてあります。

 調整にみえた方々の中には嫌な経験をお持ちなのでしょうが、病院や医師を誹謗する方がいます。しかし重度な病気や障害に対する医療は医師や医師を取り巻く医療職 にある人達(看護婦、薬剤師、理学療法士、臨床検査技師、放射線技師、心理療法士、 社会福祉士など)と患者およびその家族のチームワークによって初めて成立するもの です。一度医療に身を委ねたならお互いに全力を尽くして協力し合わねば治る病気も 治りません。
 ただし医師側に上記の1から5がまったく守って貰えないようなら医師を変えるべき でしょう。これは指圧や鍼灸の施術でも同じことです。

 社会福祉士という患者の側に立っていろいろと相談に乗ってくれる専門職が国家資格になりました。鍼灸専門学校の同級で大きな病院に理療師として努めている友人も かなりの難関を乗り越えて見事にこれに合格しました。
 医療やそれにかかわる経済的問題、在宅ケアなどは彼らに相談すると親身になってくれます。大きい病院ならたいてい何人か勤務しているはずです。

 医師と患者との意志疎通を図ることをインフォームドコンセントと言いますがこれ によってともすれば秘密主義的になりがちな医療の内容を患者が知る権利が保障され ます。しかし同時に今までよりずっと患者に責任が覆いかぶさってくるということで もあります。何事も医者任せにしないで自分自身の知性と理性を総動員し、強い意志と自覚をもって病気と向き合っていかなければならないということですから。

 テレビで人気司会者逸見政孝氏がガンの宣告を受けたから、仕事を休んで闘病に入 る、全力でガンと戦うという意志を表明しましたが、彼にガンを宣告した医師たちは 全力で治療に取り組むでしょうし病院のスタッフも協力を惜しまないでしょう。家族も以前に増して支えあっていかなければなりません。逸見さんがあそこに至るまでにそうとう厳しいインフォームドコンセントがなされたに違いありません。

 これからの医療は従来の「死なせない医療」から、人は必ず死ぬのだからより人間 らしく「尊厳をもって生をまっとうさせる医療」が求められています。

 そのよりよい成果を生む原動力の大半は患者側にあることは何より明白ですね。逸見さんの緊迫した顔が示していたように決して甘くはないのが現実です。

信州に上医あり
 -若月俊一と佐久病院-
          南木佳士著 岩波新書

 長野県南佐久郡臼田町(現在は佐久市)は浅間山と八ケ岳に挟まれた佐久平の千曲川沿いの小さな町です。その川の堤防沿いにまるで要 塞のごとくそびえているのが佐久病院です。
 佐久病院と院長の名は当時すでに知ってはいました。しかし実際に建物を見て、足を踏み入れてみますと、何でこんな田舎にこんな巨大な病院があるのか、経営は成り立つのか、そもそも若月俊一とはいかなる人かという疑問がふつふつと沸き出たのでした。

 その疑問はわたしだけでなくそこを昭和51年、採用試験のために訪問した若き著者、南木先生も同様の感慨を持たれたのです。次のように。

「佐久平と呼ばれる田園地帯を四十分余り走ると、いきなり右側の車窓に七階建ての巨大な建物が姿を現した。(中略)いよいよ八ケ岳山麓の過疎地帯に入って行くのかいささか心細くなっていた私の目に、この建物の大きさは異様に写った。(中略)実際に周囲のひなびた風景を背景にして見ると、佐久病院はあたかも城のような大きさであった。その依って立つ基盤は何なか。交通の便も悪いこんな田舎町になぜこれほどの大規模な病院が建てられたのだろう。誰が、いかなる情念で・・・。」

 著者の興味は院長の若月俊一先生にあります。あるときはその理想に感銘し、またあるときはその俗物的側面に落胆もしますが、著者自身がタイの農村医療に関わった経験から、若月院長が初めて赴任した昭和19年当時の農村とは現在目にしているタイの農村の状況と同じではないかと思い至り、若月院長の心に深く共感を覚えるくだりはなかなか感動的です。
 著者南木医師はタイの現実の前にこう考えました。

「貧しいタイの農村を前にして、絶望感しか抱けなかった私は、これとおなじような状況の戦後の信州の農村で、文字どおり『病気とたたかった』若月のバイタリティーに素直に脱帽した。(中略)私の胸の中に若月に対する尊敬の念が湧いたのはこのときが初めてだった。『あなたはえらい』」

 著者はタイの極貧の農民の現実に対して全くの無力感にさいなまれてしまいます。腹部にガン性の腫瘤を触れた患者に入院を勧めても金が無い。医者にかかるのは大変な贅沢なこと、これは佐久地方に限らず日本中の戦前から戦後のある時期までの農村の実態と重なるのです。

 若月院長はそこでの現実に屈せず、学生時代に学んだ理想的マルクス主義と現実主義の間を縦横に駆け回ってついに小さな村の診療所を今日医師総数130名という大病院に作り上げました。

 もともと若月院長が東大医学部卒業というエリートでありながら何故佐久くんだりまで来たのかと言えば、学生時代反戦運動をし、その後1年間留置された結果、都落ちしたというのが事実であって決して最初から農村医療、地域医療に貢献しようという高邁な理想からスタートしたのではありません。悲惨な医療状況を目の当たりにして学生時代に描いた理想を彼の地に実現しようと持ち前の不屈の反抗心で腐心したのでしょう。

 我が国の農村医療、地域医療の目標とされる病院として、国の内外に高く評価されている佐久病院はこの傑出した院長の力量とそれを支えてきた医師や医療従事者の手によって今日の巨大な近代化された総合病院として発展成長してきたのでしょう。

 この本で特にうれしかったのは次のくだりです。昭和20年11月に医師や看護婦など病院勤務者によって劇団が創設されたのです。

 病院で手遅れの患者ばかり診せられてきた若月は、病気の早期発見と予防のためには自ら村に入って行くしかない考えたのだった。診療も大事だが、予防のための啓蒙活動はより重要だったから、演劇を通じて予防医学を分かりやすく説明した。
 若月が農村演劇に力を入れたのは宮沢賢治に影響されてのことだった。若月は松田甚次郎の著書「土に叫ぶ」の中で、次のような賢治の言葉と出会った。
 「農村で文化活動をするに当たって、二つのことを君たちにおくる。一、小作人たれ。二、農村演劇をやれ。」

 松田甚次郎は明治42年山形県最上生まれ。盛岡高等農林の賢治の後輩に当たります。19歳の時31歳の賢治を訪問し上記の言葉を受けました。
 卒業後村に帰り賢治の教えを実践すべく「最上共働村塾」を主宰し、農村演劇を頻繁に行い、農村活動に奔走。その記録を「土に叫ぶ」と題して出版しますが、昭和18年35歳の若さで世を駆け抜けてしまいました。詳しくは([「賢治精神」の実践 松田甚次郎の共働村塾]安藤玉治著 農文協出版“人間選書”)を参考にしてください。

 長年の賢治ファンとしては「ああここにも賢治が生きていたか」と感じいるばかりです。

 さてこの本にはきれいごとが並べてある訳ではありません。佐久病院と若月俊一をテーマに据えながら、現代の医療の抱える問題のみならず、農業問題やそれを取り巻く社会、さらには理想を実現するために生まれた組織が逆に理想を封じ込めようとする矛盾にも言及されています。初期には理想に燃えた組織の求心力が人を呼び込みますが、組織の肥大化ととも遠心力が高まり分裂を生み出すというどこにでも見られる困難な現実です。

 現在、佐久病院では内視鏡検査を早朝6時から行っているそうです。仕事前に受診できるので検査を受ける人は大変助かりますが、そのための医師や看護婦の労力は大変でしょう。人件費も莫大なものになります。

 気になる点もあります。
 送り手の努力ばかりが見えて、受け手はいつも受け手とし てしか現れてこないのです。
 送り手と受け手の相互浸透が発展を呼ぶのが唯物論の基本にあるし、そこから若月院長が若い時情熱を傾けた共産主義が生まれてきたと思うのですが、その観点からすれば一方的に送る側の努力ばかりが犠牲的に継続できるとは考えられません。むろんこんなことは若月院長にはとうにお解りのはずですからそこに何か大きな壁があったのかもしれません。宮沢賢治も現実にぶち当たって「その真っ暗き大きなものが俺にはどうにも動かせない」と嘆いていましたから。

 今日、巨大化した佐久病院は新たな問題と矛盾を抱えています。医療費抑制策から平成になって赤字にあえいでいるとも書かれています。若月院長の理想がもう若い医師たちには届いていないとも。なぜなら純然たる農村などもはやこの国には無いのですから。

 今日の農民は金も土地も持っていてある意味で都会人より実質裕福になっています。ただそのお金が農業収入でなく給料であるところに農村のみならず今の社会の矛盾が象徴されているように思えます。

 また理想は実現に尽力した人には燦然と輝くものですが、後から実務的に引き継ぐ者にはえてして重荷になるものでしょう。

 それらを踏まえて著者は最後に次のように文学的に見事にまとめます。

 「旅人の目に、小海線の電車の車窓から見える佐久病院の巨大な建物と周囲のひなびた風景がミスマッチと映るのは、旅人の目がおかしいからではなく、若月の抱え込んだ矛盾がいかに大きなものかであるかの証明なのである。佐久病院は若月と昭和という時代の間にできた子供だと書いたが、もしかしたら、この子は人工交配のために子孫を残すことができない一代かぎりの雑種かも知れない。(中略)若月が赴任した当時の理念を失ったとき、佐久病院は単なる大病院の一つに過ぎなくなってしまうのだろうが、少なくとも私は、そうなってしまった佐久病院については二度と書くことはないだろう。」

 農村医療、地域医療に関心ある方のみならず、一人の傑物の一代記として、また組織論としてとても興味深い本に仕上がっています。さすがにすぐれた筆力です。しかもこの手の評伝は何よりその人に対して愛情ある人が書くべきという証明です。さもないと批判のための批判になりがちですから。その点この著者は若月俊一とい言う人物に魅了されながらも、努めて平静に中立にと自らの立場を注意深く保って書かれているところがとても読後感、後味の良い一冊になっています。どうぞ一読を。とても読みやすい文体ですから。わたしの紹介文の読みづらさがこの本の読書欲をそぐとしたらとてもつらいものです。

 

2020/08/12

メキシコから

 

2009-01-28の記事。

メキシコで開業と結婚をしたF君に書いた短い文章です。

以下に紹介します。

昨日、施術中突然の来訪者。エンタランスに立っている様子がカメラに写ります。

「以前お世話になったFです」

記憶がありません。

ドアを開けたら、以前盲学校で鍼灸を学びながらここへ出入りしていたF君。誰かが一緒です。

続いて入ってきたのはとても美しい女性。

F君は鍼灸学校を出た後、近くの個人病院に就職したはずでした。

ところが今目の前にいる彼はメキシコで鍼灸院を開業し、現地の女性と結婚したといいます。驚きました。実に7年ぶりの来訪です。

「どうしてメキシコに?」

「あれからいろいろありまして、でも、先生のお陰でこうして元気にやっています。彼女と知り合うこともできました」

「ぼくのお陰? なぜ?」

「先生はおっしゃいました。せっかく開業できる正規の資格を手にしたのだから、自分で苦労してみることも価値があるよと。確かに病院に勤務すると安定しています。それでこのままでもいいかなと思っていましたが何か物足らない。そのとき、メキシコのへき地医療のボランティアの話があって出かけたのです。そのまま現地が気に行って住み着き、大変な日々ですが今はメキシコシティーにオフィスを構えることができました。口コミで患者さんもきて頑張っています」

意外な話でした。苦労しなさいと言ったのか言わなかったのかこちらは無責任ですから覚えていません。しかし、そんな何気ない一言を心の奥に秘め、行動し、実現し、こうして感謝の言葉を述べにわざわざやってくる。

何とも感動的なことでした。

文化の違う国、保険制度も確立しておらず、医師にかかることは大変な経済的負担があるそうです。日本で開業していれば難しい患者は医師に丸投げできますが、メキシコでは医師にかからないので奥にどんな病気が潜んでいるか分かりません。それは怖いことだとF君は言います。

戦前、医療制度が確立せず、また西洋医学も抗生剤を持たない時代、鍼灸の先輩方は鍼と艾だけで結核やガンにも立ち向かっていました。

まさにF君の立場はそうです。

困難と遣り甲斐は正比例するものかも知れません。

頑張って欲しいものです。

F君、これを読んでいますか。

言い忘れましたが、最新の鍼灸医学書もいいですが、戦前戦後に書かれた代田文誌先生の『鍼灸真髄』などは結核などの難病と対峙した記録に満ちています。古いが故に参考なると思いますよ。


哀悼 櫻井進教授とその遺稿

 2008-02-16に書いた追悼文。続けて櫻井教授が雑誌に書かれた論文をまとめた物を掲載します。おそらく遺稿となるものでしょう。

櫻井教授とは今池の飲み屋で知り合いました。気取りの無いただの酔っ払いでしたが、学について語り合うときは教授と素人の垣根を取って真剣に話して下さいました。そして「ふ~、やはり学問は大学では無く、巷にある」と仰いました。

交通事故で急逝され、「事故に遭うちょっと前までそこで呑んでいたんだよ」と行きつけの鮨屋の大将が悔やんでいました。「もう少し引き留めておけばよかった」と。

奇しくも瀬戸の本業窯水野半次郎さんのところで知り合った民芸を研究する教授が櫻井教授の後任として赴任された方でした。しかも有名な陶芸家濱田庄司のお孫さんでした。世の中、不思議なことがあるものです。

以下が、当時書いた物です。

哀悼 櫻井教授

新聞やテレビでも詳細に報道されましたが、南山大学の櫻井進教授が輪禍で亡くなりました。


教授とは行きつけの萬福鮨で知り合っただけですが、親しみやすい方で、いつも楽しく議論を交わしました。


以下はあるサイトに書いた文章です。一部を修正して掲載します。


夕刻、ウニタに問い合わせたら「現代思想」があるというので早速購入して櫻井先生の論文を拝読しました。ポスト・フォーディズムによって、名古屋が整然となるにしたがって、庶民のノイズが大きくなる。これは櫻井さんの一連の江戸物に連なる思考だと感じました。アジールとしての今池の存在はますます大切になるのではないでしょうか。

仕事を終えてから萬福に行き、櫻井教授の好きだった清酒「立山」をカウンターに供え、大将と偲びました。お店の帰りに事故にあわれたそうで、大将はとても辛そうでした。

蘭丸のおかみやピーカンファッジの社長、中部大学の松井さんらも通夜に列席してから萬福に駆けつけ、故人について語らいました。冗談をいいつつも、寂しさや哀しさは隠せません。

おそがけに二人の紳士が六文銭から萬福にやってきました(やはり櫻井さんの通夜の帰りのようです)。それで急に懐かしくなり、久しぶりに六文銭(以前の大箱では無く、従業員が引き継いだ小さなお店)に顔を出しました。お客さんは誰もいませんでした。女将のバンちゃんは相変わらずひっそりとたたずんでいました。

新生六文銭は早くも8年目に突入するそうです。わたしは実に久しぶりに「もへいじ」を味わい、その味のよさに時の流れを感じたのですが、結局、誰もが、櫻井教授の死に対する言いようのない悲しみを笑みと酒でごまかして時間と格闘しているようで、誠に辛い一日でした。


手元にある櫻井教授の書かれた「江戸のノイズ」(NHKブックス)や「江戸の無意識」(講談社現代新書)から推察すれば、氏は常に江戸という都市の装置がもつ意味を明らかにし、真の解放区(アジール)のありようを模索し続けておられたのでしょう。


学生に白紙を渡し好きなことをしなさいという課題を出されたことがあると聞きました。


これは自由を得た時、人は何もできないということを学生たちに実際に体験させたかったのでしょう。


櫻井先生自身、いつも寂しげで、本当の自分を捜し求めておられていたようです。


享年51歳とは余りに早い。


人文科学はこれからが集大成ではありませんか。


江戸の仕組みを説いた眼差しで大名古屋の奥に潜む構造を明らかにしようとされた矢先の夭折。惜しんでも惜しみきれません。


どうぞ、死という究極のアジールでゆっくりお酒を楽しんでください。


続けて「現代思想」2007年7月号に故櫻井進教授の書かれた論文の要約を掲載します。心より哀悼いたします。


大名古屋論 ポスト・フォーディズム都市の行方

1. ポスト・フォーディズム都市・名古屋
現在、名古屋はトヨティズムの都市になりつつある。
*トヨティズム(トヨタ生産方式)とは「企業目標」への労働者の自己管理に基づく自発的・自立的な参加、すなわち「主体化」を要求するシステムである。(R.ボワイエ)
   例:QCサークルへの自発的参加や創意提案制度など。                
*その「主体化」は、「主体=隷属化」(M.フーコー)にいたる可能性をもつ。=ゆるやかな自発性の名の下に、より強力な隷属をせまるものにほかならない。
  「生産的協働」の変容。
*ポスト・フォーディズムにおいては、主体性が資本によって包摂される場合に、全体主義的な性格をもつ。

2. 監視と排除
トヨタの本社機能の名古屋移転によって、名古屋で「生産的協働」が生産以外の場で行われるようになる。
 *名古屋駅周辺地区は、清潔さを保つべく人工的な空間として管理されている。

3.1995
グローバリゼーションによって日本の戦後型システム(日本的雇用システム・日本的経営)が崩壊した。
→10年にわたる不況とグローバリズムの進展は、トヨタの国際競争力を高めたと同時に、労働現場の強化と労働者の多国籍化を強めた。
→非正規雇用の拡大・若者の離職率の上昇・婚姻率の低下など。

3. 大名古屋というキッチュ
 名古屋は、開発独裁政権である明治国家から、相対的な距離をとってきた。
*名古屋ブーム以前の名古屋は、正統的な価値観から逸脱したキッチュだった。
・キッチュなB級グルメ:あんかけスパ・味噌カツ・「エビふりゃー」
・「純粋スノビズム」:名古屋嬢・ブランド好き
・成長と発展という目的から逸脱してゆこうとするポストモダン的様式性
現在、近代日本からあえて逸脱しようとする名古屋のキッチュ性が消去されようとしている。
・名古屋駅前の再開発は、キッチュ都市・名古屋をグローバルな資本を表象するポスト・フォーディズム都市へと変容させた。
・名古屋のキッチュ的でポストモダン的な戯れの空間の光景は終焉を迎えようとしている。

4. イオン都市・名古屋
名古屋では「ジャスコ文明」が郊外だけではなく、都市の中心部に発生している。=トヨタ的な郊外が流入していると考えられる。
*1980年代後半から外国人の多様化・多国籍化が始まり、現在では旧来の在日コリアンは名古屋各地に分散し、新来の外国人が中心部に集中している。

5. ポスト・フォーディズム都市の行方
・名古屋駅前に巨大なモニュメントやパノラマを展開したトヨタは、「純粋なスノビズム都市」名古屋を越え出て、グローバルな資本のたわむれを行っているのかもしれない。
・「人間的なものを何ももたぬ」資本が人間によって統制可能か、「動物化した資本」の行方を見定める必要がある。ポストモダン的なフォーディズム都市・名古屋のモニュメント・パノラマに込められた「夢の残滓」が、廃墟はどのように立ち現れているのかを見てゆかなければならない。
*トヨタの輝かしい「夢」の対であるジャスコ文明の先端としてのイオンは、すでに廃墟の様相を示している。
・在日外国人同様、「日本人」も複数化し、非均質化されたマルチチュードである。マルチチュードの「相互のコミュニケーションや<共>的行動を可能にする<共(the commons)>」(ヴェルノ)が形成される場のかすかですらある存在可能性を見出していかなければならないだろう。

*QCサークルとは、QC活動を行う際に組成される、同じ職場における作業者のチームのこと。一般的に10名までの小規模のチームを構成し、チームのメンバーはそれぞれ役割分担し、自主的に問題点の発見、改善案の提示を行う。全社的品質管理活動の一環として自己啓発、相互啓発を行い、QC手法を活用して職場の管理、改善を継続的に全員参加で行うものである。QC活動は現場の作業者達による、職場での自主的な活動であり、経営者や管理者はQC活動を支援する。QCサークルがうまく行われていれば、提案制度と同様に、仕事を行っている個人の改善意思を仕事に反映させる役割を担っていたはずである。

「現代思想」2007年7月号

哀悼 戸部雄一郎先生

 

2007-12-05に書いた文章です。

老舗の鍼灸専門誌「医道の日本」の主幹戸部雄一郎先生の訃報に触れて書いた文章です。今年(2020年)の7月号で休刊となってしまいましたが、それまで「医道の日本」誌はあらゆるジャンルで最も古い雑誌として評価されていました。

以下に掲載します。


鍼灸専門誌『医道の日本』最新号で同社会長戸部雄一郎先生がお亡くなりになったという追悼特集を拝見し、大変驚きました。前社長宗一郎先生がお亡くなりになってさほどの年月を数えていません。全く存じ上げなかったのですが、先生は胃がんで長く闘病されていた由、ただただ深く哀悼の意を表すばかりです。


わたしが雄一郎先生に初めてお会いしたのは鍼灸学校一年生。昭和五十一年の夏休みだったと記憶しています。名古屋から一か月上京し、経絡指圧の勉強のため増永静人先生の治療室に出入りしていました。せっかく上京したのだからと医道の日本社新宿支店に書籍を購めにまいりました。その折に応対してくださった方が雄一郎先生でした。『黄帝内経』や幾つかの書籍をレジに持っていきましたら、色々と話しかけてくださいました。何処から来たのか、何処で勉強しているのか、この本は推奨できるとか・・・。


そして、最後に「自分は本を読んで勉強する学生が大好きだ」とおっしゃられ、今後の勉学に多いなる励ましをいただいたのです。


その後、わたしは『医道の日本』誌に、幾つかの論を発表いたしました。そのご縁で父上の宗一郎先生から何度かお便りをいただき、約十年に亘って「新年のことば」を書く機会もいただきました。さらには五百号記念号の原稿も依頼され、有難く書かせていただいたことも懐かしい思い出です。


雄一郎先生とは新宿支店でお会いしただけで、その後の交流は無かったのですが、『医道の日本』昭和六十年五月号「キネシオ・テーピング法の治療法をめぐって」という座談会に招いていただき、その席で再会いたしました。


その座談会は「キネシオ・テーピングを試みて」という拙論が同誌に掲載され、加瀬先生から返礼のように「三島先生のキネシオテーピング」という論が掲載された後を受けた企画でした。おそらくわたしがキネシオ・テープの症例報告者第一号だったのでしょう。


新宿の料亭で行われた座談会の後の会食で、雄一郎先生に数年前お会いした話をいたしました。先生は記憶を辿るように遠くを望む目をされながら「そう言えば、増永先生のところで勉強しているという青年と話したことがある、彼が三島先生でしたか」と仰ってくださいました。


それから二十年、治療家としていつも障壁に突き当たっています。技術のこと、患者との対応のこと、経営的なこと。挫けそうになることばかりでした。それでも心の奥底にはあの初学の頃、雄一郎先生から「自分は本を読んで勉強する学生が大好きだ」と励まされた思いが通奏低音のように支えてくれています。


先生、どうぞごゆっくりお休み下さい。

2020/08/11

さらば、イタリア人指圧指導者マリオ

 2007年7月に書いた記事です。指圧の勉強のために一夏東京に滞在していました。そこへイタリアから指圧の勉強に来たマリオと知り合い、一ヶ月ほとんど行動を共にしました。その彼の訃報を知ったとき書いた文章です。


あるサイトを読んでいて、旧知のイタリア人指圧指導者マリオ・ヴァトリーニ(Mario Vatrini)さんの死を知りました。

彼と会ったのは今から三十年前、わたしがまだ23歳の頃でした。

指圧の勉強のために医王会指圧センターの増永静人先生のところへ行った時、彼も時を同じくしてイタリアからやってきたのです。

日本語のできないマリオは講義の内容をしきりに尋ねてきました。わたしも何とかそれに応えるべく乏しい英単語を頭から搾り出して説明しました。彼の英語は達者なもので、イタリア人なのに英会話学校でアルバイトをしていました。

彼に乞われて指圧の資料の英訳もしました。これはとても喜んでくれました。

わたしは夏休みの間だけ滞在しましたが、彼は半年以上滞在したはずです。

帰国後何度かイタリアに来るようにとの誘いの手紙をもらいました。あの時イタリアに行っていたら今どうなっていることでしょう。彼との最後の手紙のやりとりは増永先生の逝去を知らせたものです。彼は

「先生は使命を終えたので亡くなったのだろう」

と運命論的に惜しんでいました。

それ以後のことは全く分かりませんでしたが、マリオは積極的に指圧の啓蒙に努め、イタリア指圧界の重鎮になっていたようです。

彼の訃報がヨーロッパの指圧専門誌に大きく掲載されています。

歳月は重いものです。彼はわたしより15歳ほど年長だったと記憶しています。

マリオ、お疲れ様。マリオの人生に乾杯。

追記

AMAZONに彼の本が出ていました。

 https://www.amazon.co.jp/Curso-Shiatsu-Mario-Vatrini/dp/8431519614


宇宙医学 重力は生物に何を与えたか

2006年7月の愛知学院大学モーニングセミナー参加記録。

7月11日、恒例の月一セミナー、愛知学院大学モーニングセミナーへ行ってきました。

今月のテーマは「宇宙医学 重力は生物に何を与えたか」。講師は藤田保健衛生大学 衛生学部教授 長岡俊治先生。

宇宙医学とは突飛もない話のようですが、これが実は我々が我々であるために実に身近なテーマであると同時に、寝たきり老人などの介護医療に関して重要なヒントとなるのです。

お話はロシアの宇宙飛行士が宇宙に長期滞在した後、身体に重大な、しかも予期せぬ事態に陥るところから始まります。なぜなら彼らは地上での生活に対応できなくなっていたからなのです。

地球上の生物は常に環境の影響下にあって進化してきました。それら環境は当然あるものとして存在していますから、あまりに身近なゆえに却ってその重要性に気づくことは困難です。魚は水の存在を知らずに生きています。彼らが水の存在を知るのは地上に出たときです。呼吸の問題と自由に動けない問題。同様に人は重力の重要性は宇宙空間に飛んで初めて解明できるのです。無酸素状態は地上で作ることが可能ですが、無重力を地上で長時間作ることは困難です。

以下は講師の長岡先生のまとめられた資料から抄出します。ところどころ当日聞いたお話を括弧で囲ってつけます。


☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡

・地球型生命の誕生は35億年以前。陸上に動物が現れたのは約7億年。人類の起源は200万年前とも500万年前とも。

・地球生命への試練とも言える大異変が何度も繰り返されてきた。還元雰囲気中で誕生した生命が酸素呼吸生物へと進化した変化、単細胞生物から多細胞生物への進化、水中から陸上への進出、地球環境の広域的な変動による大規模な絶滅(大型爬虫類の絶滅)

・プロセスで重要なことは生物自身の多様性と生物をとりまく大気、温度、海、紫外線や放射線などの環境因子。生物は地球の環境に適応せざるを得なかった。

・人類を含め地上で進化した生物にとって、地上にいる限り重力は空気と同じように全く透明な環境因子。生物の機能はいたるところで重力を積極的に利用。動物の行動は重力によって支えられかつ、制限されている。植物は行動することはないが、自らの体を支える必要があり、重力に逆らって水分や栄養分を汲み上げる必要がある。

・「生物にとって重力とはいったい何か」という基本的な疑問に対して、私たちは地上にいる限りこれまで確実な答えを与えることができなかった。宇宙の無重力環境という、生物が進化的には全く経験したことのない環境が実現できるようになり、この分野の研究は大いに発展。

(毛利さんが宇宙へ行ったとき、蛙の跳躍実験が計画されていた。しかし事前に飛行機による無重力状態で実験したところ、蛙は天井にぶつかり、壁に跳ね返り、床にたたきつけられるというビリヤード状態になって失神、あまりに危険だということで実験は中止になった)

(無重力状態では水は丸やリングなどさまざまな形になる。さらに水は付着する性質を有する。最初に宇宙で入浴しようとした飛行士は45分かかった挙句、水が顔に付着して窒息死しそうになった。宇宙での入浴はきわめて危険であることが判明)

・宇宙医学は老化に伴う骨や筋肉、あるいは平衡失調といった地上の疾病や障害にも密接な関連がある。

・ヒトが宇宙環境に曝された場合、「重力に最も敏感に応答する内耳系」や「重力に最も影響されやすい体成分」である血液などが短時間で再分布する。宇宙酔いなど。

(宇宙酔いの症状は悪心、嘔吐、顔面蒼白、冷や汗などいわゆる自律神経症状)

・これ以外にも、心臓を中心とする血液循環能、体液量、空間識とよばれ日常生活に必要な上下、水平、垂直感覚など、多くの生理機能が一時的な変調を示した後、一定の期間を経て今度は地上とは別の状態へと適応。

(宇宙飛行士は無重力に慣れると、ペンを空中に置いて作業したりするようになる。それで帰還後、うっかり空中にコップなど置いて割るという失敗をすることがある。あるいは高いところから踏み出そうとする。宇宙空間では身体が宙に浮くから問題ないが地上では墜落してしまう)

・「重力を支える器官」である骨や筋肉の変化については、どこまで変化が続くのかその範囲はまだ分かっていない。特にカルシウムの減少や宇宙放射線の影響は、ずっと時間的に蓄積されると言われている。しかし、まだ完全に説明できるだけ十分なデータが蓄積されていない。

・微小重力に長時間さらされていると、血液量が減少するばかりでなく、心臓の機能も低下。血液循環を調節する自律神経の働きもそれに伴って低下。

(心臓が胸という身体の上部にあるのは重力に逆らって脳まで血液を送るため。蛇も木に登るので心臓は頭寄りにある。しかし水中の海蛇は無重力に近い環境に棲んでいるので心臓が身体の中心にある。したがって木に上ろうとすると脳貧血を起こす可能性がある)

・宇宙飛行士が地上に帰還したとき、起立耐性減少(立ち眩みがはげしくなる)や運動能力低下といった問題を引き起こす。原因は無重力環境で生じる体液の上半身への移動を伴う再分布を心循環系の自律調整機能が全身に過常に体液があると解釈してこれを減らすために起こる。

・同じような現象は何日もベッドに寝たきりの状態でも起きることがわかっており、短時間では人が水中にいる状態でも起きている。

・無重力環境の宇宙飛行士は体重を支えたり、重力に逆らって運動する必要がないため、必要な運動量や力は非常に少なくなる。すると、筋肉の萎縮が起こると同時に体内からカルシウムの排出がはじまり、しだいに骨密度が低下する。

・加重の大きい骨のカルシウムほど逃げやすい。負荷のかかる筋肉(抗重力筋)ほど、宇宙での萎縮が激しい。ヒトの場合はふくらはぎ。地上でも運動をしないと抗重力筋は徐々に別の筋線維に変化していく。

☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡

わたしが依頼された寝たきりの患者さん。今年の冬にはベッドからトイレまで歩けたのですがコタツで足首を低温火傷して歩行禁止。3ヵ月後やっと火傷が治ってさあトイレにと思っても足が全く役に立ちません。ケアマネさんから依頼を受けてリハビリを開始しましたが、この暑さに負けてしまいなかなかはかどりません。

この場合、弱ったのは足の筋肉だけでなく、体幹の筋肉、そしてバランスをとる神経。血液を送り出す心臓の力。そうした総合力の上に歩行が成り立っていることが今回の宇宙医学の話でよく分かりました。

以前、西洋人は重力を束縛と考えると聞いたことがあります。神から与えられた束縛=原罪としての重力。それに対して強い筋力で立ち向かうのが西洋流です。たとえばスポーツでも筋肉トレーニングで身体を強くして成果を挙げようとします。

それに対して日本では重力は和すものと考えてきました。日本人の旧来の身のこなしは重力との良き関係性の上に成立していたのです。ですから同じ格闘技でもお相撲さんや柔道家はどちらかといえばぽっちゃりした身体となり、レスラーは筋肉隆々となります。

今日では両者の良い点をそれぞれ取り入れて訓練されていますが、重力を対抗すべきものとして筋力トレーニングをすると筋肉が硬く、むきむきとなって豪快ですが美しくありません。それに対して同じバーベルを持ち上げるにしてもその重力と和そうとすると、筋肉のつき方が違ってくるようです。どことなく筋肉に知性を感じます。すると技術に必要な筋肉が意識的に形成されるので動きも精緻になるのです。

重さに対してがむしゃらに抵抗して作った筋肉は期待に反して技術の邪魔をすることが多く、それはすぐれたアスリートでも筋肉トレーニングを取り入れて駄目になった多くの例が証明しています。

やってみるとすぐに分かりますから、ちょっと実験してみてください。

一歩踏み出すとき、足の筋肉でえいっと踏み出すと力強く見えます。

次にふっと膝を抜くようにして移動しますと能役者のような仕草になります。膝を抜くという感覚が分かりにくいかもしれませんが、能役者のような気持ちになってみると理解できるでしょう。この動きが日本人古来の動きの基本にあったのです。それらは古武術や日舞などに継承されています。今日、そのよさが再発見されてスポーツに取り込まれつつあります。

重力の中に生きているわたしたちは重力といかに上手に付き合っていくかが重要な課題となります。重力は束縛ではなく、生物は重力の中で重力の影響下で進化してきたとセミナーで教わりました。重力はわたしたちを支持すると同時に制限もするのです。しかし重力に制御されたままでは寝たきりになってしまいます。

重力は宇宙開発や医学に関係するだけでなく、日常の何気なく歩くという行為、箸を使うという仕草、着物を脱ぐという動作、寝転んだり立ち上がったり、しゃがんだり・・・あらゆる側面に関係しています。

今回のセミナーは改めて重力と日々の暮らしや営みとの関係に目を開かせてくれました。



 

イチロー選手はなぜ200本以上の安打を打てるのか

 イチロー選手はなぜ200本以上の安打を打てるのか

2006-08-11に書いた記事です。丁度14年前の今日です。

このエントリーは私のブログで不動の一番人気でした。もちろんイチロー選手の人気のお陰です。内容は愛知学院大学モーニングセミナーで聞いた話です。私見も交えた粗雑なまとめですが以下に再録します。

8月8日火曜日、愛知学院大学モーニングセミナーを受講しました。今月で5回目ですが夏休みのためか特別に2時間枠。前半を名古屋市立大学学長で医学博士の西野仁雄先生の講演「大脳生理学的解析から考える」。


後半は元中日ドラゴンズ監督で名二塁手として鳴らした高木守道氏が参加されて「理論と実践との対話」。


テーマは「イチロー選手の活躍を通して、わたしたちの脳の仕組みはとのようになっているのか?脳はどのように働いているのか?脳の働きを盛んにする(強くする)ことができるのか?」 大変に興味深い内容でした。


当日頂いたレジュメからの抜粋と聞きかじりをここに紹介いたします。学術的な部分はレジュメからで、ところどころにある感想めいた文はわたしの感慨とか考えです。論文ではないので、その差異が明確になっていません。申し訳ありません。格調高いところは西野先生のお話と思ってください。


脳の話


野球はボールを見て反応します。


それは視覚入力 視覚野 運動野 筋収縮という反応でその速度は約130から200ミリ秒。


それに対して身体の動きは体性感覚 運動野 筋収縮でその速度は60から130ミリ秒。

身体反応の方が約半分の速さで行なわれますから、ボールを見て反応しても十分打てることになります。それらを磨いてイチローが存在します。

イチローはどうしてあんなによくヒットを打てるのか?

どうしてレーザービームの球を投げれるのか?

どうしてあんなに速く走れるのか?


イチローは父親によると子どもの頃から「やんちゃで大の負けず嫌いでがんこ」だったそうです。その遺伝的特質に加えて小学三年から中学三年まで高校生以上の練習を1年に363日行なっていました。


しかもその内容は

ボール球は絶対に打たない・・・・選球眼が養われた

毎日テイバッティングを行なった・・・柔軟性が養われた


その他豊富で質の高い練習によって「努力、持続、忍耐力、集中力、意志、感動、自信、目的、将来設計」が形成されました。

既に六年生のとき、将来プロ野球の選手になると作文に書いています。

「ぼくの夢は、一流のプロ野球選手になることです。そのためには、中学、高校で全国大会に出て、活躍しなければなりません。活躍できるようになるには、練習が必要です。ぼくは、その練習には自信があります。(中略)そしてその球団は中日ドラゴンズか、西武ライオンズが夢です。ドラフト入団でけいやく金は、一億円以上が目標です。」


六年生にしてここまでしっかりと具体的な目標を立てていることには驚かされます。しかもそれを実現していますから。


再び脳の話

脳は使えば発達します。

イチローは小さい頃から野球のための身体と脳を上手に使って今日があるのでしょう。持って生まれた才能だけではそれを開花させることは無理なようです。

ネズミの実験で、豊かな環境(色々な玩具などが置いてある)で飼育すると、神経細胞の新生が高まり、新たな環境への適応性が高まるということが確かめられています。つまりイチローもチチロー(イチローの父親の愛称)の指導で一生懸命的確な練習を続けたからこそ超一流の野球選手になれたのです。

脳には神経幹細胞が存在し、70~80歳になっても、たえず新しい神経細胞を供給しています。

脳は大きな可能性をもっていて、使えば、使うほど、活性化され、よく働くようになる。


イチローは天才か?

イチローは類稀な素質を持っています。

反射神経 動眼視力 瞬間視力 それに加えて 練習の虫 努力の人

天才とは1%の才能と99%の努力(エジソン)

イチローは努力できる才能がある。

これは天才と呼んでいいでしょう。


このあと、同じく野球の天才である世界のホームラン王の一面が紹介されました。

王監督の座右の銘

1、まごころにそむいていませんか?

Have you not gone against sincerity?

2、言葉や行いにはずかしいことはありませんか?

Have you not felt ashamed of thy words and deeds?

3、気力がかけていませんか?

Have you not lacked vigor?

4、努力をおしんでいませんか?

Have you not exerted all possible efforts?

5、なまけていませんか?

Have you not become slothful?


世界のホームラン王は今日でもこの五つの反省を毎日行なっているそうです。人格者と目される王さんらしい話です。


以下、三島の意見ですから読み流してください。


上記の反省文を読んで、70歳以上の方ならピンとくることでしょう。これは当日西野先生もおっしゃっていましたが、元になっているのは旧海軍の五つの反省「海軍五省」です。今日の自衛隊にも継承されているとのことです。戦後、進駐してきたアメリカ海軍がこの文章を見つけて感心し、現在でも海兵隊で心の指針とされているのだそうです。知人で戦時、海軍工廠にいた方もすぐに気づかれました。


海軍五省

一、至誠に悖るなかりしか(しせいにもとるなかりしか)

Hast thou not gone against sincerity?

一、言行に恥づるなかりしか(げんこうにはづるなかりしか)

Hast thou not felt ashamed of thy words and deeds?

一、氣力に缺くるなかりしか(きりょくにかくるなかりしか)

Hast thou not lacked vigor?

一、努力に憾みなかりしか(どりょくにうらみなかりしか)

Hast thou not exerted all possible efforts?

一、不精に亘るなかりしか(ぶしょうにわたるなかりしか)

Hast thou not become slothful?


王監督が野球人として生涯にわたって人格向上のために日々上記の項目で反省されることは素晴らしいことです。しかし、それとは別に少し腑に落ちない点があります。

それは「誰が、何のために、何を、どう反省して、どうしようとするのか」という問題です。

ここが欠落してこの五つの反省だけを持ち出すと人格を自分の予期せぬうちに、あらぬ方向に誘導、形成される恐れがあります。それが大日本帝国軍の行為であったことは到底忘れるこが不可能なことです。ここは美談として聞き流すことはできませんでした。


さて、脳の話に戻ります。


前頭葉を鍛えよう

前頭葉の働きは

意志 報酬の認知 感情のコントロール 将来に対する予測、計画

イチローの送球はそのスピードと正確さからレーバービームと称されます。それは単なる運動能力だけではありません。

イチローのレーザービームのためには「肩の強さ、コントロールの正確さ」に先立って、「準備状態と予測(イマジネーション)」が必要です。


イチロー談

「あのプレーに関しては見てから投げて、ではもう遅い。一番大事なのは背中でランナーとセカンドベースを感じること。見てないところで見えていないと、できないことはある」

これはまさに脳の機能を物語っています。

日本人がアメリカで野球をやろうと思ったら

イチロー曰く

「何よりも大切なことは自分で自分を教育できることだと思います。自分で自分をコーチできる、そういう能力。(中略)人のやることも自分のことのように捉えて、自分だったらどうするかといことを常に考えていられるかどうか。(コーチは自分の状態を知らないのだから、コーチを受けることはとても危険)だから、自分で自分をコーチできる能力が絶対に必要です。」

と、自己教育能力に触れています。


“自分で自分をコーチできる能力”とは

問題を設定(意識)する

思案し、考えめぐらす

これなくしてアメリカで野球をすることはできないということです。しかしこれはあらゆる分野にいえる事です。一流選手の自己分析能力の素晴らしさを感じます。

自分を高めていく 野球に対する取り組み方

 -完璧主義、徹底した自己管理-

イチローは試合の前に実に周到に根気よく準備します。

・本拠での試合なら約5時間前に動き始める入念なマッサージやストレッチ体操を約1時間行なう

・道具類(バット、グラブ、スパイク)をことのほか大切にする

同僚はそんなイチローを見てこういいます。

「あいつを見ているだけで、疲れてくるよ」

それに対してイチローは

「練習にもっと時間をかければ、ずっとよくなるのに」

まさに努力の人です。


ここから総括に入ります。

こころのもち方によって、脳を創り変えることができる

イチローはどうしてあんなによくヒットを打てるのか? 

才能(遺伝子)、性格

環境

繰り返す練習(努力)

意志

心のもち方

自分で自分をコーチ(目標を高く設定し、それに向って進む)

常に脳を鍛え、進化させている 自分らしさをみつける(個性)

やりたいことをみつける(目的)

自分の中にイチローを見つけよういっしょけんめいやる(努力)

チャレンジする(挑戦)

力をあわせる(協力)

ありがとうの気持ちをもつ(感謝)


脳 Brain は最もすばらしい創造物

・膨大な数の素子からなる

神経細胞、グリア細胞、ネットワーク

・大きな可塑性、適応性をもつ(柔軟である)

使えば使うほど、新生、発芽、シナプス効率の向上がおこる

・脳内には神経幹細胞が存在している

70~80歳になっても、神経細胞を補充し、機能を維持している

・常に進化する可能性をもつ

心のもち方によって、私たち自身の脳を作り変えて行くことができる

以上が西野先生の講演の骨子でした。


第二部は高木元監督による野球技術の話やご自身の裏話、野球界の知られざる話などで盛り上がりました。予定を30分過ぎても終了せず、わたしは仕事があるので残念ながら中座しました。


高木氏を横にして名古屋市立大学学長西野教授は対談をするはずなのに、拝見するところ一野球少年の顔に戻り、憧れの高木選手を熱く仰ぎ見る状態でした。

場内からも白髪の野球ファンが熱心に質問を飛ばしていました。ある人から高木さんはドラゴンズファンにとっては王、長嶋以上の存在だと聞いていましたが、なるほど、まさにそんな感じでした。

今回の講演は夏休みということで少年の参加を予測されたのでしょうか。

脳の機能とイチロー選手の活躍にからめて、少年たちに夢や希望を与える素晴らしい内容でした。

しかし残念なことに参加者は中高齢者中心で、子どもたちの姿は少なかったようです。それでも夢や希望は幾つになっても必要なもの。脳の機能は高齢になっても十分新生している事実は大変な励みになります。




2020/08/09

游氣風信 No47「凶作の詩人(賢治と伸治)」

游氣風信 No47「凶作の詩人(賢治と伸治)」

三島治療室便り'93,11,1

この年は戦後最大級の凶作の年です。タイ米を大量に輸入した年として記憶されています。

三島広志

《游々雑感》

凶作の詩人

 今年はまれに見る凶作の年となりました。中でも岩手・秋田・青森県あたりは想像 以上にひどいようです。そのありさまを作家の立松和平さん(盗作で味噌を付けまし たが)は宮沢賢治の詩から次の一節を引いて新聞に書いていました。

ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
                 「雨ニモマケズ」より

 大自然の前には人はまったく無力なものであり、ただ涙を流し、おろおろ歩き回る しかないのです。そのやり切れなさは全力を投じて農民のために尽力した賢治だけに なおさら重みがあります。

 宮沢賢治は明治29年、岩手県花巻の大地主・大商家の長男として生まれました。し たがって経済的にとても豊かな人生を送ることができたのです。家庭的にも厳父慈母 やかわいい妹弟たちに囲まれ、さらに秀才の誉れ高く地元での最高の学問を修め、生涯独身ではありましたが恵まれた不自由のない生涯を過ごしました。

 しかし健康的には若くして結核を患い、その人生は37年という短いものでした。さ らに内省的で人に優しく、自己に厳しい性格は自らを求道者として律し、自分のこと だけでなく、もっと大きな人類普遍的な苦悩に直面し続けたのです。今日、彼の心の 振幅の結果が膨大なすぐれた童話や詩となって後世のわたしたちに遺されています。

 彼は亡くなる三日前に辞世の短歌二首を作りました。

方十里稗貫のみかも稲熟れてみ祭三日そらはれわたる

病のゆゑにもくちんいのちなりみのりに棄てばうれしからまし

 前の歌は十里四方、自分の住んでいる稗貫郡だけでなく稲がたわわに実って、それ を祝うように秋祭りの三日間空が晴れわたったことへの喜びと感謝を歌い、後の歌は 自分は病気でまもなく死んでいく命だが稔りの中に我が身を捨てるのはうれしいこと だというような意味です。後の歌の「みのり」は賢治が生涯を通して信仰した法華経 の御法(みのり)と稲の稔りとを掛けてあると言われています。

 商家の子として産まれた宮沢賢治はなぜこのような農作にかかわる歌を辞世とした のでしょう。多感な賢治は自らの生活が農民たちからの搾取のうえに成り立っている ことに深く心を痛め、農民のために少しでも役立とうと一途な後半生を送ったのでし た。その集大成がこれら二つの歌に表されているのです。

 盛岡高等農林を卒業した賢治は、しばらく研究生として地質調査に携わったあと、 花巻農学校の教師を丸四年勤め、以後宮沢家別宅で農耕自炊の生活に入りました。三 十歳の頃です。そこでは農村の青年達に農芸化学や文学を講じ、不用品のリサイクル 活動を実践し、また当時珍しい農民楽団を結成して若者達に喜びを提供すると同時に、 自分自身農民になりきろうと大変な努力をしたようです。
 その活動は本人の健康状態や戦争になだれ込んでいく時局によって長続きはしませ んでした。

 賢治は旧態依然の方法で苛酷な生活を強いられていた農民たちに何らかの協力をし たいと、さまざまな試みをしました。その一つが肥料設計でした。そのやり方は「そ れでは計算いたしましょう」という詩にいきいきと書かれています。長い詩ですから 引用するわけにはいきませんが、その詩からすると分かりやすく丁寧に農民と語りながら肥料を設計しているのがうかがえます。

 田んぼの場所や広さ、土地の乾湿、高低、日当たり、生える雑草の種類、土の堅さ などから地質を把握し、籾(もみ)をどれだけ撒くか、どういう稲を撒くか、肥料を どれくらいかけるかを聞きながら稲の育成を考えていくのです。そしてそれらはすべて無料で行われました。

 しかし厳しい東北の冷害は人知を超えて襲ってきます。賢治はいつも測候所と連絡 を取りながら野に出て稲の状態に心を砕いたことでしょう。

その稲いまやみな穂を抽いて

花をも開くこの日ごろ

四日つづいた烈しい雨と

今 朝からのこの雷雨のために

あちこち倒れもしましたが

なほもし明日或は明后

日 をさへ見ればみな起きあがり

恐らく所期の結果も得ます

さうでなければ村々は

今年も暗い冬を再び迎へるのです

この雷と雨との音に

物を云ふことの甲斐なさに

わたくしは黙してたつばかり
                「野の師父(作品第1020番)」より

 その結果がうまく行けば感謝もされましょうが、いかんともしがたい天候不順によ る凶作に対しては厳しい目で見られたようです。そんなときは実際に弁償したり謝罪 したりと大変辛かったに違いありません。

この半月の曇天と

今朝のはげしい雷雨のために

おれが肥料を設計し

責任あるみ んなの稲が

次から次へと倒れたのだ

稲が次々倒れたのだ

働くことの卑怯(ひきょ う)なときが

工場ばかりにあるのでない

(中略)

青ざめてこわばったたくさん の顔に

一人づつぶつかって

火のついたやうにはげまして行け

どんな手段を用ひ ても

弁償すると答へてあるけ
             「作品第1088番」(もうはたらくな)より

 賢治は農民たちの苦しい労働それ自体を芸術として高めたいと望んでいました。そ れにしても当時の農民の生活はあまりに苛酷でした。米を食べることなど夢のような 話です。ふだんは稗を食べていたといいます。戦争中に米が配給になって皆たいそう喜 んだそうですから。

 さて今年のような凶作が賢治の時代にあったなら何十万人もの餓死者が出て、赤ん 坊は間引かれ、大勢の若い娘が花町に売られ、青年は兵隊になったことでしょう。今日では経済力によって海外から輸入することでなんとか手当できますけど。

 米作りは当時とは比較にならないくらい楽になっています。いろいろな問題を孕ん ではいますが今日の乏しい農村の労働力を補っているのは機械化と農薬、化学肥料の お陰です。少々の天候異常では問題ないはずです。それでは今年の凶作はどうしてこ んなにひどくなったのでしょう。賢治の詩に興味深い一節があります。前述の詩「それでは計算いたしませう」です。

安全に八分目の収穫を望みますかそれともまたは

三十年に一度のやうな悪天候の来 たときは

藁(わら)だけとるといふ覚悟で大やましをかけて見ますか
                  「それでは計算いたしませう」より

 この詩から憶測して、バブル時代の成り金日本人は美味しいと言われる米ばかりを 追い求めて、寒さに弱い種類を寒い地方の田で無理に育成し続けていたのかもしれま せん。今年のように30年に一度の悪天候が来た結果、藁だけしか取れなかったのです から。自然をなめていたということでしょう。

 賢治の作品には随所に今日を予見しているような部分が見受けられます。とりわけ 人と自然との付き合い方においてそうなのです。これが現在でも広く読み継がれてい る理由のひとつですが、今年の凶作などはちょっと不気味です。

 ここまで書き上げましたら、くしくもNHKテレビのナイトジャーナルで「大凶作・ 農民をうたった2人の詩人・宮沢賢治と鈴木伸治」という特集を放映していました。

 鈴木伸治(本名稲夫)という詩人はわたしも知りませんでしたが宮沢賢治より16年後の大正元年に岩手県の貧農の長男として生まれ16歳くらいから仲間を募って詩の文 集を発行していたようです。10歳で父が結核死、13歳のとき母親が弟や妹を連れて家を出たという息を呑むほど厳しい境涯でした。

 彼は貧困や苛酷な労働などの生きる辛さを詩によって乗り越えようとしたのですが、 昭和9年の大凶作の前に完膚なまでに打ちのめされて詩から遠ざかります。賢治が没 した昭和8年は豊作で先に紹介したように収穫を感謝する短歌を辞世としたのですが、 その翌年はまれにみる凶作だったのです。

 現実の前にまったく無力だった詩に失望したのか鈴木伸治は筆をおきました。しか し生前まったく無名だった宮沢賢治の作品が世に紹介され、その生き方とあいまって 評価が高まるにつれ、鈴木伸治は再びペンを取り、賢治の影響にどっぷり浸った作品 を書き始め、賢治精神の継承者たらんと心掛け、ついにはその行き過ぎから賢治の模倣と評されるような詩を作るようになってしまいました。「宮沢さんの宇宙の神秘に迫りたい。」という彼の真摯な言葉が残っています。
 鈴木伸治はじつは以前は鈴木信という名前で詩を書いていたのですが、賢治の治をつけて伸治と改名するほど心酔したのだそうです。

 元来、鈴木伸治の詩の良さは現実のあえぎの中から渾身の力でうたい上げるものでした。それが賢治の詩に出会ってしまったためにその言語世界に吸収されてしまった のです。
 先にも述べたように賢治は豊かな何不自由ない生活が送れたにもかかわらず敢えて 苦難に飛び込んだものであって、極貧に生まれどん底を徘徊するほかなかった鈴木伸治のような農民ではなかったのです。賢治は極めて感受性の強い人ではあったものの農民からすれば傍観者であったたことは否めません。

 鈴木伸治は生活者としての詩人であり、宮沢賢治は求道者・芸術家としての詩人だっ たのです。

 賢治のきらめくような言語世界に毒された(テレビの中でそう表現していました) 鈴木伸治はそこで自らを見失ってしまったのでしょう。
 その後鈴木伸治はもとの自分を取り戻して、生活者としての詩を書き始めましたが 昭和15年、27歳という若さで父や宮沢賢治と同じ結核で亡くなりました。

 あの時代、苦難の中から何らかの手段によって希望の灯を求めた数多くの「鈴木伸治」が全国各地にいたことを思うと胸が痛みます。そして今も日本の、世界のどこか に同じような人が一杯いることでしょう。
 賢治はそれを心底感じ取った人でした。「すべてあらゆるいきものはみんな気のいい、かあいそうなものである。けっして憎んではならん。」こんな言葉が賢治の童話にあります。「あらゆるいきもののかあいそうさ」に気付くことは生き物としての義務なのではないかと思うのです。

 先だっては衛星放送で6夜にわたって宮沢賢治の特集を組んでいました。今年は没後60年、1996年には生誕100年がやってきます。出版界でも活況を帯びているようで す。生前まったくの無名詩人・童話作家が何ゆえに今日これほど注目され続けている のでしょう。

 以前には好きな作家は宮沢賢治だというと一様に「あの雨ニモマケズの成人君子が 好きなの。」とけげんな顔をされました。しかし今では彼の生き方を除外した上での 作品自体の読み込みも深くなされ、その文学的価値も大きく評価されるようになった のです。いわゆる偉人伝のみの人ではなく、一人の文学者としても確たる位置を占め るようになったのです。

 さらに現在、地球規模で環境に対する関心が高まっていますが、賢治の作品にはそ れがすでに先取りされていたのです。「地球を救え。」などという人間中心の地球観 ではなく、「あらゆる生き物」のために人はどう生きたらいいかという根源的な問題 意識があり、それが今日多くの読者を捕らえているのでしょう。その思想を支えているのが現実の彼の活動であり、言葉の魔力を十分発揮した彼の 作品なのです。

 「王様の新らしいご命令。王様の新らしいご命令。すべてあらゆるいきものはみんな気のいい、かあいそうなものである。けっして憎んではならん。以上。」                                         「カイロ団長」より


 つまるところあらゆる生き物は他の生き物を食わなければ生きていけないという避 けられないことを内包して生きざるをえないというかあいそうな存在なのです。ここ を出発点として生きるということを突き詰めていった。これが宮沢賢治の生涯だったような気がします。

 

藍生集(黒田杏子主宰)を読む(′92・10月から12月号)

藍生集(黒田杏子主宰)を読む(′92・10月から12月号)

藍生集を読む 

藍生俳句会の結社誌「藍生」は他の結社誌同様主宰の選を経た会員の句が並ぶ。それを「藍生集」と呼ぶ。編集者から三ヶ月に亘ってそれらの句を鑑賞しろと依頼があった。独善的に自分の俳句観を交えて鑑賞してみた。1992年の10、11,12月号。およそ三十年前の文章だけが多くの句を記憶していた。

三島広志

藍生集を読む(′92・10月号) 1
影と陰とかげ
三島広志

 ある詩人の息吹を実感したくてみちのくの炎暑の下を彷徨したことがある。古びた町並みはくっきりとした影を道に焼き付けていた。

  日がかうかうと照ってゐて
  空はがらんと暗かった
               宮沢賢治 「開墾」より

 明るさも極まれば暗くなる。みちのくの炎昼は旅人に鮮烈な片陰を与えてくれた。


 片陰に己の影を見失ふ   中井みつぐ(岐阜)

 旅人は自問する。自分は一体どこから来て何処へ去り行こうとしているのかと。片陰には確かに己を見失わせる魔力がある。

 片蔭や見知らぬ人に会釈して  川島維頼(群馬)

 見知らぬ人とは一体誰か。彼こそは失った己の影ではないか。会釈をしながら遠い記憶をまさぐる。

 果たして陰と影とは。
 「影」「形」「彫」「彩」などに含まれる三本の斜めの線は刻まれたものを象形している。即ち影はものが日を遮って刻み付けるものなのだ。
 対して 陰(蔭)は「魂」「雲」などと同じように「云」を持つ。これは日の当たらない所の意味と同時に「氣」の古い意味を有し、形無けれど動めきありを表す。

 土に焼き付くはずの己が影を片陰が吸い取る。片陰に涼をのみ求めてたやすく入り込めないのは陰に潜在する怪しげな動めきのなせる技なのだ。

 石影の濃ゆきはさびし冷し蕎麦  後藤仁(岩手)

 地に刻まれた石の影。ただ今、此処には確かに存在する形。けれども時のうつろいとともに形は歪みついには夕闇に溶け去る。

 待つ人のどの道を来る夏木立  大沢江南子(福島)

 人を待つ。その人の面影を胸に抱いて。燃え立つ夏木立の彼方からあの人は来る。
しかし来る人にかかわりなくその人はわが胸に住んでいる。投影された郷愁の影として。

 名作の冒頭の海明易し  西村隆枝(広島)

 名作は海の光景から始まる。潮風に読者をたゆたわせながら。ふと気付けば現実の朝は暁光に包まれている。
 光もまた彼方からやってくるのだ。沖の波に光が砕け、夏の太陽が昇ってくる。古人は光をも「かげ」と呼んだ。なぜなら、光は陰の中を突き進む。そしてものに出会って影となる。

 蚊喰鳥手話の指先昏れのこる  長野眸(福岡)

 一心に語る指先を見つめている。胸の前で軽やかに指ことばの精が舞う。語り合う
二人の周りには闇も近づけないのか。ふと見上げるとが蚊喰鳥が音無き声を発して宵
の空を飛び交っている。

 夜濯やすいと男に騙されて  橘しのぶ(広島)

 寝静まってから汗のものを洗う。蒸し暑さで寝苦しいなら、いっそさっぱりと一日の埃を落とそう。深闇が覆い被さる窓を開けて洗濯物を干す。すいと騙されたんだもの。汗も男に騙されたこともすいと流してしまおう。

 墓洗ふ水をもらってくすり飲む  篠塚秀義(北海道)

 一年の苔を墓石から洗い落とす。幽明の境の標だから丁寧に磨こう。だが命あるこの身も労らねば。薬の時間だが、えい、ままよ。水に代わりはあるまいと墓石用の水で服薬。この飄逸さはどうだ。

 すいと騙され、墓洗いの水で薬を飲む。このおおらかさこそ超然と「かげ」を突き抜ける。陰(かげ)から光(かげ)へと転換し、影(出会い)を大空へ解き放つ。

 でで虫や真っ直あがる観覧車  小山京子(福島)

藍生集を読む(92・11月号) 2
なつかしみ

 季語の現場に立っての俳句の創造は、季節のただ中にあって季を実感し、事実・事物の確かな手触りの中から生み出されるものである。
 しかし、鑑賞は違う。夏の俳句でぎっしり埋められた藍生集を今わたしが読んでいるのは、暦の上ではすでに冬、現実には晩秋である。

 されば、鑑賞こそは想像力を縦横に発揮する現場とならねばならない。先月のわたしの鑑賞のあまりの牽強付会さに呆れた方もあるだろう。しかし、それはわたし自身の想像力の表出の結果にしか過ぎない。

 また、韻文を散文で解釈・解説することは作品に対して実に失礼なことだ。俳句をなぞらず鑑賞文の形を借りた自分表出を心掛けたい。

 今月もまた集中が佳句で満たされている。そんな中にあって共感できる俳句、驚きを与えてくれる俳句も素晴らしいが、読みを深める謎を孕んだ俳句もまた楽しい。えてしてそんな俳句は表現が極めて素直なものだ。

 海底を白く平たく泳ぐかな  溝口怜子(埼玉)

 海に帰る。そこは遠いいのちを育んだ故郷。骨を無くした原初のからだのように平らになって水中で白くきらめく。

 かなかなの万のかなしみ負ふごとく  遠野津留太(東京)

 かなかなと鳴くを数へて父の墓  坂内信造(東京)

 かなかなやうしろ姿を見つめられ  浜谷君子(愛知)

 蜩はその鳴き声をして聴く者にあはれの情を起こさしめる。
 その音色は生のかなしみを負い、数えるうちに遥かな来し方を偲ばせる。

 うぶすなの深閑として蝉涼し  荻野杏子(愛知)

 これもまた蜩か。うぶすなの静けさは懐かしさにつながる。

 盆の月廃船をうつ波の音  長晴子(大阪)

 最終のバスに人待つ盆の月  田丸栄子(広島)

 盆は魂の歴史と語らう日だ。身を流れる血潮に耳を傾けるために鮭のように故郷に帰る。廃船を照らす月明かりが人を語らいへいざなう。そしてバスは最終。未来からの断絶がそこにある。

 ひと逝くや大暑の風にさからはず  桑尾睦子(高知)

 日盛や霊柩車のみ路地に入る  川崎柳煙(福島)

 風に逆らわずに逝くのは自然随順の極致であろう。日盛りに葬儀は音もなくあっけからんと運ばれていく。
 人の訃を突き放して読むところに俳句の凄みがある。死という重い事実を端的に描写すると枯れて見えるのだ。
 ただ自らに忍び寄る死をこのように詠めるかが一大事。

 想ふことみなそれぞれでゐて涼し  山崎紀子(鳥取)

 集いは楽しい。さざ波のように笑顔が広がっていく。でも皆本当は何を考えているのだろう。言葉は同じでも受け取り方はそれぞれ違う。そう、共通点は涼しさばかり。


 ねむの花郵便配達くる時間  内山兌子(長野)

 軽くなる朝の気配に芙蓉咲く  安河内ちえ子(福岡)

 百合の花ひらりと食べてしまひけり  森田伊佐子(茨城)

 花は時間と繊細な心象を吸って開くようだ。花を見て心安らいだ後なぜか疲れるのはそのせいだ。

 ゆく夏のある日鰻の掴み捕り  滝本利子(神奈川)

 不思議な句。ある日という曖昧さが鰻の掴み所の無さにあいまって逝く夏の味わいを醸す。

 夜の秋の蜆の水を替へにけり  加藤きちを(岐阜)

 秋近き夜のしじまの深さが懐かしい。蜆に注がれるのはすでに秋の水だろう。

藍生集を読む(九二年・十二月号) 3
過程としての俳句

 自分にとって俳句とは一体何だろう。
 藍生集の膨大な俳句をじっくり鑑賞する機会を与えられて、改めて考えさせられた。

 漫然とただ楽しいから作句していた時期を経て、生活の中に句作りが習慣化され、いつも脳裏ないしは胸中奥深くに五七五の調べが流れ、ふとした瞬間にそれが言語と化す。そうした十数年が断続してあった。
 断続、そう、決して一貫して俳句に没頭してきた訳ではない。熱中したり、離れたりの幾度かの繰返しがあった。しかし、俳句はついに心身の一部のように完全には捨て切れない、業とでも呼ぶべき動かしがたいものとして背後に張り付いていたのだ。

 では改めて自分にとって俳句とは何なのだ。 

 心情をふと吐露する私小説的俳句、人生の根幹に関わる問い掛けを表現する求道的俳句、呻吟の中から絞り出す自己救済的俳句、日常のひとこまを活写する日記的俳句、仲間との触れ合いや旅吟に親しむ愛好的俳句など人それぞれに俳句への取り組み方は異なるであろう。

 今のわたしにとって俳句とは、句を創出することで魂を建て直すとも言うべきものである。しかしそれは決して呻吟から生まれるものでなく、おおらかで呼吸が深くなるような虚構を設定・構築するものである。
 そのために現実を直視し、心の琴線に響くものを直覚するのである。しかしこの方法は類型化を招く。そこに詩化という魂の新鮮な仄めきが必要となるのだ。
 したがってわたしにとって「結果としての俳句」は「過程としての俳句」の魂を揺する瑞々しい展開に及ぶべくもない、即ち少なくとも第一義の問題ではないのである。


数片の骨を拾ふて夏果つる  小原祺子(岩手)

空蝉を拾ひて吾子の墓参  飯倉あづま(茨城)

 ともに死をテーマとする。死は唐突にかつ確実にやってくる。愛する者の全てが消失する。人は何かの手応えがないと不安でしかたがない。骨や空蝉は故人の隠喩として残された者を慰める。

林檎二個もいで秘密の基地へ行く  齋藤えみ(福島)

 造成地か薮の中に秘密基地を作った。食料は通りがかりの畑から拝借したもぎたての林檎。男性が悪餓鬼のころの共通体験。それを母の目で捕らえた。

鬼灯を残り火のごと引きにけり  大町道(栃木)

 残り火は未練である。燃え盛りの後の燻りが、残滓の中に淀んでいる状態。また鬼は充たされないあがきを示す。だからこそ狂気のごとく打ち込む姿を鬼と言う。鬼灯は鬼の未練を照らし出す。

何もせぬ両手をさげて夏に居る  溝口怜子(埼玉)

起重機の何も吊るさぬ良夜かな  本田正四郎(埼玉)

 何もしない、何も吊るさない。何もないものは俳句の素材に向いているようだ。その発見こそが詩精神の発露。

厳かにみんみんの鳴き始めたる  浦部熾(埼玉)

 厳かとは見事。来年からみんみんの声には襟を正さねば。

秋高し妊りて知る空の色  岡村皐月(千葉)

 新しい生命を胎内に秘めた女性に、秋はどんな色をもって祝福するのだろう。

息継いで舞ひ上がりたる秋の蝶  藤井正幸(東京)

 秋の蝶の舞い上がる一瞬の空白。あれは息継ぎだったのだ。

今日の月照らせよ滅びゆく大和  島田勝(奈良)

今生に最高の夏ありがとう  市嶋絢(京都)

 全ての現象や自然、営みは滅びへの前奏曲にしか過ぎない。しかし最高の夏は確かな手応えで我が身体・命の賛歌となる。
 「ありがとう」。哀しいほどに輝かしい。

2020/08/08

游氣風信 No89「私見:情報伝達事始め」

游氣風信 No89「私見:情報伝達事始め」

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23年前に書いた文章です。時代遅れになっています。なぜならパソコン通信からインターネットへの移行期に書いたものだからです。しかし、道具は変化、進化しても使用するのは人間。その点で最後の結論だけ褒めて下さった方がありました。

≪游々雑感≫
私見・情報伝達事始め

 世の中にはさまざまな情報が飛び交っています。
 世界を動かす重要な情報もあれば、無いほうが世のためという情報もあります。正しい情報や間違った情報、憶測や嘘も入り交じり、情報が否応無くわたしたちの周囲を駆け巡っているのです。

 そんな中、わたしたちは情報の受け渡しをいろいろな方法で行っています。
 原始的なものとしては身振りや手振り、表情や声。高度になりますと言語(定められた信号や記号なども)を用います。また抽象化された音楽や美術、詩などの芸術的方法もあり、こうした複雑に入り組んだ情報伝達は間断なく一人一人に飛び込んできて一時も休ませてはくれません。

 大自然からの情報はこちらの学習程度によって判断することになります。
 風が出てきて空が暗くなるという情報を得れば「雨」という予測を行い、出掛けるときは傘を持っていこうと判断・行動するという具合。

 人と人の情報交換に限ればさまざまな手段を工夫して伝えたり判断したりしていることが分かります。とりわけ近年に至っての急速な伝達方法の進歩には驚いている暇も無く、かといって傍観している訳にもいかず、ただおろおろとついていくばかりです。
 高度情報社会に翻弄されている我が身を振り返りつつ、伝達方法について思いつくまま述べてみましょう。

言語以前
 昨年暮れに赤ちゃんを授かったKさんは、育児疲れの奥さんを身体調整に連れてみえます。もちろん生まれて半年ほどの赤ちゃんを一人で置いてくるわけにはいきませんから抱っこして来るのですが、奥さんの調整中、父と子を見ているとそれが実におもしろい。
 赤ちゃんが「ウー」と言えば、お父さんは「よし、よし」と立ち上がって揺すってやり、「グー」と言えば「そうか、そうか」と目を細め、「ウックン」と甘え声を出そうものなら人目もはばからずホットケーキに乗っかったバターのようにとろとろに溶解してしまいます。
 そのうち赤ちゃんがご機嫌ななめに「イー」と身をのけ反らせると、「どうした、どうした」とこの世の終わりのように慌てふためきだし、全く見ちゃおれません。Kさんのように厄年過ぎて初めての赤ちゃんを抱けば誰でもこうなることでしょう。

 さて、赤ちゃんはお父さんに笑顔と泣き顔と喃語(なんご。赤ちゃんが発する意味不明の声)と仕草で立派に情報を伝えています。この交流はもっぱら受け手のお父さんの理解力に委ねられていること大なのですが、Kさんと赤ちゃんを詳細に観察しますと、明らかに赤ちゃんの意志もその声などに反映してお父さんを操作しているのが見受けられるのです。たかだか生後半年で・・・すごいものです。
 こうして言語以前の情報交換がみごとに成立しているのですね。

音声言語による伝達
 音声言語いわゆる話言葉による情報は人類だけが獲得した高度な情報交換手段です。

 これは音声の届く距離にいることが前提で行われます。拡声器や電話、無線機などが発明されるまでは肉声の届く周辺に限られました。
 音声言語は重宝なもので、いささかの身振りと表情、声の調子を加味して複雑な情報伝達が可能になります。ただし、音声ですから即刻消滅すること、伝達距離が短いことが欠点です。つまり、時間と空間の制約が極めて大きいということなのです。

文字言語による伝達
 そこで生み出されたのが文字です。文字は音声と違って記録できるという卓越した能力があります。それを何らかの方法で遠くまで移動することで空間も乗り越えることが可能になりました。
 文字は絵文字や簡単な記号から進化して今日使用する形に成長しました。前述のように文字言語は記録によって時間を超越しただけでなく、移動手段を用いることで空間も越えました。しかし、欠点としては到達までに時間がかかる、つまり即時性において話言葉に一歩譲ることでしょうか。江戸時代までは飛脚によって運ばれていたのですから時間がかかることおびただしいものがありました。また、文盲という言葉があるように学習も音声言語より困難です。

新聞とラジオ
 音声言語と文字言語で文明の利器によって発展的に利用されたという点では文字言語が音声言語にはるかに先んじました。紙の発明と印刷の技術の発展が両者の間を決定的に分けたのです。
 日本でも紙に版画の手法で本を出版していた歴史には長いものがあります。それ以前は書き写していましたし、さらにそれ以前は文字がないために音声言語による口伝えだったのですから大変だったことでしょう。この役職のことを語り部と称したのは歴史で学びましたね。音声を音声のまま記録する技術はエジソン(多分)まで待たねばならなかったのです。

 大衆に向かって情報を広く伝える、すなわちマスコミュニケーションとして最も古いのは新聞です(これも多分)。我が国なら瓦版。これは文字言語です。新聞は大衆の公器として多くの人の生活に役に立ちました。日々新しい情報が紙に印刷されて各家庭に届けられるのですから、それがいかに人々の暮らしを変えたか、その影響は今思うよりずっと大きなものだったことでしょう。政治、経済、社会の出来事、文化、医学、教育、小説、囲碁、将棋、俳句、短歌、広告などの最新情報が家庭に届けられることで生活に潤いを与えたことは想像に難くありません。

 ところが、今世紀の始め、イタリア人マルコーニが無線通信を実用化させました。それを踏まえてラジオ放送が始まります。ここに至ってついに音声言語が距離という空間的制約を取り払ったのです。さらにエジソンによって蓄音機が発明され、音声言語を音声のまま記録する技術が実用化されて時間的制約を取り払ったのもこの頃です。「メーリさんの羊、羊、羊、メーリさんの羊、可愛いな」これが記念すべき録音の第一号だそうです。

 ラジオ(音声言語)は新聞(文字言語)よりはるかに速い情報伝達手段です。放送局から即各家庭に飛んできます。それに対して新聞は印刷し、汽車で各地に運び、そこから各家庭に配られます。そののろまなことはラジオの比ではありません。そこで巷間、新聞無用論が起こります。

 「ラジオなら世界で起こっていることが瞬時に伝わってくるが、新聞は前の日の事しか分からない。非常に遅い」
 「神宮球場の野球の実況中継を聞いた翌日、新聞で勝ち負けを知るのは全く間の抜けたことだ」
 「新聞は紙を大量に消費する。ひいては森林資源の破壊、資源の無駄だ」
 「汽車で運ぶのだから燃料も馬鹿にならない」
 「それに宅配だから人手や手間も大変だ」
 「読み終えた新聞はゴミになってしょうがない。トイレで使うと硬くて痛いし、色がつくし・・」

もちろん新聞養護派もいます。

 「いや、新聞で読むのはニュースだけではない。料理や新聞小説は切り抜いて保存できる」
 「そんなもの、本で買えば良い」
 「新聞一枚の情報量はラジオに比べてすごいものだ」
 「新聞には何と言っても写真がある。百聞は一見にしかずと言うではないか」
 「確かにそれはラジオの負けだ。しかし、浪曲は新聞では聞けまい」
 「何より新聞にはラジオ欄があるが、ラジオには新聞欄はあるまい。これは明らかに文明の利器、ラジオの勝ちである証拠だろう」
明らかに新聞の旗色が悪いようですが、ついに歴史的起死回生の意見がでました。

 「諸君、ラジオで弁当が包めるかね」
 「(一同)おおっ」

ここに各人の意見の同意をみ、今日も新聞が命脈を保っているゆえんなのです。

映像言語
 映像言語は広義には文字言語に分類されます。
 新聞には写真があるがラジオにはないという意見がありましたが、それもほどなくテレビの登場で新聞の優位性は駆逐され、ついに弁当を包むという利点だけになってしまいます。しかもコンビニ弁当の隆盛からビニール袋に取って代わられ、ますます新聞紙の使い道はなくなり、今日専ら古紙としてトイレットペーパーを作るためだけに存在しています(もちろんこれは冗談ですよ。時々冗談が伝わらない場合があります。これは表情がないという文字言語の大きな欠点です)。

時空を越える言語
 さて、文字言語と音声言語の特徴と歴史的な変化をざっと見てみました。素人が勝手に考えていることですから適当に読んでいただくよう改めて強く要望しておきます。間違っても卒論などに引用しないでくださいね(もちろんこれも冗談)。

 科学技術はこれらの言語の存在意義をどんどん変えていきました。制約を取り払っていったと言ってもいいでしょう。
 今日、音声言語の欠点である伝達距離の短さは、無線(ラジオやテレビを含む)や電話であっけなく乗り越えられました。しかも携帯電話やPHSによっていつでもどこでも誰でも持ち運びができるまでになったのです。
 また、音声言語のもう一つの欠点の記録の難しさは、カセットレコーダーや留守番電話で解決してしまいました。ビデオによる映像の記録もあっけないほど簡単です。
 また文字言語の欠点である空間移動のために要する時間の問題はファクシミリで過去のものとなり、伝達に数日を必要とする郵便の存続も率直にいって危うい段階まできています。

電子言語の誕生
 近年に至って、一大革命が起こりました。パソコン通信やインターネットの電子メールの隆盛です。
 1980年代後半、日本でパソコン通信が始まりました。コンピューターと電話回線を介して文字情報のやり取りをするのです。わたしは手持ちのワープロで1989年頃からニフティサーブという会社のパソコン通信を始めました。
 パソコン通信は文字言語をパソコンやワープロが電子言語に置き換え、電話回線を通じてパソコン通信会社(わたしの場合はニフティサーブ)のコンピューターに蓄積、それを相手が同様にパソコンやワープロで電話回線を通じて読み取るものです。画面に全く普通の文字が出てきますから誰にでも可能な通信手段です。
 これは電話と違って相手が向こう側にいなくても良いという郵便配達と同じ文字言語の利点をそのままに、電話の同時性という音声言語の利点も兼ねています。つまり時間と空間をやすやすと越えてしまうのです。しかも蓄積も可能。

 それならファックスも同じではないかと思われますが、大きな違いがあります。ひとつは紙を使わないということですが、もうひとつ大変大きな違いがあります。具体例でわかりやすく説明しましょう。
 わたしは毎月俳句の会報を発行しています。今回、5周年記念で仲間の俳句をまとめたものをワープロで作っています。そのため、10数名の仲間から俳句が30句ずつ送られてきます。直接手渡しもありますが、ほとんどが手紙、中にはファックスの人もいます。それをわたしがワープロに打ち込んでいくのです。総数450句以上になり、なかなかの労働でしょう。

 もし、仲間が電子メールで送ってくれたら、そのまま電話線を介してわたしのワープロに入ってしまいますから、わたしが改めて打ち込む必要は全くないのです。これはとても大事なことです。すなわち、電子言語は時間と空間という制約をやすやすと乗り越えるだけでなく、共有化つまり共通財産化も可能なのです。
 
 4月下旬から埼玉に住むIさんと俳句の原稿の件で頻繁に電子メールのやり取りをしました。これは実に爽快で楽しい経験でした。
 手紙のように何日もかかる方法と違って新鮮な感覚のままで文章の交換ができたのです。また電話のように相手の時間に暴力的に割り込む時間泥棒になる必要もありません。互いに都合のよい隙間時間を利用してパソコンをつなぐだけなのです。しかもやりとりの結果は全て記録されています。

 Iさんはしがない自営業のわたしと違って業界トップ会社のエリート社員です。自分の机に会社のパソコンがしつらえてあり、一日中スイッチが入っていて、わたしの電子メールが着き次第読めるという実にうらやましい環境にあります。
 わたしは昼休みか深夜、ワープロを電話線につないで電子メールを覗きます(郵便受けを覗く感覚)。そうそう費用は市内の普通の電話料金とニフティサーブ使用料1分につき8円です。手早くすれば明らかに郵送料より安価です。あとニフティサーブの月の管理料として200円。
 この≪游氣風信≫も10数人の方には電子メールで送ります。同時配信といって同時に10数人に送りますが、それもひとり分と同じ金額で済んでしまいます。ひとりにつき幾らではなく、あくまでも時間制ですから切手代や印刷代が大幅に節約できます。
印刷代も不要なら紙資源の節約にもなるのです。
 読みたくない人は読まずに消してしまえますし・・・。

 欠点もあります。パソコン通信の欠点はまだ利用者が限られていること、相手が通信機能のあるワープロかパソコンを持っていることが大前提です。
 また持っていても相手がつながない限り読んでもらえません。郵便受けを覗かないのと同じことです。
 さらにワープロなどを扱い慣れない人には操作が難しいと感じられること。これは大きい欠点です。

 今話題のインターネットを介せば世界中に市内電話料金と1分あたり10円くらいの使用料で文字と音声と絵が送れます(使用料は契約した会社によって異なります)。
 これはまさに情報伝達の革命でしょう。音声言語と文字言語の区別はもはや無く、盲人にもパソコンは操ることができるため、点字に頼らない伝達手段を獲得したことになります。身体障害者も体の一部がかすかに意のまま動くならパソコンを使用できます。体が不自由でもパソコンを通して身体感覚として世界につながることが可能です。彼らの世界がどれだけ大きくなることか。

 さまざまな制約を取り払ったのは科学技術の成果です。しかし、見方をかえると、パソコンと言えども口から発生される音声や一本の鉛筆と同じこと。中身は複雑な機械ですが、使い慣れれば人格化した単純な道具です。自動車を我が身の様に操るのと同じく、パソコンをわが頭脳のように操るのです。

 どう使うかは一人一人の問題です。よく言われるようにパソコンで何ができるかでなく、パソコンで何をするかが大切。おなじく電子メールが何になるのかではなく、電子メールで何をするのか、自分の人生にいかなる価値を付加したいのか・・・これが問題ですね。

 一本の鉛筆で遊べない人はパソコンでもやっぱり遊べないのかも知れません。しかし、原始的な情報伝達を先人の努力によって今日の形式まで発展させた歴史を重んじて、たとえ市井の片隅に生息しているだけのわたしですが、一市民として多少なりとも21世紀の懸け橋になる生き方をしたいものです。そのためにインターネットや電子メールも人類が獲得した情報伝達手段として上手に利用していきたいのです。
 今月はそのための自分自身の稚拙な情報論でした。

 

たかが、されど万年筆

万年筆が好きです。しかし収集家ではありません。今はウオーターマンのGreen色の美しいものを使っています。モンブランのスウィフト仕様は頂き物で所有していますが勿体ないので新品のまましまってあります。古いモンブランの149と146もあるのですが、残念ながらインク注入機構が壊れているので付ペンにしかなりません。

 今回は筆記論です。例によって例のごとくだらだらと書き殴っています。

《游氣風信》No,125 2000.5.1

 いつもどんな筆記具をお使いでしょうか。

 今日、ボールペンやシャープペンシルがその実用性をもって筆記具の世界を凌駕しています。せせこましい日常は利便性に優れたものに価値を与えますから。しかし同時に実利から離れた無駄なものに価値を認めるのも人間の特徴です。その証拠に実用の世界からは遠のいたものの芸術や素養としての毛筆は健在ですし、過去に追いやられたはずの万年筆も一部の人の間ではステータスシンボルとしてまだまだ珍重されています。

 今月は筆記具全般についてざっと眺めて、さらに万年筆にも少し触れようと思います。

儀式の喪失

 子供達の間では小学校の低学年以外はシャープペンが主流です。若い世代に特徴付けられる丸文字(少女変体仮名)はシャープペンシルの普及とともに始まったというルポがあります(山根一真氏による)。筆記具は書体に影響を与えるという現象に現場の裏付けをもって取り組んだおもしろい意見でした。

 それはさておき、シャープペンに普及により現在の学習の場から消えたものがあります。それは勉強の初めや合間に鉛筆を削るという儀式めいた行為です。経験者はお分かりのように鉛筆に小刀を当て、丁寧に木を削り、芯を尖らせると、結構精神が落ち着くものです。一種の三昧境。わたしが遠い昔、一応受験生だったころ読んでいた「中三時代」なる学習雑誌には

「気分を落ち着けるために試験の前にナイフで鉛筆を削るといい」

などと書かれていました。

 試験前に厳かに鉛筆を削る。これはまさに戦場に向かうもののふの心につながるものでした。が、それはもはや時代錯誤の物語です。

 シャープペンは鉛筆のように芯がだんだん太くなるということはなく、最初から終わりまで0.5ミリに保たれ、折れたり短くなったらカチカチとボタンを押して芯を繰り出すだけ、その作業は極めて簡単です。かくして子供の机から鉛筆を削る儀式と鉛筆削りという道具が消えました。

 消滅、それはナイフどころか文明の香りをふんぷんとさせて登場したかの電動鉛筆削りにおいてやです。それ以前の取っ手をごりごり回す旧弊な手動式鉛筆削りは骨董品と化し、いわんや危険であると子供達から取り上げた小刀や肥後守の類は持っていることすら犯罪にされてしまいます。生活の利便性と共に子供の卓上から木の温もりをたたえた鉛筆と、刃物で木を削るという人類創成期からの営みを追体験させてくれる鉛筆削りはすでに伝説と化してしまったのでした。

利便という圧力

 職場などではボールペンが全盛です。

 一度書いたら「消えない」、容易に「消せない」というボールペンは、筆記具の重要条件である記録の保全という点で極めて優れています。さらにこの道具は非常に安価であることとあいまって最も利用されている筆記具となりました。その上、毛筆に対して硬筆と称せられるようにペン先が硬いので、相当に筆圧を強くできますから、複写用紙にももってこいです。

(追記:最近は消せるボールペンが大流行ですがこれは公文書には使用できませんし、コピーすると消えてしまいます)

 さらにもこのボールペン、なぜか未だインクが残っているにもかかわらず必ず書けなくなるという特性を所有していますから、やたらと机上に転がっています。(追記:今日のポールペンはこんなことはありません)

 ボールペンがのさばる前は、事務所の机にはペンとペン立てとインクビンが鎮座していました。事務のおじさんの手にはいつもインクが染み付き、服が汚れないように袖にはおかしな袋をかぶせていました。吸い取り紙という専用の道具もありました。机の周辺には常にインクの匂いが漂い、それは厳粛な職場という雰囲気を醸し出していたのですが、これはもはや懐古趣味にほかなりません。

 ペンはすばらしい筆記具です。今日までの筆記具の歴史をほとんど担ってきた道具です。けれどもインクは水分ですから、乾きにくい、にじみ易い、ぽたりと垂れるなどの水分そのものの特徴を露呈するため、やや使いにくい面がありました。いわば善きにつけ悪しきにつけ、水の持つ表面張力や毛管現象に完全に支配された世界です。

 そうした物理的な弱点を油性インクという手法でやすやすと克服したのがボールペン。軸の中にインクを貯蔵したボールペンの登場によってペンとインク瓶は職場から追放されてしまったのです(今は水性ボールペンもあります)。

 ボールペンの実用性はインクペンの持つ垂れる、滲む、乾きが悪いという欠点を劇的に打ち破るものでした。その簡便性はペン字の持つ味わいという芸術的利点をも一蹴してしまったのです。効率を旨とする非情な事務という現場では必然の帰結でした。

「書く」は「掻く」

 「書く」の語源は「掻く」だという説があります。

 非常に古い記録方法として亀甲文字とか、楔形文字が知られていますが、これらは亀の甲羅や陶板、ヤシの葉などを何かで引っ掻いて傷つけ、文字として残したものです。すなわち「書く」とは本来「掻く」行為なのです。

 その後、上質な紙が発明されて、「掻く」という素材を傷つける方法から、インクなどを「塗りつける」あるいは「擦りつける」という今日的な「書く」に変化しました。

 個別に筆記具を見てみましょう。

 鉛筆。これは炭素でできた柔らかい芯を紙に擦りつけて記録するものです。掻いて傷つけるものではありません。むしろ鉛筆の芯の方が擦り切れて痕跡を残すものです。

 では、ボールペンはどうでしょう。これはボールを転がしてインクを塗りつけるものです。紙を傷つけることはありません。

 ペンもインクを塗りつけるものですが、その感覚には「掻く」という原始的な記憶を呼び戻すものがあります。ペンを改良した万年筆になるとペン先の工夫から書き味はとても滑らかになり、「掻く」という感じはなくなりますが、例えばシェーファー社の万年筆などにはいかにも掻いているという味付けが残してあります。しかしあくまでも感覚的にです。

 忘れてはならない筆記具に東洋の誇る毛筆がありました。毛筆はペンと原理的には同じで、毛管現象を利用してインク(墨)を紙に送るものです。両者にはペン先が金属か動物の毛であるかの差があるだけです。毛筆は文字の太さを自在に変えられるという表現力の豊かさにおいて最高の筆記具ですが、反面、使用のための技術を要しますし、小さな字に限界があります。今日では趣味・儀礼・芸術の世界にのみその存在を輝かせています。

 筆文字は紙にインクを塗っていく(吸い込ませていく)もので、掻くものではありません。

 最先端の筆記具はどうでしょう。

 ワープロ専用機のプリンターのインクリボン。すごい早さで印刷していきますが、仕組みは紙にインクを焼きつけていくものです。ワープロ専用機のプリンターには感熱紙という方法もあります。これは紙に薬品処理がしてあり、印画紙を焼くという写真の技法に近いものです。

(ワープロ専用機はとても優れており、文字情報ならインターネットも可能でしたが、今日その存在を知る人は少なくなりました)

 現在のパソコンプリンターの主流であるインクジェット(バブルジェット)はインクの吹きつけ。塗装の原理です。

 事務用に用いられるドットプリンターは叩きつける昔のタイプライター風。ページプリンターはコピーのようなものです。

 筆記具を歴史を追って調べてみると、書く行為が、「掻く」ことから脱却したのは筆記具の進歩だけではなく、字を書き込む素材(紙)の進歩と相互に影響しあっていることがわかりました。

 以上のように、今日では書類の作成はもとより、学生のノートや一般の人の手紙まで、もはやほとんどがボールペンやシャープペン、あるいはパソコンやワープロが大きい顔をして、ペンの出番はほとんどありません。

 では、ペンはすでにその命脈を閉じ、古典的筆記具として博物館に行く運命となってしまったのでしょうか。ところが、そうではありません。万年筆は書くことと同時に保持することを満足させる道具としてしっかりと生きているのです。

我が愛蔵の万年筆

 わたしは子供のころから人並みはずれた悪筆にもかかわらず、筆記具に大変興味がありました。とりわけ万年筆の美しさには幼少の頃から憧れたものでした。

 しっとりと暖かみのあるエボナイトの軸。タイヤで知られるグッドイヤー氏が生ゴムと硫黄から偶然発明(1851)したこの素材には何とも言えぬ光沢と手に馴染む質感があります。高級万年筆の軸は熟練工によって轆轤(ろくろ)で丁寧に削られます。

 ペン先の流麗な形状と金の輝き。ペン先がいわゆるペン型に剥き出しになっているのが好きです。金とイリジウムからなるペン先はホーキンスの発明(1852)です。エボナイトとイリジウムペン先。これらの発明によって酸性度の強いインクに耐える素材ができ、万年筆を生み出す契機となったのです。

 それらの素材を利用して今日の万年筆機構を完成したのは生命保険のセールスマン、ウォーターマンであるとされています。

 保険のセールスマンであった氏は、契約を決意した顧客がいざサインをしようとしたとき、インクが垂れて契約書を台なしにしてしまい、別の契約書を取りに戻っている間に他社のセールスマンに横取りされたという苦い経験を持ち、これが万年筆を考案する契機となったということです(1883)。

 ウォーターマンの万年筆は毛管現象という極めて単純な物理現象の応用です。先に述べたようにインクの欠点は水分なるが故のものでした。ところがその水分からなるインクの欠点を毛管現象で乗り越えたのは実に興味深いことではありませんか。しかも名前がウォーターマン氏。出来過ぎたような話です。

 万年筆には書き味や外観の美しさだけではありません。持ったときやキャップを開けるときの質感、重心の位置によるバランス、インクを注入するときの充実感など出来の良い万年筆にはクラフトマンシップが横溢しています。

 わたしは万年筆の収集家ではありませんから、現在四本しか持っていません。他にも何本か購入したのですが、高校生のとき買った中国製の英雄はすぐ書けなくなり、シェーファー社の万年筆は人にプレゼントし、日本製のある万年筆は使用に耐えず怒ってメーカーに送り返しました。

 世の収集家と呼ばれる人は数十・数百から数千本も所蔵しているそうです。しかし一本の万年筆を大切に愛蔵している人もいます。いずれも愛好家と呼んでいいでしょう。

 現在手元にあるのは、大学のとき買ったプラチナ製のごく普通の万年筆。これが意外と書き易いペンで、細かい字はもっぱらこれで書いていましたが、この頃はワープロで書くことが多いのでインクを抜いて机の引き出しの奥にしまってあります。たまには命を吹き込んでやらねば。

 23歳の頃、一点豪華主義とばかりに無理に無理を重ねて買った万年筆があります。当時28000円。どう逆立ちしても、清水の舞台から飛び降りても手が出ない値段でした。ところがある日、名古屋駅前の専門店に特価6000円で出ていました。その頃、大卒初任給70000円位だったでしょうか。わたしは鍼の学校の貧乏学生でたいした収入はありませんでした。当分、昼飯は無いものと覚悟してショーケースの万年筆を握り締めたのでした。

 これが万年筆の代名詞とも称されるモンブラン社のマイスターシュッティック149。太い軸にプラチナコーティングされたペン先がついている万年筆の中の万年筆という名品です。おそらく日本の作家に一番愛用されているものではないでしょうか。毛筆に近い書き味と言われています。

 現在買えば60,000円位(今は77,000円くらいです)。興味の無い人には高いものでしょうね。

 高い万年筆を使うと上手な字が書けるのかと聞かれますが、残念ながら、そうはいきません。その辺りは高級化粧品に近いものがあり、本人の満足感の問題としか言いようがありません。

 もう一本、モンブランのマイスターシュッティックを所有しています。購入したのは30代半ばだったでしょうか。こちらは146。149よりやや細みです。ペン先の大きい万年筆は金の高騰と同時に価格も高くなり、これは確か39000円で入手したと思います。

 149も146もインクはポンプ式。軸のお尻を回転させてインクを軸の中に直接吸入します。その作業はいかにも万年筆を使っているという趣があり、原稿用紙に向かうときなどは満タンに満たしてからおもむろにペン先を原稿用紙に下ろします。一種の儀式です。

 最後に買ったのは三年前。これはいつも鞄に入れています。

 知り合いのアメリカ人がフランスを旅行するとき頼んで買って来てもらったものです。ウォーターマン社の万年筆ル・マン100パトリシアングリーン。万年筆の発明者の名を冠したウォーターマン社は氏の創設によるものですがいろいろあって現在経営母体はアメリカからフランスに移っています。

 重量感ある鮮やかな宝石の翡翠(ひすい)を思わせるグリーンの軸は、発明者の名をいささかも汚すことのない輝きで持つ者に喜びを与えてくれます。

  このペンは重心がやや軸のお尻側にあり全体のバランスが良く、書き易いのでお気に入り。インクはスペア式ですが、吸入式の道具をスペアの代わりにセットしてあります。ペン先はモンブランのものよりやや固め。

萬年筆くらぶ

 神奈川に物好きな高校の先生がいます。「萬年筆くらぶ」を主宰し、「fuente(フエンテ)」なる怪しげな会報を発行し、全国の万年筆愛好家の秘密アジトとなっているのです。首謀者はその名も怪しい「中谷でべそ」。

 事務局は

  https://fuente-club.webnode.jp/

 手元にある会報(19号)にはインクの検討や、万年筆の思い出、収集の苦労と喜びなどが書かれています。また万年筆のバザールや「売ります買います」なども。文章を読んで気が付くことは万年筆が親との思い出につながっていることです。すでに初老に達した方が、一本の万年筆に親を思い起こす。そんな文章を良く見かけます。

 確かに子供にとって万年筆は大人の香りのする筆記具でした。万年筆を用いる大人に一種の尊敬の念を抱き、高校生になるとついに親から万年筆を贈られたのです。万年筆を手にする、それは成長の証しでした。筆記具にも世代的な区分けがなされていたのです。万年筆の持つ魅力は、道具として字を書くという価値やモノとして工芸的な価値(デザインや機構)だけでなく、成長過程のノスタルジーでもあったのです。

 上質な万年筆のどっしりとしたスキのない重厚感はどこかに「人生かくありたし」という思いが込められているような気がしてなりません。

 
参考図書 平凡社カラー新書「万年筆」梅田晴夫著

ワールドフォトプレス「世界の万年筆」

モノ・マガジン「文房具現役博物館」

 

游氣風信 No104「理不尽な話-ボーデの法則-」

游氣風信 No104「理不尽な話-ボーデの法則-」

三島治療室便り'98,8,1

「游氣風信」は施術のクライアント(高齢者が多い)や知人に毎月手渡しや郵送、メールでお渡ししていた通信です。できるだけ易しく書いていたつもりですが、読み返すと少しくどい感じがします。文章は難しいですね。

今回は惑星の発見に役立った不思議な法則と、その名前が発見者に対して誌残念な結果になっているというお話です。

《游々雑感》
  
 天文愛好家の間でよく知られた法則に「ボーデの法則」があります。法則と称していてもちょっと怪しげなものです。

 太陽の周りを回っている水星や火星や金星など地球の兄弟星のことを惑星というのはご存じでしょう。それらを総称して太陽系といいます。これもご存じですね。
 太陽系の星は毎晩少しずつ見える位置がずれていくので空を迷っているという意味から惑星と名付けられました。
 太陽系以外の星は常に同じ位置に配置され、北極星を中心に空を回転しているように見えるので恒久的に動かない意味の恒星と呼びます。

 惑星を太陽に近い順、つまり内側から外側に向かって並べると

 水星、金星、地球、火星、小惑星、木星、土星、天王星、海王星、冥王星(冥王星は2006年に太陽系から外されました)

となります。小惑星は一つの星ではなく同じ軌道を巡る星のかけらの総称です。

 「ボーデの法則」とはその太陽系の惑星の距離間の比率に一定の数列が存在することを発見した経験法則(科学的根拠はないが、経験的に法則を見いだしたもの)です。なぜその法則が成立するかの論理的根拠は不明(もっともそれが経験則の経験則たる所以ですが)でも当時まだ存在を知られていなかった惑星の発見に大いに力を発揮した不思議なロマンあふれる法則です。

 「ボーデの法則」は正式名称を「ティチウス・ボーデの法則」といいます。
 1766年、ドイツの天文学者ヨハン・D・ティチウスは、惑星の距離がある意味ありげな数列にしたがっていることを発見しました。同じドイツ人のボーデがこれを支持、熱心に論文などを発表して広めたのでこの法則は「ティチウス・ボーデの法則」と呼ばれるようになりました。

 その法則の詳細は次のようなものです。

 まず、3の倍数で次の数列を作ります。

  0 3 6 12 24 48 96 192 384

 次に、それぞれに4を加えます。すると以下の数列ができます。

  4 7 10 16 28 52 100 196 388

 この3番目の数字、[10]を太陽から地球までの距離とします。

 今度は実際の太陽から各惑星間の距離比を書き出しますから比較してみてください。

 水星(3.9)    [4]
 金星(7.2)     [7]
 地球(10.0)    [10]
 火星(15.2)    [16]
 小惑星(27.7)   [28]
 木星(52.0)    [52]
 土星(95.4)    [100]
 天王星(191.8)  [196]
 海王星(301.0) 
 冥王星(395.0)  [388]

 どうです。ご覧のようにティチウスの考えた数列と惑星間の距離比が驚くほど一致します(海王星は例外)。これが天文愛好家の間で音に名高い「ティチウス・ボーデの法則」です。

 「なぜ3の倍数なのか」
 「どうしてそれに4を加えるのか」
 「一体全体どうやってこんな珍妙な法則を発見したのか」
など理由は全く分かりませんが、海王星以外は見事な一致です。

 しかも、この法則には驚くべき事実がありました。
 なんと「ティチウス・ボーデの法則」は論理的根拠がないにもかかわらず当時未発見だった小惑星や海王星発見に寄与したのです。

 「ティチウス・ボーデの法則」が発表されたころ、小惑星も天王星も海王星も冥王星も発見されてはいませんでした。ところが1781年、ハーシェルという学者が天王星を発見するとこの距離が「ティチウス・ボーデの法則」に一致するではありませんか(法則では[196]で実際には191)。

 それではと火星と木星の間の[28]辺りにも惑星があるかも知れないと天文学者たちがその辺りの宇宙空間を一生懸命さがすと何と本当に星がありました。1801年、[28]とほぼ同じ距離比27.7のところに後にケレスと名付けられた小惑星を発見することができたのです。小惑星は昔大きな惑星であったものが何らかの理由で粉々に砕けてしまいその軌道上を無数の星のかけらになって回っているものとされています。今日までに約4000個見つかっているそうです。

 さらに後になって発見された冥王星(太陽系で一番外側の惑星)は軌道が大きな楕円形で太陽からの距離は一定ではないにもかかわらず、平均すると上記のように大体「ティチウス・ボーデの法則」に当てはまるのでこの法則の面目は保たれたのでした。

 冥王星の内側の海王星はニュートン力学に基づきルヴァリとアダムスによってその存在が予報され現実に発見されました。この発見はニュートン力学の勝利と呼ばれています。

 海王星の発見に際しても「ティチウス・ボーデの法則」が「気運」を高めるのに貢献し、実際見つかるのですが、残念ながらその数字はさらに外側の冥王星に符合してしまい、海王星のみ「ティチウス・ボーデの法則」から全く外れるということになりました。

 いずれにしても意味があるのか無いのか良く分からないなりに「ティチウス・ボーデの法則」は18世紀末から19世紀にかけて、天文学の発展に大きく寄与したのです。

 さて、この項のタイトルは理不尽な話でした。
 意味も無いのに星間の距離比を当てたことが理不尽という訳ではありません。何が理不尽かと言いますと、この法則を考え出したのはティチウスであるにもかかわらず、それを広めたボーデの名前が有名になり、当初「ティチウス・ボーデの法則」と呼ばれていたものがいつのまにか「ボーデの法則」になってしまった点です。

 確かに
 「ティチウスとは覚えにくいし、呼びにくい」
 「ボーデは読みやすいし、覚えやすい」
 「ティチウスは書いていても長ったらしくて嫌になる」
 「その点ボーデは書きやすい」
色々な理由はあることでしょう。しかしこのままではトンビに油揚をさらわれたようなティチウスさん。
 これでは法則を編み出したティチウスさんが
 「あまりに哀れだ」
 「かわいそうだ」
 「理不尽だ」
 「ボーデはうまい汁を吸い過ぎだ」
と強く同情しているのです。

 これに似たケースには地動説を唱えたコペルニクスとガリレオ・ガリレイの関係もあります。

 コペルニクス(1473~1543。ポーランド)は肉眼による観測とギリシャ思想に基づいてかの暗黒の中世に、当時常識とされた天動説に反対して太陽中心宇宙説を説き、権力に屈せず地動説を唱えた聖職者です。彼は近世世界観を樹立した功労者とされています。コペルニクスは太陽が地球を中心にして動いている(天動説)という当時の宇宙観を根底から否定して、大胆にも地球が自転している(地動説)と言ったのです。

 それを引き継いでガリレオ(1564~1642。イタリア)は望遠鏡(ガリレオはガリレオ式望遠鏡という今日の望遠鏡の発明者)を用いたり、実験的・実証的方法を用いてアリストテレスの自然哲学を否定し、近代科学の道を開いた学者として知られています。ピサの斜塔から大小二つのボールを落とす実験は有名。

 ガリレオはコペルニクスの地動説を是認したために宗教裁判にかけられ、一旦は裁判の場で地動説を否定しますが

 「それでも地球は動いている」

という名言を残しています。
 この真意は「俺が否定しようと、宗教が否定しようと、誰が何と言おうと地球が動いている事実は真実なのだ」というものでしょう。

 コペルニクスとガリレオ・ガリレイ。
 聖職者と科学者、近世と近代、演繹的と帰納的との違いはありますが、共に地球が太陽の周りを回っていると考えたことは同じです。しかし、今日、地動説と言えばガリレオのものとされて、コペルニクスはあまり表に出てきません。

 もっとも哲学などで発想が根底から覆ったりしたとき
「コペルニクス的転回(コペ転)」
などと言いますからコペルニクスの名前は主にこちらに残っています。
 「コペルニクス的転回」はカントに由来しているそうです。
 ふだんでも考え方ががらりと変わるとき使います。

 先程、コペルニクスはギリシャ思想に基づいて地動説を唱えたと書きました。そうです。驚くべきことに地動説(太陽中心宇宙説)は古代ギリシャの天文学者アリスタルコス(紀元前320頃~紀元前250頃)によって既に説かれていたそうですからコペルニクスが言い出しっぺではありません。

 ならば地動説を言うときはガリレオ・ガリレイでなく、コペルニクスでもなくアリスタルコスを思い浮かべなければ理不尽と言うべきでしょう。けれどもやっぱりガリレオが一番覚えやすい名前ですね。コペルニクスは舌を噛みそうですし、アリスタルコスに至っては早口言葉さながら。

 地動説の場合、三名によって説かれた中身の質の問題や時代のズレもありますが、何よりも言い易く覚え易い名前が広まるのはボーデと場合と同じです。畢竟「人は易きに付く」ものなのです。かなり強引な結論でした。

 今回の文章は草下英明著「星の百科(現代教養文庫)」および「天文用語辞典(天文ガイド編)」と広辞苑を参考に書きました。


 

2020/08/07

論語読みの論語知らず「師・増永静人の思い出」

 

かつて発行していた月刊個人誌「游氣風信」の2000年6月号と7月号に増永静人先生の論語について書きました。

 本文の終わりの方に書いた以下の言葉は私にとって増永静人先生の遺言です。

 「健康を云々する人間が病気になるのは情けないと思うだろう。しかし、僕だって病気をし、年を取り、死んでいく。だからこそ治療ができる。考えてみなさい。もし僕が病気もせず、年も取らず、死なない鋼鉄のような人間だとして、そんな人間に治療ができるだろうか。そんな鋼鉄みたいな人間に治療してもらって病人はうれしいだろうか。患者は不死身で頑健な理想的な健康体を期待するだろうが、それでは病人に真に共感することはできない。そこからは死や老いが見えてこない。自分自身、いつ病気になり、死ぬか分からない脆弱な存在だからこそ、ここまで真剣に医療について考えてきたんだ。指圧という民間療法を医療の視点で再構築して医療の一端を担うものとして、思想的には医療の根本を為すものとして研究してきたのだ。僕だって病気になる。窮す。でも僕は孔子の言うように乱れたりはしたくない」

 

游氣風信 No,126 2000,6,1 論語読みの論語知らず「師・増永靜人の思い出」(上)同2000,7,1(下)

《游々雑感》

 ある名人落語家の枕(落語の本題に入る前の軽い話)に「無学者は論に負けず、無法は腕ずくに勝つ、などと申しますが・・・」というのがあります。

 これは主として学を見せびらかす人を揶揄する話(「薬缶」や「千早振る」など)の枕に使われるようです。これについては以前《游氣風信》で「知ったかぶり IN 落語」として取り上げました。

  「学問の無い人は、理論的に筋道だった話をすることなく自分の思いを強弁するので、学のある人が論を持って諭そうとしてもかなわない。同様に、法を守らない無法者は暴力的に意を通してしまう。どちらも困ったものだ」というような意味合いでしょう。

 元憲法学者で今は著名な国会議員になっている女性党首が一時「駄目なものは駄目!」「やるっきゃない!」と言い張ったのはこの類いの強弁でしょう。学者を出自をする人でも政治家になると論理を吹っ飛ばす発言をするのだと驚いたことがありました。

 もっともこれは永田町という魑魅魍魎の巣窟、百鬼の夜行する不条理世界に伝わる「永田町の論理」に対抗するために取った特別措置であるとも考えられますが。

 先程の落語の枕に戻ります。前述したように「無学者は論に負けず、無法は腕ずくに勝つ」は、無学者や無法者を困った存在と見なしていますが、別の見方もできます。それは学があっても知に溺れ、行動力のない人をからかっているのではないかということです。

 諺(ことわざ)にも「論語読みの論語知らず」というのがあるではありませんか。

 「論語読みの論語知らず」の意味は、蛇足ながら辞書を引きますと 

「書物の上のことを理解するばかりで、これを実行し得ない者にいう」(広辞苑)

ということです。

 一般的には学識のみで常識のない人を揶揄することばですね。

 論語!?

 さる国の総理大臣が好みそうなテーマですが、今月はなんと論語の復習をすることにしました。なぜかと言うと、わが指圧の師の増永静人先生が晩年「論語」を愛読されていたからです。

  ある日、先生が病気をおしての講習の後の会食のときでした。先生はしみじみと言われました。

 「この頃、論語の『朝に道を聞けば、夕べに死すとも可なり』が身に染みてくるんだ」と。

 続けて

 「今の僕は孔子の言うように、もし朝に、誰かが僕の言うことを本当に分かってくれるなら、もう夕暮れには死んでもいいという心境だ。本当に伝えたいことはなかなか伝わらないし伝えられない。おこがましいが、孔子の気持ちが分かる気がする。孔子は生涯を通して君子という理想を追い求めた人であって、決して自らが君子ではなかったはずだ。だったら僕が自分の心境を孔子のそれに置き換えても決して偉ぶったことにはならないだろう。もし、孔子が君子でわれわれが凡人としてそれに遠く及ばないなら、孔子が凡人に道を説く意味がない」

 当時まだ二十代前半、しかも無学者のわたしはなるほどと頷きながらも生意気に口を挟みました。

 「先生、『朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』は、学ぶ側の心境ではありませんか。つまり朝、ものごとの本質を知ることができたら、夕方には死んだっていい、それほど道とは得難いものである、ということではないでしょうか。確か学校でそう習ったように記憶しています」

 増永先生は穏やかに答えられました。

 「それは教室なら正解だ。しかし僕の心境からすると僕の解釈も成り立つと思う」

わたしは今度は「成る程」と納得したのでした。

 なぜなら増永静人先生の生涯は、常に中国医療の古典をご自身の指圧臨床体験を通して再措定されるものだったからです。古典医療を現代の目でもう一度再検討し、臨床で確認し、現代人にも納得のいく指圧理論として編成されたのでした。

 それゆえに、今日海外では指圧と言えば増永静人先生創案の「経絡指圧」を指すようになったのです。ただし出版社の意向により海外では「禅指圧」という名称で広がっています。
 
 残念ながら指圧のお膝下、日本では指圧は既に忘れられかけた存在になりつつあり、医療としての本分を忘れ、慰安行為としてのみ細々と命脈を保とうとしています。これはわたしどもにも大なる責任があります。

  さて、早々と断っておかなければなりませんが、わたしは「論語読まずの、論語知らず」です。あるいは「論語読めずの、論語知らず」。

 わたしの論語に関する知識。それは高校の古典の時間に少しばかり論語に触れただけです。これはおそらく皆さんも同じだと思います。

 戦前の教育を受けた方は、儒教が社会の制度的安定のための根本思想であった意味合いから、修身の根幹を為すものとしてしっかり学ばれたことでしょうが、わたしのように戦後に生まれた者はほとんど習っていません。

  まして今の高校の教科書を見ますと、漢文という独立した教科書はなく、古文の教科書の終わりの方に申し訳程度に漢文のパートがあるだけで、その量はわたしたちの頃(約三十年前)よりずっと少なくなっている感じです。そうなると近い将来、「論語(内容でなくそのことば自体)」は一般教養としてではなく特殊な素養の部類に入るやも知れません。いや、既になっていると言っていいでしょう。


 今回は論語の有名な部分をいくつか紹介します。論語を知らない人も、昔習ったけど忘れてしまっている人も、論語なんか大嫌いな人も、とりあえずわたしと一緒に論語に入門(再入門)しましょう。

  参考は高校の教科書、大修館書店の「新制高等漢文」、明治書院の「漢文」と講談社学術文庫の諸橋轍次著「中国古典名言辞典」です。


 ところでそもそも「論語」とは何でしょう。また孔子とは。

 例によって「広辞苑」に当たってみます。

論語

 四書の一。孔子の言行、孔子と弟子・時人らとの問答、弟子たち同士の問答などを集録した書。(中略)孔子の理想的道徳「仁」の意義、政治、教育などの意見を述べている。わが国には応神天皇の時に百済より伝来したと伝えられる。

 孔子の語ったことを弟子たちが書き留めた語録集。これが論語です。

 辞書の説明の中に色々難しい言葉がたくさん出て来たので同じく広辞苑で細かく調べます。

四書

 大学、中庸、論語、孟子。儒教の枢要の書。

 まあ、中国の儒学の最も重要な本のことですね。

 そもそも孔子とはいつの時代のどんな人でしょうか。

孔子

 中国、春秋時代の学者・思想家。儒家の祖。名は丘。字は仲尼(ちゅうじ)。

今の山東省出生。古来の思想を大成、仁を理想の道徳とし、孝悌と忠恕とを以て理想を達成する根底とした。諸国を歴遊して治国の道を説くこと十余年、用いられず、時世の非なるを見て教育と著述に専念。その面目は言行録「論語」に窺われる。(前551~前479)

 
 孔子は紀元前500年前後の中国の思想家ですね。結局、役人として採用されることはなくフリーターとして諸国を旅した人のようです。その頃日本はまだ縄文時代。おそるべし中国4000年の歴史。

 
 ギリシャの「イソップ童話」もこの頃のものです。
 中国では「老子」もこの頃編纂されています。

 「論語」は孔子の死後ですからもう少し後の紀元前450年頃。

 同時代の著名な思想家(宗教家)として釈迦(前566~前486)やソクラテス(前470~前399)がいます。


 こうしてみると古代中国に孔子や老子、古代インドに釈迦、古代ヨーロッパにソクラテスなどのギリシャ哲学という具合に、人類の文明の黎明はほぼ同時に世界各地に散在して始まったようです。果たして文化の交流はあったのでしょうか。

 もう一度言いますがその頃、即ち孔子が旅に仁を語り、釈迦が菩提樹の下で慈悲を説き、ソクラテスが悪妻にいじめられた鬱憤(うっぷん)を弟子との対話で哲学していた頃、日本はまだ縄文時代末期。竪穴式住居に住んで平和な集落を作り、採集・漁労・狩猟という採取経済に基づく生活をしていました。時あたかも弥生時代との端境期です。

 考古学では縄文時代は「先史時代」と呼ばれ文献の無い時代に分類されます。弥生になれば文献が多少存在する「原史時代」となります。

  弥生時代の中頃(57年)、日本の倭奴国から後漢に遣使を送り光武帝から金印を授かり、弥生の終わり(239年)にはかの邪馬台国の女王卑弥呼が魏に遣使を送ります。これらは中国の歴史書「魏志倭人伝」に登場します。

 魏は有名な「三国志」の三つの国つまり魏(曹操)・呉(孫権)・蜀(劉備)の一つです。後漢の滅んだ後のいわゆる三国時代。ついでに言うと呉服は呉の織物を起源とします。

 日本にとって中国は圧倒的に進歩した国だったのです。

儒学

 孔子に始まる中国古来の政治・道徳の学。(中略)日本には応神天皇の時代に「論語」が伝来したと称せられるが、社会一般に及んだのは江戸時代以降。

 儒学の歴史はいろいろ複雑なようです。日本で広まったのが江戸以降というのはちょっと意外でした。

 孔子の思想の中心にあるのが「仁」です。これは何でしょう。仁丹というおじさん好みの口臭防止薬がありますがこれは関係ないでしょう。

 フーテンの寅さんが、中腰になって右手を差し出し
「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又、帝釈天で産湯をつかい、姓は轟、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します」と仁義をきります。高倉健などのやくざ映画でもおなじみです。

 仁義は孔子の思想の中心をなすものですが、では、果たしてフーテンの寅さんは儒者でしょうか。どうも少し違うようです。

 1 孔子が提唱した道徳観念。礼にもとづく自己抑制と他者への思いやり。忠と恕の両面をもつ。(中略)封建時代には、上下の秩序を支える人間の自然的本性とされたが、近代、特に中国では、万人の平等を実現する相互的な倫理とみなされるようになった。

 2 愛情を他に及ぼすこと。いつくしみ。おもいやり。博愛。慈愛

 学生時代、少林寺拳法を習っているとき、「仁」の字はずばり「二人」。つまり人と人との関係を表すと習いました。

 1 いつわりのない心。まごころ。まこと。まめやか。
 2 君主に対して臣下たる本分をつくすこと。

  これも少林寺拳法で「忠」は「中心」、つまり嘘偽りの無い心の真ん中であると聞いたことがあります。これは1の意味になります。

 しかし一般的には2の意味に使われるようになり、これが武士の心構えとなり、後には軍国主義と結び付きました。武士は軍人ですから当然でしょう。戦後、軍国主義と一緒に「忠」という言葉を排除する傾向にあります。孔子にとっては「忠」はいつわりのないまごころのことですからこれは不本意でしょう。言葉は手垢にまみれるという分かりやすい例です。

(じょ)

 1 おもいやり。同情心。
 2 ゆるすこと。寛恕。

 「恕」はあまりなじみのない字です。字を分解すれば「心の如し」。心素直にあるがままの意味でしょうか。

 1 道理。条理。物事の理にかなったこと。人間の行うべきすじみち。
 2 利害をすてて条理にしたがい、人道・公共のためにつくすこと。

  これも少林寺拳法では「羊(大切なものの意味、羊は大切な財産だった)と我」で、自分を大切にする意味だと習いました。

 よく父母に仕えること。父母を大切にすること。

  少林寺拳法で「孝」の字は「老と子」からなり、子が老人を背負うて歩く姿の象形だと教わりました。

  こうして見ると「忠」とか「仁」、「義」などの元の意味、即ち孔子の唱えたものと日常生活で用いる場合とは意味が異なっているようです。

 今日一般的に使われているのは長い歴史の経過の内に、為政者が治世に便利なように意図的に歪曲させた意味合いが強いようです。それによって孔子の考え全般が忌避されるようになるとすれば、孔子の本意ではないと考えられます。

 「仁・義・忠・恕・孝」とは人間関係において、我を大切にして、心の中の本当の心に従い、思いやりの心を持ち、父母を大切にすることだというのです。それを拡大解釈して行くと臣下としての忠誠心や自分を殺してまでも主君の言い付けを守れなどということになるのではないでしょうか。

  フーテンの寅さんの「仁義」は二人の人が出会ったとき、互いの素性を明らかにして、すじを通す裏街道を生きる人たちの知恵が生んだ格式なのでしょう。

これもやはり孔子のいう「仁・義」から派生したものと言えます。

 孔子の言葉は「仁義」「義理」「任(仁)侠」「忠誠」など政治家とある筋の人の共に好む言葉でもあります。どちらの世界も強引な秩序を好むからでしょうか。

  さて、ざっとおさらいをしたところで、「論語」に入りましょう。読み下しと口語訳はわたしがしました。間違いがあると思います。仮名遣いも現代仮名遣いにしてあります。

 

子曰、「吾十有五而志于学。三十而立。四十而不惑。五十而知天命。六十而耳順。七十而従心所欲、不踰矩。」

  子曰(いわ)く、「吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こえ)ず。」

  孔子先生は言われた、「私は十五才で学の道を志した。三十才で自立した(方向を定めた)。四十才で惑うことはなくなった。五十才で天命を知った。六十才で人の意見を素直に聞き、理解できるようになった。七十才で心の欲するままに行動をしても軌道を誤ることがなくなった」

 孔子が自分の人生を振り返ってみるとこうであったというのです。なかなか耳の痛いことです。

  わたしは十五の頃は漠然と生きていました。三十の頃は生活に追われていました。四十はもっと生活に追われています。五十はきっと生活に疲れていることでしょう。

 六十才や七十才になると自然体に生きてもそれが道を踏み外すことが無くなるというのですが、現実にはどうでしょうか。孔子が自らの生涯を振り返るとこうであったということで、誰もがこうしろ、こうなるべきだとは言ってはいないようですね。助かります。

 わたしもあと数年で天命を知る年ですが、天命がどういうものか分かりません。

 天命は辞書では「天によって定められた宿命。天運。または天から与えられた寿命」とあります。

 宿命は「前世から定まっている運命」。

 運命は「人間の意志にかかわりなく、身の上にめぐって来る吉凶禍福。それをもたらす人間の力を超えた作用。人生は天の命によって支配されているという思想に基づく」

 
 一般的に解釈すれば天命を知るとは天によって定められた自己の社会的存在意義を明かにするとなるのでしょうか。天という形而上学的存在を認め、それに従って生きるというのが孔子の理想だったです。

  同時代の老子の道教は逆に無為自然を旨として人為的秩序を廃し、宇宙の本体である「道」に沿って生きることを理想としました。柔道や茶道の道はここに由来します。「道」はタオイズムとして欧米でも人気があります。

 孔子の儒教、老子の道教。これら全く異なる思想が同時代すでに存在していたことは面白いですね。

 
 老子も天の存在を重要視しています。

 老子に「天網恢々、疎而不失」という言葉があります。「天網(てんもう)は恢々(かいかい)として、疎にして失わず」です。
 天は大きな網を張っていて、その目は粗いが何事も漏らさずすくい取り、決して漏らすものではない、天は全てを知っている。あるいはすべてはその仕組みの中でうまく動いているという意味でしょう。

  いずれにしても天という思想は古代中国において孔子・老子という二大思想家に共通する概念です。もしかしたら人格化されていませんが、キリスト教の神のような大きな存在だったかもしれません。

 先の論語に戻ります。

 孔子は加齢により人間的成長を遂げるとしています。孔子自身がそうであったというのです。しかし現実にはどうなのでしょう。

 人は六十才になると耳順というより耳が次第に遠くなりますし、七十になれば、心欲しても体動かずという点が無いとは言えません。現実には難しいが、努力することが大切だということなのでしょう。

 人生をトータルに把握する時、よく引用される一節です。

子曰、「学而不思則罔。思而不学則殆。」

 子曰く、「学びて思わざれば、則ち罔(くら)し。思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し。」

 
 孔子先生は言われた、「学んでも自分自身や社会に当てはめて思うことをしなければ、学んだことの道理がよくわからない。反対に、狭い経験や知識に頼ってさまざまに思いを馳せても、深く、謙虚に学ぶことをしないと独断におちいって危険である」

  立派な大学を出た人がどうしてあんな過ちを犯すのか、ということが巷間よく囁かれます。それは孔子によれば、学ぶだけで考えることをしないからだというのです。学ぶことと思うこと。この両方のバランスが大切なのですね。

 日本の学校教育はどちらかと言うと学ぶに比重が片寄り、思うことの機会が少ないようです。

 
子曰、「温故而知新可以為師矣」

 子曰く、「故(ふる)きを温(あたため・たずね)て新しきを知れば、以て師為るべし」

 孔子先生は言われた、「古いことをしっかり学んで、そののち新しいことを知ろうとするならば、それはすぐれた師を得たようなものだ」

  これは「温故知新」として今日でもよく使われます。「温」は「たずねて」とも「あたためて」とも読まれます。

 現在は過去の集積ですし、未来の原因になりますから、新しいことを学ぶときは過去の成果や歴史などをあたらめて勉強してみればよい。そうすれば古臭いと思われることも良き師匠のように道を示してくれるということでしょう。


子曰、「其身正不令而行。其身不正雖令不従。」

 子曰く、「その身正しければ、令せずして行わる。その身正しからざれば、令すといえども従わず。」

 孔子先生は言われた、「その身が正しい生き方をしていれば、命令しなくても民は行動を起こす。その身が正しく生きていなければ、どんなに命令しても誰も従いはしない」

  これは為政者に身を正しく修めることが肝心であると説いたものです。「修身」は政治家こそが学ぶものなのです。


子曰、「君子和而不同。小人同而不和。」

 子曰く、「君子は和して同せず。小人は同して和せず。」

  孔子先生は言われた、「君子は道理に従って一つに和すが、他人に調子を合わせたりはしない。小人は仲良く調子を合わせているように見えるが、真に深い交流はしていない」

 
 君子は徳の備わった品格・人格の立派な人のことです。聖人君子と並列されることもあります。聖人は万人の仰いで師表とすべき人と辞書にあります。どちらも知徳の秀れたお手本となる人、あるいは理想的な人物像を示している呼称です。

  君子は人と交わるとき、仲良くするが道理からはずれてまでも一緒にいこうとはしない。つまり付和雷同はしないということでしょう。それに対してわれわれ小人は仲良く群れても道理に沿った深い協同調和はしないというのです。

 そういえば「君子の交わりは淡きこと水の如し」とも言います。心の奥深くで互いに響きあうものがあればべたべたくっついていなくても十分満たされた交流はあるのだということでしょうか。

 
 君子でなく、われわれ凡人にだって懐かしい心満たされた交流はありますね。否、そうした交流をしているとき、人は君子なのかもしれません。

 
 余談ですが酒に四君子という名を持つ商品があります。四君子とは「梅・菊・蘭・竹」のことで、君子の持つ高潔な美しさにたとえたものです。

 
 増永靜人先生は大病をされ、57歳でこの世を去られました。そのとき、ご自身を励まし叱咤されるためでしょう。論語から次の一節を引用されました。

 
子曰、「君子固窮。小人窮斯濫矣。」

  子曰く、「君子固(もと)より窮す。小人窮すれば斯(ここ)に濫(らん)す。」

  孔子先生は言われた、「君子といえども困窮することはある。しかしそれで乱れたりはしない。小人は困窮すると乱れて道に反するものだ」

  この一節のあと、次のように言われました。

 「健康を云々する人間が病気になるのは情けないと思うだろう。しかし、僕だって病気をし、年を取り、死んでいく。だからこそ治療ができる。考えてみなさい。もし僕が病気もせず、年も取らず、死なない鋼鉄のような人間だとして、そんな人間に治療ができるだろうか。そんな鋼鉄みたいな人間に治療してもらって病人はうれしいだろうか。患者は不死身で頑健な理想的な健康体を期待するだろうが、それでは病人に真に共感することはできない。そこからは死や老いが見えてこない。自分自身、いつ病気になり、死ぬか分からない脆弱な存在だからこそ、ここまで真剣に医療について考えてきたんだ。指圧という民間療法を医療の視点で再構築して医療の一端を担うものとして、思想的には医療の根本を為すものとして研究してきたのだ。僕だって病気になる。窮す。でも僕は孔子の言うように乱れたりはしたくない」

 
 この言葉は今でもわたしの心に深く沈殿しています。


 論語は我が国に最初に渡来した文献で、そのために最も日本人に好まれた古典となりました。古人は論語などの漢文の勉強を通じて、語学と同時に中国の哲学を学んだのです。

  それは後世になってドイツ語の勉強をすることで西欧の哲学を学んだのと同じ軌跡です。すなわち言語を通じて文化を学んだのでした。今日の英語学習の大きな欠点は、その実用性にのみ目を奪われて、英語によって築かれた文化の学習がおろそかになりがちなことです。

 
 言語と文化は不可避です。
 万国共通語という崇高な理想を抱いたザメンホフによって人工的に作られたエスペラント語が、その内に文化を有さないがゆえに逆に広がって行かなかったという皮肉な結果を生むことにもなったのはそのためでしょう。
 

〈後記〉

 七月七日は七夕祭りです。同時にこの日は経絡指圧の創始者であり、わたしの師匠でもある増永靜人先生のお亡くなりになった日でもあります。昭和56年(1981年)のことでした。大正14年生まれで享年57歳でした。

  決して長くない人生を指圧のために駆け抜けた方でした。最近、西欧で国際指圧シンポジウムが開かれましたが、海外では指圧と言えば増永靜人の影響なしには語れません。その日のパネラーのほとんどが先生の直接の教え子だったようです。

 最近、イギリス人がロンドンの指圧カレッジの教科書を持参しました。その本は完全に増永先生のものを踏襲していました。愚直と思えるほどに。もはや海外においてはバイブルの如しです。
 
 西洋医療を主体とした国家により制定された医療(正統医療)に対し、民衆の間で伝統的に保存されて来た医療を非正統医療もしくは代替医療(オータナディヴ・メディスン)と呼びます。アメリカや英国では医療費の高騰から代替医療に注目を集めています。その中には鍼や指圧も含まれます。

  19世紀まで人類を苦しめた感染症が正統医療によってほとんど駆逐されたことが、逆に民間医療に目を向かせることにもなりました。

  現代は仕事や人間関係からくるストレスから心身共にがちがちにされる社会になりました。その傾向はこれからもますます厳しくなるでしょう。そんなときこそ、指圧などの代替医療がもっと必要とされていくことでしょう。

 そのとき、論理的普遍性を持つ増永靜人先生による経絡指圧は有力な存在感を示していくに違いありません。
 

 それに引き換え、国内では指圧はあまりに低迷しています。
 わたしも微力ながら経絡指圧の普及に努めては来ましたが、残念ながら全く不如意に終わっています。しかしそれで諦めることなく、これからも、先生の意志を引き継いで、先生に「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」と心から安心していただきたいものです。

(游)