2021/05/21

俳句とからだ 175号 十年一昔十年一日

 連載俳句と“からだ” 175

 

愛知 三島広志

 

十年一昔十年一日

十年一昔。時の流れは速いので十年も経つと昔となるという意味だ。世の移り変わりの激しさを言う。反対に十年一日という言葉もある。長い間全く変化のないことを示し、どちらかといえば負のイメージがある。

 

20113111446分、東日本大震災が発生した。地震と津波、火災、そして原子力発電所の爆発。天災と人災が絡み合い死者16000名に及ぶ未曾有の災害となった。あれから十年。果たしてこの十年を一昔と括れるか。原発の処理など十年一日の如く全く進捗していない。損壊した家屋の再建も困難で、故郷に帰れない人も大勢いる。愛する人を喪失した悲しみ、生き残ってしまった苦しみ(サバイバーズギルト)は、人々の心に深い傷を刻み、傷口には未だ痂皮もできていないだろう。十年一昔というにはあまりに短い。

 

瓦礫みな人間のもの犬ふぐり  

高野ムツオ

 

その日、名古屋市内の病院で開催された地域医療連携の会合に出席していた。大きな揺れがとても長く続いた。急いでスマートフォンでニュースを確認し、東北で大きな地震が起きたと知った。帰宅後のテレビは、1527分に津波第一波到来、福島第一原子力発電所の全電源喪失を報せていた。

121536分、1号機が水素爆発を起こした。その映像は地元テレビ局が撮影し世界に発信されたが、当初日本のマスコミはごく一部でしか報道しなかった。旧知のイタリア人がイタリアからFacebookで映像を送ってくれ事実を知りえたが、日本の主要メディアは事実を把握しながら秘匿していた。不都合な事実は常に隠される。この報道の有り様も十年一日の如くである。

 

被災地から遠く離れて暮らす者にも暗澹たる日常が続き、心がいつも重い帳に包まれていた。平穏な日常と不穏な非日常が表裏一体であると強く思い知らされた。その頃以下の句を創った。

 

春の雷プロメテウスの炎を宥め

朝櫻濁世に生きてこののちも

鎮魂の櫻三分となりにけり

 

遠くに住む者の記憶は徐々に薄れ、十年一昔などと言いたくもなる。しかし帰還困難地域は現在も名古屋市ほどの広さがあり、一連の災害は、現地の人々にとって今も続く現実だ。一日千秋の思いで復興を待ち焦がれているに違いない。十年一昔と過去の出来事として記憶の外へ押し出すのではなく、十年という区切りの年毎に改めて思い起こし心に刻みつけるべきだろう。

 

鬼哭とは人が泣くこと夜の梅  

高野ムツオ

俳句とからだ 174号 岡田一実句集『記憶における沼とその他の在処』

 連載俳句と“からだ” 174

 

愛知 三島広志

 

岡田一実句集『記憶における沼とその他の在処』

『記憶における沼とその他の在処』(青磁社)は岡田一実(1976年生)の第三句集である。このタイトルは散文としては破綻している。本多勝一によると、誤読を避けるため修飾語の語順には4つの原則があり、単語の親和度の強弱によって配置転換が求められる。「記憶における」は「沼」のみに係るのか、「その他」にも係るのか。「の在処」は「その他」だけを受けるのか、それとも「沼とその他」を受けるのか。 

金原瑞人は帯文に「これは俳句の掟破りなのか、革命なのか」と記している。おそらくタイトルも敢えてご誤読を惹起しようという企みなのだろう。

 

火蛾は火に裸婦は素描に影となる

 

「影となる」のは裸婦のみか、灯火に群れる蛾の影も視界に飛び交っているのだろうか。炎と消えた火蛾の儚い命と対照的に、素描という影を与えられて裸婦の命が永遠性を獲得したとも読める。

 

瓜ふたつ違ふかたちの並びけり

 

よく似ていることを瓜二つという。一つの瓜を切った二つだからそっくりなのだ。縦に割った二切れが、実は微妙に異なっているという指摘だろうか、それとも単に違う形の瓜が二個並んでいるのだろうか。画は単純だが多層に読める。

 

裸木になりつつある木その他の木 

 

句集名にある「その他」が使われている。ここでは「裸木になりつつある木」と「その他の木」が並列され対比されているのだが、いや、そうではないかも…

 

囀をはづれて鳥や地を歩く

 

囀る群れと一羽の鳥の対比、地を歩くという経時が詠まれている。

 

このように分割と経時を示す表現がよく見られる。短い俳句に形と時間を意識的に重層的に読み込もうという試みだろうか。金原は、俳句は「世界を想起させる触媒のようなものだ」と思っていたが、この句集を読み「一句がそのまま世界として立ち現れる様を目にするような気持ちになってしまった」と告白している。

 

以下の句には誰もが共感する普遍的な体験が描写されている。

 

碁石ごと運ぶ碁盤や梅月夜 

室外機月見の酒を置きにけり 

 

句集の後半は特に生死を直視した深みのある句が多く登場し、前半の思索的俳句とは異なる作者の側面が読み取れた。 

 

墓いまだ吾の骨なしに灼けにけり 

死者いつも確かに死者で柿に色 

俳句とからだ 173号 視覚と経験

 連載俳句と“からだ” 173

 

愛知 三島広志

 

視覚と経験

 夜明け前の空を観るのが好きだ。20分ほど歩くと東方が一望できる高台に出る。暗黒の山稜や公園のタワーの向こうから赤い暁光が噴き上がる。赤色は中空に向かって薄まり橙から黄、黄緑から淡い青、そして濃紺の空へと移る。色彩の変化は虹の配列と基本的に同じだ。濃紺の空に金星が輝き、振り返ると西空に月が傾く。これは柿本人麻呂(660頃~724)の詠んだ

 

東の野にかげろひの立つ見えて

かへり見すれば月かたぶきぬ

 

と同じ光景だ。692年冬の作と伝えられている。宇宙の巡行とそれを記した歌の世界が時空間を超えて今ここに存在することに感動を禁じ得ない。

 

私達は外界からの情報を五感で受容する。五感とは視・聴・嗅・味・触を示す。中でも視覚から得る情報量は大きい。人間の情報処理は感覚、知覚、認知で表される。その違いは外界から情報が刺激として感覚受容器に入り興奮が生じると感覚知覚は対象を知ること、認知はさらに高次の処理で情報の選択、判別、決定、理解、記憶、推論、理解であるとされる。赤い林檎があると感覚は赤い光とそうでない部分の素朴な判別、それが赤い円形であると分かるのが知覚、そして林檎と理解するのが認知であるという。(「感覚情報の知覚メカニズム」工業技術院製品科学研究所清水豊氏の論文参照)

 

 夜明けの空の色彩を感覚受容器である目の網膜が捉えると、その情報は視神経を介して脳へ伝わる。色の感覚を知覚し認知した時、光の情報は心身に何らかの影響を及ぼし感情や思考へ影響する。それが連日のように明けの空へ私を導く動機となり、人麻呂の歌を想起させる。絵心があればその色を印象派の画家のようにカンバスへ塗り込めるだろう。詩心があれば詩歌の一つも詠むであろう。

 

古里は霜のみ白く夜明けたり 

山口青邨

 

 五感を研究しているのは最新科学だけでは無い。哲学者カントは我々のうちにア・プリオリに「形式」が存在し、感覚は空間の形式として知覚され、時間の形式の中に保存され一つの経験と為すと説く。つまり夜明けの空の色という空間に存在する情報を脳に伝え、記憶という時間に留めるということである。それによって外部情報は受容され、時空を保ち経験となる。それが言語化され詩歌として保存されると今度は読者の経験として感動を呼ぶ。

 

夜明けの空を眺める時、認知された色彩や形態の情報は時空を超えて宇宙と自分が一如となる貴重な認知経験となる。詩歌もまた共通経験として感動を呼ぶのだ。

 

ガンジスに身を沈めたる初日かな

黒田杏子

俳句とからだ 172号 近藤愛句集『遠山桜』

 連載俳句と“からだ” 172

 

愛知 三島広志

 

近藤愛句集『遠山桜』

 近藤愛は1973年生まれ。中学三年生から毎日新聞「女のしんぶん《楽句塾》」で黒田杏子選を端緒に俳句と関わってきた。

 

現代史読みかへす日も鳥渡る

 

第一章掲載の作品。「藍生」誌発表時に読んで大変感動した。鳥が渡るという季語と現代史の組み合わせ。それ以来、作者の印象はこの句に集約されている。

今回改めて句集『遠山桜』を通読して関心を抱いた句に触れていきたい。

 

集中「掃く」という言葉が多く登場している。「掃く」とは「刷く」であり、表面を掻いて刷新することだ。「掃く」は表面にあるものを掻いて排除すること。「刷く」は薄く塗ることだ。いずれも表面を清拭するように刷新して平らかにする。刷新された地表はカンバスのように可能性を生む。

 

掃き寄せて花屑の皆捨てらるる

 

美しく散った花びらも掃き寄せられれば花屑として廃棄される。作者の目は花びらより捨てられることへ向けられている。

 

落葉掃くお互ひに目も合はせずに

一生の仕事のごとく落葉掃く

 

一心に落葉を掃く人たち。その心は自分の内に向けられているのだろう。三昧境にあるのかもしれない。

 

掃除婦のピアスの光る小春かな

掃除婦の最後に拾ふくわりんの実

 

作者の関心は職として掃除する人たちへも向けられる。ピアスや花梨の実がその人達を祝福しているようだ。

 

秋蝶の死んでゆかうとしてをりぬ

死んだかもしれぬ秋の蝶探したし

 

この二句が句集の冒頭部と終末部に置かれている。その間二十年以上の時が流れている。近々やってくる死を纏った秋の蝶へ向けられた作者の思いは人々に共通するものだろう。それ以外にも「足許をいま秋蝶の発つひかり」「秋蝶の骸片付けられてをり」と、秋蝶の句がある。さらに次の句、

 

蝶の翅毀さぬやうに掃き寄する

 

何か大切なものを慈しむが如く蝶を掃き寄せる作者。命は果てても骸は残る。小さな蝶にも生じる生と死という現実をしっかりと見つめているのだ。それは自己を秋蝶へ投影しているだけではなく、冒頭の現代史の句に通じる自己の存在と自然の営みに共通する大いなるものへの洞察でもある。

 

以下の句は師黒田への呼応だろう。

 

悲しみのこぼれぬやうに葱刻む

(掲句は全て近藤愛作)

俳句とからだ 171号 日本の医療制度

 連載俳句と“からだ” 171

 

愛知 三島広志

 

日本の医療制度

医療は人類誕生と同時に自然発生した。病気、怪我、衰弱など心身の問題に対応するためだ。その後多くの経験に基づき民族固有の医療として伝承、国家等によって制度化された。経験的に発展していた医療を科学的知見と哲学としてまとめた人が古代ギリシアのヒポクラテス(460頃~前375)だ。「ヒポクラテスの誓い」は今日でも医師の指針である。その後イタリアのダ・ヴィンチ(14521519)の人間復興やフランスのデカルト(15961650)による心身二元論で人体を客観的に把握することが可能となり医療が医学となった。

 

 日本にも古来より伝承医療があった。そこへ中国の体系だった医療が入ってくる。そして701年、奈良時代の大宝律令で国の医療として制度化される。それは唐王朝の制度を参考にした医疾令である。医療を行う係として典薬寮があり、その中に医生、針生、按摩生、咒禁生、薬園生が明記されている。役に就いていたのは多くが帰化人やその子孫であった。ところが平安時代から国の医療制度は消滅する。次の成立は明治であり長い空白期間は僧侶が僧医として医療を担った。また奈良時代の医家が代々家伝の術として伝えてきた。

 

 現代史読みかへす日も鳥渡る 近藤愛

 

行政が行った有名な医療施設は奈良時代の730年に光明皇后が起こした施薬院(悲田院という孤児院もあった)、江戸時代の小石川療養所(1722)などがある。施薬院は薬種商を管理し室町時代には薬商人が制度化されていた。また江戸時代、有名な富山の薬売りは諸国を歩いて薬を販売していた。これは富山藩の経済振興策でもあった。

明治政府は西欧化を急ぐため様々な制度を実施した。医療制度は我が国伝来の漢方か西洋医学かで協議され、伝承では無く客観的科学に基づく東大医学部を中心とした西洋医学を国の医療として制度に取り入れた。そのため漢方は日陰の存在となり庶民の間で細々と、しかし連綿と維持継続された。現在、漢方は一部の医師の努力で復権し漢方薬は保険制度に取り入れられている。鍼・灸・按摩は江戸時代から視覚障害者の生活を支える術としての側面もあり、教育機関や試験制度が整えられ国家資格として現代社会に認知されている。

 

 医療は仏教の説く四苦である生老病死に対応する術である。これは制度化せずとも自然発生し民間に深く入り込み庶民を助けてきた。しかし経験主義による技術は危険なものや法外な料金を取る悪徳者もあり、国家制度として監視下に置かれ人々に寄与している。医療が身近にあって必要なとき適切に受けられることの恩恵はコロナ禍において改めてありがたいことと認識される。これは歴史的に希有のことなのだ。

 

 生死如是病苦また如是花が咲く

松本たかし

俳句とからだ 170号 俳句と原始感覚

 連載俳句と“からだ” 170

 

愛知 三島広志

 

俳句と原始感覚

 新型コロナウイルスのため仕事が消滅した時期があった。読書でもしようと書物を渉猟していたとき宮坂静生(敬称略以下同)に『俳句原始感覚』(本阿弥書店)という著書があると知り取り寄せた。原始感覚という言葉に惹かれたのだ。何故ならそれは私の仕事である指圧の用語でもあるだからだ。恩師増永静人の著書『経絡と指圧』(医道の日本社)には原始感覚とは外部の対象を判別知覚する判別性感覚に対して「生体内部の状態を受容する運動・平衡(位置)・有機(深部覚)などの感覚、(中略)この感覚は生体の基本的生命活動と結びついていて(以下略))とある。眼や指先で感じ取る緻密な判別性感覚では無く、内臓感覚のように知的処理されない漠然とした感覚なのだ。

宮坂の著書では原始感覚を「宇宙的自然が開発という美名のもとに破壊され、人間精神のうちなる自然(原始感覚といいたい)が荒らされること、今日以上なるはないと思われる」(「山林的人間」・永田耕衣)と耕衣の言葉で説明している。また宮坂は同書のあとがきで「米を作り牛馬を飼育する定住生活者(弥生文化)の安定した論理や感覚では無く、もっと遡った狩猟採集時代の移住生活(縄文文化)がもっていた原始感覚を身につけなければいけない」と書いている。

原始感覚とは知的に明確に判別できるものではなくいのちを直観する感覚なのだ。私は増永静人にこれは西田幾多郎の純粋経験ではないかと尋ねたことがある。師の「自分の師匠の師匠は西田だよ」とニヤリとした笑顔を今でも覚えている。

編著『季題入門』(有斐閣新書)第七章「季題の歴史」に山下一海は季語・季題を「古くは季の詞、四季の詞、季の題あるいは単に季といった。『季題』の語は明治四十年ごろ河東碧梧桐らが用いだしたといわれ『季語』の語は明治四十一年に大須賀乙字が用いたのが最初」と記している。宮坂は『季語の誕生』(岩波新書)で「雪が冬の季題として決められていく。それは冬と季節を限定されることで安定したイメージを獲得すると同時に、失うものも多いことを思わせるのである。季題の成立は私的幻想を失い、新たに共同幻想を獲得することばの危うさに立っていたのである」と言葉の固定観念化や共同幻想化への危惧を述べている。

宮坂は同じ『季語の誕生』で江戸期は心が身体を縛る時代と書いている。芭蕉の敬慕した平安時代の西行が身と心の分裂を正直に告白した歌として「吉野山梢の花を見し日より心は身にもそはず成にき」を上げ、芭蕉はそのため「日々旅にして、旅を栖とす」る旅寝を重ねることで心からからだを解放したのだと言う。解放された純粋な感覚こそが原始感覚であろう。

黒田杏子の説く「季語の現場」とは季語という言語と向き合うだけでなく、季物と無心に純粋に対峙した我が身中に湧き上がる縄文的血潮を原始感覚でそのまま感じ取ることだ。黒田はそれを地霊といい、宮坂は地貌と呼ぶ。それはその地に刻み込まれた景物と人とのカオスなのだ。

俳句とからだ 169号 石鼎の闇

 連載俳句と“からだ” 169

 

愛知 三島広志

 

石鼎の闇

 宇宙の写真を眺めるのが好きだ。闇に白く輝く天体。地球もまた闇の中で太陽に照らされ青白く輝いている。外に出て宇宙を見上げると星が様々な色で瞬いている。星には光りの玉として自ら輝く恒星と太陽に照らされた惑星がある。

この夏はことさら暑く、散歩は日が沈んでから出掛けた。今年は土星と木星が大接近する年なので見上げると夜散歩の目を楽しませてくれた。近くに月も見える。そして改めて宇宙は闇であると実感した。名古屋市内でも里山へ行くと木々が高層ビルの光を遮るので漆黒の空が見える。夜目に馴染むと多くの星座が浮き上がる。郊外へ出ればなおさらだ。

 

山国の暗(やみ)すさまじや猫の恋

原石鼎

 

しかしここ何年も本当の闇を観ることがない。半世紀以上前、祖父母の家を訪れるとそこには江戸時代とさして変わらないであろう闇があった。駅から鼻の突き出た旧式のバスに乗る。バスは山道をうんうん唸りながらのろのろと登る。バス停を降り、バスが去ると真の闇が生まれる。道も路傍の草も空より暗い。街灯のない道を星明かりで探るように歩き出す。道の遙か向こうから「谷家」と描かれた提灯が近づいてくる。祖父が声を掛けてくる。蝋燭の揺れる灯りで足下を照らしながら尾根道に出ると谷の所々に民家の灯がささやかに点っている。何しろ隣家まで数百メートル離れた山村だ。白く光るのは農業用溜池。遠く瀬戸内海も光りを放ち、空には銀河が尾を為す。空は明るいのだが足下は暗黒で慣れない山道には難渋する。

 

山国の闇恐ろしき追儺かな  同

 

 「あそこに森があるじゃろ。あの下の畑に猪が出て芋を食うてしもうて困っとるんよ。上手に掘り起こすけんのう」孫達を驚かすように些か大仰な祖父の語りだ。目を凝らして見つめると畑は仄白く浮かび上がる。「この前は鼬が鶏小屋を狙っとったんじゃ」と続ける。尾根から細い谷道を下ると右手に鶏小屋と納屋、左手に母屋と蔵が浮き上がる。鶏小屋には月明りを反射して鼬を脅すため鮑の殻がぶら下げてある。柵の根元には鼬の掘った穴。

 

淋しさにまた銅鑼打つや鹿火屋守 同

 

 原石鼎(18891951)が1912年(明治45年)7月から1913年(大正2)10月まで過ごした深吉野は石鼎俳句開眼の地と言われるが、その闇の深さは掲句通り凄まじい恐ろしさを湛えていたことだろう。なにしろ私の子ども時代の闇の記憶からさらに半世紀以上遡った深吉野だ。その真の闇の奥から響く恋猫の声、節分の寒極まる闇に発せられる追儺の声、山の中の鹿火屋の淋しさを紛らわす鐘の音。光りの無い世界に確かなものは音声なのだ。

 

 月の猪祖父の語りの大仰に  広志

俳句とからだ 168号 なつはづき句集『ぴったりの箱』

 連載俳句と“からだ” 168

 

愛知 三島広志

 

なつはづき句集『ぴったりの箱』

なつはづきは第36回現代俳句新人賞と第5回摂津幸彦記念賞準賞を受賞した注目の作家だ。後進の指導や主宰する句会を通じて積極的に俳壇と関わっている。

 

はつなつや肺は小さな森であり

身体から風が離れて秋の蝶

 

これらの句に代表される身体感覚を精緻に表現する作家として知られている。表記は口語体で俳句の伝統的言語である歴史的仮名遣いとは一線を画している。これは言葉の背負う歴史的な色合いを消すためだろう。

 

ぴったりの箱が見つかる麦の秋

 

句集名の由来となった句だ。作者はあとがきで「ぴったりは心地よくもあるし、窮屈でもあります。この矛盾する感覚がとても大事」と書いている。この言葉と句集を通読した印象から「矛盾」が句集のキーワードであると感じた。

 

タイトルになった箱とは何であろうか。箱は物を収める器だ。比喩的に考えると結界である。外の世界から内部を隔絶する。外部から内部を守る場合もあれば、閉じ込めて自由を束縛する場合もある。それが箱という存在あるいは概念そのものに潜む矛盾だ。

 

啓蟄や海が空まで溶け出して

菜の花やこの先にある分かれ道

 

 物質や時間から何かが拡大延長していく。海が結界を越えて空まで溶け出し拡がる。海と空が混然と解け合うところに新しい世界が生まれる。しかし同時に海も空もすでにそれらの性質は失っている。これが矛盾だ。今ここという時空間の先にある分かれ道は拓かれた未来だが、そこには今もここも無くなっている。しかも待っているのは分かれ道という不安な選択だ。これは明るい菜の花に内包される仄暗い矛盾であろうか。ものごとは常にこうして相反する矛盾の中に存在している。

 

春昼を淡く濁して筆洗う

今日を生き今日のかたちのマスク取る

 

筆を洗えば水が濁る。こうした質的転換も矛盾の特性である。私達は安定した日々とその中に潜む生々流転の矛盾の中に生きている。今日を生ききったマスクは今日一日の形状を記憶している。如何なる表情をしているのだろうか。明日は今日の延長かそれとも否定か。脱いだマスクとマスクから現れた顔に興味が尽きない。

 

以下の句にも惹かれた。

 

やわらかい言葉から病む濃紫陽花

冬いっぽん言葉の端に立てておく

毛糸編む噓つく指はどの指か

句集『式日』安里琉太を読む

連載俳句と“からだ” 167

 

愛知 三島広志

 

句集『式日』安里琉太を読む

 『式日』(左右社)は新鋭安里琉太(1994年生)の第一句集である。名前から想像できるように沖縄県出身で、俳句甲子園全国大会に出たことがあるという。句集全体の印象は構成が緻密で、静謐ながらもかなり挑戦的である。栞や章立てなど句歴十年の若い才能の仄めきを充分に知らしめる句集となっている。表紙に書かれた「到来し、/触発する/言葉。//書くことは、/書けなさから始まっていると、/今、強く思う。」は安里の書くことへの認識の深さを示して共感できる。書く対象は内在するが言葉は彼方から到来するのだ。両者の幸福な出会いが一句に結実する。

読み進めていくと「瓶」や「枯・涸」といった謎のキーワードに引っ掛かる。否、引っ掛けられて立ち止まる。

 

並べたる瓶に南風の鳴り通し

空瓶は蜥蜴を入れてより鳴らず

初雪が全ての瓶に映りこむ

コスモスの中の蛇口が枯れてゐる

式日や実柘榴に日の枯れてをる

涸るる沼見てをれば背を思ひだす

 

どの句も写実の顔を見せているようだが実は一筋縄では読めない。句がメタファーとして立っているからだ。瓶、南風、蜥蜴、初雪、コスモス、蛇口、式日、実柘榴、沼、背、涸れ。これらの言葉が重層な意味を含みつつ胸を抉ってくる。言葉達が共闘してこちらに訴えてくる。

 

 集中、先人へのオマージュも多く見られた。そこまでやるかとにやりとさせられる。

 

 あをぞらのさみしさにふる種袋

 しづけさに五月のペンは鳥を書く

 ひかり野に蝶が余つてゐるといふ

饑ゑつくす蛇の眠りはみづのやう

たそがれの雲間の凧をふと見たり

 

それぞれ原石鼎、寺山修司、折笠美秋、赤尾兜子、高浜虚子が顔を出す。ここにも作者の強かさを垣間見ることが可能だ。俳句の歴史を負うという決意の現れか。いずれも模倣や剽窃ではなく、本歌取りでもなく、先人の精神をなぞろうとしているようだ。伝統とはまさに先人の誠に迫り、かつ後輩へ繋ぐ努力をすることだ。安里の句は先人の句をなぞりつつその深奥に触れ、己の句として再構築していると思える。

 

岸本尚毅の文体に似た句を幾つか掲載しているが、これらもその一環であり先人への畏敬と挑戦と思われる。

 

ひいふつとゆふまぐれくる氷かな

なつかしき雨を見てをる麦茶かな

 

著名な岸本の「手をつけて海のつめたき桜かな」を彷彿とさせる。中七から下五への流れが繋がりつつ寸断されているのだ。以下の句も感性も素晴らしい。

 

摘草やいづれも濡れて陸の貝

永き日の椅子ありあまる中にをり

俳句とからだ 166号 きずな

 

連載俳句と“からだ” 166

 

愛知 三島広志

 

きずな

 コロナ禍の中、社会的繋がりを促す言葉として「きずな」がしばしば使われる。さかんに「きずな」と言われ出したのは、おそらく2011年の東日本大震災の頃だろう。この時は地震直後の津波、原子力発電所の爆発と想像を絶する災害となった。死者18428名、避難者47万人という被害の大きさに人々は何らかの救いを求めた。それがみんなの心を結びつける「きずな」という共通語になった。多くの人々の助け合いを励まし、促す目的で用いられたような気がする。

 

酒断って知る桎梏のごとき夜長

 楠本憲吉

 

しかし「きずな」からは助け合おう支え合おうという思いこそ伝わるが、某かの違和感を禁じ得ない。そこで改めて広辞苑第七版で「きずな」を調べてみた。

きずな【絆】

①馬・犬・鷹など、動物をつなぎとめる綱。②断つにしのびない恩愛。離れがたい情実

ほだし【絆し】

①馬の脚などをつなぐなわ。②足かせや手かせ。③自由を束縛するもの。

 

「きずな」はもともと馬の足をつなぎとめる綱であり、歴史的仮名遣いでは「きづな」と書いた。動物に科された桎梏である。道理で「きずなが深まる」という表現に違和感を覚えたはずだ。「きずなが強まる」が適切だろうか。いずれにしても「きずな(きづな)」には人心を束ねるある種の圧力を感じる。

 

束ねるといえば、ある音楽家からファゴット(fagotto伊 bassoon英)という楽器は薪の束という意味だと聞いたことがある。長い楽器なので仕舞うときは分解して薪のように束ねるかららしい。彼はこの語はファシズム(fasicismo)と語源を同じくするとも教えてくれた。語源はラテン語のfascesで、斧の周囲に木の棒を束ねて権力や団結を表し、古代ローマでは儀式に用いられた。第二次世界大戦中に存在したファシズム政権のイタリア社会共和国の国章には、現在のイタリア国旗と同様の赤白緑の地に、結束や団結を象徴するfascesが描かれていた。

 

戦国武将毛利元就に三本の矢を示して子ども達を諭した逸話がある。この話は中国の西秦録やモンゴル民話、イソップ寓話にもあるが、元就の話は矢を束ねると強くなるように兄弟仲良く結束しろという美談とされている。これが権力の側から命じられたり集団圧力となったりすると不気味だ。群衆は予期せぬ方へ結束や団結を強いられてしまう。

「きずな(きづな)」に対する違和感がどうしても拭えないのはこうした諸々の理由からなのだろう。

 

寒い鍵束おのおの持ちて鳥の群

栗林千津

2021/05/10

俳句とボクシング

 俳句とボクシングという奇妙な文章を掲載して頂きました。

「体育+俳句」【第4回】三島広志+ボクシング | セクト・ポクリット (sectpoclit.com)



 

碧梧桐とはよく親しみよく争ひたり

たとふれば独楽のはぢける如くなり 高浜虚子

昭和12320日『日本及日本人』碧梧桐追悼号

 

 

 

19741030日、ザイール共和国(現コンゴ民主共和国)の首都キンシャサの「520日スタジアム」に於いてプロボクシングの歴史的試合が行われた。グローブを交えたのはWBAWBC世界統一チャンピオン、ジョージフォアマンと挑戦者モハメド・アリである。後に「キンシャサの奇跡」と呼ばれるこの試合はボクシングはおろかスポーツというジャンルを超えて今日でも語り草となっている。アフリカで行われたのは二人のルーツがアフリカだからという触れ込みだった。

 

 この試合は日本時間の30日午後1時からテレビ放映された。夜には再放送されるが待ちきれない人たちはデパートの電化製品売り場のテレビに群がった。当時20歳の大学生だった私も授業をサボって駅前デパートのテレビの前に陣取って試合を待った。

 

チャンピオンのフォアマンは「象をも倒すパンチ」と形容されるハードパンチャーである。当時ヘビー級のトップで鎬を削っていたジョー・フレージャーやケン・ノートンを2Rで倒して向かうこところ敵無しという圧倒的な強者だった。1949年生まれで貧しい家庭に育つ不良少年だったがボクシングで更生、1968年メキシコオリンピックのヘビー級金メダルを獲得。25歳の若さ溢れる怖い物知らずのファイターだった。

 

対するアリは1942年生まれで当時32歳。1960年、ローマオリンピックのライトヘビー級で金メダル。1964年に22歳の若さでヘビー級チャンピオンとなる。それ以降本名のカシアス・クレイを改めイスラム教徒としてモハメド・アリと名乗る。脚を止めてど突き合うだけのヘビー級に軽量級のフットワークを取り入れ「Float Like a Butterfly. Sting Like a Bee.

(蝶のように舞い、蜂のように刺す)」と形容された。しかし、ベトナム戦争への徴兵を拒否したことから1967年に王座を剥奪された。徴兵拒否の理由は「I aint got no quarrel with those Viet Cons.(俺にベトナム人を殺す理由は無い)」ということだという。アリの徴兵拒否は大きな社会問題となり、公民権運動とも関係した。リングではなく法廷でも闘ったアリに対して連邦最高裁は19716月、アリの有罪判決を破棄することとなる。37カ月のブランクの後、1970年に復帰したが、奇しくもフォアマンに叩き潰されたフレージャーに初の判定負け、ノートンには顎を砕かれて判定で敗れてしまう。その後両者に勝利してフォアマンへの挑戦権を得た。

 

 

試合は今でもYouTube George Foreman vs Muhammad Ali - Oct. 30, 1974 - Entire fight - Rounds 1 - 8 & Interview - Bing videoで観ることができる。1R、積極的に攻撃するアリ、対抗するフォアマン。しかし次第にアリはロープを背負い、さらにはロープに腰掛けての防戦が続く。顔をガードしボディーを打たせるが、巧みにフォアマンの後頭部を押さえパンチの威力を削ぐ。隙を見せれば鋭いパンチが顔を射貫く。攻めるフォアマン、守るアリ。次第にフォアマンを焦りと怒りが縛り付ける。「どうして効かないのだ」とセコンドに怒鳴る。アリは打たれながらも「どうした、おまえのパンチはこんなものではないだろう」と挑発し続ける。攻めあぐねるフォアマン、守りつつ虎視眈々と機を覗い、時に激しいパンチを放つアリ。やや膠着したような状況が6R7Rと続く。苛立つのはフォアマンだけではない。会場の観客も世界中の視聴者も苛立ちを募らせていった。そしてフォアマンの疲労が明らかになってくる。打ちながらアリに凭れるシーンもあった。後にこの戦略をアリは「Rope a Dope(ロープの麻薬)」と呼んだ。フォアマンはロープを背負うアリを攻めつつ体力をすり減らす。まさにアリ地獄に堕ちたのだ。

8R、同じような展開である。アリは科学者のように冷徹な顔でフォアマンの心身の疲労度を観察し、ついに残り12秒、アリのパンチが5発鋭くフォアマンを打ち抜く。フォアマンはアリの前にゆっくりと半円を描くように倒れ込む。それはパンチが効いたというより心をへし折るパンチだった。8カウントで立ち上がったがレフェリーはフォアマンのダメージを考慮してそのまま10カウント、アリの勝利を告げる。

 

全盛期かつベビー級史上最強と思われたフォアマンと、全盛期を法廷闘争と大学でのスピーチに費やしたロートルのアリ。誰もがアリの勝利を祈りつつ無理だと思っていた試合の予期せぬ結末。かくして「キンシャサの奇跡」と呼ばれることになった。

 

アリは黒人差別と闘い、徴兵拒否で国家と闘い、その後パーキンソン病とも闘った。リング以外でも戦い続けたファイターだった。現役引退は1981年。1990年、湾岸戦争ではアメリカ人人質を救出するため病気をおしてイラクへ出向き大統領と面談の末成功。アトランタ(1996)やロンドン(2012)のオリンピックでは開会式に登場して人々を喜ばせた。2016年、74歳で死去。今日でも多くの尊敬を集めている。

 

フォアマンはアリ戦後、一年間休養して復帰。良い戦績を挙げ、後一勝すればアリへ挑戦できるところまで来たが、その試合の後半で失速して最終ラウンドにダウン、判定負けとなる。試合後ロッカールームで昏倒しイエス・キリストの存在を確信する神秘体験をする。後日「神の啓示を聞いた」と語っている。それを契機にキリスト教の牧師に転向する。28歳のことだ。そしてヒューストンの自宅近くに教会を建てると同時に若者の更生施設「ジョージ・フォアマン・ユースセンター」を開設する。嘗て貧しく荒んだ生活を送った自分のような若者に場所とチャンスを提供するためだ。しかし諸処の理由で資金難となり1987年、10年のブランクの後、ボクシングに復帰する。太った身体に人々は正気かと疑ったが1994年、20年ぶりに世界チャンピオンとなる。45歳のことだ。1997年を最後にリングには上がっていないが、その間様々な団体のチャンピオンを獲得した。引退宣言はしていないという。現在72歳、ヒューストンにあるTHE CHURCH OF THE LORD JESUS CHRISTで牧師をしている。

 

アリとフォアマンの違いは何だったのだろう。勢いと馬力で勝利を積み上げていた若いフォアマンに対して、アリはすでに全盛期を過ぎ「翅を失った蝶、針を無くした蜂」となっていた。そこでアリはフォアマンが短期決戦型であることを見抜いて戦術プランを立てた。アリは闘志と冷静さを併せ持っていた。世阿弥に「離見の見」という言葉がある。自分を離れて自分を見るもう一人の自分がいる。アリは激しい闘志と同時に自分を澄んだ気持ちで相対化する能力に長けていた。独楽が高速で微動せずあたかも止まっているかのように立っているときの状態を「澄む」という。アリは激しい闘いの渦中にいながら自らの心は独楽のように澄んでいた。フォアマンの厳しい攻撃を冷静に凌ぎ、隙あれば素早いパンチで仰け反らせる。一方のフォアマンには目の前の対戦者アリしか見えていなかった。自分のコンディションも戦略も見失った。結局ほとんど何もできないままリングに横たわってしまった。しかし、神の啓示を受けてからの彼はまるで別人と化し全く異なった人生を歩むこととなる。カムバックして闘う理由も教会の維持、貧しい子ども達を救う施設継続の為の資金を得ること、そしておそらくは何も出来ないままアリに負けた過去を改めて乗り越えるためだったのだろう。神と伴に生きることで自ずから「離見の見」を得たのではないか。

 

俳句は闘いでは無い。しかし自分の目指す方向へ力強く闘いを挑むが如く歩を進めた先人がいる。正岡子規、そして高浜虚子と河東碧梧桐だ。子規がいなければ、またもし彼が俳句に手を染めなければ、今日の俳句の世界は実に殺風景なものだったろう。そして子規の両翼を担った虚子と碧梧桐。運命の神によって計られたかのように出会った二人は、夭折した子規の志を受け止めつつ俳句の世界をおのおのの思想で展開していった。

 

平井照敏は講談社学術文庫『現代の俳句』のあとがき「現代俳句の行方」で「俳句を律する二要素に詩と俳(新と旧)という二つの因子をとり出し、その二因子の相克によって、近代の俳句史が展開してきた」と説いた。照敏はこの説を他の多くの著書でも展開している。要約すれば「俳」は「伝統、守旧、俳句性」、「詩」は「文学、芸術などを含む。俳句を新しいものに変えようとする欲求」となる。芭蕉は「詩・俳」二つの因子を合わせ持ち、蕪村は「詩」的傾向が強く、一茶は生涯を通じて「俳」を生きた。子規は「俳・詩」のバランスの取れた革新者であり、碧梧桐は「詩」を求めて猛進し自己分裂したが後のさまざまな俳句運動の萌芽となる。虚子は碧梧桐の暴走的な動きを危惧し「ホトトギス」を基盤として「俳」を守りながら大衆化を歩んだ。大衆化の停滞を嫌った秋桜子は「詩」を指向して「ホトトギス」を飛び出す。秋桜子の行動が後の新興俳句や人間探求派の端緒となる。戦後は表現や志向が複雑化しこれら二因子の相克では説明が困難となってきたが前衛俳句や社会性俳句の「詩」傾向から澄雄や龍太による「俳」への復権を経て今日に至っている。以上が平井照敏の説く俳句史観である。

 

現象の中に相反する因子テーゼ「正」とアンチテーゼ「反」を見出し、両者をアウフヘーベン「止揚」してジンテーゼ「合」が産まれ、ジンテーゼが新たなテーゼとなって次々と思考が運動することを弁証法性といい、その思考方法を弁証法という。最も身近な弁証法は対話である。照敏の詩と俳という二因子の相克とは弁証法に他ならない。

詩と俳の二因子は互いに影響し合いながら変化発展してゆく。方向性を間違えれば破綻へ向かうこともある。碧梧桐の独楽が弾けるような激しい改革から新傾向、自由律、無季や無中心、ルビ俳句と変化し、そのうねりへのアンチテーゼとして虚子が守旧派の旗を掲げて俳壇へ回帰するという大きな波が興った。虚子と碧梧桐は独立した存在だが同時に互いに影響し合う存在でもあった。つまり相対的独立と言える。対立する両者が影響し合うことを対立物の相互浸透と呼ぶ。一見すると相反する二人の活動が実は今日の俳壇や俳句表現を動かす基礎力になっているに違いない。マルクスの言葉を借りるなら「両者のおのおのは、みずからを完成することにより他のものを創造し、みずからを他のものとして創造する」となるだろう。(筆者は平井照敏の結社「槇」に所属していたことがある)

 

互いの力を認め合う相対的独立にある二人は刹那的な勝ち負けに関係なく切磋琢磨できる。その渦中では理解できなくとも闘いを離れて彼の存在が我を鍛えてくれたと思えるとき互いを認めることができる。矛盾しているようだが、そもそも先述したボクシングなどの格闘技は相手を信頼していればこそ思い切って打ち込める。自分の攻撃を受け止め躱して怪我をしないと信じればこそ全力で打ち込むことが可能となる。ボクシングは互いを傷つける喧嘩ではない。華々しくショーアップされた奥には選手同士の深い信頼関係があればこそ真剣に思い切って闘える。だからこそそこに素晴らしい相互浸透的な技の応酬が生じる。互いが互いの良さを引き出すのだ。音楽のセッションとよく似ている。

 

繰り返すが俳句は闘いでは無い。しかし虚子と碧梧桐は子規亡き後、それぞれの信念に基づいて別の道を歩み、異なる俳句観を実践した。互いの存在があればこそ自らの方向も明らかにできたのだ。だからこそ碧梧桐の訃報に触れた虚子は「碧梧桐とはよく親しみよく争ひたり」と感慨を述べた。親しむことと争うことは同根なのだ。虚子は

 

たとふれば独楽のはぢける如くなり

 

と追悼の句を詠んだ。これは喧嘩独楽のことだろう。茣蓙で拵えた円形の土俵で二人が独楽を回し相手の独楽を弾き出す遊びだ。しかし掲句の場合、争うと言うより弾けるように激しく回転した碧梧桐の生き方を詠んでいる。

 

キンシャサの闘いでフォアマンとアリは独楽のようにぶつかり合った。最後、フォアマンは力尽きてアリを中心に半円を描いてゆっくりと倒れた。弾けはしなかったがまさに独楽が回転を止め、安堵するようにゆっくりとリングに落ちた。当時その試合を観ながら時間が止まったように感じた。リングに横たわるフォアマンと彼を見守るようにすっくと立つアリ。闘いは一人では不可能である。二人のファイターが互いの闘志と信頼の元に激しく拳を交える。その時点では明らかに勝者と敗者に分かれる。しかし、そこからが本当の人生だ。勝ったアリも敗者となったフォアマンもそれは過渡期のこと。それ以後の人生の有り様を含めて「キンシャサの奇跡」と呼ぶべきであろう。あるインタビューでフォアマンはアリの死を知った後こう答えている。

 

「自分の一部が無くなったように感じた。でも数日が過ぎ、アリは今でも自分の身体の中に生きている。私の中に彼がいる、と思うようになった。今日、この瞬間も、そう感じながら生きているよ。」 大地に根を張って生きる"BIG"ジョージ・フォアマンの言葉(林壮一) - 個人 - Yahoo!ニュース