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2023/11/09

俳句と“からだ” 200 まなざし(黒田杏子先生追悼) 

 藍生俳句会の月刊俳句誌『藍生』に連載した「俳句とからだ」。丁度200回で終了した。これは黒田杏子先生の逝去によって藍生俳句会が幕を閉じたからだ。

黒田杏子先生にはたくさん書く機会を頂いた。ただ感謝するのみである。数日前、藍生俳句会の事務局から完全に会が終了する旨の連絡があった。黒田杏子先生の生涯のパートナーで写真家の黒田勝雄氏のご挨拶も同封されていた。この文章は「俳句とからだ」というタイトルにもっも相応しい内容になったと思っている。
今後会員はそれぞれの俳句の径に散っていく。
黒田杏子先生、運営に携わったスタッフの皆さん、藍生の会友、ありがとうございました。


花は咲き、花は散り、季節は一気に過ぎ去った。その間に黒田杏子先生も逝かれてしまった。山梨県で講演をされた翌日。巡礼者として生涯を全うされた。

 

みな過ぎて鈴の奥より花のこゑ 杏子

 

大きな喪失感を埋め合わせるため俳句を詠んだ。多くは桜と黒田先生に関係のある句となった。ところが推敲しようと読み返しているときあることに気づいた。俳句を詠むとき自分のまなざしだけで無く、同時に常に黒田先生のまなざしにも包まれていたのだ。勿論我々はあらゆるとき、自分と他者のまなざしを共有して物事を見ていることは知っている。大人とは、社会人とはそうあるべきである。実生活において自分の行動を相対化し、俯瞰して律することこそ道徳的に成長した人間である。

 

花を待つひとのひとりとなりて冷ゆ

杏子

 

実生活から離れた俳句などの創作においても鑑賞者を思いながら普遍的表現と独創的表現の狭間を模索する。それは自分の個性をどのように表現するかという作家的意識だ。そのことは十分理解していた。しかしそこに黒田先生のまなざしが常に自分を支えるように存在していたことに師を失ってから気づいたのである。

 

花巡る一生のわれをなつかしみ 杏子

 

黒田先生との縁はおよそ四十年前に遡る。今は無き牧羊社から刊行されていた総合誌『俳句とエッセイ』が若者向けに始めた雑詠欄「牧鮮集」の選者と投句者の関係だ。その後その関係は黒田先生創刊の「藍生」に移り、三十年以上継続した。その間、師弟関係は存在するのが当たり前のこととして無意識化されていた。

自分が俳句を詠むとき、読み手としての黒田先生のまなざしが無意識の下で影響していたのだ。自作の良し悪しを自分で判断するときも常に黒田先生のまなざしが方向を示して下さっていたのだった。

 

黒田先生亡き後、このまなざしはどうなるのだろうか。おそらく黒田先生のまなざしはこれからも変わらずに自分の脳裏で作品を照射することだろう。年月を重ねるうちに師のまなざしはすっかり身体化しているからだ。

 

黒田杏子先生。長い間大変お世話になりました。ありがとうございます。師恩の本当の深さや広さは未だ見えておりません。しかし、これからも我が句作の指針としてお導きください。身体化した黒田先生のまなざしは今後も圧倒的な力で私を指導し続けることでしょう。私はそれをさらに深く学び直します。これこそ師恩に報いることに違いありません。

 

花に問へ奥千本の花に問へ 杏子

俳句と“からだ” 199 歳時記 鮓 

 


俳句初学の頃、先輩から「馬手に歳時記、弓手に字引」と教えられた。ともかく小まめに歳時記と向き合い、辞書を引けという指導だ。

 

比較文学研究者前島志保氏の書評によると、東聖子・藤原マリ子編『国際歳時記における比較研究――浮遊する四季のことば』(笠間書院2011年)において、歳時記には「①一年中の季節に応じた祭事、行事、自然現象など百般についての解説を記した書。②誹諧で、季語を四季順に整理、分類して解説した書物。季寄」の二種類があるとされている。また同書中の東聖子「『増山井』における詩的世界認識の方法」では、なぜ北村季吟・湖春親子の『増山井』が現代の歳時記スタンダードとなったのかについて論じられる。季吟が刊行した『山の井』が初めての独立した季寄せであり、「現代の歳時記の形式そのものである」として、「季吟が新文学の誹諧における〈俳言〉の重要性を認識していたことがわかる」と述べられている。中国と朝鮮半島には「①の意味での歳時記のみが存在している」ともある。

 

鮒鮓や三たび水打つ石暮れて

水原秋桜子

 

『俳文学大辞典』(角川書店)の「歳時記」の項に「歳時記の名称は本来、中国の『四民月令』『荊楚歳時記』など行事歴・生活歴に関する書」と書かれ、「詩歌の暦としての歳時記の先蹤としては、十世紀後半に成った『古今六帖』の歳時部が挙げられる」とある。俳句を作るとき参照するのは②に分類される歳時記であり、これは明確に「俳句歳時記」と称するべきではないだろうか。

 

 今月の季語は「鮓」を取り上げる。鮓は通年の食物だが季語としては夏に分類される。何故なら元来鮓は夏、鮒鮓のように魚の腹に飯を詰めて作る発酵食品だったからだ。近世以降特に関西では箱鮓(押し鮓)が一般化し、江戸後期には今日の主流である握り鮓が広まった。

 

鮒ずしや彦根が城に雲かかる  蕪村

 

季語は季節の客観的事物や事実のみならず人々に共通の歴史的・社会的認識も備えている。例えば鮒鮓は鮓実体を超えて近江の歴史や琵琶湖の波風を纏っている。さらに季語には作者個人の経験も絡みつく。句が鑑賞されるとき読み手の思いも重ねられる。字義通りに読んだとしても自ずから作者の表現を超えた読み手の世界が産まれる。私事ながら箱鮓は夏休みに母の里を訪れた時、祖母が必ず作ってくれたご馳走である。今でも箱鮓を食すと田舎の家を囲む山容や祖父母の面影、幼い自分の様子などが偲ばれる。

 

季語には(季語だけではないが)このように字義を超えた意味の伝達や状況の展開という可能性が秘められている。

俳句と“からだ” 198 季語 紫雲英


 『俳文学大辞典』(角川書店)には次のように記載されている。

 

季語とは連歌・誹諧・俳句において季を表す詩語。古くは「四季の詞」「季の詞」「季詞」といい、「季語」という言いかたは大須賀乙字(『アカネ』明治四十一年六月号)に始まる。

 

このように、季語は伝統的詩歌において用いられる季節を表す言葉である。したがって有季俳句、無季俳句に関わらず季語を勉強することは詩歌に関わる者にとって必須の課題となる。そこで今回、自分なりに季語に対峙してみようと思う。

 

 鋤き込みし紫雲英に満たす山の水

斎藤夏風

 

 日本は北海道から沖縄と南北に長い国だ。また太平洋側と日本海側では背骨に当たる山脈を介して全く異なる気候となり季節もずれる。北の地が雪で囲まれているとき南の地では櫻が咲き始める。季節は暦通りではない。さらにその土地には土地の文化と歴史があり、日本全体を統一出来るものではない。それを宮坂静生氏は地貌季語と称してその土地のいのちの言葉を見出そうとされている。季語は普遍的な歳時記的意味に加え、その土地独自の意味を包摂している。さらに季語には一人一人の想いも託される。それらによって季語の彩りが豊かになるのであろう。

 

 どの道も家路とおもふげんげかな

田中裕明

 

今回取り上げる季語は春の「紫雲英」である。マメ科の紫雲英は空気中の窒素を蓄える根粒菌と共生しているため鋤込めば有用な窒素肥料となるため化学肥料が普及する前の緑肥として利用された。前年の秋、農家が種を撒いて田植えに備えておく。決して自然発生ではない。また、紫雲英の「英」は「はなぶさ」で中央の凹んだ花を表す。これは蒲公英も同じことだ。子どもの頃、田植え前の田圃を紅紫に染める紫雲英田は春の彩りであった。遙かに聳える伊吹山や養老山系。蜜蜂が飛び回る辺に座り子ども達は花の首飾りを編む。中には相撲を取って農家の人から叱られた思い出もあるだろう。紫雲英のしっとりとした湿り気は今でも身体の記憶として残っている。

 

これら様々な情報が季節感を超えた紫雲英のイメージを形成する。読み手は鑑賞を通して詠み手の紫雲英からさらに自分の紫雲英世界を展開させる。そこには両者による新しい世界が立ち上がっていることだろう。その世界を産み出すためには教養や想像力が求められるに違いない。つまり季語は教養なのである。

 

げんげ田や昼は遺影が家を守る

鈴木鵬于

連俳句と“からだ” 197 『語りたい兜太 伝えたい兜太』

 

 董振華が聞き手と編集を担った『語りたい兜太 伝えたい兜太』(コールサック社)が上梓された。黒田杏子監修のもと、中国出身で日本在住の董が金子兜太に深く関わった13名へ行ったインタビューをまとめている。同社から再刊され話題を呼んだ『証言・昭和の俳句』(聞き手・編者黒田杏子)の形式を踏襲し、各人各様の兜太観が対談によって燻り出され興味深い。ぜひ一読を勧めたい。

 

 特に共感した部分を紹介しよう。

関悦史は「岡本太郎とか丹下健三とかみたいに昭和史と絡み合うように大成して、そのことで俳句の世界から外の世界への窓口になってしまい、それを引き受けていた」という見解を示している。たしかに金子は時代を引き受ける役割を担っていた。国会デモなどで使用された「アベ政治を許さない」という言葉。澤地久枝の発案で揮毫を依頼されたのが金子であることは俳句界では知られており、大胆な「一発書き」だと本人が述べている。

 

人体冷えて東北白い花盛り

 

 宮坂静生は「あなたによって俳句史は生きた人間の心の表現史に書き換えられた」として、「秩父の『山国の田舎っぺ』の兜太さんが土に培われた『美の型のようなもの』に俳句表現の源があると気づかれた」と述べている。この着眼点もこれからの俳句にとって欠かせないものとなるだろう。

 

 強し青年干潟に玉葱腐る日も

 

 筑紫磐井の話は戦後俳句史の講義のようだ。「金子さんの場合は(中略)同時代と競い合って生き残り、それから下の(稲畑)世代と競い合ってほぼ同じ時期まで生きて二世代分の活動をしたけれども、まさに活動をしながら亡くなった」と位置づけ、「誰も兜太の後を継げるような人はいないのではないか」としている。

 

 朝はじまる海へ突込む鴎の死

 

 最年少の神野紗希は「人間であり続けるということを選んだ人だったと思います。俳人である以前に、人間である。いや、俳人とは人間である。その当たり前の真実を、愚直に強く広く実践された作家でした」と64歳年長の金子を偲ぶ。

 

子馬が街を走っていたよ夜明けのこと

 

高山れおなの帯文は「我々の俳句は、これからも、なんどでも、この人から出発するだろう。(中略)李杜の国からやってきた朋が、これらの胸騒がせる言葉をひきだした」と核心を突いている。

 

他の証言も興味深いが字数の関係で紹介できない。改めて思う。畢竟、兜太とは語り尽くせない存在者なのだろうと。

(句は全て金子兜太作品)

2023/11/08

俳句と“からだ” 196 賢治と米

 

「悦凱陣(よろこびがいじん)」は四国香川県琴平にある酒造の醸す銘酒である。ラベルを読むと原料米が「花巻亀の尾」とある。地名と米の名前から即座に宮澤賢治(1896~1933)が想起された。賢治の人生は稲と深く関わっていたからだ。

 

生きかはり死にかはりして打つ田かな

村上鬼城

 

1893年、山形の農民阿部亀治が、冷害で倒れた稲の中に3本だけ元気な稲穂を見つける。彼はそれを譲り受け4年かけて新品種を産み出す。これが「亀の尾」である。倒れ難く害虫に強く早く育つという利点がある。彼はこの種を無償で提供したため瞬く間に広がったという。現在人気のササニシキ、コシヒカリ、ひとめぼれ、あきたこまち、つや姫などのルーツである。今日、「亀の尾」自体は飯米ではなく酒米として人気がある。(山形県庄内町観光情報サイト参照)。

 

その後、「亀の尾」は秋田県の農事試験場で「陸羽(りくう)20号」と交配され「陸羽132号」という米が生まれる。味の良好な「亀の尾」と冷害に強い「陸羽20号」の良いところを活かした品種だ。 (「農業共済新聞」より)。

 

「亀の尾」と「陸羽132号」は宮澤賢治が農民のために無償で肥料設計をしていたとき推奨していた稲だ。詩「稲作挿話」には「君が自分で設計した/あの田もすつかり見て来たよ/陸羽百三十二号のはうね/あれはずゐぶん上手に行つた/肥えも少しもむらがないし/いかにも強く育つてゐる」と詠んでいる。

 

宮澤賢治は詩人・童話作家として知られる。同時に皆の幸福を願った社会活動家としても評価されているが、過大評価や毀誉褒貶もある。生まれた明治29年が明治三陸大津波、亡くなった昭和8年は昭和三陸大津波といういずれも東北大震災に匹敵する災害の年だった。1932年(昭7)と1934年(昭9)は大凶作で、当時の貧困な農民達は食べることに困窮することも多かった。凶作に活躍したのが「陸羽132号」だ。早生で冷害を免れたのである。現在、秋田県の新政酒造はこの米を自家米として育て、賢治の思想を纏めた「農民藝術概論綱要」にちなんだ「農民藝術概論」という酒を造っている。

 

賢治の亡くなった1933年(昭8)は豊作だった。賢治は9月17日から19日まで晴天の下で実施された鳥谷ヶ崎神社の祭を家の前で見た後、辞世となる歌を詠み21日、家族の見守る中で息を引き取った。37歳。その歌は生涯を象徴する稲への想いと豊作の喜びだった。

 

方十里稗貫のみかも稲熟れてみ祭三日そらはれわたる(稗貫は地名)

病のゆえにもくちんいのちなりみのりに棄てばうれしからまし

俳句と“からだ” 195 季語と心情


季語は季節の物事および季節感を表す言葉である。俳句に詠み込まれることで

「作者と読者との共通理解の媒介」(尾形仂)となる。

 

原爆図中口あくわれも口あく寒 

加藤楸邨

 

 掲句は句集『まぼろしの鹿』(1967年刊)に収められている。戦後8年を経た昭和28年(1953年)の冬、広島を訪れ原爆図と対峙して詠まれた。「原爆図」と前書きがあり、「原爆図唖々と口あく寒鴉」など26句が記されている。「原爆図」は丸木位里・俊夫妻の筆による「原爆の図」で原爆投下直後の阿鼻叫喚を描いた作品群だ。多くの人が爆死、破壊された市街で生き残った人々は炎に包まれ爛れた皮膚で生死の狭間を藻掻いた。原爆投下は人類が人類に対して犯した最大級の愚行、蛮行である。筆を尽くして描かれた一連の「原爆の図」を前に圧倒され立ち尽くす楸邨が想像できる。

 

 この句は「原爆図中口あく」「われも口あく」「寒」と三つに分けて読むべきだろう。原爆図の中の人々は口をあいている。戦火に逃げ惑う人々の飢渇と苦悶、怨念と憤怒や絶望などが口をあくことで象徴されている。無音の叫びである。絵の前に立ち尽くす楸邨自身も作中に引き込まれ、描かれた人々と同じ驚愕や怒り、悲しみと無力感から同様に口をあくしかない。ふと我に返った楸邨を冬の寒気が包んでいるが、それだけではなく作者の心も寒々と凍えている。

 

 「寒」は冬の季語である。時候で言えば二十四節気の小寒と大寒。一月初旬から節分までとなる。また「寒し」ならば冬の冷え冷えとした体感となる。しかし掲句の「寒」は現実の寒さを表しているだけではない。平井照敏編『新歳時記』には「心理的な寒さ、心の寒さ、時代の寒さまでを含めていう」とある。この一語で尾形のいう「作者と読者との共通理解の媒介」が成立している。「原爆の図」を見たことがなくともその描画や楸邨の思いが伝わってくる。これが季語「寒」の作用だ。

 

しかし季語に関しては異なる意見もある。季語は季節や季物、季節感を表す言葉、言い換えると純粋季語であるべきではないか、季語に心情を代弁させることは季語への冒涜ではないか、その方向へ走ると季語が手垢に塗れて純粋性を失うのではないかという主張だ。

 

これは難しい問題だが、いずれにせよ季語は科学用語ではなく、長い年月、人と共に育まれた人文用語である。季語を活かすか季語に委ねるか。そこに俳人の有り様が示されるのだろう。

 

広島や卵食ふ時口ひらく 西東三鬼

俳句と“からだ” 194 『鈴木しづ子100句』


 戦後俳壇を駆け抜けた俳人鈴木しづ子の生涯はさまざまな伝説に包まれている。

 

 鈴木しづ子 俳人。生没年未詳。大正14(1925)・1・4生れとも。戦時中は神奈川県川崎市の岡本製作所、戦後は東京府中の東芝に勤め、昭和23年(1948)に職場結婚。一年余で離婚し、米軍基地周辺で働く。俳句は同18年から松村巨湫に師事し、『樹海』に拠る。句集『春雷』(昭21)、第二句集『指環』(昭27)には奔放な私生活を詠む句が多い。同28年、岐阜県各務原から失跡。「肉感に浸りひたるや熟れ柘榴」(村上 護) 俳文学大辞典(平成7年刊 角川書店) 註:『鈴木しづ子100句』には本名鈴木鎮子、1919(大正8)生とある。

 

 『鈴木しづ子100句』(黎明書房)は長年鈴木しづ子顕彰記念事業に関わっている武馬久仁裕と松永みよこによる新刊である。彼らはしづ子の俳句に纏いつく伝説を極力排除し、テキストに沿って解釈鑑賞しようと試みる。「はじめに」に「とかく、スキャンダラスな衣装をまとわされてきた彼女の俳句から、その衣装を取り去り、自由に読もうとするものです。(中略)その見事な言葉さばき(言葉の綾、レトリック)は、鈴木しづ子の俳句に、他の俳人とは違った不思議な輝きをもたらしています。自由に読むとは、彼女の俳句を書かれた通りに読むということです。」と書かれている。

 

 雪の夜を泪みられて涕きにけり

 

武馬はこの句の眼目は「雪の夜に」ではなく「雪の夜を」としたことだという。「に」では「泪みられて涕」くことが、「雪の夜の中の狭い一点にすぼんで」しまう。「雪の夜を」だと「涕く人を包む大きな雪の夜にな」ると説く。また「泪みられて涕きにけり」のひらがなは「なみだの粒」を文字の姿形で視覚的に示す表現法で、武馬は文字の形象化と呼んでいる。しづ子はひらがなを多用しているが、前衛俳句へ繋がる技法であるという。

 

 作品には作者の人生が否応なく投影される。芭蕉や山頭火などは寧ろその生涯と作品が密接に関係するところが評価される。俳句は短さゆえに署名があって完成するという考えもある。その反面、句の独立性を重視し作者と離れて句自体を鑑賞するという意見もある。武馬らは鈴木しづ子の俳句を伝説から切り離すことで真に作家としての実力を紐解いていこうと試みた。

 

雛まつるおほかたは父わからぬ子

 

この句に関して松永は「雛を飾っている子どもたちの多くに父親がいないのです」とそのままの解説をしたのち、史実から戦災混血児であることを述べている。周辺情報とテキストから丁寧に読まれることで鈴木しづ子の俳人としての存在に新たな価値を見出した本として推奨できる。

俳句と“からだ” 193髙田正子著『黒田杏子の俳句』後編


 黒田の7冊の句集には〈花を待つ〉を詠んだ句が21句ある。髙田は「当然のように〈花を待つ〉を季語として受け止めてい」た。ところが髙田の所持する歳時記には〈花を待つ〉を季語の見出し語とした本がないという。試みに手持ちの数種の歳時記を確認したがその見出しの季語はない。

髙田が抽出した〈花を待つ〉で最も古いのは平成7年(1995)刊の『一木一草』にある。

 

 花いまだ念佛櫻とぞ申す

 

季語は〈花を待つ〉そのものではなく〈花いまだ〉であるが「紛れもなくそのこころが汲めるので抽い」たと記している。平成5年(1993)4月4日、西国吟行第6回滋賀県長命寺の作である。髙田はその場にいたと記しているが、実は私もその場にいた。黒田から「寒い中、花を持つ気分を花未だというのよ」と直接声を掛けられた記憶がある。本書によれば当日の表記は「花未だ」であり、句集に掲載するとき「花いまだ」に添削されたようである。漢字と平仮名の誓いを吟味するのは興味深い。

 

 実際に〈花を待つ〉が登場するのは平成17年(2005)に刊行された次の句集『花下草上』である。髙田は〈花を待つ〉を「季語」とカギ括弧で括り「哲学の領域に入っている」として、その理由を「三十歳で櫻花巡礼を発心し、自ら満行とみなし得るまでおよそ三十年。日常生活を送りながら千日回峰行を修めるに似た荒行である。その行を果たして初めて流麗に口をついて出るようになったことばを、思想、概念と呼ぶと抽象的に過ぎ、語と呼ぶといささか部品っぽいと考えたところで、はたと膝を打った。季語とは両者を兼ね備えたもの、まさに言霊そのものではないかと」述べている。

 

花を待つひとのひとりとなりて冷ゆ

 

高田は3年間、「藍生」誌上にて師黒田杏子の句を、季語や「ちちはは」などのキーワードを基に整理し、年齢的変化や身辺環境からの影響を熟慮しながら鑑賞した。同時に黒田の師である山口青邨や同時代の俳人の句を視野に入れて読み解いていった。その過程で高田自身の俳句観にも変化が生じたのではないか。先の引用はその好例である。あたかも黒田の7冊の句集という山嶺を巡礼者として一足一足吟味しつつ歩いていく行であったに違いない。読者もまた髙田と同行二人、杏子俳句の新しい表情を見せて貰うことが出来た。黒田は7年前、大病で斃れた。しかし治癒後の結社や協会を超越した活躍には目を見張るばかりだ。その功績に、所属していない現代俳句協会からも大賞を受けた。黒田の巡禮者としての歩みはこれからも続く。

この書は遊行の軌跡であると同時に新たな発心の道標ともなるだろう。

俳句と“からだ” 192 髙田正子著『黒田杏子の俳句櫻・螢・巡禮』

 


 髙田正子著『黒田杏子の俳句 櫻・螢・巡禮』が出版された。黒田杏子の誕生日2022年8月10日を発行日とする記念すべき大書である。黒田杏子の俳句を弟子の髙田正子が季語を中心としたキーワードで丁寧に読み解いている。本書は藍生俳句会結社誌「藍生」に「テーマ別黒田杏子作品分類」として2019年1月号から2021年12月号まで連載された文章の再構成である。

 

髙田の文体は静謐で精緻、平明で自然体である。しかし、その筆の奥に深い読みが記されており油断ならない。冒頭の「『はじめに』代えて 黒田杏子の〈葱〉』と題された「まえがき」も師との出会いを書きながら、〈葱〉に纏わる様々な考察をさらりと示しているが、その内容には驚かされる。

 

白葱のひかりの棒をいま刻む(1977)

この冬の名残の葱をきざみけり(1993)

 

髙田はこの両句を対比して後者を「直感的に歳月が詠ませた句だ」と推測する。何故なら「平成五年(筆者註:1993)の杏子は五十代の半ば。変わらず溌剌としていたが、還暦やら定年やらが意識される年ごろ」だからだ。髙田は続けて「作者の現在が、作者に選びとらせる言葉があるということを、私はこの句から教わったのである」と深く学ぶ。優れた弟子は常に学びの触手を伸ばしている。かくして読者は髙田正子と同行二人、杏子俳句の巡礼に旅立つこととなる。

 

 黒田の既刊七句集に収められた〈葱〉の句はたった六句である。その意外性を髙田は「え!これだけ?」と驚きを隠さず記している。読者も同時に「なるほど、そうだったのか!」と肯うだろう。こうしたメリハリのある文章がともすれば黒田俳句の堅苦しい資料集とも成りかねない内容を親しい読み物としている。

 

 髙田は黒田の〈葱〉の句の数が少ないことに対して「詠んでいないのではなく、句集に残していないのだと悟った」と述べる。それは黒田が『黒田杏子句集成』のあとがきに「句集に収めたいと思う作品は、自分のこころとかたち、想いの深くしみこんでいるものという自選基準」と認めているからだ。

 

 さらに髙田は黒田の師である山口青邨の〈葱〉の句を紹介する。青邨の十三冊の句集に葱の句は九句あるという。

 

 楚々として象牙のごとき葱を買ふ

 葱白く象牙の如し肉と飾る

 

がある。前者が1950年、後者が「ひかりの棒」と同じ1977年である。象牙からひかりの棒への飛躍。髙田は〈葱〉を「オブジェ」と見る青邨と「刻む」杏子の違いと読み取る。(以下次号)

俳句と“からだ” 191 小川楓子句集『ことり』

 


 小川楓子(1983年生まれ。金子兜太の「海程」、山西雅子の「舞」に参加)の第一句集『ことり』が話題となっている。2022年2月刊行、早くも6月に増刷とのこと。句集の登場に黒岩徳将、相子智恵、大塚凱ら若い俳人達による読書会がZoomで行われた。その評価の高さが理解できる。旧来の俳壇に見られた結社縦割りの評価ではなく、作品自体が横断的に評価されるという風通しの良さの表出である。俳壇にはびこる権威主義を超えてこのような評価のあり方が一般的になれば新しい才能が参加しやすくなるのではないか。

 

 くちのなかほんのり塩気かも雷鳥

 身に入むやつてことあるんだか寝ぐせ

 

Zoomの読書会で大塚凱は「豊旗雲の上にでてよりすろうりい 完市」を引用して小川の調べは『海程』の阿部完市の影響を受けていると説明した。肯える指摘である。自在な調べと言葉の飛躍に満ちた詠み振りは読んでいて実に楽しい。「くちのなかほんのり塩気かも」から突然「雷鳥」への飛躍は驚きと戸惑いを招くが不快では無い。言葉の意味ではなく、むしろ躍動感が煌めく。音の調べと意味の調べに程良いズレがあり、下五に置かれた「寝ぐせ」も読み手の想像を超えつつ受け入れられる飛躍となっている。但し、これらの句は、次の句も含めて下五の最後の三文字に落とし込む形となっており作者ならではの定型として成立しているが常用すると形骸化する懸念もある。

 

 椎若葉こころちひさくなつてきのふ

 

初めから「こころちひさくなつて」までは読み下せる。ところが最後に「きのふ」が出てくると時間が反転して過去に向かう。心細さが時間に絡め取られて昨日に向かって流れ込んでいくようだ。

 

噴水にしてもあなたはスローリー

下唇突きだしなんか涼しさう

 

これらの句は完市や兜太へのオマージュだろう。先達の句業を身体化して自らの世界を作り上げようというところに感性に委ねるだけではない作家の思いが見えてくる。

 

 小川は「あとがき」に「作品は、わたしでもわたしの所有物でもないと思っています。なぜなら、スープのにおい、くすぐったい蟻、通りすがりの鼻歌などを授かって(いえ、率直に言うと、ひょいと掴まえて)放ったものだからです」と書いている。小川にとって、作句とはcreationではなく、「わたし」を通過する何かを「ひょいと捕まえて放つ」serendipityなのかもしれない。するとその先には小川の師匠金子兜太のアニミズムの世界が広がってくる。  

 (句は全て小川楓子作品)

2022/08/06

【俳句甲子園】全審査員を納得させた高校生の俳句


第10回の最優秀句は愛知県立幸田高等学校の清家由香里さんの

山頂に流星触れたのだろうか

は、文句なしの名句。
さらに同じ幸田高等学校の第17回最優秀句

湧き水は生きてゐる水桃洗ふ 大橋佳歩

この両句は記憶に残ります。

以前、俳句甲子園の審査員をしていましたからお二人とはお話しもしたことがあり
尚更印象的です。第17回は私も松山で終日審査員をしていました。

今年も俳句甲子園の季節となりました。
高校生の皆さん、悔いの無い大会を。

2021/05/21

俳句とからだ 175号 十年一昔十年一日

 連載俳句と“からだ” 175

 

愛知 三島広志

 

十年一昔十年一日

十年一昔。時の流れは速いので十年も経つと昔となるという意味だ。世の移り変わりの激しさを言う。反対に十年一日という言葉もある。長い間全く変化のないことを示し、どちらかといえば負のイメージがある。

 

2011年3月11日14時46分、東日本大震災が発生した。地震と津波、火災、そして原子力発電所の爆発。天災と人災が絡み合い死者1万6000名に及ぶ未曾有の災害となった。あれから十年。果たしてこの十年を一昔と括れるか。原発の処理など十年一日の如く全く進捗していない。損壊した家屋の再建も困難で、故郷に帰れない人も大勢いる。愛する人を喪失した悲しみ、生き残ってしまった苦しみ(サバイバーズギルト)は、人々の心に深い傷を刻み、傷口には未だ痂皮もできていないだろう。十年一昔というにはあまりに短い。

 

瓦礫みな人間のもの犬ふぐり  

高野ムツオ

 

その日、名古屋市内の病院で開催された地域医療連携の会合に出席していた。大きな揺れがとても長く続いた。急いでスマートフォンでニュースを確認し、東北で大きな地震が起きたと知った。帰宅後のテレビは、15時27分に津波第一波到来、福島第一原子力発電所の全電源喪失を報せていた。

翌12日15時36分、1号機が水素爆発を起こした。その映像は地元テレビ局が撮影し世界に発信されたが、当初日本のマスコミはごく一部でしか報道しなかった。旧知のイタリア人がイタリアからFacebookで映像を送ってくれ事実を知りえたが、日本の主要メディアは事実を把握しながら秘匿していた。不都合な事実は常に隠される。この報道の有り様も十年一日の如くである。

 

被災地から遠く離れて暮らす者にも暗澹たる日常が続き、心がいつも重い帳に包まれていた。平穏な日常と不穏な非日常が表裏一体であると強く思い知らされた。その頃以下の句を創った。

 

春の雷プロメテウスの炎を宥め

朝櫻濁世に生きてこののちも

鎮魂の櫻三分となりにけり

 

遠くに住む者の記憶は徐々に薄れ、十年一昔などと言いたくもなる。しかし帰還困難地域は現在も名古屋市ほどの広さがあり、一連の災害は、現地の人々にとって今も続く現実だ。一日千秋の思いで復興を待ち焦がれているに違いない。十年一昔と過去の出来事として記憶の外へ押し出すのではなく、十年という区切りの年毎に改めて思い起こし心に刻みつけるべきだろう。

 

鬼哭とは人が泣くこと夜の梅  

高野ムツオ

俳句とからだ 174号 岡田一実句集『記憶における沼とその他の在処』

 連載俳句と“からだ” 174

 

愛知 三島広志

 

岡田一実句集『記憶における沼とその他の在処』

『記憶における沼とその他の在処』(青磁社)は岡田一実(1976年生)の第三句集である。このタイトルは散文としては破綻している。本多勝一によると、誤読を避けるため修飾語の語順には4つの原則があり、単語の親和度の強弱によって配置転換が求められる。「記憶における」は「沼」のみに係るのか、「その他」にも係るのか。「の在処」は「その他」だけを受けるのか、それとも「沼とその他」を受けるのか。 

金原瑞人は帯文に「これは俳句の掟破りなのか、革命なのか」と記している。おそらくタイトルも敢えてご誤読を惹起しようという企みなのだろう。

 

火蛾は火に裸婦は素描に影となる

 

「影となる」のは裸婦のみか、灯火に群れる蛾の影も視界に飛び交っているのだろうか。炎と消えた火蛾の儚い命と対照的に、素描という影を与えられて裸婦の命が永遠性を獲得したとも読める。

 

瓜ふたつ違ふかたちの並びけり

 

よく似ていることを瓜二つという。一つの瓜を切った二つだからそっくりなのだ。縦に割った二切れが、実は微妙に異なっているという指摘だろうか、それとも単に違う形の瓜が二個並んでいるのだろうか。画は単純だが多層に読める。

 

裸木になりつつある木その他の木 

 

句集名にある「その他」が使われている。ここでは「裸木になりつつある木」と「その他の木」が並列され対比されているのだが、いや、そうではないかも…

 

囀をはづれて鳥や地を歩く

 

囀る群れと一羽の鳥の対比、地を歩くという経時が詠まれている。

 

このように分割と経時を示す表現がよく見られる。短い俳句に形と時間を意識的に重層的に読み込もうという試みだろうか。金原は、俳句は「世界を想起させる触媒のようなものだ」と思っていたが、この句集を読み「一句がそのまま世界として立ち現れる様を目にするような気持ちになってしまった」と告白している。

 

以下の句には誰もが共感する普遍的な体験が描写されている。

 

碁石ごと運ぶ碁盤や梅月夜 

室外機月見の酒を置きにけり 

 

句集の後半は特に生死を直視した深みのある句が多く登場し、前半の思索的俳句とは異なる作者の側面が読み取れた。 

 

墓いまだ吾の骨なしに灼けにけり 

死者いつも確かに死者で柿に色 

俳句とからだ 173号 視覚と経験

 連載俳句と“からだ” 173

 

愛知 三島広志

 

視覚と経験

 夜明け前の空を観るのが好きだ。20分ほど歩くと東方が一望できる高台に出る。暗黒の山稜や公園のタワーの向こうから赤い暁光が噴き上がる。赤色は中空に向かって薄まり橙から黄、黄緑から淡い青、そして濃紺の空へと移る。色彩の変化は虹の配列と基本的に同じだ。濃紺の空に金星が輝き、振り返ると西空に月が傾く。これは柿本人麻呂(660頃~724)の詠んだ

 

東の野にかげろひの立つ見えて

かへり見すれば月かたぶきぬ

 

と同じ光景だ。692年冬の作と伝えられている。宇宙の巡行とそれを記した歌の世界が時空間を超えて今ここに存在することに感動を禁じ得ない。

 

私達は外界からの情報を五感で受容する。五感とは視・聴・嗅・味・触を示す。中でも視覚から得る情報量は大きい。人間の情報処理は感覚、知覚、認知で表される。その違いは外界から情報が刺激として感覚受容器に入り興奮が生じると感覚、知覚は対象を知ること、認知はさらに高次の処理で情報の選択、判別、決定、理解、記憶、推論、理解であるとされる。赤い林檎があると感覚は赤い光とそうでない部分の素朴な判別、それが赤い円形であると分かるのが知覚、そして林檎と理解するのが認知であるという。(「感覚情報の知覚メカニズム」工業技術院製品科学研究所清水豊氏の論文参照)

 

 夜明けの空の色彩を感覚受容器である目の網膜が捉えると、その情報は視神経を介して脳へ伝わる。色の感覚を知覚し認知した時、光の情報は心身に何らかの影響を及ぼし感情や思考へ影響する。それが連日のように明けの空へ私を導く動機となり、人麻呂の歌を想起させる。絵心があればその色を印象派の画家のようにカンバスへ塗り込めるだろう。詩心があれば詩歌の一つも詠むであろう。

 

古里は霜のみ白く夜明けたり 

山口青邨

 

 五感を研究しているのは最新科学だけでは無い。哲学者カントは我々のうちにア・プリオリに「形式」が存在し、感覚は空間の形式として知覚され、時間の形式の中に保存され一つの経験と為すと説く。つまり夜明けの空の色という空間に存在する情報を脳に伝え、記憶という時間に留めるということである。それによって外部情報は受容され、時空を保ち経験となる。それが言語化され詩歌として保存されると今度は読者の経験として感動を呼ぶ。

 

夜明けの空を眺める時、認知された色彩や形態の情報は時空を超えて宇宙と自分が一如となる貴重な認知経験となる。詩歌もまた共通経験として感動を呼ぶのだ。

 

ガンジスに身を沈めたる初日かな

黒田杏子

俳句とからだ 172号 近藤愛句集『遠山桜』

 連載俳句と“からだ” 172

 

愛知 三島広志

 

近藤愛句集『遠山桜』

 近藤愛は1973年生まれ。中学三年生から毎日新聞「女のしんぶん《楽句塾》」で黒田杏子選を端緒に俳句と関わってきた。

 

現代史読みかへす日も鳥渡る

 

第一章掲載の作品。「藍生」誌発表時に読んで大変感動した。鳥が渡るという季語と現代史の組み合わせ。それ以来、作者の印象はこの句に集約されている。

今回改めて句集『遠山桜』を通読して関心を抱いた句に触れていきたい。

 

集中「掃く」という言葉が多く登場している。「掃く」とは「刷く」であり、表面を掻いて刷新することだ。「掃く」は表面にあるものを掻いて排除すること。「刷く」は薄く塗ることだ。いずれも表面を清拭するように刷新して平らかにする。刷新された地表はカンバスのように可能性を生む。

 

掃き寄せて花屑の皆捨てらるる

 

美しく散った花びらも掃き寄せられれば花屑として廃棄される。作者の目は花びらより捨てられることへ向けられている。

 

落葉掃くお互ひに目も合はせずに

一生の仕事のごとく落葉掃く

 

一心に落葉を掃く人たち。その心は自分の内に向けられているのだろう。三昧境にあるのかもしれない。

 

掃除婦のピアスの光る小春かな

掃除婦の最後に拾ふくわりんの実

 

作者の関心は職として掃除する人たちへも向けられる。ピアスや花梨の実がその人達を祝福しているようだ。

 

秋蝶の死んでゆかうとしてをりぬ

死んだかもしれぬ秋の蝶探したし

 

この二句が句集の冒頭部と終末部に置かれている。その間二十年以上の時が流れている。近々やってくる死を纏った秋の蝶へ向けられた作者の思いは人々に共通するものだろう。それ以外にも「足許をいま秋蝶の発つひかり」「秋蝶の骸片付けられてをり」と、秋蝶の句がある。さらに次の句、

 

蝶の翅毀さぬやうに掃き寄する

 

何か大切なものを慈しむが如く蝶を掃き寄せる作者。命は果てても骸は残る。小さな蝶にも生じる生と死という現実をしっかりと見つめているのだ。それは自己を秋蝶へ投影しているだけではなく、冒頭の現代史の句に通じる自己の存在と自然の営みに共通する大いなるものへの洞察でもある。

 

以下の句は師黒田への呼応だろう。

 

悲しみのこぼれぬやうに葱刻む

(掲句は全て近藤愛作)

俳句とからだ 171号 日本の医療制度

 連載俳句と“からだ” 171

 

愛知 三島広志

 

日本の医療制度

医療は人類誕生と同時に自然発生した。病気、怪我、衰弱など心身の問題に対応するためだ。その後多くの経験に基づき民族固有の医療として伝承、国家等によって制度化された。経験的に発展していた医療を科学的知見と哲学としてまとめた人が古代ギリシアのヒポクラテス(前460頃~前375頃)だ。「ヒポクラテスの誓い」は今日でも医師の指針である。その後イタリアのダ・ヴィンチ(1452~1519)の人間復興やフランスのデカルト(1596~1650)による心身二元論で人体を客観的に把握することが可能となり医療が医学となった。

 

 日本にも古来より伝承医療があった。そこへ中国の体系だった医療が入ってくる。そして701年、奈良時代の大宝律令で国の医療として制度化される。それは唐王朝の制度を参考にした医疾令である。医療を行う係として典薬寮があり、その中に医生、針生、按摩生、咒禁生、薬園生が明記されている。役に就いていたのは多くが帰化人やその子孫であった。ところが平安時代から国の医療制度は消滅する。次の成立は明治であり長い空白期間は僧侶が僧医として医療を担った。また奈良時代の医家が代々家伝の術として伝えてきた。

 

 現代史読みかへす日も鳥渡る 近藤愛

 

行政が行った有名な医療施設は奈良時代の730年に光明皇后が起こした施薬院(悲田院という孤児院もあった)、江戸時代の小石川療養所(1722年)などがある。施薬院は薬種商を管理し室町時代には薬商人が制度化されていた。また江戸時代、有名な富山の薬売りは諸国を歩いて薬を販売していた。これは富山藩の経済振興策でもあった。

明治政府は西欧化を急ぐため様々な制度を実施した。医療制度は我が国伝来の漢方か西洋医学かで協議され、伝承では無く客観的科学に基づく東大医学部を中心とした西洋医学を国の医療として制度に取り入れた。そのため漢方は日陰の存在となり庶民の間で細々と、しかし連綿と維持継続された。現在、漢方は一部の医師の努力で復権し漢方薬は保険制度に取り入れられている。鍼・灸・按摩は江戸時代から視覚障害者の生活を支える術としての側面もあり、教育機関や試験制度が整えられ国家資格として現代社会に認知されている。

 

 医療は仏教の説く四苦である生老病死に対応する術である。これは制度化せずとも自然発生し民間に深く入り込み庶民を助けてきた。しかし経験主義による技術は危険なものや法外な料金を取る悪徳者もあり、国家制度として監視下に置かれ人々に寄与している。医療が身近にあって必要なとき適切に受けられることの恩恵はコロナ禍において改めてありがたいことと認識される。これは歴史的に希有のことなのだ。

 

 生死如是病苦また如是花が咲く

松本たかし

俳句とからだ 170号 俳句と原始感覚

 連載俳句と“からだ” 170

 

愛知 三島広志

 

俳句と原始感覚

 新型コロナウイルスのため仕事が消滅した時期があった。読書でもしようと書物を渉猟していたとき宮坂静生(敬称略以下同)に『俳句原始感覚』(本阿弥書店)という著書があると知り取り寄せた。原始感覚という言葉に惹かれたのだ。何故ならそれは私の仕事である指圧の用語でもあるだからだ。恩師増永静人の著書『経絡と指圧』(医道の日本社)には原始感覚とは外部の対象を判別知覚する判別性感覚に対して「生体内部の状態を受容する運動・平衡(位置)・有機(深部覚)などの感覚、(中略)この感覚は生体の基本的生命活動と結びついていて(以下略))とある。眼や指先で感じ取る緻密な判別性感覚では無く、内臓感覚のように知的処理されない漠然とした感覚なのだ。

宮坂の著書では原始感覚を「宇宙的自然が開発という美名のもとに破壊され、人間精神のうちなる自然(原始感覚といいたい)が荒らされること、今日以上なるはないと思われる」(「山林的人間」・永田耕衣)と耕衣の言葉で説明している。また宮坂は同書のあとがきで「米を作り牛馬を飼育する定住生活者(弥生文化)の安定した論理や感覚では無く、もっと遡った狩猟採集時代の移住生活(縄文文化)がもっていた原始感覚を身につけなければいけない」と書いている。

原始感覚とは知的に明確に判別できるものではなくいのちを直観する感覚なのだ。私は増永静人にこれは西田幾多郎の純粋経験ではないかと尋ねたことがある。師の「自分の師匠の師匠は西田だよ」とニヤリとした笑顔を今でも覚えている。

編著『季題入門』(有斐閣新書)第七章「季題の歴史」に山下一海は季語・季題を「古くは季の詞、四季の詞、季の題あるいは単に季といった。『季題』の語は明治四十年ごろ河東碧梧桐らが用いだしたといわれ『季語』の語は明治四十一年に大須賀乙字が用いたのが最初」と記している。宮坂は『季語の誕生』(岩波新書)で「雪が冬の季題として決められていく。それは冬と季節を限定されることで安定したイメージを獲得すると同時に、失うものも多いことを思わせるのである。季題の成立は私的幻想を失い、新たに共同幻想を獲得することばの危うさに立っていたのである」と言葉の固定観念化や共同幻想化への危惧を述べている。

宮坂は同じ『季語の誕生』で江戸期は心が身体を縛る時代と書いている。芭蕉の敬慕した平安時代の西行が身と心の分裂を正直に告白した歌として「吉野山梢の花を見し日より心は身にもそはず成にき」を上げ、芭蕉はそのため「日々旅にして、旅を栖とす」る旅寝を重ねることで心からからだを解放したのだと言う。解放された純粋な感覚こそが原始感覚であろう。

黒田杏子の説く「季語の現場」とは季語という言語と向き合うだけでなく、季物と無心に純粋に対峙した我が身中に湧き上がる縄文的血潮を原始感覚でそのまま感じ取ることだ。黒田はそれを地霊といい、宮坂は地貌と呼ぶ。それはその地に刻み込まれた景物と人とのカオスなのだ。

俳句とからだ 169号 石鼎の闇

 連載俳句と“からだ” 169

 

愛知 三島広志

 

石鼎の闇

 宇宙の写真を眺めるのが好きだ。闇に白く輝く天体。地球もまた闇の中で太陽に照らされ青白く輝いている。外に出て宇宙を見上げると星が様々な色で瞬いている。星には光りの玉として自ら輝く恒星と太陽に照らされた惑星がある。

この夏はことさら暑く、散歩は日が沈んでから出掛けた。今年は土星と木星が大接近する年なので見上げると夜散歩の目を楽しませてくれた。近くに月も見える。そして改めて宇宙は闇であると実感した。名古屋市内でも里山へ行くと木々が高層ビルの光を遮るので漆黒の空が見える。夜目に馴染むと多くの星座が浮き上がる。郊外へ出ればなおさらだ。

 

山国の暗(やみ)すさまじや猫の恋

原石鼎

 

しかしここ何年も本当の闇を観ることがない。半世紀以上前、祖父母の家を訪れるとそこには江戸時代とさして変わらないであろう闇があった。駅から鼻の突き出た旧式のバスに乗る。バスは山道をうんうん唸りながらのろのろと登る。バス停を降り、バスが去ると真の闇が生まれる。道も路傍の草も空より暗い。街灯のない道を星明かりで探るように歩き出す。道の遙か向こうから「谷家」と描かれた提灯が近づいてくる。祖父が声を掛けてくる。蝋燭の揺れる灯りで足下を照らしながら尾根道に出ると谷の所々に民家の灯がささやかに点っている。何しろ隣家まで数百メートル離れた山村だ。白く光るのは農業用溜池。遠く瀬戸内海も光りを放ち、空には銀河が尾を為す。空は明るいのだが足下は暗黒で慣れない山道には難渋する。

 

山国の闇恐ろしき追儺かな  同

 

 「あそこに森があるじゃろ。あの下の畑に猪が出て芋を食うてしもうて困っとるんよ。上手に掘り起こすけんのう」孫達を驚かすように些か大仰な祖父の語りだ。目を凝らして見つめると畑は仄白く浮かび上がる。「この前は鼬が鶏小屋を狙っとったんじゃ」と続ける。尾根から細い谷道を下ると右手に鶏小屋と納屋、左手に母屋と蔵が浮き上がる。鶏小屋には月明りを反射して鼬を脅すため鮑の殻がぶら下げてある。柵の根元には鼬の掘った穴。

 

淋しさにまた銅鑼打つや鹿火屋守 同

 

 原石鼎(1889〜1951)が1912年(明治45年)7月から1913年(大正2年)10月まで過ごした深吉野は石鼎俳句開眼の地と言われるが、その闇の深さは掲句通り凄まじい恐ろしさを湛えていたことだろう。なにしろ私の子ども時代の闇の記憶からさらに半世紀以上遡った深吉野だ。その真の闇の奥から響く恋猫の声、節分の寒極まる闇に発せられる追儺の声、山の中の鹿火屋の淋しさを紛らわす鐘の音。光りの無い世界に確かなものは音声なのだ。

 

 月の猪祖父の語りの大仰に  広志

俳句とからだ 168号 なつはづき句集『ぴったりの箱』

 連載俳句と“からだ” 168

 

愛知 三島広志

 

なつはづき句集『ぴったりの箱』

なつはづきは第36回現代俳句新人賞と第5回摂津幸彦記念賞準賞を受賞した注目の作家だ。後進の指導や主宰する句会を通じて積極的に俳壇と関わっている。

 

はつなつや肺は小さな森であり

身体から風が離れて秋の蝶

 

これらの句に代表される身体感覚を精緻に表現する作家として知られている。表記は口語体で俳句の伝統的言語である歴史的仮名遣いとは一線を画している。これは言葉の背負う歴史的な色合いを消すためだろう。

 

ぴったりの箱が見つかる麦の秋

 

句集名の由来となった句だ。作者はあとがきで「ぴったりは心地よくもあるし、窮屈でもあります。この矛盾する感覚がとても大事」と書いている。この言葉と句集を通読した印象から「矛盾」が句集のキーワードであると感じた。

 

タイトルになった箱とは何であろうか。箱は物を収める器だ。比喩的に考えると結界である。外の世界から内部を隔絶する。外部から内部を守る場合もあれば、閉じ込めて自由を束縛する場合もある。それが箱という存在あるいは概念そのものに潜む矛盾だ。

 

啓蟄や海が空まで溶け出して

菜の花やこの先にある分かれ道

 

 物質や時間から何かが拡大延長していく。海が結界を越えて空まで溶け出し拡がる。海と空が混然と解け合うところに新しい世界が生まれる。しかし同時に海も空もすでにそれらの性質は失っている。これが矛盾だ。今ここという時空間の先にある分かれ道は拓かれた未来だが、そこには今もここも無くなっている。しかも待っているのは分かれ道という不安な選択だ。これは明るい菜の花に内包される仄暗い矛盾であろうか。ものごとは常にこうして相反する矛盾の中に存在している。

 

春昼を淡く濁して筆洗う

今日を生き今日のかたちのマスク取る

 

筆を洗えば水が濁る。こうした質的転換も矛盾の特性である。私達は安定した日々とその中に潜む生々流転の矛盾の中に生きている。今日を生ききったマスクは今日一日の形状を記憶している。如何なる表情をしているのだろうか。明日は今日の延長かそれとも否定か。脱いだマスクとマスクから現れた顔に興味が尽きない。

 

以下の句にも惹かれた。

 

やわらかい言葉から病む濃紫陽花

冬いっぽん言葉の端に立てておく

毛糸編む噓つく指はどの指か

句集『式日』安里琉太を読む

連載俳句と“からだ” 167

 

愛知 三島広志

 

句集『式日』安里琉太を読む

 『式日』(左右社)は新鋭安里琉太(1994年生)の第一句集である。名前から想像できるように沖縄県出身で、俳句甲子園全国大会に出たことがあるという。句集全体の印象は構成が緻密で、静謐ながらもかなり挑戦的である。栞や章立てなど句歴十年の若い才能の仄めきを充分に知らしめる句集となっている。表紙に書かれた「到来し、/触発する/言葉。//書くことは、/書けなさから始まっていると、/今、強く思う。」は安里の書くことへの認識の深さを示して共感できる。書く対象は内在するが言葉は彼方から到来するのだ。両者の幸福な出会いが一句に結実する。

読み進めていくと「瓶」や「枯・涸」といった謎のキーワードに引っ掛かる。否、引っ掛けられて立ち止まる。

 

並べたる瓶に南風の鳴り通し

空瓶は蜥蜴を入れてより鳴らず

初雪が全ての瓶に映りこむ

コスモスの中の蛇口が枯れてゐる

式日や実柘榴に日の枯れてをる

涸るる沼見てをれば背を思ひだす

 

どの句も写実の顔を見せているようだが実は一筋縄では読めない。句がメタファーとして立っているからだ。瓶、南風、蜥蜴、初雪、コスモス、蛇口、式日、実柘榴、沼、背、涸れ。これらの言葉が重層な意味を含みつつ胸を抉ってくる。言葉達が共闘してこちらに訴えてくる。

 

 集中、先人へのオマージュも多く見られた。そこまでやるかとにやりとさせられる。

 

 あをぞらのさみしさにふる種袋

 しづけさに五月のペンは鳥を書く

 ひかり野に蝶が余つてゐるといふ

饑ゑつくす蛇の眠りはみづのやう

たそがれの雲間の凧をふと見たり

 

それぞれ原石鼎、寺山修司、折笠美秋、赤尾兜子、高浜虚子が顔を出す。ここにも作者の強かさを垣間見ることが可能だ。俳句の歴史を負うという決意の現れか。いずれも模倣や剽窃ではなく、本歌取りでもなく、先人の精神をなぞろうとしているようだ。伝統とはまさに先人の誠に迫り、かつ後輩へ繋ぐ努力をすることだ。安里の句は先人の句をなぞりつつその深奥に触れ、己の句として再構築していると思える。

 

岸本尚毅の文体に似た句を幾つか掲載しているが、これらもその一環であり先人への畏敬と挑戦と思われる。

 

ひいふつとゆふまぐれくる氷かな

なつかしき雨を見てをる麦茶かな

 

著名な岸本の「手をつけて海のつめたき桜かな」を彷彿とさせる。中七から下五への流れが繋がりつつ寸断されているのだ。以下の句も感性も素晴らしい。

 

摘草やいづれも濡れて陸の貝

永き日の椅子ありあまる中にをり