ラベル 俳句とからだ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 俳句とからだ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2023/11/09

俳句と“からだ” 200 まなざし(黒田杏子先生追悼) 

 藍生俳句会の月刊俳句誌『藍生』に連載した「俳句とからだ」。丁度200回で終了した。これは黒田杏子先生の逝去によって藍生俳句会が幕を閉じたからだ。

黒田杏子先生にはたくさん書く機会を頂いた。ただ感謝するのみである。数日前、藍生俳句会の事務局から完全に会が終了する旨の連絡があった。黒田杏子先生の生涯のパートナーで写真家の黒田勝雄氏のご挨拶も同封されていた。この文章は「俳句とからだ」というタイトルにもっも相応しい内容になったと思っている。
今後会員はそれぞれの俳句の径に散っていく。
黒田杏子先生、運営に携わったスタッフの皆さん、藍生の会友、ありがとうございました。


花は咲き、花は散り、季節は一気に過ぎ去った。その間に黒田杏子先生も逝かれてしまった。山梨県で講演をされた翌日。巡礼者として生涯を全うされた。

 

みな過ぎて鈴の奥より花のこゑ 杏子

 

大きな喪失感を埋め合わせるため俳句を詠んだ。多くは桜と黒田先生に関係のある句となった。ところが推敲しようと読み返しているときあることに気づいた。俳句を詠むとき自分のまなざしだけで無く、同時に常に黒田先生のまなざしにも包まれていたのだ。勿論我々はあらゆるとき、自分と他者のまなざしを共有して物事を見ていることは知っている。大人とは、社会人とはそうあるべきである。実生活において自分の行動を相対化し、俯瞰して律することこそ道徳的に成長した人間である。

 

花を待つひとのひとりとなりて冷ゆ

杏子

 

実生活から離れた俳句などの創作においても鑑賞者を思いながら普遍的表現と独創的表現の狭間を模索する。それは自分の個性をどのように表現するかという作家的意識だ。そのことは十分理解していた。しかしそこに黒田先生のまなざしが常に自分を支えるように存在していたことに師を失ってから気づいたのである。

 

花巡る一生のわれをなつかしみ 杏子

 

黒田先生との縁はおよそ四十年前に遡る。今は無き牧羊社から刊行されていた総合誌『俳句とエッセイ』が若者向けに始めた雑詠欄「牧鮮集」の選者と投句者の関係だ。その後その関係は黒田先生創刊の「藍生」に移り、三十年以上継続した。その間、師弟関係は存在するのが当たり前のこととして無意識化されていた。

自分が俳句を詠むとき、読み手としての黒田先生のまなざしが無意識の下で影響していたのだ。自作の良し悪しを自分で判断するときも常に黒田先生のまなざしが方向を示して下さっていたのだった。

 

黒田先生亡き後、このまなざしはどうなるのだろうか。おそらく黒田先生のまなざしはこれからも変わらずに自分の脳裏で作品を照射することだろう。年月を重ねるうちに師のまなざしはすっかり身体化しているからだ。

 

黒田杏子先生。長い間大変お世話になりました。ありがとうございます。師恩の本当の深さや広さは未だ見えておりません。しかし、これからも我が句作の指針としてお導きください。身体化した黒田先生のまなざしは今後も圧倒的な力で私を指導し続けることでしょう。私はそれをさらに深く学び直します。これこそ師恩に報いることに違いありません。

 

花に問へ奥千本の花に問へ 杏子

俳句と“からだ” 199 歳時記 鮓 

 


俳句初学の頃、先輩から「馬手に歳時記、弓手に字引」と教えられた。ともかく小まめに歳時記と向き合い、辞書を引けという指導だ。

 

比較文学研究者前島志保氏の書評によると、東聖子・藤原マリ子編『国際歳時記における比較研究――浮遊する四季のことば』(笠間書院2011年)において、歳時記には「①一年中の季節に応じた祭事、行事、自然現象など百般についての解説を記した書。②誹諧で、季語を四季順に整理、分類して解説した書物。季寄」の二種類があるとされている。また同書中の東聖子「『増山井』における詩的世界認識の方法」では、なぜ北村季吟・湖春親子の『増山井』が現代の歳時記スタンダードとなったのかについて論じられる。季吟が刊行した『山の井』が初めての独立した季寄せであり、「現代の歳時記の形式そのものである」として、「季吟が新文学の誹諧における〈俳言〉の重要性を認識していたことがわかる」と述べられている。中国と朝鮮半島には「①の意味での歳時記のみが存在している」ともある。

 

鮒鮓や三たび水打つ石暮れて

水原秋桜子

 

『俳文学大辞典』(角川書店)の「歳時記」の項に「歳時記の名称は本来、中国の『四民月令』『荊楚歳時記』など行事歴・生活歴に関する書」と書かれ、「詩歌の暦としての歳時記の先蹤としては、十世紀後半に成った『古今六帖』の歳時部が挙げられる」とある。俳句を作るとき参照するのは②に分類される歳時記であり、これは明確に「俳句歳時記」と称するべきではないだろうか。

 

 今月の季語は「鮓」を取り上げる。鮓は通年の食物だが季語としては夏に分類される。何故なら元来鮓は夏、鮒鮓のように魚の腹に飯を詰めて作る発酵食品だったからだ。近世以降特に関西では箱鮓(押し鮓)が一般化し、江戸後期には今日の主流である握り鮓が広まった。

 

鮒ずしや彦根が城に雲かかる  蕪村

 

季語は季節の客観的事物や事実のみならず人々に共通の歴史的・社会的認識も備えている。例えば鮒鮓は鮓実体を超えて近江の歴史や琵琶湖の波風を纏っている。さらに季語には作者個人の経験も絡みつく。句が鑑賞されるとき読み手の思いも重ねられる。字義通りに読んだとしても自ずから作者の表現を超えた読み手の世界が産まれる。私事ながら箱鮓は夏休みに母の里を訪れた時、祖母が必ず作ってくれたご馳走である。今でも箱鮓を食すと田舎の家を囲む山容や祖父母の面影、幼い自分の様子などが偲ばれる。

 

季語には(季語だけではないが)このように字義を超えた意味の伝達や状況の展開という可能性が秘められている。

俳句と“からだ” 198 季語 紫雲英


 『俳文学大辞典』(角川書店)には次のように記載されている。

 

季語とは連歌・誹諧・俳句において季を表す詩語。古くは「四季の詞」「季の詞」「季詞」といい、「季語」という言いかたは大須賀乙字(『アカネ』明治四十一年六月号)に始まる。

 

このように、季語は伝統的詩歌において用いられる季節を表す言葉である。したがって有季俳句、無季俳句に関わらず季語を勉強することは詩歌に関わる者にとって必須の課題となる。そこで今回、自分なりに季語に対峙してみようと思う。

 

 鋤き込みし紫雲英に満たす山の水

斎藤夏風

 

 日本は北海道から沖縄と南北に長い国だ。また太平洋側と日本海側では背骨に当たる山脈を介して全く異なる気候となり季節もずれる。北の地が雪で囲まれているとき南の地では櫻が咲き始める。季節は暦通りではない。さらにその土地には土地の文化と歴史があり、日本全体を統一出来るものではない。それを宮坂静生氏は地貌季語と称してその土地のいのちの言葉を見出そうとされている。季語は普遍的な歳時記的意味に加え、その土地独自の意味を包摂している。さらに季語には一人一人の想いも託される。それらによって季語の彩りが豊かになるのであろう。

 

 どの道も家路とおもふげんげかな

田中裕明

 

今回取り上げる季語は春の「紫雲英」である。マメ科の紫雲英は空気中の窒素を蓄える根粒菌と共生しているため鋤込めば有用な窒素肥料となるため化学肥料が普及する前の緑肥として利用された。前年の秋、農家が種を撒いて田植えに備えておく。決して自然発生ではない。また、紫雲英の「英」は「はなぶさ」で中央の凹んだ花を表す。これは蒲公英も同じことだ。子どもの頃、田植え前の田圃を紅紫に染める紫雲英田は春の彩りであった。遙かに聳える伊吹山や養老山系。蜜蜂が飛び回る辺に座り子ども達は花の首飾りを編む。中には相撲を取って農家の人から叱られた思い出もあるだろう。紫雲英のしっとりとした湿り気は今でも身体の記憶として残っている。

 

これら様々な情報が季節感を超えた紫雲英のイメージを形成する。読み手は鑑賞を通して詠み手の紫雲英からさらに自分の紫雲英世界を展開させる。そこには両者による新しい世界が立ち上がっていることだろう。その世界を産み出すためには教養や想像力が求められるに違いない。つまり季語は教養なのである。

 

げんげ田や昼は遺影が家を守る

鈴木鵬于

連俳句と“からだ” 197 『語りたい兜太 伝えたい兜太』

 

 董振華が聞き手と編集を担った『語りたい兜太 伝えたい兜太』(コールサック社)が上梓された。黒田杏子監修のもと、中国出身で日本在住の董が金子兜太に深く関わった13名へ行ったインタビューをまとめている。同社から再刊され話題を呼んだ『証言・昭和の俳句』(聞き手・編者黒田杏子)の形式を踏襲し、各人各様の兜太観が対談によって燻り出され興味深い。ぜひ一読を勧めたい。

 

 特に共感した部分を紹介しよう。

関悦史は「岡本太郎とか丹下健三とかみたいに昭和史と絡み合うように大成して、そのことで俳句の世界から外の世界への窓口になってしまい、それを引き受けていた」という見解を示している。たしかに金子は時代を引き受ける役割を担っていた。国会デモなどで使用された「アベ政治を許さない」という言葉。澤地久枝の発案で揮毫を依頼されたのが金子であることは俳句界では知られており、大胆な「一発書き」だと本人が述べている。

 

人体冷えて東北白い花盛り

 

 宮坂静生は「あなたによって俳句史は生きた人間の心の表現史に書き換えられた」として、「秩父の『山国の田舎っぺ』の兜太さんが土に培われた『美の型のようなもの』に俳句表現の源があると気づかれた」と述べている。この着眼点もこれからの俳句にとって欠かせないものとなるだろう。

 

 強し青年干潟に玉葱腐る日も

 

 筑紫磐井の話は戦後俳句史の講義のようだ。「金子さんの場合は(中略)同時代と競い合って生き残り、それから下の(稲畑)世代と競い合ってほぼ同じ時期まで生きて二世代分の活動をしたけれども、まさに活動をしながら亡くなった」と位置づけ、「誰も兜太の後を継げるような人はいないのではないか」としている。

 

 朝はじまる海へ突込む鴎の死

 

 最年少の神野紗希は「人間であり続けるということを選んだ人だったと思います。俳人である以前に、人間である。いや、俳人とは人間である。その当たり前の真実を、愚直に強く広く実践された作家でした」と64歳年長の金子を偲ぶ。

 

子馬が街を走っていたよ夜明けのこと

 

高山れおなの帯文は「我々の俳句は、これからも、なんどでも、この人から出発するだろう。(中略)李杜の国からやってきた朋が、これらの胸騒がせる言葉をひきだした」と核心を突いている。

 

他の証言も興味深いが字数の関係で紹介できない。改めて思う。畢竟、兜太とは語り尽くせない存在者なのだろうと。

(句は全て金子兜太作品)

2023/11/08

俳句と“からだ” 196 賢治と米

 

「悦凱陣(よろこびがいじん)」は四国香川県琴平にある酒造の醸す銘酒である。ラベルを読むと原料米が「花巻亀の尾」とある。地名と米の名前から即座に宮澤賢治(1896~1933)が想起された。賢治の人生は稲と深く関わっていたからだ。

 

生きかはり死にかはりして打つ田かな

村上鬼城

 

1893年、山形の農民阿部亀治が、冷害で倒れた稲の中に3本だけ元気な稲穂を見つける。彼はそれを譲り受け4年かけて新品種を産み出す。これが「亀の尾」である。倒れ難く害虫に強く早く育つという利点がある。彼はこの種を無償で提供したため瞬く間に広がったという。現在人気のササニシキ、コシヒカリ、ひとめぼれ、あきたこまち、つや姫などのルーツである。今日、「亀の尾」自体は飯米ではなく酒米として人気がある。(山形県庄内町観光情報サイト参照)。

 

その後、「亀の尾」は秋田県の農事試験場で「陸羽(りくう)20号」と交配され「陸羽132号」という米が生まれる。味の良好な「亀の尾」と冷害に強い「陸羽20号」の良いところを活かした品種だ。 (「農業共済新聞」より)。

 

「亀の尾」と「陸羽132号」は宮澤賢治が農民のために無償で肥料設計をしていたとき推奨していた稲だ。詩「稲作挿話」には「君が自分で設計した/あの田もすつかり見て来たよ/陸羽百三十二号のはうね/あれはずゐぶん上手に行つた/肥えも少しもむらがないし/いかにも強く育つてゐる」と詠んでいる。

 

宮澤賢治は詩人・童話作家として知られる。同時に皆の幸福を願った社会活動家としても評価されているが、過大評価や毀誉褒貶もある。生まれた明治29年が明治三陸大津波、亡くなった昭和8年は昭和三陸大津波といういずれも東北大震災に匹敵する災害の年だった。1932年(昭7)と1934年(昭9)は大凶作で、当時の貧困な農民達は食べることに困窮することも多かった。凶作に活躍したのが「陸羽132号」だ。早生で冷害を免れたのである。現在、秋田県の新政酒造はこの米を自家米として育て、賢治の思想を纏めた「農民藝術概論綱要」にちなんだ「農民藝術概論」という酒を造っている。

 

賢治の亡くなった1933年(昭8)は豊作だった。賢治は9月17日から19日まで晴天の下で実施された鳥谷ヶ崎神社の祭を家の前で見た後、辞世となる歌を詠み21日、家族の見守る中で息を引き取った。37歳。その歌は生涯を象徴する稲への想いと豊作の喜びだった。

 

方十里稗貫のみかも稲熟れてみ祭三日そらはれわたる(稗貫は地名)

病のゆえにもくちんいのちなりみのりに棄てばうれしからまし

俳句と“からだ” 195 季語と心情


季語は季節の物事および季節感を表す言葉である。俳句に詠み込まれることで

「作者と読者との共通理解の媒介」(尾形仂)となる。

 

原爆図中口あくわれも口あく寒 

加藤楸邨

 

 掲句は句集『まぼろしの鹿』(1967年刊)に収められている。戦後8年を経た昭和28年(1953年)の冬、広島を訪れ原爆図と対峙して詠まれた。「原爆図」と前書きがあり、「原爆図唖々と口あく寒鴉」など26句が記されている。「原爆図」は丸木位里・俊夫妻の筆による「原爆の図」で原爆投下直後の阿鼻叫喚を描いた作品群だ。多くの人が爆死、破壊された市街で生き残った人々は炎に包まれ爛れた皮膚で生死の狭間を藻掻いた。原爆投下は人類が人類に対して犯した最大級の愚行、蛮行である。筆を尽くして描かれた一連の「原爆の図」を前に圧倒され立ち尽くす楸邨が想像できる。

 

 この句は「原爆図中口あく」「われも口あく」「寒」と三つに分けて読むべきだろう。原爆図の中の人々は口をあいている。戦火に逃げ惑う人々の飢渇と苦悶、怨念と憤怒や絶望などが口をあくことで象徴されている。無音の叫びである。絵の前に立ち尽くす楸邨自身も作中に引き込まれ、描かれた人々と同じ驚愕や怒り、悲しみと無力感から同様に口をあくしかない。ふと我に返った楸邨を冬の寒気が包んでいるが、それだけではなく作者の心も寒々と凍えている。

 

 「寒」は冬の季語である。時候で言えば二十四節気の小寒と大寒。一月初旬から節分までとなる。また「寒し」ならば冬の冷え冷えとした体感となる。しかし掲句の「寒」は現実の寒さを表しているだけではない。平井照敏編『新歳時記』には「心理的な寒さ、心の寒さ、時代の寒さまでを含めていう」とある。この一語で尾形のいう「作者と読者との共通理解の媒介」が成立している。「原爆の図」を見たことがなくともその描画や楸邨の思いが伝わってくる。これが季語「寒」の作用だ。

 

しかし季語に関しては異なる意見もある。季語は季節や季物、季節感を表す言葉、言い換えると純粋季語であるべきではないか、季語に心情を代弁させることは季語への冒涜ではないか、その方向へ走ると季語が手垢に塗れて純粋性を失うのではないかという主張だ。

 

これは難しい問題だが、いずれにせよ季語は科学用語ではなく、長い年月、人と共に育まれた人文用語である。季語を活かすか季語に委ねるか。そこに俳人の有り様が示されるのだろう。

 

広島や卵食ふ時口ひらく 西東三鬼

俳句と“からだ” 194 『鈴木しづ子100句』


 戦後俳壇を駆け抜けた俳人鈴木しづ子の生涯はさまざまな伝説に包まれている。

 

 鈴木しづ子 俳人。生没年未詳。大正14(1925)・1・4生れとも。戦時中は神奈川県川崎市の岡本製作所、戦後は東京府中の東芝に勤め、昭和23年(1948)に職場結婚。一年余で離婚し、米軍基地周辺で働く。俳句は同18年から松村巨湫に師事し、『樹海』に拠る。句集『春雷』(昭21)、第二句集『指環』(昭27)には奔放な私生活を詠む句が多い。同28年、岐阜県各務原から失跡。「肉感に浸りひたるや熟れ柘榴」(村上 護) 俳文学大辞典(平成7年刊 角川書店) 註:『鈴木しづ子100句』には本名鈴木鎮子、1919(大正8)生とある。

 

 『鈴木しづ子100句』(黎明書房)は長年鈴木しづ子顕彰記念事業に関わっている武馬久仁裕と松永みよこによる新刊である。彼らはしづ子の俳句に纏いつく伝説を極力排除し、テキストに沿って解釈鑑賞しようと試みる。「はじめに」に「とかく、スキャンダラスな衣装をまとわされてきた彼女の俳句から、その衣装を取り去り、自由に読もうとするものです。(中略)その見事な言葉さばき(言葉の綾、レトリック)は、鈴木しづ子の俳句に、他の俳人とは違った不思議な輝きをもたらしています。自由に読むとは、彼女の俳句を書かれた通りに読むということです。」と書かれている。

 

 雪の夜を泪みられて涕きにけり

 

武馬はこの句の眼目は「雪の夜に」ではなく「雪の夜を」としたことだという。「に」では「泪みられて涕」くことが、「雪の夜の中の狭い一点にすぼんで」しまう。「雪の夜を」だと「涕く人を包む大きな雪の夜にな」ると説く。また「泪みられて涕きにけり」のひらがなは「なみだの粒」を文字の姿形で視覚的に示す表現法で、武馬は文字の形象化と呼んでいる。しづ子はひらがなを多用しているが、前衛俳句へ繋がる技法であるという。

 

 作品には作者の人生が否応なく投影される。芭蕉や山頭火などは寧ろその生涯と作品が密接に関係するところが評価される。俳句は短さゆえに署名があって完成するという考えもある。その反面、句の独立性を重視し作者と離れて句自体を鑑賞するという意見もある。武馬らは鈴木しづ子の俳句を伝説から切り離すことで真に作家としての実力を紐解いていこうと試みた。

 

雛まつるおほかたは父わからぬ子

 

この句に関して松永は「雛を飾っている子どもたちの多くに父親がいないのです」とそのままの解説をしたのち、史実から戦災混血児であることを述べている。周辺情報とテキストから丁寧に読まれることで鈴木しづ子の俳人としての存在に新たな価値を見出した本として推奨できる。

俳句と“からだ” 193髙田正子著『黒田杏子の俳句』後編


 黒田の7冊の句集には〈花を待つ〉を詠んだ句が21句ある。髙田は「当然のように〈花を待つ〉を季語として受け止めてい」た。ところが髙田の所持する歳時記には〈花を待つ〉を季語の見出し語とした本がないという。試みに手持ちの数種の歳時記を確認したがその見出しの季語はない。

髙田が抽出した〈花を待つ〉で最も古いのは平成7年(1995)刊の『一木一草』にある。

 

 花いまだ念佛櫻とぞ申す

 

季語は〈花を待つ〉そのものではなく〈花いまだ〉であるが「紛れもなくそのこころが汲めるので抽い」たと記している。平成5年(1993)4月4日、西国吟行第6回滋賀県長命寺の作である。髙田はその場にいたと記しているが、実は私もその場にいた。黒田から「寒い中、花を持つ気分を花未だというのよ」と直接声を掛けられた記憶がある。本書によれば当日の表記は「花未だ」であり、句集に掲載するとき「花いまだ」に添削されたようである。漢字と平仮名の誓いを吟味するのは興味深い。

 

 実際に〈花を待つ〉が登場するのは平成17年(2005)に刊行された次の句集『花下草上』である。髙田は〈花を待つ〉を「季語」とカギ括弧で括り「哲学の領域に入っている」として、その理由を「三十歳で櫻花巡礼を発心し、自ら満行とみなし得るまでおよそ三十年。日常生活を送りながら千日回峰行を修めるに似た荒行である。その行を果たして初めて流麗に口をついて出るようになったことばを、思想、概念と呼ぶと抽象的に過ぎ、語と呼ぶといささか部品っぽいと考えたところで、はたと膝を打った。季語とは両者を兼ね備えたもの、まさに言霊そのものではないかと」述べている。

 

花を待つひとのひとりとなりて冷ゆ

 

高田は3年間、「藍生」誌上にて師黒田杏子の句を、季語や「ちちはは」などのキーワードを基に整理し、年齢的変化や身辺環境からの影響を熟慮しながら鑑賞した。同時に黒田の師である山口青邨や同時代の俳人の句を視野に入れて読み解いていった。その過程で高田自身の俳句観にも変化が生じたのではないか。先の引用はその好例である。あたかも黒田の7冊の句集という山嶺を巡礼者として一足一足吟味しつつ歩いていく行であったに違いない。読者もまた髙田と同行二人、杏子俳句の新しい表情を見せて貰うことが出来た。黒田は7年前、大病で斃れた。しかし治癒後の結社や協会を超越した活躍には目を見張るばかりだ。その功績に、所属していない現代俳句協会からも大賞を受けた。黒田の巡禮者としての歩みはこれからも続く。

この書は遊行の軌跡であると同時に新たな発心の道標ともなるだろう。

俳句と“からだ” 192 髙田正子著『黒田杏子の俳句櫻・螢・巡禮』

 


 髙田正子著『黒田杏子の俳句 櫻・螢・巡禮』が出版された。黒田杏子の誕生日2022年8月10日を発行日とする記念すべき大書である。黒田杏子の俳句を弟子の髙田正子が季語を中心としたキーワードで丁寧に読み解いている。本書は藍生俳句会結社誌「藍生」に「テーマ別黒田杏子作品分類」として2019年1月号から2021年12月号まで連載された文章の再構成である。

 

髙田の文体は静謐で精緻、平明で自然体である。しかし、その筆の奥に深い読みが記されており油断ならない。冒頭の「『はじめに』代えて 黒田杏子の〈葱〉』と題された「まえがき」も師との出会いを書きながら、〈葱〉に纏わる様々な考察をさらりと示しているが、その内容には驚かされる。

 

白葱のひかりの棒をいま刻む(1977)

この冬の名残の葱をきざみけり(1993)

 

髙田はこの両句を対比して後者を「直感的に歳月が詠ませた句だ」と推測する。何故なら「平成五年(筆者註:1993)の杏子は五十代の半ば。変わらず溌剌としていたが、還暦やら定年やらが意識される年ごろ」だからだ。髙田は続けて「作者の現在が、作者に選びとらせる言葉があるということを、私はこの句から教わったのである」と深く学ぶ。優れた弟子は常に学びの触手を伸ばしている。かくして読者は髙田正子と同行二人、杏子俳句の巡礼に旅立つこととなる。

 

 黒田の既刊七句集に収められた〈葱〉の句はたった六句である。その意外性を髙田は「え!これだけ?」と驚きを隠さず記している。読者も同時に「なるほど、そうだったのか!」と肯うだろう。こうしたメリハリのある文章がともすれば黒田俳句の堅苦しい資料集とも成りかねない内容を親しい読み物としている。

 

 髙田は黒田の〈葱〉の句の数が少ないことに対して「詠んでいないのではなく、句集に残していないのだと悟った」と述べる。それは黒田が『黒田杏子句集成』のあとがきに「句集に収めたいと思う作品は、自分のこころとかたち、想いの深くしみこんでいるものという自選基準」と認めているからだ。

 

 さらに髙田は黒田の師である山口青邨の〈葱〉の句を紹介する。青邨の十三冊の句集に葱の句は九句あるという。

 

 楚々として象牙のごとき葱を買ふ

 葱白く象牙の如し肉と飾る

 

がある。前者が1950年、後者が「ひかりの棒」と同じ1977年である。象牙からひかりの棒への飛躍。髙田は〈葱〉を「オブジェ」と見る青邨と「刻む」杏子の違いと読み取る。(以下次号)

俳句と“からだ” 191 小川楓子句集『ことり』

 


 小川楓子(1983年生まれ。金子兜太の「海程」、山西雅子の「舞」に参加)の第一句集『ことり』が話題となっている。2022年2月刊行、早くも6月に増刷とのこと。句集の登場に黒岩徳将、相子智恵、大塚凱ら若い俳人達による読書会がZoomで行われた。その評価の高さが理解できる。旧来の俳壇に見られた結社縦割りの評価ではなく、作品自体が横断的に評価されるという風通しの良さの表出である。俳壇にはびこる権威主義を超えてこのような評価のあり方が一般的になれば新しい才能が参加しやすくなるのではないか。

 

 くちのなかほんのり塩気かも雷鳥

 身に入むやつてことあるんだか寝ぐせ

 

Zoomの読書会で大塚凱は「豊旗雲の上にでてよりすろうりい 完市」を引用して小川の調べは『海程』の阿部完市の影響を受けていると説明した。肯える指摘である。自在な調べと言葉の飛躍に満ちた詠み振りは読んでいて実に楽しい。「くちのなかほんのり塩気かも」から突然「雷鳥」への飛躍は驚きと戸惑いを招くが不快では無い。言葉の意味ではなく、むしろ躍動感が煌めく。音の調べと意味の調べに程良いズレがあり、下五に置かれた「寝ぐせ」も読み手の想像を超えつつ受け入れられる飛躍となっている。但し、これらの句は、次の句も含めて下五の最後の三文字に落とし込む形となっており作者ならではの定型として成立しているが常用すると形骸化する懸念もある。

 

 椎若葉こころちひさくなつてきのふ

 

初めから「こころちひさくなつて」までは読み下せる。ところが最後に「きのふ」が出てくると時間が反転して過去に向かう。心細さが時間に絡め取られて昨日に向かって流れ込んでいくようだ。

 

噴水にしてもあなたはスローリー

下唇突きだしなんか涼しさう

 

これらの句は完市や兜太へのオマージュだろう。先達の句業を身体化して自らの世界を作り上げようというところに感性に委ねるだけではない作家の思いが見えてくる。

 

 小川は「あとがき」に「作品は、わたしでもわたしの所有物でもないと思っています。なぜなら、スープのにおい、くすぐったい蟻、通りすがりの鼻歌などを授かって(いえ、率直に言うと、ひょいと掴まえて)放ったものだからです」と書いている。小川にとって、作句とはcreationではなく、「わたし」を通過する何かを「ひょいと捕まえて放つ」serendipityなのかもしれない。するとその先には小川の師匠金子兜太のアニミズムの世界が広がってくる。  

 (句は全て小川楓子作品)

2022/08/25

俳句とからだ 190 人にはどれほどの土地がいるか

 

連載 俳句と“からだ” 190

 

三島広志(愛知県)

 

人にはどれほどの土地がいるか

 

 2022年2月24日、ロシア軍がウクライナに侵攻した。6月14日現在、戦火が世界に拡大する懸念を抱えたまま戦争状態が続いている。両国の歴史的経緯には詳しくないが、今の時代に武力による侵攻が易々と行われたことに驚きと怒りを禁じ得ない。

 

侵攻を機会にウクライナ民話『てぶくろ』やロシア民話『おおきなかぶ』が読まれているという。『てぶくろ』は森の中に落ちていた手袋にネズミやキツネ、オオカミやクマなど七匹の動物が仲良く入る物語。『おおきなかぶ』は巨大に育ったカブをおじいさん、おばあさん、孫娘、イヌ、ネコ、ネズミまでが協力して収穫する話だ。どちらも仲良く暮らし、助け合う物語である。ネット上にはこれらの素晴らしい民話を生んだ国同士が争うという現実に悲しみ、平和を願う声が溢れている。

 

生きかはり死にかはりして打つ田かな            

村上鬼城

 

 これらは古くから伝承されていた民話だが、ロシアの文豪レフ・トルストイ(1828~1910)は1881年から86年にかけて民話形式の教訓的短編を書いている。今回の侵攻で思い出したのが『人にはどれほどの土地がいるか』(1886年)である。『トルストイ民話集 イワンのばか』(岩波文庫)の中に納められている。翻訳は中村白葉(1890~1974)。

 

教科書で学ぶ世界史も日本史もほとんど戦争の歴史である。戦争とは主に国家が軍事力を行使して他国に対し政治的目的を達成しようとする野蛮な行為である。多くは領地を奪おうとするものだ。トルストイの民話はその愚かさを農民が土地に執着する寓話で示している。

 

 農夫パホームは土地さえあれば幸福に暮らせると信じていた。ある時悪魔が化けた旅人に日の出から日没までに一周出来たらその土地が貰えるという魅力的な話を聞く。彼はその地に出向き、より大きな土地を手に入れようと必死で歩き、ついに広大な土地を手にする。しかしその途端、無理が祟って息絶えてしまう。民話は以下の文章で終わる。

「下男は土掘りをとりあげて――頭から足がはいるように――きっかり三アルシンだけ、パホームのために墓穴を掘った、そして彼をそこに埋めた」

 

これが自己完成を山上の垂訓を元とした原始キリスト教的世界観に求め、民衆のために国やロシア正教と闘った偉大なるトルストイの「人にはどれほどの土地がいるか」の答えであった。

 

あやまちはくりかへします秋の暮

三橋敏雄

俳句とからだ 189 表語文字と表音文字

 

連載 俳句と“からだ” 189

 

三島広志(愛知県)

 

表語文字と表音文字

 

 先月号に諸葛菜のことを書き、同時にたくさんの植物名を上げた。諸葛菜以外の植物名はカタカナで表記した。それには理由がある。NHK放送文化研究所のホームページ「放送現場の疑問・視聴者の疑問」に次のように書かれている。

 

Q 動物や植物の名を、カタカナ ひらがな 漢字と色々書いていますが、その基準はどうなっているのでしょうか。

 

A 動物や植物(含む野菜)を表す漢字が常用漢字表にあれば漢字。なければひらがなで書きます。学術的な場合は、カタカナで書きます。

 

ここに書かれているように学術的名称にはカタカナ表記が一般化している。とはいえ、法律で定められたわけでもないので、必ずカタカナで書かなくてはならないというわけでもない。カタカナ、漢字、ひらがなの使い分けは出版社や編集方針にもよるらしい。それならば諸葛菜と漢字で書いてもよいはずだ。むしろ文学の世界なら古くからのイメージを持つ漢字は表現を豊かにするだろう。

 

 かげろふと字にかくやうにかげろへる

富安風生

 

学術的に植物名はカタカナ表記でという決まりであったとしても、カタカナではその名の由来が伝わらないため漢字で書きたいこともある。諸葛孔明に由来する諸葛菜もショカツサイではその背景が伝わらない。試みに先月書いた植物名をカタカナと漢字で表記してみよう。ナガミヒナゲシ(長実雛罌粟)、オオイヌノフグリ(大犬の陰嚢)、スミレ(菫)、セイヨウタンポポ(西洋蒲公英)、マツバウンラン(松葉海蘭)となる。漢字で表記するとカタカナと異なり意味が明瞭になる。カタカナは表音文字なので一字では音声を表すだけだ。それに対して漢字は表語文字(表音文字と表意文字を兼ねる)だから一字で意味と音声を示すことが可能となる。表意文字は一字でイメージを呼び起こす。ナガミヒナゲシは長実雛罌粟と表記することで長い実を付ける雛のように可愛い罌粟の花であると理解できる。

 

 文字には表音文字(phonogram)と表意文字(ideogram)があることは知られている。我が国の文字は中国の漢字を輸入したものだが、それを簡略化して片仮名が作られ、崩して平仮名が発生した。現代の日本語はこれら三つの表記に加えて表音文字であるアルファベットを混在させている。漢字は表意文字とされるが正しくは表音文字でもあり、その両者を併せ持つ表記を表語文字(logogram)と呼ぶ。日本語はこれらの表記を使い分けることで豊かな表現が可能となっている。

 

 皹といふいたさうな言葉かな

富安風生

俳句とからだ 188 諸葛菜

 

連載 俳句と“からだ” 188

 

三島広志(愛知県)

 

諸葛菜

 初夏になると路傍の草が開花し街を楽しませてくれる。仕事場へ行く途上、ナガミヒナゲシやオオイヌノフグリ、スミレ、セイヨウタンポポ、マツバウンランなどの草を目にする。お気に入りは諸葛菜。姿が大根の花や菜の花に似ており紫の花を咲かせる。同じアブラナ科だ。

 

諸葛菜は春の季語である。但し、手持ちの講談社日本大歳時記と新版角川俳句大歳時記、成星出版の現代歳時記には掲載されているが、平凡社の俳句歳時記や河出書房新社の新歳時記には採用されていない。角川大歳時記には以下のように書かれている。

 

諸葛菜 むらさきはなな おほあらせいとう 菲息菜 花大根

解説 アブラナ科の一年草。江戸時代に中国から渡来した。(後略)

 諸葛菜咲き伏したるに又風雨 

水原秋桜子『餘生』

 諸葛菜人に委ねし死後のこと 

福田葉子『夢幻航海』

 

 ところが諸葛菜は国立開発法人国立環境研究所の「侵入生物データベース」によると侵入生物となる。侵入生物とは「人間によって自然分布域以外の地域に移動させられた生物」と定義づけられる。諸葛菜の影響は「在来種との競合.スジグロシロチョウの分布拡大に寄与」するそうだ。植物だけで無く食草とする昆虫にも影響を与える。従って勝手に栽培してはいけないこととなる。実は先のナガミヒナゲシ、オオイヌノフグリ、セイヨウタンポポ、マツバウンランはどれも侵入生物である。現代は物流が海を越えて頻繁に行われるので侵入は避けられない。しかし、実は既に日本の景色として馴染んでいる植物は多い。

 

 諸葛菜は歳時記に書かれているように原産地が中国で江戸時代に渡来した。目的は観賞と食用油を採取するためと言われる。戦時中は食用として拡散されたという記録もある。ここで疑問に思うのはその名前である。精選版日本国語大辞典には「三国時代の諸葛孔明にちなむ」とあるがそれ以上の説明は無い。ネットを渉猟していたら龍谷大学経済学部竹内真彦教授(中国古典小説研究会会長・三国志学会評議員)が丁寧に調べられた「諸葛孔明は諸葛菜を本当に植えたのか?」に当たった。それによると日本人が広く諸葛菜を知ったのは吉川英治の『三国志』(篇外余録)のようである。諸葛孔明は移動するとそこに蔓蕪(諸葛菜)を栽培して食の確保をした。中国の諸葛菜は蕪の一種であり、日本でも混同されている。しかし教授は詳細に原典を紐解いていく。その結果はぜひ紹介した文章を読んで頂きたい。知識と同時に学びの醍醐味が伝わる文章である。

 

 病室にむらさき充てり諸葛菜

石田波郷

 

 

俳句とからだ 186 西川火尖句集『サーチライト』

 

連載 俳句と“からだ” 186

 

三島広志(愛知県)

 

西川火尖句集『サーチライト』

西川火尖の第一句集『サーチライト』(文學の森、2021年)は2006年からの277句を収めている。西川は1984年京都市生まれで「炎環」(石寒太主宰)所属。 詩歌俳同人「Qai」(2018)結成、「子連れ句会」運営など精力的に活動している。受賞歴に「炎環みらい賞」「北斗賞」がある。句集名のサーチライトは探照灯のことで一方向に強い光を照射し遠くの敵などを捜索する光源だ。句集全体をサーチライトが照射し、あたかも作品の読み方を誘っているようなタイトルだ。

 

句集は「四隅」「波」「粒」「光」の四章から成り、いずれも光を連想させる。章立ての前に一句

 

映写機の位置確かむる枯野かな

 

が置かれ、句集のテーマを明示している。映写機も闇に光を照射する。枯野で映写機の位置を確かめる行為は示唆的である。西川は映写機の位置を確かめる表の句意と同時に、自分の置かれている存在の深層を模索する自覚存在を目指しているのではないか。自覚存在とは「人間が自分の存在を問題にし、自己を失っているような状態から脱して、真に自己であろうと努力するあり方をいう」(日本国語大辞典)。

 

元来俳句は短さ故に作品が作者の意図しないメタファやシンボルになっている。自分も含めて凡庸な俳人はその点をあまり意識しないで作句しているが、西川は意図的に創作しているのではないか。その志向こそがサーチライトなのだろう。

 

枯園の四隅投光器が定む

陽炎へるまで試聴器を再生す

 

投光器や試聴器を通して、今、此処を明確にしようとする。即刻眼前である。しかし、西川の抱く存在への漠然とした不安は否定できない。

 

本当に薄羽蜉蝣なのですか

目隠しの布を引かれて青き踏む

非正規は非正規父となる冬も

 

現実の不安が「なのですか」という疑問形や、「目隠し」「非正規」などの言葉で表現されている。

 

未来明るし未来明るし葱洗ふ

どうしても影の整ふ雛かな

 

「明るし」の反復が却って不安を煽り、整然と並べられた雛のどうしても整ってしまう影に存在のもつ本質的な不安が詠まれている。

 

 堅苦しい読みばかりしてきたが「子連れ句会」を運営する西川らしく句集には子どもを詠んだ句を多く掲載している。その中から一句。

 

吾子褒める雪降る前に目一杯

俳句とからだ 184 岩淵喜代子著『二冊の「鹿火屋」』

 

連載 俳句と“からだ” 184

 

三島広志(愛知県)

 

岩淵喜代子著『二冊の「鹿火屋」』

原石鼎(1886~1951)は35歳のとき結社誌「鹿火屋」を発行する。譲渡された数誌を併合して誌名を変更したものだ。誌名は1914年の作「淋しさに又銅鑼打つや鹿火屋守」に因る。37歳で関東大震災(1923)に遭遇し以後65歳で亡くなるまで神経衰弱に苦しむ。発病後は妻のコウ子が結社の維持に努め、1974年、養子の原裕に継承、現在も原家が主宰している。

表題の書は俳句結社「鹿火屋」で原裕に師事し、現在は同人誌「ににん」代表の岩淵喜代子が著したものだ。岩淵は石鼎と神との関わりを研究している最中、少なくとも二冊の石鼎の為だけに発行された「鹿火屋」を入手する。神との関わりを調べていた理由は石鼎出身地島根では幼い頃から出雲神楽に馴染んでいると『石鼎窟夜話』に書かれていることと、石鼎が精神を病む過程で神を身近に感じていたのではないかと考えられることからである。

 

では何故石鼎のためだけに「鹿火屋」が発行されたのか。そこにメスを入れたのがこの本である。

「頂上や殊に野菊の吹かれ居り」は石鼎にとって特別の句である。作品舞台の鳥見山が偶然神武天皇の斎場であったからだ。この霊畤こそ石鼎のスピリチュアルな体質を示している。

 関東大震災のあと精神を病んだ石鼎は治療による薬物中毒に苦しむようになり、1940年(昭和15年)から41年にかけて精神病院に入院する。入院中、岩淵によると「天上界を行き来していたような」句を詠んでいるという。

また、偶然、新居の地名が倭建命が弟橘媛命を偲ぶ「吾妻」であったので一層神を身近に感じたのであろう。石鼎の創作意欲が極めて旺盛であったという。「鹿火屋」編集部はその量に困惑して石鼎用の「鹿火屋」を印刷したのではないかと推察される。何故なら現存が確認できているのは1941年(昭和16年)10月号と翌42年1月号であるが10月号の表紙裏には手書きで「この雑誌は病中の石鼎先生にみせるために特別に造本したもので、一般に頒布したものとはちがうものである 一男記」と書かれているからだ。一男は口語俳句の市川一男だ。

量的問題だけでは無い。岩淵は石鼎用「鹿火屋」には「外国語の詩が載り、自らの記名の上に神の称号を与えている。当時の軍事国家では忌々しい事態なのである」と推測している。43年(昭和18年)には軍による俳誌の統合が始まっている。おそらく石鼎と「鹿火屋」を統制から守るためと、同時に石鼎の矜恃を保つための二冊の「鹿火屋」なのだ。

一人の天才とそれを取り巻く人々。更にそこに忍び寄る軍靴の音。こうした状況がたったひとりの為に本を作って魂を救済していたのだ。震災や戦争。これらは常に人類が背後に背負っている問題である。二冊の「鹿火屋」は自然と戦争に翻弄された記録としても貴重である。

俳句とからだ 183 深見けん二氏「夏帽子」考

 

連載 俳句と“からだ” 183

 

三島広志(愛知県)

 

深見けん二氏「夏帽子」考

2021年9月15日、「花鳥来」主宰深見けん二氏(1922~2021)が逝去された。享年99。高浜虚子、山口青邨に師事し、情を湛えた写生句、花鳥諷詠の伝道者と称された。代表作として次の句が知られている。

 

人生の輝いてゐる夏帽子

 

「夏帽子」という「もの」を直視し、そこから浮き上がる本質を描いている。

 

夏帽子の句から広瀬直人(1929~2018)の代表句を思い起こす。

 

夏帽子心足る日を重ねけり 

 

深見句は夏帽子の明るい性質からそれを被る人が輝きを放つという人生賛歌である。と同時に眩しさや羨ましさなども入り混じる。それに対して廣瀬句からは人生の内奥を深く味わう趣が伝わる。

 

廣瀬と同じ飯田蛇笏門下の石原八束(1919~1998)には人口に膾炙した冬帽子の句がある。

 

くらがりに歳月を負ふ冬帽子 

 

門下高弟として蛇笏の到達した孤高を引受け継承しているようだ。帽子という「もの」に具現される世界と、石原の世界観の機微が興味深い。

 

 帽子は日光や寒さ、落下物から頭部を防御する必需品であると同時に自己を演出する小道具ともなる。明治、髷を落とし西洋に倣い帽子を被ることとなった。帽子は自身の矜恃を保ち外見を調整する「もの」ではあるが、同時に内面や他者との関係などを物語る。戦後の漫画に登場する磯野波平氏はいつも帽子を取って会釈を交わす(自己を晒す)のである。

 

深見けん二氏没後刊行された第十句集『もみの木』の掉尾には次の句が置かれている。

 

先生はいつもはるかや虚子忌来る

 

深見氏の恩師高浜虚子に対する強い思いが胸に迫る。しかし、この句は晩年の句ではあるが遺作ではない。掉尾に置いたのは作者の意志であろうか。あるいは氏の遺志を酌んだ編集者による構成だろうか。勝手な推察あるいは憶測に過ぎないかもしれないが、いずれにしても虚子の説く写生に人生を賭けた深見けん二氏に相応しい句と演出である。

 

虚子には次の句がある。

 

火の山の裾に夏帽振る別れ

 

今頃、彼岸で師弟が帽子を振り合って挨拶をしているかも知れない。

(訃報の項以外、敬称を略させていただきました)

俳句とからだ 182 堀田季何『人類の午後』

 

連載 俳句と“からだ” 182

 

三島広志(愛知県)

 

堀田季何『人類の午後』

 『人類の午後』(邑書林)は堀田季何の第四詩歌集。 俳句形式の作品を集めているが句集とは謳っていない。一巻は前奏ⅠⅡⅢ後奏という六つの章で構成されている。所々に文章が添えられ句の世界を暗示している。例えば前奏という章の冒頭には「リアリティとは、『ナチは私たち自身のやうに人閒である』ということだ。(ハンナ・アーレント)」とある。哲学者アーレントはユダヤ人としてナチスから迫害を受けながらもかろうじて生き延びた。そして大虐殺に深く関わったアイヒマンが普通の実直な公務員であること、ファシズムが思考停止を招くことを喝破した。「考えるのを止めたら、人間じゃなくなる」とは彼女の至言である。堀田はアーレントの言葉を冒頭に置くことで一冊を方向付けしている。

 

一九三八年一一月九日深夜

水晶の夜映寫機は碎けたか

 

水晶の夜とはドイツで発生したユダヤ人に対する暴動のことだ。民衆によるものかナチス主導の暴動であったかは未だに明確ではないが、ここからホロコーストへの道が一気に開かれてしまう。暴動で破壊された硝子が月に照らされて水晶のように輝いていたため、水晶の夜と呼ばれている。1941年には大量虐殺が始まる。それが二句目の

息白く唄ふガス室までの距離

 

に繋がる。したがって一句は独立しつつ他の句と呼応している。こうして詩歌集全体の世界観を築いているのだろう。

 

失踪の蜂なれば原子爐の中

 

 堀田は先の大震災や原発事故にも目を向ける。御せない火を手中にした人類はその恩恵と弊害に揺さぶられながら存在している。嘗て手塚治虫はテレビアニメ「鉄腕アトム」の最終回で動力源の原子炉を体内にもつアトムを地球と激突しかけた小惑星と共に太陽に突入させた。希望の火としてアトムと名付けられたロボットの最期として誠に衝撃だった。

 

 ディケンズの『クリスマス・キャロル』の一節「(前略)なんでお前にめでたくなる権利があるんだい(後略)」を前書きに置いた章にある

 

正方形の聖菓四ツ切正方形

 

切っても切っても正方形に均一化された社会に対するアイロニーだろう。この不気味さは次の句にも覗われる。

 

スターリン忌ポスターの下にポスター

 

大海は大河拒まず鳥渡る

 

 大海のような社会。人類の午後はこうした大らかな世界でありたいと願う。

(句は全て堀田季何。漢字は全て旧字体)

俳句とからだ 181 麦藁ストロー

 

連載 俳句と“からだ” 181

 

三島広志(愛知県)

 

麦藁ストロー

 この頃サスティナブル(sustainable)やSDGs(Sustainable Development Goals)という言葉をしきりに耳にする。sustainableは持続するという意味のsustainに可能を示すableがついた言葉で持続可能の意。SDGsは外務省のウエブサイトに「『持続可能な開発のための2030アジェンダ』に記載された,2030年までに持続可能でよりよい世界を目指す国際目標」と書かれている。

 

生きかはり死にかはりして打つ田かな

村上鬼城

 

このような環境運動は過去にも度々起こった。その理由の一つとして考えられるのは資本主義と環境破壊が表裏の関係にあるということだ。人々の欲望は果てしない。特に購買力のある有閑階級は財に任せて生活必需品以外に多くの贅沢品を浪費する。これを衒示的消費という。それは労働階級の人々に富を見せびらかすことになるが結果として「浪費という消費は有閑階級から広がり、資本主義という文化全体の決定的な特徴となる(後掲資料)」。こうして経済市場が無限に拡大すると自然破壊、農地の減少、資源の枯渇が明らかになってくる。そこで拡大に歯止めを掛けようとする運動がしばしば沸き起こる。嘗ては山の資源を無駄にしないために割り箸が、海の資源の象徴としては鯨が注目された。今日のサスティナブルでは地中に蓄積された炭化水素から生産されるプラスティックが槍玉に挙がっている。(内田成「資本主義と環境問題」埼玉学園大学紀要第10号参照)

 

麦車馬におくれて動き出づ

芝不器男

 

プラスティックの代わりに麦の藁を用いた麦藁ストローを使おうという声が上がり、既に商品化されている。しかし、ストロー(straw)とは麦藁のことだ。麦藁の代替としてプラスティックが使われたのであって決してその逆では無い。

 

ストローの歴史は古く、古代メソメタミア文明シュメール人のビールに遡る。濾過技術が不十分だったため沈殿物を避け、上澄みだけ飲むためネイという葦の茎を使った。麦藁(ストロー)を使用するようになりストローと呼ばれるようになる。プラスティックが発明され主流となったがストローという名称がそのまま用いられている。この飲用に用いる管状の道具をストローと思い込み、本来麦藁であったことが忘れられたようだ。

 

しかし重要なのは、目先の善行に酔いしれずに「私たち人間が地球のあり方を取り返しがつかないほど大きく変えてしまっているということ」(『人新世の「資本論」』斎藤孝平)を直視することだろう。

 

討ち入りの日のストローを折り曲げる

越智友亮

俳句とからだ 180 言葉と身体感覚

 

連載 俳句と“からだ” 180

 

三島広志(愛知県)

 

言葉と身体感覚

 COVID-19は二年近く医療体制や経済、身近な生活などに大きな影響を与え続け、未だ先が見えない。自分自身、移動はほとんど歩行か自転車。会食せず、通販多用、散髪はヘアカッターを使用し自分で刈っている。多少の虎刈りなどこの年齢に成れば何ら臆すことは無い。

 

髪を刈りつつふと思った。柔道には「刈(り)」という技が多い。大外刈、小外刈、大内刈、小内刈など。いずれも相手の脚を刈り倒す技だ。さらに柔道には「払(い)」という技もある。送足払、出足払、払釣込足など。刈ると払う。創始者は明確に名称を使い分けている。それは技の特徴を示しているからだ。大辞林によれば刈るは「草・毛など生えているものを、根元を残して切り取る」、払うは「じゃまなもの、無益なもの、不要なもの、害をなすものなどを除く」となる。お祓いも払うと似ており厄災を払ってその場から除去する神事となる。

 

 刈田尽き荒磯の白き波を見る

山口青邨

 

 刈るは根元を残して切る行為だが一気に素早く刈る一瞬の時間が特徴、対して払うは払いのけた後に何も残さないという空間状況が重要に思える。柔道の小内刈は相手の脚をザクッと鋭く刈り取るように仕掛けるのでその場に落ちるように決まる。出足払はタイミングを計りながら足を柔らかく密着させ払うため、相手は全身が浮き上がるように投げられる。速度よりも足を払い除けるイメージだ。

 

 橋に出て屏風掃きけり煤払ひ 原石鼎

 

 東北大学名誉教授生田久美子に『わざ言語』(慶應義塾大学出版会)という著書がある。古来、わざの伝承は「感覚の共有を通して『学び』へ」導かれていた。そこでの言語を「わざ言語」と説く。まず特定の行為の発現を「促し」、ある種の身体感覚を持つように「しむけ」、自らの到達点を弟子に「突きつける」のだという。その間、直接的な言葉ではなく身体感覚の共有を通じて伝承が行われる。それを「わざ言語」と命名した。「わざ言語」は修行の長い過程で繰り返し「教える者」から「学ぶ者」に発せられる。「教える者」から発せられた卓越した表現は極意として記されたのではないか。柔道の極意は「押さば引け、引かば押せ」「押さば回れ、引かば斜めに」と伝えられている。

 

では技の名前はどうだろう。小内刈や出足払はそれ自体が「教える者」の到達点を示していると考えられる。先人達が苦悩の末に見出した極意が実は既に技の名として命名されていたのである。

 

 あるだけの明るさの中麦を刈る  

阿部風々子

俳句とからだ 179 オリンピックとオリンピズム

 

連載 俳句と“からだ” 179

 

三島広志(愛知県)

 

オリンピックとオリンピズム

 東京オリンピックはCOVID-19の影響で一年延期し、2021年夏、ほぼ無観客で開催される。そこまでして開催する必要はあるのか。古代オリンピックは紀元前776年の第1回大会から紀元後393年の第293回大会まで約1200年にわたって四年に一度、ギリシアのオリンピアで行われた。競技種目は第1回から第17回まで192m(この距離をスタディオンといい、スタディアムの語源)の徒競走のみだったが、第18回以降、レスリング、ボクシング、パンクラティオン(総合格闘技)、長距離走、五種競技、円盤投、やり投、戦車競走などが増えた。実は古代オリンピックはスポーツ大会ではなく全能の神ゼウスを祀る祭典だった。祭典の間、休戦(エケケイリア)をしたので平和の祭典と呼ばれる。しかし皮肉なことにローマ帝国の征服によって終焉を迎えることとなる。

 

 1896年、近代オリンピック第一回アテネ大会が開催された。中心になったのはピエール・ド・クーベルタン男爵(仏1863~2004)である。古代オリンピックに影響されたスポーツ大会は世界のあちこちで実施されていたが、国際的な活動になったのはこの大会だけであった。クーベルタンはスポーツの教育や心理に果たす役割に関心を抱いていた。自らの理想を実現するため社会啓蒙も行い、オリンピックとして結実した。彼は「スポーツを通して心身を向上させ、さらには文化・国籍など様々な差異を超え、友情、連帯感、フェアプレーの精神をもって理解し合うことで、平和でよりよい世界の実現に貢献する」というオリンピズムを提唱した。「教育者としてスポーツによる人間陶冶と社会改革という二つの思想(参照:田原)」が生み出したものだ。しかし「帝国主義的植民地政策に加担する言説や社会不平等論(参照:清水)」を唱えたこともあり、先のオリンピズムと矛盾するところもある。

 

仮にコロナ禍でないとしても、果たしてオリンピックに今日的意味はあるのだろうか。1896年に近代オリンピックが始まって二度の大きな世界大戦があった。その後は国威発揚、代替戦争の場となり、現在IOCは興業主として選手の存在を全く無視、深夜の試合や真夏のマラソンを組む。古代オリンピックは神事だった。現在も各地に祭典があり、純粋なスポーツ大会も開催される。利権者の手遊びに付き合う必要など全くない。

 

 湾曲し火傷し爆心地のマラソン

金子兜太

参照

「古代オリンピア祭典の起源とその周辺」加藤元和

「オリンピックと教育­-オリンピック競技大会誕生の背景とその今日的意義-」田原淳子

「古代オリンピックの知られざるリアル」橋場弦

「クーベルタン、その虚像と実像」清水重勇