2022/08/25

俳句とからだ 190 人にはどれほどの土地がいるか

 

連載 俳句と“からだ” 190

 

三島広志(愛知県)

 

人にはどれほどの土地がいるか

 

 2022224日、ロシア軍がウクライナに侵攻した。614日現在、戦火が世界に拡大する懸念を抱えたまま戦争状態が続いている。両国の歴史的経緯には詳しくないが、今の時代に武力による侵攻が易々と行われたことに驚きと怒りを禁じ得ない。

 

侵攻を機会にウクライナ民話『てぶくろ』やロシア民話『おおきなかぶ』が読まれているという。『てぶくろ』は森の中に落ちていた手袋にネズミやキツネ、オオカミやクマなど七匹の動物が仲良く入る物語。『おおきなかぶ』は巨大に育ったカブをおじいさん、おばあさん、孫娘、イヌ、ネコ、ネズミまでが協力して収穫する話だ。どちらも仲良く暮らし、助け合う物語である。ネット上にはこれらの素晴らしい民話を生んだ国同士が争うという現実に悲しみ、平和を願う声が溢れている。

 

生きかはり死にかはりして打つ田かな            

村上鬼城

 

 これらは古くから伝承されていた民話だが、ロシアの文豪レフ・トルストイ(18281910)1881年から86年にかけて民話形式の教訓的短編を書いている。今回の侵攻で思い出したのが『人にはどれほどの土地がいるか』(1886)である。『トルストイ民話集 イワンのばか』(岩波文庫)の中に納められている。翻訳は中村白葉(18901974)

 

教科書で学ぶ世界史も日本史もほとんど戦争の歴史である。戦争とは主に国家が軍事力を行使して他国に対し政治的目的を達成しようとする野蛮な行為である。多くは領地を奪おうとするものだ。トルストイの民話はその愚かさを農民が土地に執着する寓話で示している。

 

 農夫パホームは土地さえあれば幸福に暮らせると信じていた。ある時悪魔が化けた旅人に日の出から日没までに一周出来たらその土地が貰えるという魅力的な話を聞く。彼はその地に出向き、より大きな土地を手に入れようと必死で歩き、ついに広大な土地を手にする。しかしその途端、無理が祟って息絶えてしまう。民話は以下の文章で終わる。

「下男は土掘りをとりあげて――頭から足がはいるように――きっかり三アルシンだけ、パホームのために墓穴を掘った、そして彼をそこに埋めた」

 

これが自己完成を山上の垂訓を元とした原始キリスト教的世界観に求め、民衆のために国やロシア正教と闘った偉大なるトルストイの「人にはどれほどの土地がいるか」の答えであった。

 

あやまちはくりかへします秋の暮

三橋敏雄

俳句とからだ 189 表語文字と表音文字

 

連載 俳句と“からだ” 189

 

三島広志(愛知県)

 

表語文字と表音文字

 

 先月号に諸葛菜のことを書き、同時にたくさんの植物名を上げた。諸葛菜以外の植物名はカタカナで表記した。それには理由がある。NHK放送文化研究所のホームページ「放送現場の疑問・視聴者の疑問」に次のように書かれている。

 

Q 動物や植物の名を、カタカナ ひらがな 漢字と色々書いていますが、その基準はどうなっているのでしょうか。

 

A 動物や植物(含む野菜)を表す漢字が常用漢字表にあれば漢字。なければひらがなで書きます。学術的な場合は、カタカナで書きます。

 

ここに書かれているように学術的名称にはカタカナ表記が一般化している。とはいえ、法律で定められたわけでもないので、必ずカタカナで書かなくてはならないというわけでもない。カタカナ、漢字、ひらがなの使い分けは出版社や編集方針にもよるらしい。それならば諸葛菜と漢字で書いてもよいはずだ。むしろ文学の世界なら古くからのイメージを持つ漢字は表現を豊かにするだろう。

 

 かげろふと字にかくやうにかげろへる

富安風生

 

学術的に植物名はカタカナ表記でという決まりであったとしても、カタカナではその名の由来が伝わらないため漢字で書きたいこともある。諸葛孔明に由来する諸葛菜もショカツサイではその背景が伝わらない。試みに先月書いた植物名をカタカナと漢字で表記してみよう。ナガミヒナゲシ(長実雛罌粟)、オオイヌノフグリ(大犬の陰嚢)、スミレ()、セイヨウタンポポ(西洋蒲公英)、マツバウンラン(松葉海蘭)となる。漢字で表記するとカタカナと異なり意味が明瞭になる。カタカナは表音文字なので一字では音声を表すだけだ。それに対して漢字は表語文字(表音文字と表意文字を兼ねる)だから一字で意味と音声を示すことが可能となる。表意文字は一字でイメージを呼び起こす。ナガミヒナゲシは長実雛罌粟と表記することで長い実を付ける雛のように可愛い罌粟の花であると理解できる。

 

 文字には表音文字(phonogram)と表意文字(ideogram)があることは知られている。我が国の文字は中国の漢字を輸入したものだが、それを簡略化して片仮名が作られ、崩して平仮名が発生した。現代の日本語はこれら三つの表記に加えて表音文字であるアルファベットを混在させている。漢字は表意文字とされるが正しくは表音文字でもあり、その両者を併せ持つ表記を表語文字(logogram)と呼ぶ。日本語はこれらの表記を使い分けることで豊かな表現が可能となっている。

 

 皹といふいたさうな言葉かな

富安風生

俳句とからだ 188 諸葛菜

 

連載 俳句と“からだ” 188

 

三島広志(愛知県)

 

諸葛菜

 初夏になると路傍の草が開花し街を楽しませてくれる。仕事場へ行く途上、ナガミヒナゲシやオオイヌノフグリ、スミレ、セイヨウタンポポ、マツバウンランなどの草を目にする。お気に入りは諸葛菜。姿が大根の花や菜の花に似ており紫の花を咲かせる。同じアブラナ科だ。

 

諸葛菜は春の季語である。但し、手持ちの講談社日本大歳時記と新版角川俳句大歳時記、成星出版の現代歳時記には掲載されているが、平凡社の俳句歳時記や河出書房新社の新歳時記には採用されていない。角川大歳時記には以下のように書かれている。

 

諸葛菜 むらさきはなな おほあらせいとう 菲息菜 花大根

解説 アブラナ科の一年草。江戸時代に中国から渡来した。(後略)

 諸葛菜咲き伏したるに又風雨 

水原秋桜子『餘生』

 諸葛菜人に委ねし死後のこと 

福田葉子『夢幻航海』

 

 ところが諸葛菜は国立開発法人国立環境研究所の「侵入生物データベース」によると侵入生物となる。侵入生物とは「人間によって自然分布域以外の地域に移動させられた生物」と定義づけられる。諸葛菜の影響は「在来種との競合.スジグロシロチョウの分布拡大に寄与」するそうだ。植物だけで無く食草とする昆虫にも影響を与える。従って勝手に栽培してはいけないこととなる。実は先のナガミヒナゲシ、オオイヌノフグリ、セイヨウタンポポ、マツバウンランはどれも侵入生物である。現代は物流が海を越えて頻繁に行われるので侵入は避けられない。しかし、実は既に日本の景色として馴染んでいる植物は多い。

 

 諸葛菜は歳時記に書かれているように原産地が中国で江戸時代に渡来した。目的は観賞と食用油を採取するためと言われる。戦時中は食用として拡散されたという記録もある。ここで疑問に思うのはその名前である。精選版日本国語大辞典には「三国時代の諸葛孔明にちなむ」とあるがそれ以上の説明は無い。ネットを渉猟していたら龍谷大学経済学部竹内真彦教授(中国古典小説研究会会長・三国志学会評議員)が丁寧に調べられた「諸葛孔明は諸葛菜を本当に植えたのか?」に当たった。それによると日本人が広く諸葛菜を知ったのは吉川英治の『三国志』(篇外余録)のようである。諸葛孔明は移動するとそこに蔓蕪(諸葛菜)を栽培して食の確保をした。中国の諸葛菜は蕪の一種であり、日本でも混同されている。しかし教授は詳細に原典を紐解いていく。その結果はぜひ紹介した文章を読んで頂きたい。知識と同時に学びの醍醐味が伝わる文章である。

 

 病室にむらさき充てり諸葛菜

石田波郷

 

 

俳句とからだ 187 平井照敏編『新歳時記』

 

連載 俳句と“からだ” 187

 

三島広志(愛知県)

 

平井照敏編『新歳時記』

20219月、河出書房新社から平井照敏編『新歳時記』(全五巻)が復刊された。既に1989年発行の文庫版全五冊を所有しているが紙が劣化し読み難いので新版全五冊を買い揃えた。この歳時記は好評で初版の後、改訂版(1996)、復刻版(2015)と発行、今回は軽装版初版となる。

 

平井照敏(19312003)は加藤楸邨門の俳人であると同時にフランス文学、特に詩の研究者としても知られる。俳句結社「槙」を主宰し、私も20代後半に短い期間だが会員として参加した。また国文学誌に掲載されていた平井と草間時彦の対談で、期待される新人として黒田杏子という存在を知った。

 

藍の布ひろがりひろがり秋の風 照敏

 

俳句を志す者は歳時記を手にする。歳時記の名称は中国南方荊楚地方(長江中流域)の生活暦『荊楚歳時記』(西暦500年代)が嚆矢とされる。日本では十世紀以降、詩歌の暦として少しずつ拡充整備されたという。初めて書名に歳時記と謳ったのは『誹諧歳時記』(1804)だが、生活歴と季寄をまとめたもので現在の歳時記とは異なる。今日の歳時記の体裁は高浜虚子が『新歳時記』によって完成させた。(『俳文学大辞典』歳時記の項、角川書店等参照)。

 

 現在書架には数種類の歳時記がある。全五巻の百科事典的歳時記を一冊にまとめたものや、季節毎に分冊されたもの。カラー写真で愉しく眺める歳時記もある。さらにスマートフォンのアプリとして『合本俳句歳時記』(角川書店)があり、現実に最も利用しているのはこれである。

 

 平井編の歳時記に戻ろう。この本の特徴は三つある。一つは平井照敏一人で編著をしていることである。多くの歳時記はその情報量から大勢の書き手が担当しそれを複数の編集者が体裁を統一している。過去にも高浜虚子や山本健吉、中村汀女、村山古郷などが単独で編集しているが、平井の歳時記が最新であろう。二つ目は季題の本意に関して古典を紐解き詳細に解説している点だ。長い年月を費やして季語が深められてきたことが理解できる。そして三つ目は本意を最も表していると編者が考える句に*印を付けていることだ。

 

これらの新しい試みにより普遍的歳時記と言うよりも平井照敏にとっての季語宇宙が編まれることとなった。例えば冬の項は解説の前半で気象学的解説、後半の本意解説では『古今集』の歌、そして本意をもっとも特徴付ける句として「中年や独語おどろく冬の坂 西東三鬼」としている。これを肯うか否定するか、著者と問答しながら読むという読み物としての良さがある。

 

 いつの日も冬野の真中帰りくる 照敏

俳句とからだ 186 西川火尖句集『サーチライト』

 

連載 俳句と“からだ” 186

 

三島広志(愛知県)

 

西川火尖句集『サーチライト』

西川火尖の第一句集『サーチライト』(文學の森、2021)2006年からの277句を収めている。西川は1984年京都市生まれで「炎環」(石寒太主宰)所属。 詩歌俳同人「Qai(2018)結成、「子連れ句会」運営など精力的に活動している。受賞歴に「炎環みらい賞」「北斗賞」がある。句集名のサーチライトは探照灯のことで一方向に強い光を照射し遠くの敵などを捜索する光源だ。句集全体をサーチライトが照射し、あたかも作品の読み方を誘っているようなタイトルだ。

 

句集は「四隅」「波」「粒」「光」の四章から成り、いずれも光を連想させる。章立ての前に一句

 

映写機の位置確かむる枯野かな

 

が置かれ、句集のテーマを明示している。映写機も闇に光を照射する。枯野で映写機の位置を確かめる行為は示唆的である。西川は映写機の位置を確かめる表の句意と同時に、自分の置かれている存在の深層を模索する自覚存在を目指しているのではないか。自覚存在とは「人間が自分の存在を問題にし、自己を失っているような状態から脱して、真に自己であろうと努力するあり方をいう」(日本国語大辞典)

 

元来俳句は短さ故に作品が作者の意図しないメタファやシンボルになっている。自分も含めて凡庸な俳人はその点をあまり意識しないで作句しているが、西川は意図的に創作しているのではないか。その志向こそがサーチライトなのだろう。

 

枯園の四隅投光器が定む

陽炎へるまで試聴器を再生す

 

投光器や試聴器を通して、今、此処を明確にしようとする。即刻眼前である。しかし、西川の抱く存在への漠然とした不安は否定できない。

 

本当に薄羽蜉蝣なのですか

目隠しの布を引かれて青き踏む

非正規は非正規父となる冬も

 

現実の不安が「なのですか」という疑問形や、「目隠し」「非正規」などの言葉で表現されている。

 

未来明るし未来明るし葱洗ふ

どうしても影の整ふ雛かな

 

「明るし」の反復が却って不安を煽り、整然と並べられた雛のどうしても整ってしまう影に存在のもつ本質的な不安が詠まれている。

 

 堅苦しい読みばかりしてきたが「子連れ句会」を運営する西川らしく句集には子どもを詠んだ句を多く掲載している。その中から一句。

 

吾子褒める雪降る前に目一杯

俳句とからだ 184 岩淵喜代子著『二冊の「鹿火屋」』

 

連載 俳句と“からだ” 184

 

三島広志(愛知県)

 

岩淵喜代子著『二冊の「鹿火屋」』

原石鼎(18861951)は35歳のとき結社誌「鹿火屋」を発行する。譲渡された数誌を併合して誌名を変更したものだ。誌名は1914年の作「淋しさに又銅鑼打つや鹿火屋守」に因る。37歳で関東大震災(1923)に遭遇し以後65歳で亡くなるまで神経衰弱に苦しむ。発病後は妻のコウ子が結社の維持に努め、1974年、養子の原裕に継承、現在も原家が主宰している。

表題の書は俳句結社「鹿火屋」で原裕に師事し、現在は同人誌「ににん」代表の岩淵喜代子が著したものだ。岩淵は石鼎と神との関わりを研究している最中、少なくとも二冊の石鼎の為だけに発行された「鹿火屋」を入手する。神との関わりを調べていた理由は石鼎出身地島根では幼い頃から出雲神楽に馴染んでいると『石鼎窟夜話』に書かれていることと、石鼎が精神を病む過程で神を身近に感じていたのではないかと考えられることからである。

 

では何故石鼎のためだけに「鹿火屋」が発行されたのか。そこにメスを入れたのがこの本である。

「頂上や殊に野菊の吹かれ居り」は石鼎にとって特別の句である。作品舞台の鳥見山が偶然神武天皇の斎場であったからだ。この霊畤こそ石鼎のスピリチュアルな体質を示している。

 関東大震災のあと精神を病んだ石鼎は治療による薬物中毒に苦しむようになり、1940年(昭和15年)から41年にかけて精神病院に入院する。入院中、岩淵によると「天上界を行き来していたような」句を詠んでいるという。

また、偶然、新居の地名が倭建命が弟橘媛命を偲ぶ「吾妻」であったので一層神を身近に感じたのであろう。石鼎の創作意欲が極めて旺盛であったという。「鹿火屋」編集部はその量に困惑して石鼎用の「鹿火屋」を印刷したのではないかと推察される。何故なら現存が確認できているのは1941年(昭和16年)10月号と翌421月号であるが10月号の表紙裏には手書きで「この雑誌は病中の石鼎先生にみせるために特別に造本したもので、一般に頒布したものとはちがうものである 一男記」と書かれているからだ。一男は口語俳句の市川一男だ。

量的問題だけでは無い。岩淵は石鼎用「鹿火屋」には「外国語の詩が載り、自らの記名の上に神の称号を与えている。当時の軍事国家では忌々しい事態なのである」と推測している。43年(昭和18年)には軍による俳誌の統合が始まっている。おそらく石鼎と「鹿火屋」を統制から守るためと、同時に石鼎の矜恃を保つための二冊の「鹿火屋」なのだ。

一人の天才とそれを取り巻く人々。更にそこに忍び寄る軍靴の音。こうした状況がたったひとりの為に本を作って魂を救済していたのだ。震災や戦争。これらは常に人類が背後に背負っている問題である。二冊の「鹿火屋」は自然と戦争に翻弄された記録としても貴重である。

俳句とからだ 183 深見けん二氏「夏帽子」考

 

連載 俳句と“からだ” 183

 

三島広志(愛知県)

 

深見けん二氏「夏帽子」考

2021915日、「花鳥来」主宰深見けん二氏(19222021)が逝去された。享年99。高浜虚子、山口青邨に師事し、情を湛えた写生句、花鳥諷詠の伝道者と称された。代表作として次の句が知られている。

 

人生の輝いてゐる夏帽子

 

「夏帽子」という「もの」を直視し、そこから浮き上がる本質を描いている。

 

夏帽子の句から広瀬直人(19292018)の代表句を思い起こす。

 

夏帽子心足る日を重ねけり 

 

深見句は夏帽子の明るい性質からそれを被る人が輝きを放つという人生賛歌である。と同時に眩しさや羨ましさなども入り混じる。それに対して廣瀬句からは人生の内奥を深く味わう趣が伝わる。

 

廣瀬と同じ飯田蛇笏門下の石原八束(19191998)には人口に膾炙した冬帽子の句がある。

 

くらがりに歳月を負ふ冬帽子 

 

門下高弟として蛇笏の到達した孤高を引受け継承しているようだ。帽子という「もの」に具現される世界と、石原の世界観の機微が興味深い。

 

 帽子は日光や寒さ、落下物から頭部を防御する必需品であると同時に自己を演出する小道具ともなる。明治、髷を落とし西洋に倣い帽子を被ることとなった。帽子は自身の矜恃を保ち外見を調整する「もの」ではあるが、同時に内面や他者との関係などを物語る。戦後の漫画に登場する磯野波平氏はいつも帽子を取って会釈を交わす(自己を晒す)のである。

 

深見けん二氏没後刊行された第十句集『もみの木』の掉尾には次の句が置かれている。

 

先生はいつもはるかや虚子忌来る

 

深見氏の恩師高浜虚子に対する強い思いが胸に迫る。しかし、この句は晩年の句ではあるが遺作ではない。掉尾に置いたのは作者の意志であろうか。あるいは氏の遺志を酌んだ編集者による構成だろうか。勝手な推察あるいは憶測に過ぎないかもしれないが、いずれにしても虚子の説く写生に人生を賭けた深見けん二氏に相応しい句と演出である。

 

虚子には次の句がある。

 

火の山の裾に夏帽振る別れ

 

今頃、彼岸で師弟が帽子を振り合って挨拶をしているかも知れない。

(訃報の項以外、敬称を略させていただきました)

俳句とからだ 182 堀田季何『人類の午後』

 

連載 俳句と“からだ” 182

 

三島広志(愛知県)

 

堀田季何『人類の午後』

 『人類の午後』(邑書林)は堀田季何の第四詩歌集。 俳句形式の作品を集めているが句集とは謳っていない。一巻は前奏ⅠⅡⅢ後奏という六つの章で構成されている。所々に文章が添えられ句の世界を暗示している。例えば前奏という章の冒頭には「リアリティとは、『ナチは私たち自身のやうに人閒である』ということだ。(ハンナ・アーレント)」とある。哲学者アーレントはユダヤ人としてナチスから迫害を受けながらもかろうじて生き延びた。そして大虐殺に深く関わったアイヒマンが普通の実直な公務員であること、ファシズムが思考停止を招くことを喝破した。「考えるのを止めたら、人間じゃなくなる」とは彼女の至言である。堀田はアーレントの言葉を冒頭に置くことで一冊を方向付けしている。

 

一九三八年一一月九日深夜

水晶の夜映寫機は碎けたか

 

水晶の夜とはドイツで発生したユダヤ人に対する暴動のことだ。民衆によるものかナチス主導の暴動であったかは未だに明確ではないが、ここからホロコーストへの道が一気に開かれてしまう。暴動で破壊された硝子が月に照らされて水晶のように輝いていたため、水晶の夜と呼ばれている。1941年には大量虐殺が始まる。それが二句目の

息白く唄ふガス室までの距離

 

に繋がる。したがって一句は独立しつつ他の句と呼応している。こうして詩歌集全体の世界観を築いているのだろう。

 

失踪の蜂なれば原子爐の中

 

 堀田は先の大震災や原発事故にも目を向ける。御せない火を手中にした人類はその恩恵と弊害に揺さぶられながら存在している。嘗て手塚治虫はテレビアニメ「鉄腕アトム」の最終回で動力源の原子炉を体内にもつアトムを地球と激突しかけた小惑星と共に太陽に突入させた。希望の火としてアトムと名付けられたロボットの最期として誠に衝撃だった。

 

 ディケンズの『クリスマス・キャロル』の一節「(前略)なんでお前にめでたくなる権利があるんだい(後略)」を前書きに置いた章にある

 

正方形の聖菓四ツ切正方形

 

切っても切っても正方形に均一化された社会に対するアイロニーだろう。この不気味さは次の句にも覗われる。

 

スターリン忌ポスターの下にポスター

 

大海は大河拒まず鳥渡る

 

 大海のような社会。人類の午後はこうした大らかな世界でありたいと願う。

(句は全て堀田季何。漢字は全て旧字体)

俳句とからだ 181 麦藁ストロー

 

連載 俳句と“からだ” 181

 

三島広志(愛知県)

 

麦藁ストロー

 この頃サスティナブル(sustainable)やSDGsSustainable Development Goals)という言葉をしきりに耳にする。sustainableは持続するという意味のsustainに可能を示すableがついた言葉で持続可能の意。SDGsは外務省のウエブサイトに「『持続可能な開発のための2030アジェンダ』に記載された,2030年までに持続可能でよりよい世界を目指す国際目標」と書かれている。

 

生きかはり死にかはりして打つ田かな

村上鬼城

 

このような環境運動は過去にも度々起こった。その理由の一つとして考えられるのは資本主義と環境破壊が表裏の関係にあるということだ。人々の欲望は果てしない。特に購買力のある有閑階級は財に任せて生活必需品以外に多くの贅沢品を浪費する。これを衒示的消費という。それは労働階級の人々に富を見せびらかすことになるが結果として「浪費という消費は有閑階級から広がり、資本主義という文化全体の決定的な特徴となる(後掲資料)」。こうして経済市場が無限に拡大すると自然破壊、農地の減少、資源の枯渇が明らかになってくる。そこで拡大に歯止めを掛けようとする運動がしばしば沸き起こる。嘗ては山の資源を無駄にしないために割り箸が、海の資源の象徴としては鯨が注目された。今日のサスティナブルでは地中に蓄積された炭化水素から生産されるプラスティックが槍玉に挙がっている。(内田成「資本主義と環境問題」埼玉学園大学紀要第10号参照)

 

麦車馬におくれて動き出づ

芝不器男

 

プラスティックの代わりに麦の藁を用いた麦藁ストローを使おうという声が上がり、既に商品化されている。しかし、ストロー(straw)とは麦藁のことだ。麦藁の代替としてプラスティックが使われたのであって決してその逆では無い。

 

ストローの歴史は古く、古代メソメタミア文明シュメール人のビールに遡る。濾過技術が不十分だったため沈殿物を避け、上澄みだけ飲むためネイという葦の茎を使った。麦藁(ストロー)を使用するようになりストローと呼ばれるようになる。プラスティックが発明され主流となったがストローという名称がそのまま用いられている。この飲用に用いる管状の道具をストローと思い込み、本来麦藁であったことが忘れられたようだ。

 

しかし重要なのは、目先の善行に酔いしれずに「私たち人間が地球のあり方を取り返しがつかないほど大きく変えてしまっているということ」(『人新世の「資本論」』斎藤孝平)を直視することだろう。

 

討ち入りの日のストローを折り曲げる

越智友亮

俳句とからだ 180 言葉と身体感覚

 

連載 俳句と“からだ” 180

 

三島広志(愛知県)

 

言葉と身体感覚

 COVID-19は二年近く医療体制や経済、身近な生活などに大きな影響を与え続け、未だ先が見えない。自分自身、移動はほとんど歩行か自転車。会食せず、通販多用、散髪はヘアカッターを使用し自分で刈っている。多少の虎刈りなどこの年齢に成れば何ら臆すことは無い。

 

髪を刈りつつふと思った。柔道には「刈()」という技が多い。大外刈、小外刈、大内刈、小内刈など。いずれも相手の脚を刈り倒す技だ。さらに柔道には「払()」という技もある。送足払、出足払、払釣込足など。刈ると払う。創始者は明確に名称を使い分けている。それは技の特徴を示しているからだ。大辞林によれば刈るは草・毛など生えているものを、根元を残して切り取る」、払うはじゃまなもの、無益なもの、不要なもの、害をなすものなどを除く」となる。お祓いも払うと似ており厄災を払ってその場から除去する神事となる。

 

 刈田尽き荒磯の白き波を見る

山口青邨

 

 刈るは根元を残して切る行為だが一気に素早く刈る一瞬の時間が特徴、対して払うは払いのけた後に何も残さないという空間状況が重要に思える。柔道の小内刈は相手の脚をザクッと鋭く刈り取るように仕掛けるのでその場に落ちるように決まる。出足払はタイミングを計りながら足を柔らかく密着させ払うため、相手は全身が浮き上がるように投げられる。速度よりも足を払い除けるイメージだ。

 

 橋に出て屏風掃きけり煤払ひ 原石鼎

 

 東北大学名誉教授生田久美子に『わざ言語』(慶應義塾大学出版会)という著書がある。古来、わざの伝承は「感覚の共有を通して『学び』へ」導かれていた。そこでの言語を「わざ言語」と説く。まず特定の行為の発現を「促し」、ある種の身体感覚を持つように「しむけ」、自らの到達点を弟子に「突きつける」のだという。その間、直接的な言葉ではなく身体感覚の共有を通じて伝承が行われる。それを「わざ言語」と命名した。「わざ言語」は修行の長い過程で繰り返し「教える者」から「学ぶ者」に発せられる。「教える者」から発せられた卓越した表現は極意として記されたのではないか。柔道の極意は「押さば引け、引かば押せ」「押さば回れ、引かば斜めに」と伝えられている。

 

では技の名前はどうだろう。小内刈や出足払はそれ自体が「教える者」の到達点を示していると考えられる。先人達が苦悩の末に見出した極意が実は既に技の名として命名されていたのである。

 

 あるだけの明るさの中麦を刈る  

阿部風々子

俳句とからだ 179 オリンピックとオリンピズム

 

連載 俳句と“からだ” 179

 

三島広志(愛知県)

 

オリンピックとオリンピズム

 東京オリンピックはCOVID-19の影響で一年延期し、2021年夏、ほぼ無観客で開催される。そこまでして開催する必要はあるのか。古代オリンピックは紀元前776年の第1回大会から紀元後393年の第293回大会まで約1200年にわたって四年に一度、ギリシアのオリンピアで行われた。競技種目は第1回から第17回まで192m(この距離をスタディオンといい、スタディアムの語源)の徒競走のみだったが、第18回以降、レスリング、ボクシング、パンクラティオン(総合格闘技)、長距離走、五種競技、円盤投、やり投、戦車競走などが増えた。実は古代オリンピックはスポーツ大会ではなく全能の神ゼウスを祀る祭典だった。祭典の間、休戦(エケケイリア)をしたので平和の祭典と呼ばれる。しかし皮肉なことにローマ帝国の征服によって終焉を迎えることとなる。

 

 1896年、近代オリンピック第一回アテネ大会が開催された。中心になったのはピエール・ド・クーベルタン男爵(18632004)である。古代オリンピックに影響されたスポーツ大会は世界のあちこちで実施されていたが、国際的な活動になったのはこの大会だけであった。クーベルタンはスポーツの教育や心理に果たす役割に関心を抱いていた。自らの理想を実現するため社会啓蒙も行い、オリンピックとして結実した。彼は「スポーツを通して心身を向上させ、さらには文化・国籍など様々な差異を超え、友情、連帯感、フェアプレーの精神をもって理解し合うことで、平和でよりよい世界の実現に貢献する」というオリンピズムを提唱した。「教育者としてスポーツによる人間陶冶と社会改革という二つの思想(参照:田原)」が生み出したものだ。しかし「帝国主義的植民地政策に加担する言説や社会不平等論(参照:清水)」を唱えたこともあり、先のオリンピズムと矛盾するところもある。

 

仮にコロナ禍でないとしても、果たしてオリンピックに今日的意味はあるのだろうか。1896年に近代オリンピックが始まって二度の大きな世界大戦があった。その後は国威発揚、代替戦争の場となり、現在IOCは興業主として選手の存在を全く無視、深夜の試合や真夏のマラソンを組む。古代オリンピックは神事だった。現在も各地に祭典があり、純粋なスポーツ大会も開催される。利権者の手遊びに付き合う必要など全くない。

 

 湾曲し火傷し爆心地のマラソン

金子兜太

参照

「古代オリンピア祭典の起源とその周辺」加藤元和

「オリンピックと教育­-オリンピック競技大会誕生の背景とその今日的意義-」田原淳子

「古代オリンピックの知られざるリアル」橋場弦

「クーベルタン、その虚像と実像」清水重勇

俳句とからだ 178 DNAとワクチン

 

連載 俳句と“からだ” 178

 

三島広志(愛知県)

 

DNAとワクチン

 COVID-19(新型コロナウイルス)が蔓延して一年半が経過した。期待されたワクチンが日本国内でも接種されつつある。しかしワクチンに対する不安や様々な憶測も飛び交っている。そこでワクチンに関してPubMedという生命・医学論文検索サイトで調べてみた。目を引いたのが以下の論文である。

COVID-19 mRNA Vaccines Are Generally Safe in the Short Term: A Vaccine Vigilance Real-World Study Says.(Frontiers in immunology. 2021)

COVID-19 mRNAワクチンは一般的に短期的に安全」という表題だ。結論は「COVID-19 mRNAワクチンは、一般的に非重篤な局所または全身反応であった。アレルギー経験はアナフィラキシーの危険因子でありさらなる評価と監視が必要」とある。論文は7名の中国人専門家によるもので202012月までに米国で接種された180万回以上の結果に基づいている。

 

 免疫、ワクチン、DNARNAそしてmRNAについて復習してみよう。免疫とは自己と非自己を認識し自己(身体)を病原体などの非自己(抗原)から防衛する働きだ。抗原に対抗する抗体を作成し、将来に備えて記憶する。ワクチンは病原体を無毒化・弱毒化した抗原で体内の抗体産生を促し、感染症に対する免疫を人工的に獲得する。DNAは生命を維持するための「設計図」であり、主に細胞の核の中に存在し遺伝情報の蓄積・保存を担う。対してRNAは細胞内にありDNAの情報を転写し、タンパク質の合成(翻訳)を行う。つまりDNAは重要な遺伝情報が記録された原本で常に核という金庫に保管されている。必要な情報だけコピーして持ち出されたものがRNAである。話題のmRNA(messenger RNA)RNAの一つでDNAからコピーした遺伝情報に従ってタンパク質を合成(翻訳)し、役目を終えるとすぐに分解される。用済みのコピー用紙がシュレッダーに掛けられることと同じである。したがってRNAは破壊されてもDNA(原本)は守られる。

 

今回二種類のワクチンが開発されている。一つは無毒化した別のウイルスの中にCOVID-19の表面に突き出た角のDNAを入れたウイルスベクターワクチン。もう一つはmRNAワクチン。合成した角のRNAを細胞に注入する。するとRNAmRNAとして機能し抗体を作る。抗体は自己を傷つけることなく非自己(病原体)を特定し破壊する。mRNAワクチンは理論上DNAを変質させないため安全性が高いという。皆がワクチンを接種すると個人免疫と同時に集団免疫も獲得できる。人類という生命共同体の維持存続には不可避のことだ。

 

 自己非自己何もて分かつ半夏生

三島広志

俳句とからだ 177 共通言語

 

連載俳句と“からだ” 177

 

愛知 三島広志

 

共通言語

近年、医療や介護、福祉の世界で地域連携が叫ばれている。在宅高齢者の居宅へ介護支援専門員や介護福祉士が訪問する。医療が必要なら訪問看護や訪問リハビリ、歯科衛生士などが加わる。医療の指示は医師や歯科医師が行い、薬品管理に薬剤師も参加する。対応が医療、生活、経済、社会参加など多岐に亘るため多職種との連携が必要となってくる。そこで問題となるのが多職種を貫く共通言語だ。

医療系の共通言語として一般的に知られているものがvital sign(バイタルサイン 生命の兆候)だ。体温、血圧、脈拍数、呼吸数の基本に加えて意識レベルを調べる。近年はSpo2(酸素飽和度)も必須となっている。日常的に記録しておくと異常に気づき易い上に多職種間で情報を共有できる。

 

しかし共通言語以外に専門用語がある。標準語と方言に換言すると理解しやすいだろう。理学療法士は肩の三角筋が筋力3と聞けば抗重力可能(腕を上げることが可能。筋力2では不可能)であるから生活動作可能と理解する。薬剤師は薬の成分名(例:ファモチジン)で互いに理解可能だが他職種には商品名(例:ガスター20)と分かれば胃の薬と想像できる。作用機序が胃粘膜のヒスタミン2受容体を遮断し、胃酸分泌を抑える胃・十二指腸などの潰瘍や胃炎、食道炎などの治療薬であり、副作用として発疹・皮疹、じん麻疹、顔面浮腫、便秘、月経不順、女性化乳房などに注意と知れば安心して対応できる。このように共通言語は開かれた言葉、専門用語は閉ざされた言葉とも言えるだろう。

 

十数年前、介護支援専門員として七十代独居男性を訪問した。机上の薬の束が目に入ったため確認するとアマリールという糖尿病の薬だ。本人は痛くも痒くもないから服薬しないと言う。薬名は方言だが共通語として学んでいたので薬剤師へ報告した。また、玄関の上がり框が厳しくなった八十代女性がいた。下肢の筋力低下だ。速やかに理学療法士へ連絡し、手すりの増設と機能訓練など対処して貰った。これらが連携である。その根幹にあるのが共通言語から得た知識である。

 

共通語とされている日本語にも方言がある。文法は同じだが薩摩と南部では外国語ほど異なる。多職種間でも同様の問題が生じる。そこで必要になるのが共通言語だ。閉ざされた方言である専門用語を開かれた共通語にするため互いに学び合う。

 

では俳句はどうだろうか。芭蕉が「いひおほせて何かある」と述べたように、敢えて正確さを消したところに文芸の誠が立ち上がる。共通言語では伝達し尽くせない意や情を俳句的言語で示す。読み手も詠み手の放つひかりを受信しようと試みる。これが鑑賞する行為であり座である。正確を重視する日常語と骨格のみを示す俳句用語は異なるといって良いだろう。

 

霜柱俳句は切字響きけり  石田波郷

俳句とからだ 176 すみれ

 

連載俳句と“からだ” 176

 

愛知 三島広志

 

すみれ

 すみれの花が舗道の隙間あちこちに咲いている。その生命力には驚きを隠せないが、何故そんなところに棲息しているのか。

その理由をわかり易く描いた『すみれとあり』(矢間芳子著 福音館書店刊)という子ども向けの絵本が読まれている。すみれの種子には蟻の好む物質が付着しており、蟻は種子を巣に運びその付着物だけを摂取した後廃棄する。こうしてすみれの種子は蟻によってあちこちに伝播される。この付着物はエライオソームと呼ばれ、すみれ以外にも多くの植物が分泌して蟻と共生していることがわかった。

 

 菫咲く連弾のさみしさに似て 

杉山久子

 

 すみれの語源は「墨入れ」からだと講談社刊『日本大歳時記』に書かれている。小学館刊『日本国語大辞典』にも「和名は『墨入れ』の略で、花の形が墨壺に似ているところから」と記されている。国語辞典編纂者飯間浩明氏によると墨入れ説を周知したのは著名な植物学者牧野富太郎とされている。『牧野日本植物図鑑』(1940)に「和名ハすみいれノ略ニシテ其花形大工ノ用ウル墨壺ニ似タル故云フナリ」とある(高知県立牧野植物園HPに完全掲載)。しかし先行する殿村常久著『千草の根ざし』(1830)などにも書かれているので、牧野はそれを拡散したということだ。

 はたしてこの「墨入れ」説は本当だろうか。万葉集に「春の野にすみれ摘みにと来し吾ぞ野をなつかしみ一夜宿にける」という山部赤人の歌が掲載されている。万葉仮名では「須美礼」と書かれている。今日知られている墨入れと関わりなくすみれは古代から詠まれていたのだ。

 

野に伏して菫は頬に冷しと

岡田一実

 

牧野著『植物知識』(講談社1981)を所持していた。紛失していたが今回Kindleで無料入手できた。その親本である『四季の花と果実』(逓信省)1941年刊だ。冒頭の一節「花は、率直にいえば生殖器である」が知られている。この本のスミレの項目は長文にも関わらず意外なことに『牧野日本植物図鑑』に書かれた墨入れ説は書かれてはいない。。牧野は万葉の時代からすみれという名前があったのだから江戸時代に作られた今日の大工道具の墨入れとは異なると考えて『植物知識』には書かなかったのではないだろうか。私見だがむしろ江戸の大工が粋で墨入れをスミレの花の形に似せたのではないか。道具に拘る職人の美意識が今の墨入れを作ったとしか思えないのだ。

 

『植物知識』には冒頭の蟻の生態について詳しく説明されている。蟻の好む付着物は肉阜(カルンクル)と呼ぶそうだ。精密な自然の営みは昔から知られていたのだ。

 

いずれ皆絶える菫を愛でいたり

赤野四羽

2022/08/06

【俳句甲子園】全審査員を納得させた高校生の俳句


第10回の最優秀句は愛知県立幸田高等学校の清家由香里さんの

山頂に流星触れたのだろうか

は、文句なしの名句。
さらに同じ幸田高等学校の第17回最優秀句

湧き水は生きてゐる水桃洗ふ 大橋佳歩

この両句は記憶に残ります。

以前、俳句甲子園の審査員をしていましたからお二人とはお話しもしたことがあり
尚更印象的です。第17回は私も松山で終日審査員をしていました。

今年も俳句甲子園の季節となりました。
高校生の皆さん、悔いの無い大会を。

2022/03/21

「ミステリと言う勿れ」クラシック BGM メドレー (13曲) 「Do not say mystery」Classic BGM medley


知り合いの医師が面白いと教えて下さったので「ミステリと言う勿れ」というドラマを続けて観ている。テンポの速い展開が次々と謎を深め、それをモジャモジャ頭の青年が見事に淡々と解いていく。
その背景に流れているクラシックの名曲。奇特な人がその名曲をYouTubeにまとめてくれている。感謝。