鍼灸、指圧、身体論、俳句、日常雑感などを適宜書いています。https://sites.google.com/view/office-mishima/home note https://note.com/mishimahiroshi
2023/11/15
恩師増永静人の言葉
2021/08/24
2021/05/21
俳句とからだ 173号 視覚と経験
連載俳句と“からだ” 173
愛知 三島広志
視覚と経験
夜明け前の空を観るのが好きだ。20分ほど歩くと東方が一望できる高台に出る。暗黒の山稜や公園のタワーの向こうから赤い暁光が噴き上がる。赤色は中空に向かって薄まり橙から黄、黄緑から淡い青、そして濃紺の空へと移る。色彩の変化は虹の配列と基本的に同じだ。濃紺の空に金星が輝き、振り返ると西空に月が傾く。これは柿本人麻呂(660頃~724)の詠んだ
東の野にかげろひの立つ見えて
かへり見すれば月かたぶきぬ
と同じ光景だ。692年冬の作と伝えられている。宇宙の巡行とそれを記した歌の世界が時空間を超えて今ここに存在することに感動を禁じ得ない。
私達は外界からの情報を五感で受容する。五感とは視・聴・嗅・味・触を示す。中でも視覚から得る情報量は大きい。人間の情報処理は感覚、知覚、認知で表される。その違いは外界から情報が刺激として感覚受容器に入り興奮が生じると感覚、知覚は対象を知ること、認知はさらに高次の処理で情報の選択、判別、決定、理解、記憶、推論、理解であるとされる。赤い林檎があると感覚は赤い光とそうでない部分の素朴な判別、それが赤い円形であると分かるのが知覚、そして林檎と理解するのが認知であるという。(「感覚情報の知覚メカニズム」工業技術院製品科学研究所清水豊氏の論文参照)
夜明けの空の色彩を感覚受容器である目の網膜が捉えると、その情報は視神経を介して脳へ伝わる。色の感覚を知覚し認知した時、光の情報は心身に何らかの影響を及ぼし感情や思考へ影響する。それが連日のように明けの空へ私を導く動機となり、人麻呂の歌を想起させる。絵心があればその色を印象派の画家のようにカンバスへ塗り込めるだろう。詩心があれば詩歌の一つも詠むであろう。
古里は霜のみ白く夜明けたり
山口青邨
五感を研究しているのは最新科学だけでは無い。哲学者カントは我々のうちにア・プリオリに「形式」が存在し、感覚は空間の形式として知覚され、時間の形式の中に保存され一つの経験と為すと説く。つまり夜明けの空の色という空間に存在する情報を脳に伝え、記憶という時間に留めるということである。それによって外部情報は受容され、時空を保ち経験となる。それが言語化され詩歌として保存されると今度は読者の経験として感動を呼ぶ。
夜明けの空を眺める時、認知された色彩や形態の情報は時空を超えて宇宙と自分が一如となる貴重な認知経験となる。詩歌もまた共通経験として感動を呼ぶのだ。
ガンジスに身を沈めたる初日かな
黒田杏子
2020/09/03
経絡指圧と利休百首
1997年12月に書いた文章です。お茶を稽古されている方はよくご存じ利休百首。茶道具の扇にも書かれています。この歌はお茶だけで無く稽古一般論としてとても優れています。経絡指圧創始者で恩師の増永静人先生はこの中から指圧の稽古に流用できるものを幾つか紹介されていました。今回はその再録です。
経絡指圧と利久百首
右の手を扱ふ時はわが心左のかたにありとしるべし
これは千利休が茶の湯の稽古の心構えを説いた「利休百首」のひとつです。全くの門外漢のわたしが何故に茶の湯の道歌を知っているのか。それは経絡指圧の師・増永静人の著書に度々出てくるからです。
増永静人は卓越した理論家指圧師として知られていましたが、昭和五十七年に惜しまれて亡くなりました。享年五七才。無念の夭折でした。
増永はそれまでの理論的根拠を西洋伝来のマッサージの理論である血液・リンパ循環論やカイロプラクティク(米国で生まれた脊椎矯正法を主とした医療。米国では六年間の大学教育を終了してドクターの資格が必要。日本では無認可)の脊髄神経反射論に依存していた指圧を東洋的な観点からまとめ経絡指圧として体系づけた功労者です。
どうして日本生まれの指圧を西洋的でなく東洋的に理論化することが斬新であったかは不思議ですが理由はその歴史に準拠します。
もともと指圧の原型である按摩術と鍼灸術は中国に発し、朝鮮半島を経て日本に伝えられました。婆羅門導引(ヨガのこと)天竺按摩という言葉もありますから、中国以前にインドで原型が生まれている可能性もあります。これは中世以前の他の外来文化と軌を一にしています。
按摩は古くは按蹻導引(あんきょうどういん)と呼ばれ、黄河文化圏に起こり日本には五六二年に伝わったとされています。「按」は揉んだり押したりすること、「蹻」は手足を動かして骨格を整えること、「導引」は大気を導き体内に引き入れることで今日の気功体操に分類されます。
奈良時代の大宝律令(養老令)(701)には医生・医師・医博士の制度と共に按摩生・按摩師・按摩博士という制度が明文化されています。同様に鍼生・針師・鍼博士。灸生・灸師・灸博士も。湯液(漢方薬)は医師や薬剤師が、鍼灸は鍼灸師が、按摩術はあん摩マッサージ指圧師が引き継ぎ、今日まで続いています。江戸時代以降、鍼や按摩術は視覚障害者の職業としても伝承されました。
按摩術は軽医療として家庭でもできる簡便さがありますが、同時に医療体系の中に止めておきたいという人達も多くいました。その具体的なものとしては江戸時代に生まれた按腹術があります。これは字の通り腹部を重点的に処置することで疾病治癒を目指したもので思想的、原理的には中国医学の古典である『黄帝内経』という本に拠ります。
明治になって、西洋からマッサージという按摩にそっくりの技術が伝わってきます。按摩の理論的根拠は漢方医術で言うところの「気血の巡り」を良くすることで、そのために《経絡》というスジを用いることです。経絡はいのちの元となるエネルギーである《気》や、栄養分である《血》が流れるというスジのことで内臓に関係し、心理面も反映するとされています。このスジ上にツボがあるのですが実態は明らかではありません。
(追記:近年、ファシアという組織間物質が注目され、これと経絡の実体が近いと考えられています)
対してマッサージの理論は筋肉や血液・リンパ循環など解剖学や生理学を根拠としていて科学性があり、名称もハイカラなので按摩を自称する人は減り、いつしかマッサージと名乗るようになりました。しかし、それでもまだ治療対象が血液循環改善や疲労回復に止まっているという不満がありました。手技と言えども、もっと幅広い分野の治療が可能ではないかと模索する人達も大勢いたのです。
そんなところにアメリカからカイロプラクティックという脊椎矯正法がやってきました。これは神経生理学的に自律神経を調整し得るという一見科学的整合性があり、多くの病気に対応できるということで多くの治療師が飛びつきました。しかも技法は在来の柔道などに伝わる活法に酷似しています。活法とは姿三四郎などの映画で気絶した人の背中に膝を当てて「エイッ!」と気合一閃、蘇生させるというあれです。
というような顛末で、明治末期から大正、昭和の始めにかけて独自性を主張する〇〇療法が雨後の竹ノ子のごとく発生しました。戦後、政府はそれらを法的に整理するために紆余曲折の果て、指圧として統合しました。按摩業界から猛然たる反発があったとは今でも語り種です。なお、指圧という名称は大正時代に玉井天碧という人が使用していたのが最初と言われています。
今日でも、カイロプラクティックは指圧ではないから法的に指圧に統合されては困る、わたしの療法は神のお告げによって生まれた独自の技術で如何なるものとも異なると称していろいろな治療術が雨後の竹ノ子どころか雲霞のごとく大発生しています。
何故なら、正式な業者として指圧とか按摩とかマッサージと名乗るためには最低三年間学校に通い、国家試験を受けなければなりませんが、我が国には違う名称さえ名乗れば免許は関係ない、いかなる法的拘束は受けないというすばらしい抜け道があるからです。
ちなみに鍼灸のための学校は京都に大学が一校、大阪に短大が一校、その他全国に十数校の専門学校があり、さらに各都道府県の盲学校でもそのための教育がされています。鍼灸学校を出た後、大学の医学部の研究室で研究し、医学博士を授与された人も昨年から今年にかけて愛知県で三名います。まさに大宝律令の鍼博士を地で行くものですね。
(追記:現在は鍼灸大学、鍼灸専門学校が大変増えています。マッサージの専門学校は増えていません)
さて、最初の「利休百首」と増永静人に戻ります。
増永静人はわたしにとっては指圧の先生というだけでなく、医療の思想や人生哲学など実に多くのことを与えてくださった人です。増永から授与された認可証は次の文面で、今も書斎に掛けてあります。
証
三島広志
右者医王会に於て現代医学を基礎とし東洋古来の経絡治療
と日本独自の按腹術を加えた高度な指圧療法を学び証診断
治療の指圧臨床技術を習得されたので本状を授與します
昭和五三年五月廿日
日本東洋医学会員
日本臨床心理学会員
日本指圧協会理事
医王会会長 増永静人
昭和53年ですからもう二十年も前のことになります。増永の肩書に東洋医学会員(後に評議員)と指圧協会理事というのがあります。これは当然ですが、日本臨床心理学会員というのは不思議でしょう。書いてありませんが日本心理学会員でもありました。これはなぜかというと、増永は京都大学の哲学科心理学部を卒業しているからなのです。
大学卒業後、増永は「指圧の心、母心。押せば命の泉湧く」で有名な浪越徳次郎先生の日本指圧学校を卒業し、そのまま教員として後進の指導にあたりました。そこでは心理学と病理学、症候概論、漢方概論などを教えていたようです。しかも増永の恩師は西田幾多郎の弟子ですから、増永のバックグラウンドは心理学と西洋医学と東洋哲学ということになります。これらのことが先の認可状の文面に反映されているのです。
そんな増永の好きなもののひとつが茶の湯です。やっと冒頭の利休にたどり着きました。わたしは増永から利休の道歌「利休百首」を指圧用に作り替えたことがあると直接聞きました。しかし、増永が著書で紹介しているのは冒頭の「右の手を」と
茶を振るは手先をふると思ふなよ臂(ひじ)よりふれよそれが秘事なり
でした。これを「指圧をば指で押そうと思うなよ肘より押せよそれが肘なり」と替え歌にして紹介していたのです。
それに習ってわたしも二十年前、自分なりに利休百首を読み、替え歌にしてみました。増永に「五十首くらい変換できた」と言いましたら氏は、「いや、七十首以上できるはずだ」と答えました。残念ながらそのノートは行方不明ですが、もう一度本を読んでいくつか紹介したいと思います。
今日、受験勉強(この場合、受験だけを目的とした勉強であって、受験を通過点として学習することとは違う)の弊害で習うとか学ぶということが知識の伝達だけになりがちですが、元来文化の伝達には稽古という技法があり、これには「教える側が習う側よりさらに学ぶことができる」という利点があります。学生側が成長するためには早く一派を起こし教える側に回ることが大切だったのです。かくしてさまざまな流派が乱立するという問題点はあるものの、身をもって学ぶという意味で稽古は古臭い言葉ではありますが重要な方法なのです。
冒頭の歌「右の手を扱ふ時はわが心左のかたにありとしるべし」とはどういうことでしょう。右手を使うときに右手を意識すると緊張して堅くぎこちない動作になるからあえて左手を意識してごらん。右手が無意識的な自然の動きができるから・・というような意味です。これは全ての身体技法に共通する原理と言っても過言ではありません。
類似した歌に
何にても道具扱ふたびごとに取る手は軽く置く手重かれ
があります。
さて、気に入りの歌をどんどん紹介しましょう。
その道に入らんと思ふ心こそ我身ながらの師匠なりけり
決意こそが心の中にある師匠なのだと言うのです。
ならひつゝ見てこそ習へ習はずによしあしいふは愚なりけり
まずはやってみなさい。体験してみなさい。あれこれ言うのはその後だよということでしょう。体験する、これが稽古の基本です。体験を経験にするという内的処理こそがヒトが人間であるゆえんなのです。
心ざし深き人にはいくたびもあはれみ深く奥ぞをしふる
志の高い人でなく深いというところに意味があるようです。そういう人には奥深いことまで教えるのです。ここにすばらしい弟子を持つ喜びがあるのでしょう。師弟は相互に高め合う関係こそが素晴らしい。アメリカの大学教授はうるさく質問する学生を歓迎します。それによって自分が高まるからに外なりません。
はぢをすて人に物問ひ習ふべしこれぞ上手のもとゐなりける
こちらは教わる人の心構え。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥ということわざもあります。
上手には数寄ときようと功つむと此の三つそろふ人ぞよくなる
数寄とは興味や好奇心。好きの当て字。きようは器用。功つむとは努力して励むこと。この三つがあれば成長する。
稽古とは一より習ひ十をしり十よりかへるもとのその一
これはわたしの大好きな言葉。一から習って十を知ってまた一に帰るのですが、この一は決して最初の一ではありません。次元の異なる一。
もとよりもなきいにしへの法なれど今ぞ極る本来の法
本来の法に行き着きたいという強い志。人類未到の世界を目指そうというのです。
規矩作法守りつくして破るとも離るゝとても本を忘るな
規はコンパスのこと。矩は物差し。どちらも測定の基準となる道具で手本を意味します。中国では修行の段階を守破離に分けます。書道で説明すると楷書・行書・草書に置き換えることができます。まず先生から教わったことをそのまま守って練習することを守。次にそれを少し壊して自分なりに変化させることを破。外見的には全く異なるまで自分のものにしてしまうことを離。しかし本質は変えないというのです。ここに芸事の流派がどんどん増える理由の一つがあります。
百首のうち、冒頭と最後に一般性のある、どの道にも通じる歌を置き、真ん中にはお茶の具体的な技法の教えを説いています。その演出は見事なもの。ここで紹介した歌はすべて芸事一般に流用できる歌です。すなわち「本意」の歌なのです。
お茶の技法という特殊性を歌ったものも指圧に置換すれば、指圧を習う歌に替えることができます。むろん、料理でも裁縫でも踊りでもなんにでも流用できるところにこの歌の妙味があります。
道はともすれば形式主義の塊、形の上にほのめいている観念的なものと言えるでしょう。しかし形の上、もしくは奥に潜んでいるあらゆるものに共通する普遍性を垣間見ることは重要なことです。そこに今日一部の西洋人が道(ダオイズム)に関心を抱く理由があるのです。
増永静人の書いた「禅指圧」はアメリカでロングセラーです。指圧と言えば増永静人というほど知られています。外国人に「君の指圧のスタイルは何だ」と聞かれ「増永のスタイル。禅指圧だ」と答えるととても驚き、さらに直接の弟子だと知ると大喜びします。
わたしの所に来る西洋人は指圧に対して医療の側面と道の側面の両方を求めています。それに答えたのが増永静人だったわけです。これも西洋人の東洋回帰、物事の奥に本質を見いだそうとする道、ダオイズム大好きの流れに乗っています。
「虎は死して革を留め、人は死して名を残す」
増永静人先生は没後もわたしを助けてくださっています。わたしが遺せるのは・・・借金ぐらいかなぁ。
ところで千利休はこんな歌も遺しています。
釜一つあれば茶の湯はなるものを数の道具を持つは愚な
数多くある道具をば押しかくしなきがまねする人も愚な
うーむ。お茶の先生はこの歌を知っているのでしょうかね。形式の中の本質を見ようとしない時、形式主義は形骸主義になり、道は奈落への道、ダオイズムはダメイズムになります。
2020/08/25
今野義孝著 『癒し』のボディ・ワーク(学苑社)
1997年9月に書いた書評です。
今野義孝著 『癒し』のボディ・ワーク(学苑社)
20年来身体のことにかかわってきた私にとってとても興味深い本「『癒し』のボディ・ワーク(学苑社)」。著者は長年障害児の動作法などを身体運動と心理の両面から研究実践してこられた今野義孝先生。現在は(出版当時は)文教大学教育学部教授。専攻は、障害者心理学、臨床心理学、健康心理学。
今野先生の「『癒し』のボディー・ワーク」は東洋の手技療法の研究をしてきた者にとってはその一般論的な有効性を実験検証的に証明してくれているというありがたい本です。「まえがき」の今野先生の心情吐露は学者として画期的なもので、そこまで内省的な思いを研究者が表明していいのだろうかと心配になるほどのものですが、クライアントの立場に立てばこれほど素晴らしい先生は滅多にいないだろうという感動的なものです。
意訳抄出すれば
「自分の発見した『腕あげ動作コントロール訓練』という動作法は、それまでの脳性まひの身体動作の援助を中心とした指導法から、こころの動きの援助する方法へと飛躍を遂げた。身体とこころの調和的な体験を援助することが自己活動の再体制化をもたらすことをあたらめて確信できた。
しかし大きな不安が渦巻いてきた。それは『腕あげ動作コントロール訓練』はクライアントへの一方的な指導・訓練的なかかわりが中心で、真のコミュニケーションを欠いていたのではないだろうか。今にして思えば、私は功名心のとりこになり、自分が他者によって生かされているということや他者の存在の大切さを忘れていたのである。
そうして辿りついたのが『とけあう体験の援助』である。これは『指導者・クライアント』や『援助者・被援助者』といった主従の対立的な関係を乗り越え、快適な心身の体験を互いに共有することによって真のコミュニケーション関係の確立を目指すものである。つまり、『指導者による一方的なかかわりから、相手との相互のかかわり合いへという視点』や『相手を対象化した客観的理解から、相互のかかわり合いによる間主観的な理解へという視点』が基調になった」
と言われています。
ご自身の成果を大転換してさらに成長して行こうという態度が率直に書かれていて極めて好感と信頼を感じる文章です。その根底にあるのは学者・研究者としての態度ではなく、障害者にかかわって指導すると同時に学び、その成果を自らと障害者で分かち合い、さらなる発展を共に目指そうという姿勢からくるものでしょう。
今野先生がこうした大きな変化の渦中にいる間に出会ったものに、ボディー・ワークと東洋的な行法があります。
おなじく「まえがき」に
「それらに共通すること。ひとつは自分自身の身体の体験に浸り、味わうことによって自分のこころを捉え直すこと。もうひとつは集団で互いに援助しあうことによって、身体の体験やよこに漂う雰囲気を共有することができること。これは『他者とともに存在し、他者とともに癒される』ということであり、個人のレベルや自-他の境を越えた癒しの世界につながる。
援助を受ける人も援助をする人も互いに癒される関係にあることこそが、“健常者”と“障害者”の違いを越えた真の“共生”の実現につながるということである」
とあります。
この場合の“障害者”や“健常者”は字面だけでとらえることなく、ひとつの比喩として大きく“何らかの基準によって区別される者”と受け取った方がいいでしょうね。
さて、この本のうれしいことはもう一つあります。それは私が直接講習会に出て指導を受けた人や縁あって出会った人、あるいは直接の出会いは無いものの書かれた本に深く親しんだ人の研究が多く掲載されていることです。今までこうした学術的な本にはなかったことで、大変驚くと同時に喜んでいます。多少なりとも縁のある人を紹介しましょう。それがある程度この本の内容の紹介にもなるでしょう。
原口芳明先生は15年くらい前でしょうか、気流法(身体技法のひとつ。坪井香譲師提唱)の名古屋セミナーに何回も参加しておられて知り合いました。障害者教育のために裾野を拡げて貪欲に研究されておられた方です。現在(当時)愛知教育大学の教授。障害者を持つ親から絶大な信頼を集めておられます。この本には「『さわる』ことは相手をモノとして扱うことであるのに対して、『ふれる』ということは人格をもった相手への働きかけである」という意見が紹介されています。
増永静人先生は私の指圧の先生。亡くなって15・6年経ちます。「指圧の時、相手を指導者に持たれかけさせ、指導者も相手にもたれてゆくとき、それがもちつもたれつの状態である。これが生命的一体感の状態である」と引用してあります。
西村弁作先生は言語療法の大家。直接お会いしたのは一度だけです。西村先生の奥さんは優秀な心理療法士でしたが数年前48歳で亡くなられました。西村先生とは彼女の亡くなる数日前にお見舞いに行き、病室でお会いしただけなのです。夫人とは神経難病ALSの患者を協動で担当したことがありました。彼女が心理面を私が身体面を主に受け持っていたのです。
亡くなる数日前、彼女をマッサージしました。「寝たままで腰が痛いでしょう。マッサージして上げるから横向きになってよ」と言いましたら、「三島先生の名人芸を見せて頂戴」と冗談を言いながら腹水の溜まった体をさっと横向きにされたのを昨日のことのように覚えています。
野口晴哉(はるちか)さんは有名な野口整体の創始者。今日の民間医療の思想的な面で多大な功績を遺しています。明治以降、民間医療界最大の巨人と呼んでも差し支えないでしょう。私が整体協会へ勉強に行ったとき既に鬼籍の人で、息子さんが指導していました。無意識運動を発現させる「活元運動」と手のひらからの「気」を送るという「愉気法(ゆきほう)」は有名ですがフロイトやユングを彷彿させる自在な人間観察は見事なもの。生前、作家の間で大変な信頼を得ていました。
野口三千三(みちぞう)先生。野口体操、別名コンニャク体操で知られています。長く東京藝術大学で体操の教授をしておられました。「からだは水の詰まった革袋である」という持論からなるユニークな体操です。増永静人先生とも親交がありました。藝大の演奏家の卵たちは、授業でコンニャクのようなくねくね体操をさせられて、「なんじゃこれは」と無為な時間を過ごしていたのですが、一人前になって、特に体の無理がきかなくなって演奏に行き詰まったとき、無性にこの体操が懐かしくなるそうです。
高岡英夫さんは今日、武道やスポーツ界で最も精力的に活動しておられる方の一人。ただし、権力や権威からは最も遠い存在での活動です。東大大学院で運動科学を修めた後、野に下って今は自ら興した運動科学研究所所長。ご自身武道家でもあります。現在、武道・スポーツの分野だけでなく音楽家や舞踏家などさまざまな人が氏の指導を受けています。この本には著書「身体調整の人間学」の一説が紹介されています。
「世界はそれ自体では意味のあるものではなく、主体によって意味づけられるものである。そのときの主体とは、意識以前の主体、すなわち身体的実存である。(中略)空間を意味づけているのは身体の『運動性』である」
竹内敏晴教授は名古屋の南山短大の教授(当時)。主として演劇を身体と言語の表現の場として教育されています。故林竹二先生と同行の教育活動でも知られています。林竹二先生のことは昔《游氣風信》に書きました。竹内さんの「ことばが闢かれるとき」は感動的な本でした。
以上のようにアカデミズムの方も市井の方も同じ土俵に上げて説かれている点でも「『癒し』のボディ・ワーク(今野義孝)」はユニークな本です。学苑社刊、3800円(現在AMAZONで中古ですが購入できます)
2020/08/22
逢うは別れの。。。禅指圧Zen Shiatsu の縁
1995年に書いた文章です。
この頃、私の小さな指圧教室に大勢の外国人が出入りしていました。この中に書いたうちの何名かはその後Facebookで交流が復活しました。いきなりパソコン画面に知り合いかもと出てきて驚きました。現在の状況がはっきりしている人に関しては附記しました。
逢うは別れの。。。(禅指圧の縁)
1995年6月
逢うは別れの始めと言います。これは白居易の「和夢遊春詩」の句「合者離之始」を出展とすることばで、逢った人とはいつかは必ず別れなければならないという無常(無情ではありません)を表した有名な詩句です。(大辞林参考)
会った人だけでなく、出会った風景とも必ず別れなければならないことは昔の人ほど身に染みて分かっていたのだと思いませんか。現代と違って新幹線も飛行機も自動車も電話も無い時代には、遠方の人と次に会えるという確たる信念など持てなかったに違いありません。
また、世に戦乱が続き、病気に対しても手をこまねいてただ看病するのみという厳しい時代にあっては、人との出会いと別れは今よりずっと真剣なものであったの思うのです。 戦後五十年もの間、国内においては全く平和であったという希有な時代を生きて来た者としては、別れをさほど深刻には考えません。「またいつか会えるさ。」という思いがあるからです。
茶の湯の文化の基本理念のひとつに「一期一会」がおかれているのは、四百年続いた戦乱の世に生きた千利休の切実な思いの反映に外ならないでしょう。同時に武将達に茶の湯が愛されたのもその理由でしょう。
最近、私は三名の親しい外国人と別れを経験しました。二人はアメリカ人、一人はカナダ人です。仲よくしている外国人がぽつりぽつりと帰国することはいつものことなのですが、特に親愛の情をもって交流していた人達が三人ほぼ同時に帰国するというのは初めてでした。そこで冒頭のことば「逢は別れの始め」が身をもって響いてきたのです。
今日のように飛行機が飛び交う時代となると、たかが日本とアメリカやカナダ、いつでも会いに来ることができるし、行くこともできるという気持ちはあります。現に彼らが三名とも「今までは自分が日本に来たのだから次はそちらが我が国にくる番だよ。」と同じことを言い残して帰って行ったのです。おそらく今の日米加の距離は、江戸時代の人達が江戸と京都に離れ離れになることよりずっと身近な距離であることは間違いないでしょう。
彼ら三名はわたしの指圧教室の生徒であり、身体調整のクライアントでもありました。(彼らは特に病んでいたのでなく、養生法として調整を受けていたので、患者ではなくクライアントと呼びます。意味は心理療法に訪問した来談者のこと。広告の依頼主の意味もあります。)
五月末に帰国した米国人女性のBさんが初めてここへやって来たのははもう5年くらい前になるでしょうか。アメリカ人男性と結婚している日本人女性Sさんの紹介で指圧が習いたいとやって来たのです。ところが通訳と期待したSさんがすぐに妊娠され、通訳なしで教えなければならなくなってしまいました。しかしこれはいい経験になりました。はるか昔に習った英語の単語を乏しい脳みそを絞りながらの会話はそれは楽しいものでした。わたしのとんでもない英語を聞かされた彼女はいい迷惑でしょうがしかたありません。ここは日本なのですから。
体の細いBさんはその体躯通りに神経質で日本の生活とはうまく馴染めないようでしたが、それでも多くの日本人の友達を作っていろいろな活動をしていました。彼女はつごう12年近く日本で暮らしましたがついに日本語は上手になりませんでした。そのかわり彼女の英語は日本人にとってとても理解しやすいもので、わたしの拙い英語力でも互いに話し合いができたのです。その理由の一つとして彼女が上げたのは興味深いものでした。
彼女の親族に耳が聞こえない人がいたのです。Bさんはその人が理解できるように、唇の動きやことばの使い方を工夫しながら成長したので、自分の英語は日本人にも理解しやすいのではないかというのです。これはおもしろい見解です。
そもそもなぜ外国人が指圧を学びにくるのでしょう。
海外に指圧を広めたのは、国内に指圧ブームを作った例の「指圧の心母心。押せば命の泉湧く。」で知られる浪越徳次郎先生です。そのブームを学術的に固めたのがわたしの恩師増永静人先生でした。
増永静人先生は五十才を過ぎてから外国人の弟子ができて、必死で英会話の勉強をしておられたのをよく記憶しています。カッセトテープを片時も話さず、外国人生徒と英語で丁々発止とやっておられました。発音はお世辞にもうまいとは言えませんでしたが、ともかく根性で聞き取り、情熱で理解させるという感じ。いかに三高・京都帝大という秀才コースを履歴に持たれる先生とは言え、敵国語禁止の時代に十代を過ごされた方ですから大変だったと思います。
先生のそうした努力で指圧は海外に広がり先生の本の英語訳(数カ国後に訳されています)はベストセラーになりました。今日でShiatsu(指圧)は英語としてかなり知られています。そのお陰でわたしも外国人生徒を持つことができたのです。なにしろ、何人かの生徒はアメリカで買った増永先生の英語版テキスト「禅指圧」Zen Shiatsuに一杯赤線を引いてぼろぼろになったものを持参したのですから。
わたしは東京の先生の治療センターにしばらく泊まり込んで勉強させていただいたのですが、そこにイタリア人Mさんがいて、彼とはなんとか英語でコミュニケーションをとっていました。そのとき、言葉などなんとかなるという経験があったので、Bさんとも案外平気で指圧授業ができたのです。
Bさんの夫のお父さんが亡くなり、年老いた姑ひとりになったので帰国して世話をすることになり、急遽アメリカへ小学生の娘さんを連れて立ちました。嫁が姑の面倒をみるというのは日本と同じですね。
Bさんの夫R氏は日本にあと数年残って大学教授を続けるそうです。
「タンシンフニン(単身赴任)デス。」
と寂しがっていました。
(附記:このご夫妻の娘Fちゃんは大学生の時日本に二ヶ月来て、わたしのところの指圧を勉強していきました。Twitterで交流が繋がっています。)
このBさんから多くの外国人生徒が派生しました。
Bさんは自分のパートナーに友人のアメリカ人女性Sさんを連れて来たのです。彼女はアースデイ(地球の日)という世界的な環境保護市民運動の名古屋のリーダーで長良川河口堰の反対運動などでも活躍していましたが、2年前帰国して、マッサージの学校に進みました。驚いたことに、わたしのところで勉強していた時間が考慮されて、向こうの学校の授業時間が短縮できるのだそうです。わたしはSさんに頼まれて証明書を2通書いて送ったのです。
SさんはD君というハンサムな米国人青年を連れて来ました。今度はそのD君がカナダ人のT君という大きな熊のような青年を伴って勉強するようになりました。
D君はニューヨークに住む母親が肺ガンで余命いくばくもないという理由で帰国し、その後アフリカに2度ほどわたり、現在ニューヨークに戻っているそうです。今、彼の弟のC君が調整に来ています。D君がカメルーンで買ったお土産のお面が施術所に今も掛かっています。
熊のようなT君はいったん帰国して大学に戻り、先生の資格を取りしばらくパートの教員をしていましたが、前から興味のあった禅の勉強のために再来日、広島県にある国際禅堂で9カ月修行したのち、今年の5月末に帰国しました。
帰国の数日前、わたしのところに調整を受けがてら別れの挨拶にきました。プレゼントに白隠禅師の「夜船閑話」という健康法として有名な本をくれました。その表紙裏にメッセージが書いてありました。
Misima-sensei,
You are a perfect example of living Zen.
Your work, your effort and your compassion
shows the true spirit of a BOSATSU.
Thank you, Gassho(合掌).
呑海
呑海というのは得度を受けた彼の仏弟子としての名前です。
メッセージの意味は、気恥ずかしくて訳せません。辞書を片手にどうぞ。
ことほどさように彼は真摯に禅を日常生活の中に取り込み、あらゆるものを我が師匠としてとらえた行き方を念願しているのです。実に人当たりのよい好青年でした。カナダにはJさんという以前からのガールフレンドが待っていますから、近い将来結婚の報が入ることでしょう。彼女も私のところに出入りしてました。
(附記:カナダ人TさんとJさんは子どもを一人得て三人で仲良く暮らしています。Tさんは二度来日、息子さんも一緒に来ました。また、私の息子がカナダへ旅行したとき大変お世話になりました。今もJさんは毎日Instagramを更新しているのでカナダの雄大な風景を楽しむことが出来ます)
T君からA君、A君からS、R、P、M、R、C・・・という具合にもう数えきれない程の外国人がやって来ては帰国していきました。
さて、親しかった3人のうち、Bさん、T君については書きました。最後のひとりはJ君です。
J君はアメリカでアマレスを8年練習し、日本では合気道を2段までとって帰国しという格闘技の好きな青年です。優しい顔と頑丈な体と周囲に対する気配りの行き届いた心の持ち主でした。その幅広い心くばりはアメリカの大学でユングの心理学を学んだためでしょうか。
現在アジア各国を旅行中で、9月からアメリカのマッサージ学校へ通うそうです。わたしは彼のために入学に必要な紹介状を書きました。
この紹介状の中にアメリカ的な考えを表すおもしろい例があります。
たくさんの質問のうち、彼の人生観、知的能力、他人から見た長所、短所などはまだ分かるのですが、中に、
彼がこの学校に入ることで我が校はいかなる利益を得るか
という項目があったのには驚きました。
生徒として我が校に入学するからには当校から生徒に利益(知識・技術・資格)を与えると同時に生徒も我が校に利益をもたらす人物でなければならないという考えでしょう。何につけ自主性・自立性を重んじる国民性です。自分を中心に世界を眺め、そのために負う責任を明確に自覚することを大切にするのです。なるほど、こうことがアメリカ的なのかと深く考えさせられました。
その点日本人は自分が益を得ることばかり考えて、先方に自分がいかなる益を与えられるかをあまり考えないのではないでしょうか。その代わり相手の責任もあまり深追いしないのです。自分も権利を主張する代わりに相手の権利も尊重するという二方向性の視点、これは日本人も大いに学ばねばならない点でしょうね。
今、大リーグで野茂投手が活躍しています。その実力と活躍をアメリカ人も素直に評価してくれています。すごいものはすごいと。それに対して、横綱曙が勝つと座布団が舞うという日本人の狭量さ。自分の応援チームが不利になるとグラウンドにものを投げ込むという幼稚さ。敵味方を越えて素晴らしいプレーを評価できないのです。今後、野茂投手のように日本人もどうどうを自分の実力を示していけば、だんだんこうした島国的劣等感はなくなっていくのでしょうか。そうありたいものです。
J君は5年間の日本での生活でアメリカの独立心と日本人の相互にもたれ合う生活を体験し、今は日本の方が暮らしやすいと言っています。名古屋が一番リラックスできるとも言います。確かに彼の目配りには日本的な印象を受けました。いつも皆の調和を取ろうという正確でした。どちらかというとアメリカ人は集団の中で常にリーダーであろうとします。
その点ではJ君は日本に住むほうが気楽なのかもしれません。しかし、彼は他国の文化を素直に認める腹の大きさを持っています。タイの文化も、韓国の文化も素晴らしいもの、同様に日本人も好き、つまり、物事の良いところを素直に掬い上げることができる性格なのです。これはアメリカ人というより彼の独自のものでしょう。国際関係で練り上げられた真の国際人と言えるかも知れません。こうした好漢が日本にも大勢増えることを願います。
(附記:彼は帰国後マッサージ師になりましたが、その後Naturopathyというアメリカ独自の医療のドクターになって海の近くにオフィスを構え、暇があるとサーフィンをしています。彼ともFacebookで再開できました。)
今、わたしの教室にはアメリカ、オーストラリア、イギリス、オランダ、ニュージーランド、ブラジル、ルーマニア、カナダ、日本の人が来てわいわいがやがややっています。そのわたしとオランダ人の会話の仲立ちをルーマニア人が英語でするという奇妙な組み合わせ。
そこに共通している感情はとにかく指圧の勉強を通じて、みんなでうまく仲良くやっていこうというものです。この互いに互いを思いやること、これは洋の東西を越えた人類の持っている共通の優れた感情であり、知性なのだと思っています。そしてそれは努力を必要とするものであることも特記しなければならないでしょう。
2020/08/18
柳宗悦「手仕事の日本」
柳宗悦「手仕事の日本」
ことばの饗宴 岩波文庫
1993年8月
わたしたち身体調整に携わる者は自分たちを職人だと思っています。時々芸術家に なりたがるのですが、それでは患者さんの意向を無視した独りよがりの身体調整にな りがちです。
おおげさな言い方ですが、いのちの主役は本人自身です。その人達の健康に何らか の形でかかわるわたしは職人であるとの本分を逸脱することはできません。身体調整の主役は本人であり、実際に癒すのはその人の体に潜む治癒力に外ならないからです。
本人の意向を十分にたずね治癒力を生かす最良の方法を確認したうえで初めて身体調 整は成立するのです。
しかし方法においては信念を曲げることはできませんし、技術の修得向上には心を 砕きます。これもまた職人の習性でしょう。
普通の職人の仕事は柳宗悦の文章のように品物として後世に残りますが、わたした ちの仕事は無形ですからかかわりのあった方の心の中にのみ残ります。
時に臨んで最善を尽くす心掛けが何より大切になりますが、これは技術や知識の修 得と同じように生涯をかけて磨いていくしかありません。
2020/08/17
宮沢賢治は何故舞ったか
これは今から40年前、まだ20代半ばの頃、盛岡市在住の宮沢賢治研究家佐藤勝治先生に乞われて書いた宮沢賢治論。地方紙「盛岡タイムス」に4回連載という形での発表されました。佐藤先生は本業写真館経営の傍ら、市井の宮沢賢治研究家として精力的に活動しておられました。生前の賢治を実際に知っている方で、東京から宮沢家に疎開し、さらにそこでも空襲に遭った高山光太郎を花巻郊外の山荘へ案内した方として知られています。その跡は光太郎記念館になっています。訪れたとき、トイレの光取りが「光」と削ってありさすが彫刻家の光太郎だと感心しました。光太郎自らが彫ったものです。
宮沢賢治は何故舞ったか
三島広志
宮沢賢治の聖人君子像は広く世間に喧伝されているが、その奇人ぶりは余り知られていない。しかし、農学校の生徒達や同僚達の聞き書き等から推察すると世の天才と同様、かなりの奇行の持ち主であったことは確かである。
もし私が生前の賢治と知り合っていたなら、彼の本質を見抜くことができないまま、その奇行に眉をひそめて絶縁したであろう。多分に脚色された聖人君子的賢治像であったからこそ賢治に魅力を感じたのかもしれない。
ところが、今回私が問題にしたいのは、賢治の奇行である。そしてその内でも自然との交流という形で現れた奇行である。農学校の教師時代、教室に窓から出入りしたとか、土足で廊下を歩いた、あるいは女性に好意を持たれたとき、顔に炭を塗って嫌われようとしたなどというのはここでは取り上げない。
農学校の同僚、故白藤慈秀氏の著書「こぼれ話宮沢賢治」に月夜の麦畑での賢治の奇行が書かれている。
「・・・麦の穂はよく実って、そよ吹く風に手招きするかのように柔らかにゆれている。
皓々たる月は大空にかかっている。
この風景を見た宮沢さんは、何を思い出したのか、突然両手を高くあげ、脱兎の勢いで麦畑の中に入っていった。手を左右にふり、手を高くまた低く、向こうに行ったと思うと、すぐ引き返してきた。こうしたことを数回くり返してもとの場所に戻って路上の草の上に腰をおろし、大きなため息をしていた。
私は奇異に思い「いま何をしたのですか」と聞きただすと、宮沢さんは平気で、「銀の波を泳いで来ました」といった。・・・」
また、同書に次の話も書かれている。
「その晩は樹にも石にも黒い影をおとしているほど月の光は皓々としてかがやいていた。宮沢さんは、レコードの音律と月の光に誘われて全身躍動し、大空にむかって両手をはばたき躍動し、狂踊、乱舞、ただ踊り四肢高く舞うなど、寄宿舎の生徒がこの状を見て全く不思議であったと私に話してくれた。
後日、宮沢さんに、宿直の晩のできごとについて糺すと、あれはあまりに月がよかったので、その光に誘われ無茶苦茶におどったのです。それは踊りの練習でもなく、ただ詩を作るときはどうしても身体にリズムの感覚が必要なので、身体にその訓練をつけるためであった」
と語ったとある。
賢治は自然の中にいて風や月や木霊などと共感する精神の持ち主だったので、自然に誘発されて舞い叫び出したのだろう。そして、次には内なる自然が目覚め、身体を激しく動かし、それは賢治の意識ではなく無意識の力で全身の筋肉が躍動したに違いない。そういった無意識的な運動を賢治自らが経験していることは、中学時代、父に宛てた手紙に書き残している。
明治45年11月3日、賢治16歳の時、父政治郎に出した手紙に、佐々木電眼と称する人物から正坐法の指導を受けるとあり(校本宮沢賢治全集第13巻12ページ 筑摩書房)、翌日の葉書には「本日電眼氏の下に正坐仕り候ところ40分にして全身の筋肉の自動的活動を来し・・・」とある
(同書13ページ)。
賢治はその後、冬休みに同人物を自宅に呼び、家族が正坐法を試みている。妹トシは自動的活動が発現したが、父政治郎は笑っているだけでなんら効果はなかったと弟清六氏が記憶しているそうである(校本14巻452ページ)。
ところが、この正坐法による自動的活動は今日でも色々流派が存在し、それぞれ信望者を集めている。故野口晴哉氏はこの運動を活元運動と名付け、無意識的な錐体外路系の運動と説明し、そのグループ「整体協会」には同氏亡き後も多くの病める人や芸術家や知識人が集まって盛んに活動している。 健康法としての人気もさることながら、その運動を行うと芸術的勘や学問的直感力が増すからである。
坪井香譲氏のグループ「メビウス気流法の会」でも、独特の運動瞑想法があり、古来からの集団的解放(祭り)を現代に掘り起こし、整体協会と同様の理由で芸術家や武道家、東洋的治療に携わる人々が集まって来ている。
賢治の行った正坐法はおそらく活元運動と同じで、全身をリラックスさせポカーンと正坐をしていると身体が勝手にユラユラと動いてくるものであろう。動きは人によって全く異なり、同じ人でも身体の状態で全く違った動きが出てくる。
ひとしきり身体の動きに任せていると全身の歪みが矯正され、身体の感覚が甦り、滑らかな身体の動きと新鮮な感性が得られるのである。だからこそ、芸術家が多く集まっているのだ。しかしその動きを始めて見ると何かに憑かれているようでとても気味が悪い。
理性の勝ちすぎる人はなかなかこの自然な動きが出てこない。導き方にもよるが、賢治が40分で自動運動を得たと言うのはかなり早いほうである。
賢治のこの佐々木電眼の指導による正坐法の体験が、先に引用した月夜の乱舞、狂舞にどこかで係わっているような気がしてならない。しかも賢治は白藤氏に対して、あの踊りは詩作のリズム感覚を身体につける訓練だと言っている。これは今日の芸術家達が同種の運動を行うことと軌を一にしているではないか。
*
そもそも人は何故舞うのだろうか。
形式化した舞踏ではなく、賢治の乱舞のように人が内面から揺すられ弾まされる舞いには、単に楽しむだけではなく自然への接近もしくは同化の願望が込められているという。
多くの原始的な宗教には舞いが不可欠であるし、天照大神(アマテラスオオミカミ)が天の岩戸に隠れたとき、神々は光を求めて天鈿女命(アメノウズメノミコト)に舞いを舞わせた有名な神話もある。
人は舞うとき、日常を離れて非日常の世界に漂う。日常の中で形式化、形骸化した心身を何かの機会に日常の枠を破って内なるエネルギーを爆発させるのだ。
群衆の乱舞はそれ自体が大きなエネルギー体となって集団を包み、自然と深く呼応する。ついには宇宙との一体感に浸り出す、すなわち神の世界と同化するのである。
そういったハレの日(春、秋の祭りなど、あるいは秘められた行事)を我々はついこの前までもっていた。有名な江戸時代の「えじゃないか」や、熱狂的な一揆になだれ込んだりもした。為政者はそのエネルギーを恐れ、ガス抜きの場を設けた。岐阜の郡上踊りや四国の阿波踊りはその名残である。
今日でも多くの宗教ではこれに近いハレの場を秘密裏にあるいは公然と持ち、信者に至福感と同時に束縛感を植え付けている。それを企業化した「人格改造」会社も近年乱立している。
*
賢治のような型破りな個性が社会という鋳型の中で生存することは非常に困難であったろう。社会から見て賢治や山頭火のような自らが自らの個性を持て余すような天才は受け入れ難い。彼らが自ら崩壊に至らないためには芸術に拠るしか方法はないであろう。
しかも賢治は己の生き方を宗教的善意と天性の他人に対する優しさで厳しく律した。恵まれた出生をさえも社会的犯罪者として罪の意識で自責することもあった。さらに山頭火のように酒や女で紛らわすことは決してなかったのである(山頭火はその愛すべき堕落性が逆に彼の魅力となっている)。
そんな賢治の内向するエネルギーが突如として外に向かったとき「ホーホー」という奇声や奇妙な舞踊が生まれたのではないだろうか。そのきっかけを与えたのが月の光であり、実った麦の銀の波であったのだ。
手足を自由に、身体の命ずるままに動かして奇声をあげるとき、その動きは岩手に伝わる鬼剣舞(おにけんばい)の手つきに似てくる。わたし自身が自動的活動を試みた経験ではそうなる。その動きはゆっくりなら盆踊りの手つき、腰を落とせばどじょう掬いにも似ている。バリ島の踊りやトルコの円舞にも共通するところがある。
そしてその動きは一見何かに憑かれて支配されているトランス状態のようで、実は反対に理性や感性はより一層研ぎ澄まされているのである。
これらの自然との原初的交流に対して精神分析の立場から福島章氏は
「女性を愛することよりも「自然」を愛し、風や雨雲と「結婚」することを考え、台地を「恋し」、青い山河を自分と<同一視>したのは、おそらく躁状態にあって自然の生命性に対する感受性が高揚していた時代の賢治であったろう。そのような状態において、彼は自然と合体、融合してなお自分を保つことができたにちがいない。」
(「愛の幻想」中公新書)
と述べている。
賢治はまさに自然と合体、融合していながらなお感性、理性はより明確に保たれていたに違いない。
賢治が舞うとき、自然も舞い、自然が舞うとき、賢治が舞う。そのエネルギーは賢治の作品に触れた我々一人一人の内に通じ、我々も舞っているのだ。賢治の作品を読むときすでに我々は熊や鹿や山男たちと柏林の中で月光を浴びながら舞っている。
この大きな自然や人との交流を、賢治は
「すべてがわたくしの中のみんなであるように みんなのおのおののなかのすべてですから」
と表現したのだろう。
賢治の内から発せられた「ホーホー」という奇声に伝達の意志が加わったとき、詩や童話、短歌や絵に姿を変えたのである。自然に触発され賢治の内なる自然からほとばしりでた舞いこそ賢治文学の原点であるとひとまず考えられる。さらに考察を続けたい。
*
一般に踊りのことを「舞踊」というが、「舞」と「踊」の2字は、本来意味が違うそうである。現在では明解な区別はしていないが、「舞」はスリ足で舞台を回ることで、「踊」はリズムに乗った手足の躍動であると広辞苑に書いてある。
さらに藤堂漢和大辞典によれば、
「舞の字の上半分」→人が両手に鳥の羽飾りを持って舞う様
「舞の字の下半分」→人が左足と右足を開いた様
「舞」→人が両手に飾りを持って左足と右足を開いて舞う様
とある。
そこから、手足を動かして神の恵みを求める(舞踏)、心を弾ませる(鼓舞)、むやみにデタラメなことをする(舞文・舞幣)などの意味が派生したそうである。
賢治の月夜の狂気とも思える奇行は、自然=神への接近、同化及びどうしようもない内面からの躍動がでたらめな動きや奇声となって現れたもので、まさに原初的、自然発生的ないわばシャーマンの舞の原型ではなかったろうか。
秋の風から聞いた「鹿踊りのはじまり」という童話には、鹿の素朴な行為が人間の側から鹿の世界に同化する形で書かれている。彼の最も有名な作品「風の又三郎」は全編これ風の世界という不可思議な透明感で貫かれている。その他多くの作品でも賢治の常套手段として一陣の「風」が舞台を急展開させたり、道案内したりする。
「風」に代表される天の気象が人間の心身に大きく係わっているのは、生命体の存在そのものが環境と分離・交流という矛盾の中にのみ確立できることを示唆している。
学問的には生態学が生命体と環境の関係を明らかにしつつあり、人は環境と支え合い、影響し合うことで人間存続の道を歩むしかないことが広く知られるようになった。そこから環境破壊に対する反省、未来に対する不安、それ自体が商品価値を生むなどと複雑に入り交じって今日のエコロジーブームを生み、支えている。
また、経験的にも湿気と神経痛、低気圧と喘息のように気象と病気の関係は昔から「年寄りの痛みは天気予報より正確」だなどとため息交じりの冗談として言い伝えられている。
しかしそうした具体例を出すまでもなく、「もののけ」とか「気」ということばで示すようなメンタルな自然との交流に日本人は特に敏感なようである。
俳句の季題、季語はその集大成であり、次に上げるような人口に膾炙した短歌も日本人なら誰もが心を動かされるものである。
秋きぬとめにはさやかに見えねども風の音にぞおどれかれぬる 敏行
わが宿のい小竹群竹ふく風の音のかそけきこの夕かも 家持
これら古歌にも自然と人間との交流がみずみずしい感性で歌われている。無気質な都市空間に囲まれて閉塞感に窮している現代人が失いつつある新鮮な感覚であろう。
賢治文学は短歌に始まったが、賢治に内在するイマジネーションは31文字にはとうてい収まり切らなくなって詩や童話に移行した。それは賢治が「めにはさやかに」とか「かそけき」のようなさらっとした日本的情緒を逸脱していたからであり、人間の存在の根源を示すような土着的怨念性と宇宙的透明感という一つの肉体に収めきるには不可能な巨大なエネルギーを持て余していたからだろう。
賢治はその持て余したエネルギーを舞として昇華することで辛うじて自らを保つことができたに違いない。
では、賢治は自然に触発され詩や童話を書き、それだけでは発散しきれない身を焦がすようなエネルギーを舞や叫びに表現したのだろうか。
それとも、月や雲や風から透明なエネルギーを得た賢治は、舞い叫ぶことでエネルギーを昇華し、その残滓を作品にすることでかろうじて狂気から脱出、日常性を回復していたのだろうか。
いや、そうではない。舞いこそ全てなのだ。
鬼剣舞のあの地中から天に向かってドロドロしたものが噴出したような激しいほとばしり、人間の怒りの根源から、自分を押さえるものを打ち破るような動きは「つばきしはぎしりゆききする」一人の修羅を引き付けて止まなかったろう。
また、世界を循環する季節風から透明な安らぎの力が農作業の汗に濡れた賢治の心身を満たし、喜びは溢れ、人々に対してほほ笑まずにはおれなかったろう。
そして、一人の修羅は月夜の麦畑の銀の波の中を舞い出したのだ。もはや他人の眼などどうでもよかった。賢治の全存在を賭けての最高の交響詩、メンタルスケッチ・モディファイドがそこで演じられたに違いない。
残された膨大な量の原稿は、その断面に過ぎないのだ。
(初出 「盛岡タイムス」 を加筆修正)
2020/08/11
さらば、イタリア人指圧指導者マリオ
2007年7月に書いた記事です。指圧の勉強のために一夏東京に滞在していました。そこへイタリアから指圧の勉強に来たマリオと知り合い、一ヶ月ほとんど行動を共にしました。その彼の訃報を知ったとき書いた文章です。
あるサイトを読んでいて、旧知のイタリア人指圧指導者マリオ・ヴァトリーニ(Mario Vatrini)さんの死を知りました。
彼と会ったのは今から三十年前、わたしがまだ23歳の頃でした。
指圧の勉強のために医王会指圧センターの増永静人先生のところへ行った時、彼も時を同じくしてイタリアからやってきたのです。
日本語のできないマリオは講義の内容をしきりに尋ねてきました。わたしも何とかそれに応えるべく乏しい英単語を頭から搾り出して説明しました。彼の英語は達者なもので、イタリア人なのに英会話学校でアルバイトをしていました。
彼に乞われて指圧の資料の英訳もしました。これはとても喜んでくれました。
わたしは夏休みの間だけ滞在しましたが、彼は半年以上滞在したはずです。
帰国後何度かイタリアに来るようにとの誘いの手紙をもらいました。あの時イタリアに行っていたら今どうなっていることでしょう。彼との最後の手紙のやりとりは増永先生の逝去を知らせたものです。彼は
「先生は使命を終えたので亡くなったのだろう」
と運命論的に惜しんでいました。
それ以後のことは全く分かりませんでしたが、マリオは積極的に指圧の啓蒙に努め、イタリア指圧界の重鎮になっていたようです。
彼の訃報がヨーロッパの指圧専門誌に大きく掲載されています。
歳月は重いものです。彼はわたしより15歳ほど年長だったと記憶しています。
マリオ、お疲れ様。マリオの人生に乾杯。
追記
AMAZONに彼の本が出ていました。
https://www.amazon.co.jp/Curso-Shiatsu-Mario-Vatrini/dp/8431519614
宇宙医学 重力は生物に何を与えたか
2006年7月の愛知学院大学モーニングセミナー参加記録。
7月11日、恒例の月一セミナー、愛知学院大学モーニングセミナーへ行ってきました。
今月のテーマは「宇宙医学 重力は生物に何を与えたか」。講師は藤田保健衛生大学 衛生学部教授 長岡俊治先生。
宇宙医学とは突飛もない話のようですが、これが実は我々が我々であるために実に身近なテーマであると同時に、寝たきり老人などの介護医療に関して重要なヒントとなるのです。
お話はロシアの宇宙飛行士が宇宙に長期滞在した後、身体に重大な、しかも予期せぬ事態に陥るところから始まります。なぜなら彼らは地上での生活に対応できなくなっていたからなのです。
地球上の生物は常に環境の影響下にあって進化してきました。それら環境は当然あるものとして存在していますから、あまりに身近なゆえに却ってその重要性に気づくことは困難です。魚は水の存在を知らずに生きています。彼らが水の存在を知るのは地上に出たときです。呼吸の問題と自由に動けない問題。同様に人は重力の重要性は宇宙空間に飛んで初めて解明できるのです。無酸素状態は地上で作ることが可能ですが、無重力を地上で長時間作ることは困難です。
以下は講師の長岡先生のまとめられた資料から抄出します。ところどころ当日聞いたお話を括弧で囲ってつけます。
☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡
・地球型生命の誕生は35億年以前。陸上に動物が現れたのは約7億年。人類の起源は200万年前とも500万年前とも。
・地球生命への試練とも言える大異変が何度も繰り返されてきた。還元雰囲気中で誕生した生命が酸素呼吸生物へと進化した変化、単細胞生物から多細胞生物への進化、水中から陸上への進出、地球環境の広域的な変動による大規模な絶滅(大型爬虫類の絶滅)
・プロセスで重要なことは生物自身の多様性と生物をとりまく大気、温度、海、紫外線や放射線などの環境因子。生物は地球の環境に適応せざるを得なかった。
・人類を含め地上で進化した生物にとって、地上にいる限り重力は空気と同じように全く透明な環境因子。生物の機能はいたるところで重力を積極的に利用。動物の行動は重力によって支えられかつ、制限されている。植物は行動することはないが、自らの体を支える必要があり、重力に逆らって水分や栄養分を汲み上げる必要がある。
・「生物にとって重力とはいったい何か」という基本的な疑問に対して、私たちは地上にいる限りこれまで確実な答えを与えることができなかった。宇宙の無重力環境という、生物が進化的には全く経験したことのない環境が実現できるようになり、この分野の研究は大いに発展。
(毛利さんが宇宙へ行ったとき、蛙の跳躍実験が計画されていた。しかし事前に飛行機による無重力状態で実験したところ、蛙は天井にぶつかり、壁に跳ね返り、床にたたきつけられるというビリヤード状態になって失神、あまりに危険だということで実験は中止になった)
(無重力状態では水は丸やリングなどさまざまな形になる。さらに水は付着する性質を有する。最初に宇宙で入浴しようとした飛行士は45分かかった挙句、水が顔に付着して窒息死しそうになった。宇宙での入浴はきわめて危険であることが判明)
・宇宙医学は老化に伴う骨や筋肉、あるいは平衡失調といった地上の疾病や障害にも密接な関連がある。
・ヒトが宇宙環境に曝された場合、「重力に最も敏感に応答する内耳系」や「重力に最も影響されやすい体成分」である血液などが短時間で再分布する。宇宙酔いなど。
(宇宙酔いの症状は悪心、嘔吐、顔面蒼白、冷や汗などいわゆる自律神経症状)
・これ以外にも、心臓を中心とする血液循環能、体液量、空間識とよばれ日常生活に必要な上下、水平、垂直感覚など、多くの生理機能が一時的な変調を示した後、一定の期間を経て今度は地上とは別の状態へと適応。
(宇宙飛行士は無重力に慣れると、ペンを空中に置いて作業したりするようになる。それで帰還後、うっかり空中にコップなど置いて割るという失敗をすることがある。あるいは高いところから踏み出そうとする。宇宙空間では身体が宙に浮くから問題ないが地上では墜落してしまう)
・「重力を支える器官」である骨や筋肉の変化については、どこまで変化が続くのかその範囲はまだ分かっていない。特にカルシウムの減少や宇宙放射線の影響は、ずっと時間的に蓄積されると言われている。しかし、まだ完全に説明できるだけ十分なデータが蓄積されていない。
・微小重力に長時間さらされていると、血液量が減少するばかりでなく、心臓の機能も低下。血液循環を調節する自律神経の働きもそれに伴って低下。
(心臓が胸という身体の上部にあるのは重力に逆らって脳まで血液を送るため。蛇も木に登るので心臓は頭寄りにある。しかし水中の海蛇は無重力に近い環境に棲んでいるので心臓が身体の中心にある。したがって木に上ろうとすると脳貧血を起こす可能性がある)
・宇宙飛行士が地上に帰還したとき、起立耐性減少(立ち眩みがはげしくなる)や運動能力低下といった問題を引き起こす。原因は無重力環境で生じる体液の上半身への移動を伴う再分布を心循環系の自律調整機能が全身に過常に体液があると解釈してこれを減らすために起こる。
・同じような現象は何日もベッドに寝たきりの状態でも起きることがわかっており、短時間では人が水中にいる状態でも起きている。
・無重力環境の宇宙飛行士は体重を支えたり、重力に逆らって運動する必要がないため、必要な運動量や力は非常に少なくなる。すると、筋肉の萎縮が起こると同時に体内からカルシウムの排出がはじまり、しだいに骨密度が低下する。
・加重の大きい骨のカルシウムほど逃げやすい。負荷のかかる筋肉(抗重力筋)ほど、宇宙での萎縮が激しい。ヒトの場合はふくらはぎ。地上でも運動をしないと抗重力筋は徐々に別の筋線維に変化していく。
☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡
わたしが依頼された寝たきりの患者さん。今年の冬にはベッドからトイレまで歩けたのですがコタツで足首を低温火傷して歩行禁止。3ヵ月後やっと火傷が治ってさあトイレにと思っても足が全く役に立ちません。ケアマネさんから依頼を受けてリハビリを開始しましたが、この暑さに負けてしまいなかなかはかどりません。
この場合、弱ったのは足の筋肉だけでなく、体幹の筋肉、そしてバランスをとる神経。血液を送り出す心臓の力。そうした総合力の上に歩行が成り立っていることが今回の宇宙医学の話でよく分かりました。
以前、西洋人は重力を束縛と考えると聞いたことがあります。神から与えられた束縛=原罪としての重力。それに対して強い筋力で立ち向かうのが西洋流です。たとえばスポーツでも筋肉トレーニングで身体を強くして成果を挙げようとします。
それに対して日本では重力は和すものと考えてきました。日本人の旧来の身のこなしは重力との良き関係性の上に成立していたのです。ですから同じ格闘技でもお相撲さんや柔道家はどちらかといえばぽっちゃりした身体となり、レスラーは筋肉隆々となります。
今日では両者の良い点をそれぞれ取り入れて訓練されていますが、重力を対抗すべきものとして筋力トレーニングをすると筋肉が硬く、むきむきとなって豪快ですが美しくありません。それに対して同じバーベルを持ち上げるにしてもその重力と和そうとすると、筋肉のつき方が違ってくるようです。どことなく筋肉に知性を感じます。すると技術に必要な筋肉が意識的に形成されるので動きも精緻になるのです。
重さに対してがむしゃらに抵抗して作った筋肉は期待に反して技術の邪魔をすることが多く、それはすぐれたアスリートでも筋肉トレーニングを取り入れて駄目になった多くの例が証明しています。
やってみるとすぐに分かりますから、ちょっと実験してみてください。
一歩踏み出すとき、足の筋肉でえいっと踏み出すと力強く見えます。
次にふっと膝を抜くようにして移動しますと能役者のような仕草になります。膝を抜くという感覚が分かりにくいかもしれませんが、能役者のような気持ちになってみると理解できるでしょう。この動きが日本人古来の動きの基本にあったのです。それらは古武術や日舞などに継承されています。今日、そのよさが再発見されてスポーツに取り込まれつつあります。
重力の中に生きているわたしたちは重力といかに上手に付き合っていくかが重要な課題となります。重力は束縛ではなく、生物は重力の中で重力の影響下で進化してきたとセミナーで教わりました。重力はわたしたちを支持すると同時に制限もするのです。しかし重力に制御されたままでは寝たきりになってしまいます。
重力は宇宙開発や医学に関係するだけでなく、日常の何気なく歩くという行為、箸を使うという仕草、着物を脱ぐという動作、寝転んだり立ち上がったり、しゃがんだり・・・あらゆる側面に関係しています。
今回のセミナーは改めて重力と日々の暮らしや営みとの関係に目を開かせてくれました。
イチロー選手はなぜ200本以上の安打を打てるのか
イチロー選手はなぜ200本以上の安打を打てるのか
2006-08-11に書いた記事です。丁度14年前の今日です。
このエントリーは私のブログで不動の一番人気でした。もちろんイチロー選手の人気のお陰です。内容は愛知学院大学モーニングセミナーで聞いた話です。私見も交えた粗雑なまとめですが以下に再録します。
8月8日火曜日、愛知学院大学モーニングセミナーを受講しました。今月で5回目ですが夏休みのためか特別に2時間枠。前半を名古屋市立大学学長で医学博士の西野仁雄先生の講演「大脳生理学的解析から考える」。
後半は元中日ドラゴンズ監督で名二塁手として鳴らした高木守道氏が参加されて「理論と実践との対話」。
テーマは「イチロー選手の活躍を通して、わたしたちの脳の仕組みはとのようになっているのか?脳はどのように働いているのか?脳の働きを盛んにする(強くする)ことができるのか?」 大変に興味深い内容でした。
当日頂いたレジュメからの抜粋と聞きかじりをここに紹介いたします。学術的な部分はレジュメからで、ところどころにある感想めいた文はわたしの感慨とか考えです。論文ではないので、その差異が明確になっていません。申し訳ありません。格調高いところは西野先生のお話と思ってください。
脳の話
野球はボールを見て反応します。
それは視覚入力 視覚野 運動野 筋収縮という反応でその速度は約130から200ミリ秒。
それに対して身体の動きは体性感覚 運動野 筋収縮でその速度は60から130ミリ秒。
身体反応の方が約半分の速さで行なわれますから、ボールを見て反応しても十分打てることになります。それらを磨いてイチローが存在します。
イチローはどうしてあんなによくヒットを打てるのか?
どうしてレーザービームの球を投げれるのか?
どうしてあんなに速く走れるのか?
イチローは父親によると子どもの頃から「やんちゃで大の負けず嫌いでがんこ」だったそうです。その遺伝的特質に加えて小学三年から中学三年まで高校生以上の練習を1年に363日行なっていました。
しかもその内容は
ボール球は絶対に打たない・・・・選球眼が養われた
毎日テイバッティングを行なった・・・柔軟性が養われた
その他豊富で質の高い練習によって「努力、持続、忍耐力、集中力、意志、感動、自信、目的、将来設計」が形成されました。
既に六年生のとき、将来プロ野球の選手になると作文に書いています。
「ぼくの夢は、一流のプロ野球選手になることです。そのためには、中学、高校で全国大会に出て、活躍しなければなりません。活躍できるようになるには、練習が必要です。ぼくは、その練習には自信があります。(中略)そしてその球団は中日ドラゴンズか、西武ライオンズが夢です。ドラフト入団でけいやく金は、一億円以上が目標です。」
六年生にしてここまでしっかりと具体的な目標を立てていることには驚かされます。しかもそれを実現していますから。
再び脳の話
脳は使えば発達します。
イチローは小さい頃から野球のための身体と脳を上手に使って今日があるのでしょう。持って生まれた才能だけではそれを開花させることは無理なようです。
ネズミの実験で、豊かな環境(色々な玩具などが置いてある)で飼育すると、神経細胞の新生が高まり、新たな環境への適応性が高まるということが確かめられています。つまりイチローもチチロー(イチローの父親の愛称)の指導で一生懸命的確な練習を続けたからこそ超一流の野球選手になれたのです。
脳には神経幹細胞が存在し、70~80歳になっても、たえず新しい神経細胞を供給しています。
脳は大きな可能性をもっていて、使えば、使うほど、活性化され、よく働くようになる。
イチローは天才か?
イチローは類稀な素質を持っています。
反射神経 動眼視力 瞬間視力 それに加えて 練習の虫 努力の人
天才とは1%の才能と99%の努力(エジソン)
イチローは努力できる才能がある。
これは天才と呼んでいいでしょう。
このあと、同じく野球の天才である世界のホームラン王の一面が紹介されました。
王監督の座右の銘
1、まごころにそむいていませんか?
Have you not gone against sincerity?
2、言葉や行いにはずかしいことはありませんか?
Have you not felt ashamed of thy words and deeds?
3、気力がかけていませんか?
Have you not lacked vigor?
4、努力をおしんでいませんか?
Have you not exerted all possible efforts?
5、なまけていませんか?
Have you not become slothful?
世界のホームラン王は今日でもこの五つの反省を毎日行なっているそうです。人格者と目される王さんらしい話です。
以下、三島の意見ですから読み流してください。
上記の反省文を読んで、70歳以上の方ならピンとくることでしょう。これは当日西野先生もおっしゃっていましたが、元になっているのは旧海軍の五つの反省「海軍五省」です。今日の自衛隊にも継承されているとのことです。戦後、進駐してきたアメリカ海軍がこの文章を見つけて感心し、現在でも海兵隊で心の指針とされているのだそうです。知人で戦時、海軍工廠にいた方もすぐに気づかれました。
海軍五省
一、至誠に悖るなかりしか(しせいにもとるなかりしか)
Hast thou not gone against sincerity?
一、言行に恥づるなかりしか(げんこうにはづるなかりしか)
Hast thou not felt ashamed of thy words and deeds?
一、氣力に缺くるなかりしか(きりょくにかくるなかりしか)
Hast thou not lacked vigor?
一、努力に憾みなかりしか(どりょくにうらみなかりしか)
Hast thou not exerted all possible efforts?
一、不精に亘るなかりしか(ぶしょうにわたるなかりしか)
Hast thou not become slothful?
王監督が野球人として生涯にわたって人格向上のために日々上記の項目で反省されることは素晴らしいことです。しかし、それとは別に少し腑に落ちない点があります。
それは「誰が、何のために、何を、どう反省して、どうしようとするのか」という問題です。
ここが欠落してこの五つの反省だけを持ち出すと人格を自分の予期せぬうちに、あらぬ方向に誘導、形成される恐れがあります。それが大日本帝国軍の行為であったことは到底忘れるこが不可能なことです。ここは美談として聞き流すことはできませんでした。
さて、脳の話に戻ります。
前頭葉を鍛えよう
前頭葉の働きは
意志 報酬の認知 感情のコントロール 将来に対する予測、計画
イチローの送球はそのスピードと正確さからレーバービームと称されます。それは単なる運動能力だけではありません。
イチローのレーザービームのためには「肩の強さ、コントロールの正確さ」に先立って、「準備状態と予測(イマジネーション)」が必要です。
イチロー談
「あのプレーに関しては見てから投げて、ではもう遅い。一番大事なのは背中でランナーとセカンドベースを感じること。見てないところで見えていないと、できないことはある」
これはまさに脳の機能を物語っています。
日本人がアメリカで野球をやろうと思ったら
イチロー曰く
「何よりも大切なことは自分で自分を教育できることだと思います。自分で自分をコーチできる、そういう能力。(中略)人のやることも自分のことのように捉えて、自分だったらどうするかといことを常に考えていられるかどうか。(コーチは自分の状態を知らないのだから、コーチを受けることはとても危険)だから、自分で自分をコーチできる能力が絶対に必要です。」
と、自己教育能力に触れています。
“自分で自分をコーチできる能力”とは
問題を設定(意識)する
思案し、考えめぐらす
これなくしてアメリカで野球をすることはできないということです。しかしこれはあらゆる分野にいえる事です。一流選手の自己分析能力の素晴らしさを感じます。
自分を高めていく 野球に対する取り組み方
-完璧主義、徹底した自己管理-
イチローは試合の前に実に周到に根気よく準備します。
・本拠での試合なら約5時間前に動き始める入念なマッサージやストレッチ体操を約1時間行なう
・道具類(バット、グラブ、スパイク)をことのほか大切にする
同僚はそんなイチローを見てこういいます。
「あいつを見ているだけで、疲れてくるよ」
それに対してイチローは
「練習にもっと時間をかければ、ずっとよくなるのに」
まさに努力の人です。
ここから総括に入ります。
こころのもち方によって、脳を創り変えることができる
イチローはどうしてあんなによくヒットを打てるのか?
才能(遺伝子)、性格
環境
繰り返す練習(努力)
意志
心のもち方
自分で自分をコーチ(目標を高く設定し、それに向って進む)
常に脳を鍛え、進化させている 自分らしさをみつける(個性)
やりたいことをみつける(目的)
自分の中にイチローを見つけよういっしょけんめいやる(努力)
チャレンジする(挑戦)
力をあわせる(協力)
ありがとうの気持ちをもつ(感謝)
脳 Brain は最もすばらしい創造物
・膨大な数の素子からなる
神経細胞、グリア細胞、ネットワーク
・大きな可塑性、適応性をもつ(柔軟である)
使えば使うほど、新生、発芽、シナプス効率の向上がおこる
・脳内には神経幹細胞が存在している
70~80歳になっても、神経細胞を補充し、機能を維持している
・常に進化する可能性をもつ
心のもち方によって、私たち自身の脳を作り変えて行くことができる
以上が西野先生の講演の骨子でした。
第二部は高木元監督による野球技術の話やご自身の裏話、野球界の知られざる話などで盛り上がりました。予定を30分過ぎても終了せず、わたしは仕事があるので残念ながら中座しました。
高木氏を横にして名古屋市立大学学長西野教授は対談をするはずなのに、拝見するところ一野球少年の顔に戻り、憧れの高木選手を熱く仰ぎ見る状態でした。
場内からも白髪の野球ファンが熱心に質問を飛ばしていました。ある人から高木さんはドラゴンズファンにとっては王、長嶋以上の存在だと聞いていましたが、なるほど、まさにそんな感じでした。
今回の講演は夏休みということで少年の参加を予測されたのでしょうか。
脳の機能とイチロー選手の活躍にからめて、少年たちに夢や希望を与える素晴らしい内容でした。
しかし残念なことに参加者は中高齢者中心で、子どもたちの姿は少なかったようです。それでも夢や希望は幾つになっても必要なもの。脳の機能は高齢になっても十分新生している事実は大変な励みになります。
2020/08/07
論語読みの論語知らず「師・増永静人の思い出」
かつて発行していた月刊個人誌「游氣風信」の2000年6月号と7月号に増永静人先生の論語について書きました。
本文の終わりの方に書いた以下の言葉は私にとって増永静人先生の遺言です。
「健康を云々する人間が病気になるのは情けないと思うだろう。しかし、僕だって病気をし、年を取り、死んでいく。だからこそ治療ができる。考えてみなさい。もし僕が病気もせず、年も取らず、死なない鋼鉄のような人間だとして、そんな人間に治療ができるだろうか。そんな鋼鉄みたいな人間に治療してもらって病人はうれしいだろうか。患者は不死身で頑健な理想的な健康体を期待するだろうが、それでは病人に真に共感することはできない。そこからは死や老いが見えてこない。自分自身、いつ病気になり、死ぬか分からない脆弱な存在だからこそ、ここまで真剣に医療について考えてきたんだ。指圧という民間療法を医療の視点で再構築して医療の一端を担うものとして、思想的には医療の根本を為すものとして研究してきたのだ。僕だって病気になる。窮す。でも僕は孔子の言うように乱れたりはしたくない」
游氣風信 No,126 2000,6,1 論語読みの論語知らず「師・増永靜人の思い出」(上)同2000,7,1(下)
《游々雑感》
ある名人落語家の枕(落語の本題に入る前の軽い話)に「無学者は論に負けず、無法は腕ずくに勝つ、などと申しますが・・・」というのがあります。
これは主として学を見せびらかす人を揶揄する話(「薬缶」や「千早振る」など)の枕に使われるようです。これについては以前《游氣風信》で「知ったかぶり IN 落語」として取り上げました。
「学問の無い人は、理論的に筋道だった話をすることなく自分の思いを強弁するので、学のある人が論を持って諭そうとしてもかなわない。同様に、法を守らない無法者は暴力的に意を通してしまう。どちらも困ったものだ」というような意味合いでしょう。
元憲法学者で今は著名な国会議員になっている女性党首が一時「駄目なものは駄目!」「やるっきゃない!」と言い張ったのはこの類いの強弁でしょう。学者を出自をする人でも政治家になると論理を吹っ飛ばす発言をするのだと驚いたことがありました。
もっともこれは永田町という魑魅魍魎の巣窟、百鬼の夜行する不条理世界に伝わる「永田町の論理」に対抗するために取った特別措置であるとも考えられますが。
先程の落語の枕に戻ります。前述したように「無学者は論に負けず、無法は腕ずくに勝つ」は、無学者や無法者を困った存在と見なしていますが、別の見方もできます。それは学があっても知に溺れ、行動力のない人をからかっているのではないかということです。
諺(ことわざ)にも「論語読みの論語知らず」というのがあるではありませんか。
「論語読みの論語知らず」の意味は、蛇足ながら辞書を引きますと
「書物の上のことを理解するばかりで、これを実行し得ない者にいう」(広辞苑)
ということです。
一般的には学識のみで常識のない人を揶揄することばですね。
論語!?
さる国の総理大臣が好みそうなテーマですが、今月はなんと論語の復習をすることにしました。なぜかと言うと、わが指圧の師の増永静人先生が晩年「論語」を愛読されていたからです。
ある日、先生が病気をおしての講習の後の会食のときでした。先生はしみじみと言われました。
「この頃、論語の『朝に道を聞けば、夕べに死すとも可なり』が身に染みてくるんだ」と。
続けて
「今の僕は孔子の言うように、もし朝に、誰かが僕の言うことを本当に分かってくれるなら、もう夕暮れには死んでもいいという心境だ。本当に伝えたいことはなかなか伝わらないし伝えられない。おこがましいが、孔子の気持ちが分かる気がする。孔子は生涯を通して君子という理想を追い求めた人であって、決して自らが君子ではなかったはずだ。だったら僕が自分の心境を孔子のそれに置き換えても決して偉ぶったことにはならないだろう。もし、孔子が君子でわれわれが凡人としてそれに遠く及ばないなら、孔子が凡人に道を説く意味がない」
当時まだ二十代前半、しかも無学者のわたしはなるほどと頷きながらも生意気に口を挟みました。
「先生、『朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』は、学ぶ側の心境ではありませんか。つまり朝、ものごとの本質を知ることができたら、夕方には死んだっていい、それほど道とは得難いものである、ということではないでしょうか。確か学校でそう習ったように記憶しています」
増永先生は穏やかに答えられました。
「それは教室なら正解だ。しかし僕の心境からすると僕の解釈も成り立つと思う」
わたしは今度は「成る程」と納得したのでした。
なぜなら増永静人先生の生涯は、常に中国医療の古典をご自身の指圧臨床体験を通して再措定されるものだったからです。古典医療を現代の目でもう一度再検討し、臨床で確認し、現代人にも納得のいく指圧理論として編成されたのでした。
それゆえに、今日海外では指圧と言えば増永静人先生創案の「経絡指圧」を指すようになったのです。ただし出版社の意向により海外では「禅指圧」という名称で広がっています。
残念ながら指圧のお膝下、日本では指圧は既に忘れられかけた存在になりつつあり、医療としての本分を忘れ、慰安行為としてのみ細々と命脈を保とうとしています。これはわたしどもにも大なる責任があります。
さて、早々と断っておかなければなりませんが、わたしは「論語読まずの、論語知らず」です。あるいは「論語読めずの、論語知らず」。
わたしの論語に関する知識。それは高校の古典の時間に少しばかり論語に触れただけです。これはおそらく皆さんも同じだと思います。
戦前の教育を受けた方は、儒教が社会の制度的安定のための根本思想であった意味合いから、修身の根幹を為すものとしてしっかり学ばれたことでしょうが、わたしのように戦後に生まれた者はほとんど習っていません。
まして今の高校の教科書を見ますと、漢文という独立した教科書はなく、古文の教科書の終わりの方に申し訳程度に漢文のパートがあるだけで、その量はわたしたちの頃(約三十年前)よりずっと少なくなっている感じです。そうなると近い将来、「論語(内容でなくそのことば自体)」は一般教養としてではなく特殊な素養の部類に入るやも知れません。いや、既になっていると言っていいでしょう。
今回は論語の有名な部分をいくつか紹介します。論語を知らない人も、昔習ったけど忘れてしまっている人も、論語なんか大嫌いな人も、とりあえずわたしと一緒に論語に入門(再入門)しましょう。
参考は高校の教科書、大修館書店の「新制高等漢文」、明治書院の「漢文」と講談社学術文庫の諸橋轍次著「中国古典名言辞典」です。
ところでそもそも「論語」とは何でしょう。また孔子とは。
例によって「広辞苑」に当たってみます。
論語
四書の一。孔子の言行、孔子と弟子・時人らとの問答、弟子たち同士の問答などを集録した書。(中略)孔子の理想的道徳「仁」の意義、政治、教育などの意見を述べている。わが国には応神天皇の時に百済より伝来したと伝えられる。
孔子の語ったことを弟子たちが書き留めた語録集。これが論語です。
辞書の説明の中に色々難しい言葉がたくさん出て来たので同じく広辞苑で細かく調べます。
四書
大学、中庸、論語、孟子。儒教の枢要の書。
まあ、中国の儒学の最も重要な本のことですね。
そもそも孔子とはいつの時代のどんな人でしょうか。
孔子
中国、春秋時代の学者・思想家。儒家の祖。名は丘。字は仲尼(ちゅうじ)。
今の山東省出生。古来の思想を大成、仁を理想の道徳とし、孝悌と忠恕とを以て理想を達成する根底とした。諸国を歴遊して治国の道を説くこと十余年、用いられず、時世の非なるを見て教育と著述に専念。その面目は言行録「論語」に窺われる。(前551~前479)
孔子は紀元前500年前後の中国の思想家ですね。結局、役人として採用されることはなくフリーターとして諸国を旅した人のようです。その頃日本はまだ縄文時代。おそるべし中国4000年の歴史。
ギリシャの「イソップ童話」もこの頃のものです。
中国では「老子」もこの頃編纂されています。
「論語」は孔子の死後ですからもう少し後の紀元前450年頃。
同時代の著名な思想家(宗教家)として釈迦(前566~前486)やソクラテス(前470~前399)がいます。
こうしてみると古代中国に孔子や老子、古代インドに釈迦、古代ヨーロッパにソクラテスなどのギリシャ哲学という具合に、人類の文明の黎明はほぼ同時に世界各地に散在して始まったようです。果たして文化の交流はあったのでしょうか。
もう一度言いますがその頃、即ち孔子が旅に仁を語り、釈迦が菩提樹の下で慈悲を説き、ソクラテスが悪妻にいじめられた鬱憤(うっぷん)を弟子との対話で哲学していた頃、日本はまだ縄文時代末期。竪穴式住居に住んで平和な集落を作り、採集・漁労・狩猟という採取経済に基づく生活をしていました。時あたかも弥生時代との端境期です。
考古学では縄文時代は「先史時代」と呼ばれ文献の無い時代に分類されます。弥生になれば文献が多少存在する「原史時代」となります。
弥生時代の中頃(57年)、日本の倭奴国から後漢に遣使を送り光武帝から金印を授かり、弥生の終わり(239年)にはかの邪馬台国の女王卑弥呼が魏に遣使を送ります。これらは中国の歴史書「魏志倭人伝」に登場します。
魏は有名な「三国志」の三つの国つまり魏(曹操)・呉(孫権)・蜀(劉備)の一つです。後漢の滅んだ後のいわゆる三国時代。ついでに言うと呉服は呉の織物を起源とします。
日本にとって中国は圧倒的に進歩した国だったのです。
儒学
孔子に始まる中国古来の政治・道徳の学。(中略)日本には応神天皇の時代に「論語」が伝来したと称せられるが、社会一般に及んだのは江戸時代以降。
儒学の歴史はいろいろ複雑なようです。日本で広まったのが江戸以降というのはちょっと意外でした。
孔子の思想の中心にあるのが「仁」です。これは何でしょう。仁丹というおじさん好みの口臭防止薬がありますがこれは関係ないでしょう。
フーテンの寅さんが、中腰になって右手を差し出し
「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又、帝釈天で産湯をつかい、姓は轟、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します」と仁義をきります。高倉健などのやくざ映画でもおなじみです。
仁義は孔子の思想の中心をなすものですが、では、果たしてフーテンの寅さんは儒者でしょうか。どうも少し違うようです。
仁
1 孔子が提唱した道徳観念。礼にもとづく自己抑制と他者への思いやり。忠と恕の両面をもつ。(中略)封建時代には、上下の秩序を支える人間の自然的本性とされたが、近代、特に中国では、万人の平等を実現する相互的な倫理とみなされるようになった。
2 愛情を他に及ぼすこと。いつくしみ。おもいやり。博愛。慈愛
学生時代、少林寺拳法を習っているとき、「仁」の字はずばり「二人」。つまり人と人との関係を表すと習いました。
忠
1 いつわりのない心。まごころ。まこと。まめやか。
2 君主に対して臣下たる本分をつくすこと。
これも少林寺拳法で「忠」は「中心」、つまり嘘偽りの無い心の真ん中であると聞いたことがあります。これは1の意味になります。
しかし一般的には2の意味に使われるようになり、これが武士の心構えとなり、後には軍国主義と結び付きました。武士は軍人ですから当然でしょう。戦後、軍国主義と一緒に「忠」という言葉を排除する傾向にあります。孔子にとっては「忠」はいつわりのないまごころのことですからこれは不本意でしょう。言葉は手垢にまみれるという分かりやすい例です。
恕(じょ)
1 おもいやり。同情心。
2 ゆるすこと。寛恕。
「恕」はあまりなじみのない字です。字を分解すれば「心の如し」。心素直にあるがままの意味でしょうか。
義
1 道理。条理。物事の理にかなったこと。人間の行うべきすじみち。
2 利害をすてて条理にしたがい、人道・公共のためにつくすこと。
これも少林寺拳法では「羊(大切なものの意味、羊は大切な財産だった)と我」で、自分を大切にする意味だと習いました。
孝
よく父母に仕えること。父母を大切にすること。
少林寺拳法で「孝」の字は「老と子」からなり、子が老人を背負うて歩く姿の象形だと教わりました。
こうして見ると「忠」とか「仁」、「義」などの元の意味、即ち孔子の唱えたものと日常生活で用いる場合とは意味が異なっているようです。
今日一般的に使われているのは長い歴史の経過の内に、為政者が治世に便利なように意図的に歪曲させた意味合いが強いようです。それによって孔子の考え全般が忌避されるようになるとすれば、孔子の本意ではないと考えられます。
「仁・義・忠・恕・孝」とは人間関係において、我を大切にして、心の中の本当の心に従い、思いやりの心を持ち、父母を大切にすることだというのです。それを拡大解釈して行くと臣下としての忠誠心や自分を殺してまでも主君の言い付けを守れなどということになるのではないでしょうか。
フーテンの寅さんの「仁義」は二人の人が出会ったとき、互いの素性を明らかにして、すじを通す裏街道を生きる人たちの知恵が生んだ格式なのでしょう。
これもやはり孔子のいう「仁・義」から派生したものと言えます。
孔子の言葉は「仁義」「義理」「任(仁)侠」「忠誠」など政治家とある筋の人の共に好む言葉でもあります。どちらの世界も強引な秩序を好むからでしょうか。
さて、ざっとおさらいをしたところで、「論語」に入りましょう。読み下しと口語訳はわたしがしました。間違いがあると思います。仮名遣いも現代仮名遣いにしてあります。
子曰、「吾十有五而志于学。三十而立。四十而不惑。五十而知天命。六十而耳順。七十而従心所欲、不踰矩。」
子曰(いわ)く、「吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こえ)ず。」
孔子先生は言われた、「私は十五才で学の道を志した。三十才で自立した(方向を定めた)。四十才で惑うことはなくなった。五十才で天命を知った。六十才で人の意見を素直に聞き、理解できるようになった。七十才で心の欲するままに行動をしても軌道を誤ることがなくなった」
孔子が自分の人生を振り返ってみるとこうであったというのです。なかなか耳の痛いことです。
わたしは十五の頃は漠然と生きていました。三十の頃は生活に追われていました。四十はもっと生活に追われています。五十はきっと生活に疲れていることでしょう。
六十才や七十才になると自然体に生きてもそれが道を踏み外すことが無くなるというのですが、現実にはどうでしょうか。孔子が自らの生涯を振り返るとこうであったということで、誰もがこうしろ、こうなるべきだとは言ってはいないようですね。助かります。
わたしもあと数年で天命を知る年ですが、天命がどういうものか分かりません。
天命は辞書では「天によって定められた宿命。天運。または天から与えられた寿命」とあります。
宿命は「前世から定まっている運命」。
運命は「人間の意志にかかわりなく、身の上にめぐって来る吉凶禍福。それをもたらす人間の力を超えた作用。人生は天の命によって支配されているという思想に基づく」
一般的に解釈すれば天命を知るとは天によって定められた自己の社会的存在意義を明かにするとなるのでしょうか。天という形而上学的存在を認め、それに従って生きるというのが孔子の理想だったです。
同時代の老子の道教は逆に無為自然を旨として人為的秩序を廃し、宇宙の本体である「道」に沿って生きることを理想としました。柔道や茶道の道はここに由来します。「道」はタオイズムとして欧米でも人気があります。
孔子の儒教、老子の道教。これら全く異なる思想が同時代すでに存在していたことは面白いですね。
老子も天の存在を重要視しています。
老子に「天網恢々、疎而不失」という言葉があります。「天網(てんもう)は恢々(かいかい)として、疎にして失わず」です。
天は大きな網を張っていて、その目は粗いが何事も漏らさずすくい取り、決して漏らすものではない、天は全てを知っている。あるいはすべてはその仕組みの中でうまく動いているという意味でしょう。
いずれにしても天という思想は古代中国において孔子・老子という二大思想家に共通する概念です。もしかしたら人格化されていませんが、キリスト教の神のような大きな存在だったかもしれません。
先の論語に戻ります。
孔子は加齢により人間的成長を遂げるとしています。孔子自身がそうであったというのです。しかし現実にはどうなのでしょう。
人は六十才になると耳順というより耳が次第に遠くなりますし、七十になれば、心欲しても体動かずという点が無いとは言えません。現実には難しいが、努力することが大切だということなのでしょう。
人生をトータルに把握する時、よく引用される一節です。
子曰、「学而不思則罔。思而不学則殆。」
子曰く、「学びて思わざれば、則ち罔(くら)し。思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し。」
孔子先生は言われた、「学んでも自分自身や社会に当てはめて思うことをしなければ、学んだことの道理がよくわからない。反対に、狭い経験や知識に頼ってさまざまに思いを馳せても、深く、謙虚に学ぶことをしないと独断におちいって危険である」
立派な大学を出た人がどうしてあんな過ちを犯すのか、ということが巷間よく囁かれます。それは孔子によれば、学ぶだけで考えることをしないからだというのです。学ぶことと思うこと。この両方のバランスが大切なのですね。
日本の学校教育はどちらかと言うと学ぶに比重が片寄り、思うことの機会が少ないようです。
子曰、「温故而知新可以為師矣」
子曰く、「故(ふる)きを温(あたため・たずね)て新しきを知れば、以て師為るべし」
孔子先生は言われた、「古いことをしっかり学んで、そののち新しいことを知ろうとするならば、それはすぐれた師を得たようなものだ」
これは「温故知新」として今日でもよく使われます。「温」は「たずねて」とも「あたためて」とも読まれます。
現在は過去の集積ですし、未来の原因になりますから、新しいことを学ぶときは過去の成果や歴史などをあたらめて勉強してみればよい。そうすれば古臭いと思われることも良き師匠のように道を示してくれるということでしょう。
子曰、「其身正不令而行。其身不正雖令不従。」
子曰く、「その身正しければ、令せずして行わる。その身正しからざれば、令すといえども従わず。」
孔子先生は言われた、「その身が正しい生き方をしていれば、命令しなくても民は行動を起こす。その身が正しく生きていなければ、どんなに命令しても誰も従いはしない」
これは為政者に身を正しく修めることが肝心であると説いたものです。「修身」は政治家こそが学ぶものなのです。
子曰、「君子和而不同。小人同而不和。」
子曰く、「君子は和して同せず。小人は同して和せず。」
孔子先生は言われた、「君子は道理に従って一つに和すが、他人に調子を合わせたりはしない。小人は仲良く調子を合わせているように見えるが、真に深い交流はしていない」
君子は徳の備わった品格・人格の立派な人のことです。聖人君子と並列されることもあります。聖人は万人の仰いで師表とすべき人と辞書にあります。どちらも知徳の秀れたお手本となる人、あるいは理想的な人物像を示している呼称です。
君子は人と交わるとき、仲良くするが道理からはずれてまでも一緒にいこうとはしない。つまり付和雷同はしないということでしょう。それに対してわれわれ小人は仲良く群れても道理に沿った深い協同調和はしないというのです。
そういえば「君子の交わりは淡きこと水の如し」とも言います。心の奥深くで互いに響きあうものがあればべたべたくっついていなくても十分満たされた交流はあるのだということでしょうか。
君子でなく、われわれ凡人にだって懐かしい心満たされた交流はありますね。否、そうした交流をしているとき、人は君子なのかもしれません。
余談ですが酒に四君子という名を持つ商品があります。四君子とは「梅・菊・蘭・竹」のことで、君子の持つ高潔な美しさにたとえたものです。
増永靜人先生は大病をされ、57歳でこの世を去られました。そのとき、ご自身を励まし叱咤されるためでしょう。論語から次の一節を引用されました。
子曰、「君子固窮。小人窮斯濫矣。」
子曰く、「君子固(もと)より窮す。小人窮すれば斯(ここ)に濫(らん)す。」
孔子先生は言われた、「君子といえども困窮することはある。しかしそれで乱れたりはしない。小人は困窮すると乱れて道に反するものだ」
この一節のあと、次のように言われました。
「健康を云々する人間が病気になるのは情けないと思うだろう。しかし、僕だって病気をし、年を取り、死んでいく。だからこそ治療ができる。考えてみなさい。もし僕が病気もせず、年も取らず、死なない鋼鉄のような人間だとして、そんな人間に治療ができるだろうか。そんな鋼鉄みたいな人間に治療してもらって病人はうれしいだろうか。患者は不死身で頑健な理想的な健康体を期待するだろうが、それでは病人に真に共感することはできない。そこからは死や老いが見えてこない。自分自身、いつ病気になり、死ぬか分からない脆弱な存在だからこそ、ここまで真剣に医療について考えてきたんだ。指圧という民間療法を医療の視点で再構築して医療の一端を担うものとして、思想的には医療の根本を為すものとして研究してきたのだ。僕だって病気になる。窮す。でも僕は孔子の言うように乱れたりはしたくない」
この言葉は今でもわたしの心に深く沈殿しています。
論語は我が国に最初に渡来した文献で、そのために最も日本人に好まれた古典となりました。古人は論語などの漢文の勉強を通じて、語学と同時に中国の哲学を学んだのです。
それは後世になってドイツ語の勉強をすることで西欧の哲学を学んだのと同じ軌跡です。すなわち言語を通じて文化を学んだのでした。今日の英語学習の大きな欠点は、その実用性にのみ目を奪われて、英語によって築かれた文化の学習がおろそかになりがちなことです。
言語と文化は不可避です。
万国共通語という崇高な理想を抱いたザメンホフによって人工的に作られたエスペラント語が、その内に文化を有さないがゆえに逆に広がって行かなかったという皮肉な結果を生むことにもなったのはそのためでしょう。
〈後記〉
七月七日は七夕祭りです。同時にこの日は経絡指圧の創始者であり、わたしの師匠でもある増永靜人先生のお亡くなりになった日でもあります。昭和56年(1981年)のことでした。大正14年生まれで享年57歳でした。
決して長くない人生を指圧のために駆け抜けた方でした。最近、西欧で国際指圧シンポジウムが開かれましたが、海外では指圧と言えば増永靜人の影響なしには語れません。その日のパネラーのほとんどが先生の直接の教え子だったようです。
最近、イギリス人がロンドンの指圧カレッジの教科書を持参しました。その本は完全に増永先生のものを踏襲していました。愚直と思えるほどに。もはや海外においてはバイブルの如しです。
西洋医療を主体とした国家により制定された医療(正統医療)に対し、民衆の間で伝統的に保存されて来た医療を非正統医療もしくは代替医療(オータナディヴ・メディスン)と呼びます。アメリカや英国では医療費の高騰から代替医療に注目を集めています。その中には鍼や指圧も含まれます。
19世紀まで人類を苦しめた感染症が正統医療によってほとんど駆逐されたことが、逆に民間医療に目を向かせることにもなりました。
現代は仕事や人間関係からくるストレスから心身共にがちがちにされる社会になりました。その傾向はこれからもますます厳しくなるでしょう。そんなときこそ、指圧などの代替医療がもっと必要とされていくことでしょう。
そのとき、論理的普遍性を持つ増永靜人先生による経絡指圧は有力な存在感を示していくに違いありません。
それに引き換え、国内では指圧はあまりに低迷しています。
わたしも微力ながら経絡指圧の普及に努めては来ましたが、残念ながら全く不如意に終わっています。しかしそれで諦めることなく、これからも、先生の意志を引き継いで、先生に「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」と心から安心していただきたいものです。
(游)
2020/08/05
『五輪の身体』斎藤孝著
『五輪の身体』斎藤孝著
今を時めく身体論の寵児斎藤孝さんが近著でわたしの経絡指圧の恩師増永静人先生に触れています。
うれしいですね。
ハンマー投げの室伏選手との対談です。
以下に引用させていただきます。
室伏 力まかせに投げているイメージがあるんでしょうね。でも力じゃない。実はいま、僕が何もしないでもハンマーが飛んでいく方法が見つかりそうなんです。
齋藤 何もしないで? ついに空気投げか何か(笑)?
室伏 ハハハ。体操選手が大車輪をやるとき、自分の体重の何倍もの重さが手にかかってくるでしょう。でも、引っ張られることに対しては耐えられる。筋肉には能動筋と受動筋があって、受動筋は非常に強いんですね。
齋藤 受身の方が強い。
室伏 そうです。僕らもそういう筋肉を使ってるんです。いくら鍛えて握力があるといっても、せいぜい100キロぐらいですから。300キロ、350キロという重さを支えられるわけがない。だから、より受身に徹さなきゃいけない。飛ばそうと思えば思うほど、受身になっていく。
齋藤 ある意味、ハンマーに回されているわけですね。
室伏 なんか宇宙っぽいんですよ。僕とハンマーが回転しながら、さらにサークルに沿って回っている。自転と公転みたいな。
齋藤 いわれてみれば、動きも楕円運動だし、引っ張りつつ引っ張られているという引力関係にも似てますよね。
室伏 そこのバランスが全部うまくとれなきゃいけない。僕はコスミックスポーツって呼んでるんですけど(笑)。
齋藤 コスミックスポーツ。その受動感覚は面白いですね。自分が回してるんだけど、回されてもいるって感覚が。昔、アルバイトで指圧をやってたんですが、強く押しすぎてしまう傾向があった。ツボだと思うと、ついグッといっちゃうんだけど、「痛い」とか文句いわれて。そのときに、意識を反転させてみたんです。
室伏 押してるんじゃなくて、押されてる?
齋藤 そう。押してる圧力は変えない。でも、押されてるんだとイメージしただけで、相手がゆるむんですね。一体感が出る。増永静人さんという人が「支え圧」という指圧をやっていて、「筋力で押すな。自分が液体化して、相手と一体になるように支える感じがいいんだ」といってるんです。そういうイメージですね。
『五輪の身体』齋藤孝 2004 日本経済新聞社
引用箇所(pp.34-36)
2020/08/01
「まるごとひとつ・野口三千三・増永静人」
游氣風信 No52「まるごとひとつ・野口三千三・増永静人」
三島治療室便り'92,12,1
およそ30年前に書いた文章です。
改めて読み返してみました。
少し直してあります。
三島広志
E-mail h-mishima@nifty.com
https://sites.google.com/site/ofisumishima/
《游々雑感》
まるごとひとつ
「今日は肩がひどく凝っているの。だから肩だけしっかりやってちょうだい」
身体調整に来られてこのように言われる方があります。 そんな時は次のように答えます。「それじゃあ、とりあえず肩だけ取りはずして置いて帰ってください。明日までに治しておきましょう」
これではまるで一休さんのとんち話みたいですね。調整に来られた方はきょとんとしてしまいます。もちろん言うまでもなく身体調整と機械の修理とは違うのですから肩だけ分離して置いて帰ることは不可能です。機械は部品の集合体、それに対して身体は全体が有機的につながっているのですから。(以上は操体法創始者橋本敬三先生の逸話)
いつからか、わたしたちは身体を手や足や胴体、肩や胃や骨盤などの部品の寄せ集めのように考えるようになってしまいました。けれども実際には一体どこからが肩でどこからが首でどこからが背中なのでしょうか。
解剖学ではしっかり分類してあります。カルテをつけたり手術するとき客観的に誰もが場所を間違えないために約束事として取り決めてあるのです。しかし、実際にわたしたちが身体から受ける感覚はそんなに厳密なものではありません。漠然と首の辺りが凝るとか、肩から腕の付け根にかけてしびれるとかという感じです。
腰が痛いと言う人の腰に手を当てて「この辺ですか。」と聞きますと「そう、そこそこ」と返事があります。もっと場所を限定しようともう一度触り直しますとこんどは全然違うところで「そう、そこです」と答えます。こちらは「あれっ」と思ってもう一度最初の所を押して「ここでしたね」と質問すると「いえ。もっと上です」「じゃあ、ここ?」「違う違うもっと左」。だんだんいらいらしてくるのが手に伝わってきます。「なんだこいつは。痛いところくらいさっさと見つけんかい」。そんな気配がひしひしと伝わって来るのでこちらもあせって「するとここですね」などとあてずっぽうに言ったりしてますます感情を害されてしまいます。「感情」を害されると「勘定」が貰いにくくなるのが商売の常ですからこうなっては大変です。
つまりかかる具合に身体の感覚とは当てにならないので、冒頭のように肩だけやってくれという指示は根本的に正しくないのです。感覚だけでなく、身体は全体が一つの目的すなわち生命の維持発展や運動のために協力しあっています。別の言い方をすると肩が凝るのは身体のほかの部分に理由がある、肩凝りはその結果ということが多いです。凝りは明確に意識できますが、その他の問題は意識上に上がってこないのです。
医療の現場では肩凝りに対してさまざまな捕らえ方をします。多角的に原因の確定を試みると言ってもいいでしょう。
「筋肉疲労による乳酸の蓄積」
「頚椎椎間関節の問題」
「筋肉か関節での神経の圧迫」
「筋肉リウマチ」
「骨粗鬆症」
「何らかの炎症」
「神経自体の損傷」
「コンピューターに向かい続ける姿勢からくる慢性疲労」
「胃やすい臓などの内臓からの関連痛」
「目からの関連痛」
「がんの骨転移」
などなど。こうした医学的鑑別は状況に応じて治療法を決定するためにとても重要です。
しかし、私達施術者はそこに止まらずにもう一歩考えを深めたいのです。それは医療を離れて、どうして自分の肩が凝るのだろう、何がいけないのだろうと自分をとりまく現状の認識をすること、および今をより良い将来への礎とするための積極的な捕らえ方です。そうしないとせっかく肩凝りのために莫大なエネルギーを費やした我が生命力に申し訳がないというものです。(肩凝り自体のためにかなりの栄養やエネルギーが浪費されています。さらには苦痛、不快感も。これは周囲の人をも不快にしますのはどなたも体験済み。)
前置きが長くなりました。今月のテーマはまるごとひとつでした。
わたしたちの身体から冒頭に書いたように肩だけ取り出せません。これは言い換えると私達の身体は分解できないもの、全体でまるまるひとつということです。
手を高く上げてみてください。その時の手を支えているのは肩であり背中でしょう。さらにお尻や足が身体と床の間にあって身体全体を支持しています。でもわたしたちの関心は手にあって他の部分にはいきません(痛みがあれば別です)。手を意識している限り、凝りに対しては最も自覚的な肩にさえ関心は向かないのです。凝りとは身体が悲鳴を上げるとき肩の存在を訴える方法なのです。
「右手をよく使う仕事をしているのになぜ左の肩が凝るのでしょう」
とはよくされる質問です。それに対する解答はすでに「左・右」の漢字の中にあるのです。 小学生に戻って漢字の復習をしましょう。「右」という字を分解すると「ナ」と「口」です。「ナ」は手の象形、「口」は口の象形です。すなわち右手とは食べ物を口に運ぶ手という意味です。「右」は一字で右手のことを示しているのです。
では「左」はどうでしょう。これは「ナ」と「工」から成立しています。「ナ」は右と同じく手。「工」はものさしのような工具の象形です。これも「左」一字で左手の意味があります。「左」とはものさしをきっちり固定している手のことなんです。
ここから類推すれば右手は動的な働きを表し、左手は右手を補佐する静的な働きを表現していることになります。よって右手を使うときは目立たないが左手も固定という緊張を強いられていると考えられます。これが前述の質問の答えです。手の問題をさらに拡大解釈していけば身体全体が支え合い助け合って働いているといっていいでしょう。両手を使っているとき胴体が両手を支えています。そのとき手には関心が向かいますが胴体のことは忘れているでしょう。 一生懸命手作業をしていて腰が痛くなるのはこうしたことの反映です。本を読むとき、目は意識しますが本を持っている手には無関心です。万事がこんな調子なのです。
明らかな症状(結果)には必ず原因があるのです。肩凝りはそうした身心の状態の犠牲者、あわれな生贄(いけにえ)というわけです。けっして目の敵にする対象ではないことがお解りいただけるでしょう。ですから冒頭の「肩だけ揉みほぐせ」 という感覚には身体に対する一種の傲慢(ごうまん)さを感じるのです。その根本に身体は精神に隷属(れいぞく)しているというおごった考えがあるのです。それが時として他人にも向けられますから争いが絶えません。今はやりの太極拳や気功法、ヨガなどはそうした身体観を是正する体操という側面も 持っています。
こうしてみると肩凝りに対する意識のしかたが、身体の問題だけでなく会社や家庭の人間関係、さらには経済や教育など幅広い分野にわたる根幹の問題意識ということが理解されますね。東洋の医療は基本的にこの考えに立っていますから肩凝りひとつとっても全身の処置をするわけです。
現代医学は肉体と精神をとりあえずはっきり分けて、特に肉体の方を微にいり細にいって研究した結果すばらしい成果を上げ、わたしたちは膨大な恩恵を受けています。その成果は医療だけでなく保健衛生や介護、スポーツ科学にも及んでいます。さらに経済発展による食生活の充実、高度な教育などとあいまって長寿社会を築き上げました。
現代医学の細菌駆除による伝染病駆逐という成果や素晴らしい手術、それらを支えている精密な検査や組織的な看護の発達は素晴らしいものです。しかし反面、あまりに専門化し過ぎて全体を統一する見方や心と体の相関に関してはいま一歩軽視されてきました。分化し過ぎ、専門化し過ぎの欠陥が全体を見えにくくしてしまったのです。細分化は研究においてとても重要なことですが一般の臨床にはいろいろと不都合があるのです。そこから生まれるのが肩なら肩だけという患部中心の見方です。あるいはそのように定められた医療制度です。その反省から今日では心療内科や神経科などでその間隙を埋める方向にきています。 これが今日、未解明ながらも生命の全体性と心身相関を重視してきた漢方に代表される伝統医療に関心が集まってきている理由でしょう。
だからと言ってひたすら漢方がいい、古い伝統が正しいと考える狭量な視野は危険です。医療と衛生と栄養の整備という社会的な下部構造の充実があって初めて伝統の知恵が上部構造として生かせる時代が来たということを忘れてはいけません。
そもそも私たちの身体は膨大な数の細胞(37兆とされています)から成り立っています。それは37兆個の細胞の寄せ集めではなく、一個の受精卵が37兆に分裂したものなのです。けっして寄せ集めたものではないのです。そしてそれらの細胞は脳によって統御されて全体として統一した行動ができるようになっているのです。その脳も他の器官によって育まれている点では同じ身体の一員なのです。ちょうど夫婦が一対で夫婦であって一対一ではないように身体も全体で一つの生命体であって、各器官がばらばらで自己主張しあっているのではないのです。こういう状態をまるごと全体と呼ぶのです。
さて、あなたがもし肩凝りやぎっくり腰などちょっとした身体の訴えを得る機会があれば以上のようなことを考えてはいかがでしょうか。次の人々のことばは身体および身体と環境とのかかわりにおいて大きなヒントになることでしょう。私達の身体は環境があって存在することが可能です。環境とは歴史によって育まれてきたこの星の自然と人間社会です。
野口三千三(野口体操創始者 元東京芸術大学教授)
「生きている人間のからだは、皮膚という生きた袋の中に、液体的なものがいっぱい入っていて、その中に骨も内臓も浮かんでいるのだ」
「地球上のすべての存在は、今、地球の中心との関係にによって、確実に結ばれている」
「自分自身のまるごと全体のからだが“重さという生きもの”になり得る能力いう」
「野口体操からだに貞(き)く」柏樹社刊より
増永静人(経絡指圧提唱者)
「自分の生命を大切にすること、そのことが相手の生命を尊重し、自分のまわりの生命をすべて大切に扱うことに連なっていくという実感を味わってほしいのです。これはいくら言葉で知って頭で理解していても、“もの”を中心にする生活をしている間に、バラバラに離れた存在になって、自分しか見えない幻想のとりこになってしまいます。今までの健康法は、そうした個人だけの長生きだけを目的としたため誤ってきたのです。」
「スジとツボの健康法」潮文社刊より