2020/11/23

散歩道

散歩道。

鉢の中の枯れ蓮。

目についた花や木の実。

レジェンドの鍼灸院。

 人気の江戸前寿司等。



















金星と烏

















忘れられない在宅ケア

忘れられない在宅ケア

再々録です。冒頭、25歳から仕事を始めて16年目とあります。現在(2020年)、41年目となります。この方のことは折に触れて思い出されます。そこでまた懲りずにnoteへ掲載します。一部修正しています。

この方の半身麻痺という障害を受容する過程はまさにコーンの分類そのものでした。


【コーンの分類】

1.ショック
突然の障害を受け、混乱して事態を理解できない。
2.回復への期待
いずれ障害が治ると期待している。
3.非嘆
治らない現実に直面し、希望を失い、無気力となり生きる意欲を失う。
4.防衛
「障害は良くならない」と思いながらも、このまま頑張れば良くなるのではと今までの方法に執着する。
5.適応
現実を深く見つめ、障害は新しい自分の個性であると受容し安寧な気持ちを抱く。


忘れられない在宅ケア

 二十五歳から往療マッサージの仕事を始めて今年で十六年目に入ります。
 そのうちには忘れられない患者さんが何人もおられました。そういう方たちの魅力は様々です。ある人はその闘病精神に感服させられました。また別の方の生きて来し方の素晴らしさに静かな感動を覚えたこともありました。病に倒れた現在の生きようがご家族を含めて実に魅力な印象の人も多くいます。いずれの方々も訪問するわたしの方に素晴らしい喜びをを残してくださったのです。

 中でもN氏はとりわけ強く印象に残る方でした。

[三百万円の納得]

 N氏は十年ほど前に八十歳で亡くなりました。(1985年に亡くなりました)
 最後の三年間は脳卒中の後遺症でほとんど寝たきり状態でしたが、明治生まれの頑固さで毎日仏間の椅子に腰掛けて、自分は「寝たきり老人」ではないと得心していました。

 私はN氏が退院して半年目から往療マッサージに訪問し、約二年半のお付き合いをしました。大変明晰な頭脳の持ち主で、時事に関してはテレビ報道を欠かさず見て、絶えず社会の動きに注意しておられた。とりわけ好きだったのが国会中継。時の総理大臣中曽根氏のファンのようでした。

 私が訪問した初期の頃は、N氏の目的はひたすら歩行能力を回復することにありました。症状安定と病室不足のため、病院から歩行できないままに退院となりましたので、氏は病院から見捨てられたとひどく怒っていました。そこで私は氏の病院に対する恨みのエネルギーを逆利用して訓練を行うことにしたのです。その結果は大成功。N氏の努力と人並み以上の体力の賜物でしょう、一月経った頃には一本杖で室内の歩行ができるほどになったのです。

(当時、まだ地方の病院には理学療法士がいなかったため、十分な機能訓練を経ないで退院している方が多かったのです)

 N氏はまだまだ良くなり、何としても自転車に乗れるようになるまで頑張るつもりでした。しかしどうも私には、それまでの進歩の状況や現在の残っている手足の運動能力から室内歩行が限界のように思えました。

 機能回復訓練の困難な点は、身体調整(訓練や治療)の結果、必ずしも以前の健康で障害のない時の状態には回復しないと思われる人に対しても、希望を与えつつ身体調整を行なわなければならないことです。

 さらに、身体調整の成果が本人にとって、もはや限界と考えられる時点で、以前に比べれば不満であろうけれども、現在の状態がその人の今から将来への最高の状態なんですよと、諦めと希望の両方を持って本人や家族に受け入れてもらうように心掛けなければならないこと、これも大変難しくつらいことなのです。

 本人は元のように上手に歩けるようになると信じています。なりたいと強く願っているのです。わたしの方としてもそれに極力応えたいのですが、しかし、多くの場合、現実にはもう回復はこれ以上は無理と思われるときが必ずやってきます。その時、いたずらに甘い期待を抱かせるのは機能訓練の本意ではありません。といって、絶望感を持つことは本人にとって耐え難く苦しいことであろうし、看病している家族の失望も計り知れません。

 どうやってN氏と対応すれば良いかさんざん迷った揚げ句、私は努めて体や病気の話を避け、N氏の生い立ち、戦争体験、戦後の苦労話や商売のコツなどの聞き役に徹しました。

 N氏の家はI市にあります。そこは戦争中、名古屋の人々が荷物の疎開をする程の田舎でしたが、皮肉なことにN氏の家だけ空襲によって爆弾の直撃を受け全焼してしまいました。米軍が岐阜の基地を爆撃した帰りのことです。

 当時N氏は出征中で、家には奥さんと三人の幼い子供がいました。しかしその時の爆撃で上の子二人が爆死し、奥さんと背負っていた子だけが助かりました。その子が今の跡取り息子さんです。

 奥さんは、
「今、自分たちが何不自由なく暮らしていけるのは、死んだ子どもたちがあの世から見守ってくれているお陰だと思っているけど、当時の悲しさはとても言葉には言い表せない。アメリカを恨み、東条英機を憾み、気も狂わんばかりだった。」
と言われます。

 爆撃されたとき、お母さんと子どもたちはそれぞれ家の表と裏に逃げ出しました。そのままなら助かったのに、子どもたちは再びお母さんを追って家の中に飛び込んだために爆弾の衝撃と炎で亡くなったそうです。お母さんは自分が子どもたちの手を引いて外に飛び出していたら死なせずに済んだと今でも強く後悔しているのです。こういう人にとって戦争は一体何時になったら終わるのでしょうか。

 四十歳過ぎての復員後、N氏は家が焼け、二人の愛児が爆死したことを知り、呆然自失の日々を送りました。しかし持ち前の気丈さで家の復興に立ち上がったのでした。

 廃材を入手して大工に家を建ててもらい、中古の仏壇を購入し、毎日、自転車で箒や箕(み)の行商に出て、田畑を買い、米や野菜を作りながら必死で働いたそうです。

 七十七歳で脳卒中になるまでひたすら行商の毎日で、リヤカー付きの自転車で朝早くから夜遅くまで1日百キロ近く走り回ったと懐かしそうに語ってくれました。七十五歳で逆上がりができたというのが自慢の、人一倍丈夫な体の持ち主でした。

 ところが頑健と過信していた体が脳卒中で突然動かなくなったのです。雪の早朝、上半身裸で鍬をふるっていた位元気だったそうですが無理を重ね過ぎたのでしょう。N氏は倒れた時のショックは子供を失ったショックと等しい位であったと述懐されました。N氏が自転車に再び乗る日を夢見るのは、行商で暮らしを支えたときの相棒である自転車こそまさにN氏のN氏たる証明だからなのでしょう。

 しかし日々回復に努めるにも関わらず、歩行能力が向上するどころか次第に低下し始めました。本人はその事実を必死で否定し、
「今日は体調が悪いからだ。」
「今日は雨模様の気候のせいだ。」
と毎日歩けない理由を探して口にしていましたが、とうとう自分ながらに真実を認めざるを得ないところまできてしまいました。

 以前なら横に奥さんを従えて軽く一人で歩いて来れた寝室から居間までのおよそ十メートル。今では息子さんにしっかり抱えてもらってやっと歩いて来るという状態になってしまったのです。

 その頃からN氏は極めて無口になりました。日がな、絶えず何かを考えているようでした。いくら否定しても、歩く力が衰えた現実は否定できないことに気がついたのでしょうか。あるいはほかのことを考えたり、思い出にふけっていたのでしょうか。

 ある日、
「先生よ、わしはお経に書いてあるようになも、往生安楽国に暮らしたいわや。」
とポツリと言われたことがありました。
 私は答えに窮して、
 「安楽国に住むにはその前に書いてある菩提心が必要なんだよ。」
とお経の本を見せてもらい、ほほ笑みでごまかしながら答えたりもしたのです。

 すっかり寡黙になられたN氏を見て、私は父がガンで亡くなる前の数週間を思い出しました。
 父は、痛み止めの注射のために四六時中意識が朦朧としていたようでした。しかし、時々頭がはっきりするするらしく、当時二十歳の私に向かって、子供の頃の他愛ない罪を懴悔することがあったのです。
 「友達と蟹を路面電車の線路の上に置いてひき殺して遊んだことがあったが、今思うと可哀想なことをしたもんだ。」
などという具合に。

 その経験から、もしかしたら人は死ぬ前に人生を清算する期間が与えられているのかも知れないなと感じたのでした。父は死を目前にして、自分の人生の肯定作業に取り掛かっていたのではないでしょうか。死んで行くにあたって心残りないように心の整理をしているように見えたのです。

 そう考えると闘病期間が与えられた病気はとてもありがたい病気です。昨今、闘病記を読む機会が増えましたが、どの著者も皆そのようなことを書かれていますから、あながち間違いではないのかも知れません。あるいはそう考えないとやり切れないのかも知れませんが。

 N氏もまさに人生肯定に取り組み始めたのでしょう。ある時奥さんに対して
 「われ(お前)はわしみたいな男と一緒になって損な人生だったなも。」
と問いかけたそうです。
 奥さんは
 「いいえ。何を言やぁす。おじいさんと一緒に生活ができて、とても良い人生を送らせてもらったがなも。」
と答えたと言われました。その返事を聞いたN氏はめったに見せない割れるような笑顔を見せたと、N氏の死後、奥さんが話してくださいました。なにしろN氏は若いときからいつも苦虫を噛み締めていたのです。

 再入院される半年程前、N氏は孫ほどの年齢の私に向かって
「先生、わしはなも、もうこの人生に思い残すことはないんじゃ。ただ一つ気になることはなも、氏神様の井戸の屋根が伊勢湾台風で壊れたままじゃろ。あれをわしの手で建て直したいんじゃ。」
と話されました。

 N氏は息子さんや奥さんと相談して神社に建立費用を寄付することを快諾させ、宮大工に見積させると約三百万円かかるというので、N氏が全額寄付して、井戸の屋根の建築が始まりました。

 それから半月程して再入院されることになりました。今度は手足の機能だけでなく言葉さえも失ないましたが、一生苦虫を噛み続けていた顔が、再入院してからはニコニコ笑い、奥さんの話かけにも愛想良く頷いていたそうです。問いかけに対する判断力はしっかりしていて決して惚けては(認知症)いなかったのです。

 入院して一カ月ほどしてN氏は亡くなられました。

 N氏は井戸の屋根を作るという行為に自分の人生を代表させ、それを実現させることで人生を納得されたのでしょう。私はN氏によって人生を肯定できた人の本当の穏やかな表情を見せていただくことができました。

 屋根が完成する前に亡くなられたことを惜しむ人もいましたが、N氏にとって大切だったのは、井戸の屋根を自分の手で建設の方向へ持っていったという事実であって、その後のことはさほど重要なことではなかったに違いありません。

 それから数年して懸命に看病に励まれた奥さんも亡くなられました。