2021/05/21

俳句とからだ 173号 視覚と経験

 連載俳句と“からだ” 173

 

愛知 三島広志

 

視覚と経験

 夜明け前の空を観るのが好きだ。20分ほど歩くと東方が一望できる高台に出る。暗黒の山稜や公園のタワーの向こうから赤い暁光が噴き上がる。赤色は中空に向かって薄まり橙から黄、黄緑から淡い青、そして濃紺の空へと移る。色彩の変化は虹の配列と基本的に同じだ。濃紺の空に金星が輝き、振り返ると西空に月が傾く。これは柿本人麻呂(660頃~724)の詠んだ

 

東の野にかげろひの立つ見えて

かへり見すれば月かたぶきぬ

 

と同じ光景だ。692年冬の作と伝えられている。宇宙の巡行とそれを記した歌の世界が時空間を超えて今ここに存在することに感動を禁じ得ない。

 

私達は外界からの情報を五感で受容する。五感とは視・聴・嗅・味・触を示す。中でも視覚から得る情報量は大きい。人間の情報処理は感覚、知覚、認知で表される。その違いは外界から情報が刺激として感覚受容器に入り興奮が生じると感覚、知覚は対象を知ること、認知はさらに高次の処理で情報の選択、判別、決定、理解、記憶、推論、理解であるとされる。赤い林檎があると感覚は赤い光とそうでない部分の素朴な判別、それが赤い円形であると分かるのが知覚、そして林檎と理解するのが認知であるという。(「感覚情報の知覚メカニズム」工業技術院製品科学研究所清水豊氏の論文参照)

 

 夜明けの空の色彩を感覚受容器である目の網膜が捉えると、その情報は視神経を介して脳へ伝わる。色の感覚を知覚し認知した時、光の情報は心身に何らかの影響を及ぼし感情や思考へ影響する。それが連日のように明けの空へ私を導く動機となり、人麻呂の歌を想起させる。絵心があればその色を印象派の画家のようにカンバスへ塗り込めるだろう。詩心があれば詩歌の一つも詠むであろう。

 

古里は霜のみ白く夜明けたり 

山口青邨

 

 五感を研究しているのは最新科学だけでは無い。哲学者カントは我々のうちにア・プリオリに「形式」が存在し、感覚は空間の形式として知覚され、時間の形式の中に保存され一つの経験と為すと説く。つまり夜明けの空の色という空間に存在する情報を脳に伝え、記憶という時間に留めるということである。それによって外部情報は受容され、時空を保ち経験となる。それが言語化され詩歌として保存されると今度は読者の経験として感動を呼ぶ。

 

夜明けの空を眺める時、認知された色彩や形態の情報は時空を超えて宇宙と自分が一如となる貴重な認知経験となる。詩歌もまた共通経験として感動を呼ぶのだ。

 

ガンジスに身を沈めたる初日かな

黒田杏子

俳句とからだ 172号 近藤愛句集『遠山桜』

 連載俳句と“からだ” 172

 

愛知 三島広志

 

近藤愛句集『遠山桜』

 近藤愛は1973年生まれ。中学三年生から毎日新聞「女のしんぶん《楽句塾》」で黒田杏子選を端緒に俳句と関わってきた。

 

現代史読みかへす日も鳥渡る

 

第一章掲載の作品。「藍生」誌発表時に読んで大変感動した。鳥が渡るという季語と現代史の組み合わせ。それ以来、作者の印象はこの句に集約されている。

今回改めて句集『遠山桜』を通読して関心を抱いた句に触れていきたい。

 

集中「掃く」という言葉が多く登場している。「掃く」とは「刷く」であり、表面を掻いて刷新することだ。「掃く」は表面にあるものを掻いて排除すること。「刷く」は薄く塗ることだ。いずれも表面を清拭するように刷新して平らかにする。刷新された地表はカンバスのように可能性を生む。

 

掃き寄せて花屑の皆捨てらるる

 

美しく散った花びらも掃き寄せられれば花屑として廃棄される。作者の目は花びらより捨てられることへ向けられている。

 

落葉掃くお互ひに目も合はせずに

一生の仕事のごとく落葉掃く

 

一心に落葉を掃く人たち。その心は自分の内に向けられているのだろう。三昧境にあるのかもしれない。

 

掃除婦のピアスの光る小春かな

掃除婦の最後に拾ふくわりんの実

 

作者の関心は職として掃除する人たちへも向けられる。ピアスや花梨の実がその人達を祝福しているようだ。

 

秋蝶の死んでゆかうとしてをりぬ

死んだかもしれぬ秋の蝶探したし

 

この二句が句集の冒頭部と終末部に置かれている。その間二十年以上の時が流れている。近々やってくる死を纏った秋の蝶へ向けられた作者の思いは人々に共通するものだろう。それ以外にも「足許をいま秋蝶の発つひかり」「秋蝶の骸片付けられてをり」と、秋蝶の句がある。さらに次の句、

 

蝶の翅毀さぬやうに掃き寄する

 

何か大切なものを慈しむが如く蝶を掃き寄せる作者。命は果てても骸は残る。小さな蝶にも生じる生と死という現実をしっかりと見つめているのだ。それは自己を秋蝶へ投影しているだけではなく、冒頭の現代史の句に通じる自己の存在と自然の営みに共通する大いなるものへの洞察でもある。

 

以下の句は師黒田への呼応だろう。

 

悲しみのこぼれぬやうに葱刻む

(掲句は全て近藤愛作)

俳句とからだ 171号 日本の医療制度

 連載俳句と“からだ” 171

 

愛知 三島広志

 

日本の医療制度

医療は人類誕生と同時に自然発生した。病気、怪我、衰弱など心身の問題に対応するためだ。その後多くの経験に基づき民族固有の医療として伝承、国家等によって制度化された。経験的に発展していた医療を科学的知見と哲学としてまとめた人が古代ギリシアのヒポクラテス(前460頃~前375頃)だ。「ヒポクラテスの誓い」は今日でも医師の指針である。その後イタリアのダ・ヴィンチ(1452~1519)の人間復興やフランスのデカルト(1596~1650)による心身二元論で人体を客観的に把握することが可能となり医療が医学となった。

 

 日本にも古来より伝承医療があった。そこへ中国の体系だった医療が入ってくる。そして701年、奈良時代の大宝律令で国の医療として制度化される。それは唐王朝の制度を参考にした医疾令である。医療を行う係として典薬寮があり、その中に医生、針生、按摩生、咒禁生、薬園生が明記されている。役に就いていたのは多くが帰化人やその子孫であった。ところが平安時代から国の医療制度は消滅する。次の成立は明治であり長い空白期間は僧侶が僧医として医療を担った。また奈良時代の医家が代々家伝の術として伝えてきた。

 

 現代史読みかへす日も鳥渡る 近藤愛

 

行政が行った有名な医療施設は奈良時代の730年に光明皇后が起こした施薬院(悲田院という孤児院もあった)、江戸時代の小石川療養所(1722年)などがある。施薬院は薬種商を管理し室町時代には薬商人が制度化されていた。また江戸時代、有名な富山の薬売りは諸国を歩いて薬を販売していた。これは富山藩の経済振興策でもあった。

明治政府は西欧化を急ぐため様々な制度を実施した。医療制度は我が国伝来の漢方か西洋医学かで協議され、伝承では無く客観的科学に基づく東大医学部を中心とした西洋医学を国の医療として制度に取り入れた。そのため漢方は日陰の存在となり庶民の間で細々と、しかし連綿と維持継続された。現在、漢方は一部の医師の努力で復権し漢方薬は保険制度に取り入れられている。鍼・灸・按摩は江戸時代から視覚障害者の生活を支える術としての側面もあり、教育機関や試験制度が整えられ国家資格として現代社会に認知されている。

 

 医療は仏教の説く四苦である生老病死に対応する術である。これは制度化せずとも自然発生し民間に深く入り込み庶民を助けてきた。しかし経験主義による技術は危険なものや法外な料金を取る悪徳者もあり、国家制度として監視下に置かれ人々に寄与している。医療が身近にあって必要なとき適切に受けられることの恩恵はコロナ禍において改めてありがたいことと認識される。これは歴史的に希有のことなのだ。

 

 生死如是病苦また如是花が咲く

松本たかし

俳句とからだ 170号 俳句と原始感覚

 連載俳句と“からだ” 170

 

愛知 三島広志

 

俳句と原始感覚

 新型コロナウイルスのため仕事が消滅した時期があった。読書でもしようと書物を渉猟していたとき宮坂静生(敬称略以下同)に『俳句原始感覚』(本阿弥書店)という著書があると知り取り寄せた。原始感覚という言葉に惹かれたのだ。何故ならそれは私の仕事である指圧の用語でもあるだからだ。恩師増永静人の著書『経絡と指圧』(医道の日本社)には原始感覚とは外部の対象を判別知覚する判別性感覚に対して「生体内部の状態を受容する運動・平衡(位置)・有機(深部覚)などの感覚、(中略)この感覚は生体の基本的生命活動と結びついていて(以下略))とある。眼や指先で感じ取る緻密な判別性感覚では無く、内臓感覚のように知的処理されない漠然とした感覚なのだ。

宮坂の著書では原始感覚を「宇宙的自然が開発という美名のもとに破壊され、人間精神のうちなる自然(原始感覚といいたい)が荒らされること、今日以上なるはないと思われる」(「山林的人間」・永田耕衣)と耕衣の言葉で説明している。また宮坂は同書のあとがきで「米を作り牛馬を飼育する定住生活者(弥生文化)の安定した論理や感覚では無く、もっと遡った狩猟採集時代の移住生活(縄文文化)がもっていた原始感覚を身につけなければいけない」と書いている。

原始感覚とは知的に明確に判別できるものではなくいのちを直観する感覚なのだ。私は増永静人にこれは西田幾多郎の純粋経験ではないかと尋ねたことがある。師の「自分の師匠の師匠は西田だよ」とニヤリとした笑顔を今でも覚えている。

編著『季題入門』(有斐閣新書)第七章「季題の歴史」に山下一海は季語・季題を「古くは季の詞、四季の詞、季の題あるいは単に季といった。『季題』の語は明治四十年ごろ河東碧梧桐らが用いだしたといわれ『季語』の語は明治四十一年に大須賀乙字が用いたのが最初」と記している。宮坂は『季語の誕生』(岩波新書)で「雪が冬の季題として決められていく。それは冬と季節を限定されることで安定したイメージを獲得すると同時に、失うものも多いことを思わせるのである。季題の成立は私的幻想を失い、新たに共同幻想を獲得することばの危うさに立っていたのである」と言葉の固定観念化や共同幻想化への危惧を述べている。

宮坂は同じ『季語の誕生』で江戸期は心が身体を縛る時代と書いている。芭蕉の敬慕した平安時代の西行が身と心の分裂を正直に告白した歌として「吉野山梢の花を見し日より心は身にもそはず成にき」を上げ、芭蕉はそのため「日々旅にして、旅を栖とす」る旅寝を重ねることで心からからだを解放したのだと言う。解放された純粋な感覚こそが原始感覚であろう。

黒田杏子の説く「季語の現場」とは季語という言語と向き合うだけでなく、季物と無心に純粋に対峙した我が身中に湧き上がる縄文的血潮を原始感覚でそのまま感じ取ることだ。黒田はそれを地霊といい、宮坂は地貌と呼ぶ。それはその地に刻み込まれた景物と人とのカオスなのだ。

俳句とからだ 169号 石鼎の闇

 連載俳句と“からだ” 169

 

愛知 三島広志

 

石鼎の闇

 宇宙の写真を眺めるのが好きだ。闇に白く輝く天体。地球もまた闇の中で太陽に照らされ青白く輝いている。外に出て宇宙を見上げると星が様々な色で瞬いている。星には光りの玉として自ら輝く恒星と太陽に照らされた惑星がある。

この夏はことさら暑く、散歩は日が沈んでから出掛けた。今年は土星と木星が大接近する年なので見上げると夜散歩の目を楽しませてくれた。近くに月も見える。そして改めて宇宙は闇であると実感した。名古屋市内でも里山へ行くと木々が高層ビルの光を遮るので漆黒の空が見える。夜目に馴染むと多くの星座が浮き上がる。郊外へ出ればなおさらだ。

 

山国の暗(やみ)すさまじや猫の恋

原石鼎

 

しかしここ何年も本当の闇を観ることがない。半世紀以上前、祖父母の家を訪れるとそこには江戸時代とさして変わらないであろう闇があった。駅から鼻の突き出た旧式のバスに乗る。バスは山道をうんうん唸りながらのろのろと登る。バス停を降り、バスが去ると真の闇が生まれる。道も路傍の草も空より暗い。街灯のない道を星明かりで探るように歩き出す。道の遙か向こうから「谷家」と描かれた提灯が近づいてくる。祖父が声を掛けてくる。蝋燭の揺れる灯りで足下を照らしながら尾根道に出ると谷の所々に民家の灯がささやかに点っている。何しろ隣家まで数百メートル離れた山村だ。白く光るのは農業用溜池。遠く瀬戸内海も光りを放ち、空には銀河が尾を為す。空は明るいのだが足下は暗黒で慣れない山道には難渋する。

 

山国の闇恐ろしき追儺かな  同

 

 「あそこに森があるじゃろ。あの下の畑に猪が出て芋を食うてしもうて困っとるんよ。上手に掘り起こすけんのう」孫達を驚かすように些か大仰な祖父の語りだ。目を凝らして見つめると畑は仄白く浮かび上がる。「この前は鼬が鶏小屋を狙っとったんじゃ」と続ける。尾根から細い谷道を下ると右手に鶏小屋と納屋、左手に母屋と蔵が浮き上がる。鶏小屋には月明りを反射して鼬を脅すため鮑の殻がぶら下げてある。柵の根元には鼬の掘った穴。

 

淋しさにまた銅鑼打つや鹿火屋守 同

 

 原石鼎(1889〜1951)が1912年(明治45年)7月から1913年(大正2年)10月まで過ごした深吉野は石鼎俳句開眼の地と言われるが、その闇の深さは掲句通り凄まじい恐ろしさを湛えていたことだろう。なにしろ私の子ども時代の闇の記憶からさらに半世紀以上遡った深吉野だ。その真の闇の奥から響く恋猫の声、節分の寒極まる闇に発せられる追儺の声、山の中の鹿火屋の淋しさを紛らわす鐘の音。光りの無い世界に確かなものは音声なのだ。

 

 月の猪祖父の語りの大仰に  広志

俳句とからだ 168号 なつはづき句集『ぴったりの箱』

 連載俳句と“からだ” 168

 

愛知 三島広志

 

なつはづき句集『ぴったりの箱』

なつはづきは第36回現代俳句新人賞と第5回摂津幸彦記念賞準賞を受賞した注目の作家だ。後進の指導や主宰する句会を通じて積極的に俳壇と関わっている。

 

はつなつや肺は小さな森であり

身体から風が離れて秋の蝶

 

これらの句に代表される身体感覚を精緻に表現する作家として知られている。表記は口語体で俳句の伝統的言語である歴史的仮名遣いとは一線を画している。これは言葉の背負う歴史的な色合いを消すためだろう。

 

ぴったりの箱が見つかる麦の秋

 

句集名の由来となった句だ。作者はあとがきで「ぴったりは心地よくもあるし、窮屈でもあります。この矛盾する感覚がとても大事」と書いている。この言葉と句集を通読した印象から「矛盾」が句集のキーワードであると感じた。

 

タイトルになった箱とは何であろうか。箱は物を収める器だ。比喩的に考えると結界である。外の世界から内部を隔絶する。外部から内部を守る場合もあれば、閉じ込めて自由を束縛する場合もある。それが箱という存在あるいは概念そのものに潜む矛盾だ。

 

啓蟄や海が空まで溶け出して

菜の花やこの先にある分かれ道

 

 物質や時間から何かが拡大延長していく。海が結界を越えて空まで溶け出し拡がる。海と空が混然と解け合うところに新しい世界が生まれる。しかし同時に海も空もすでにそれらの性質は失っている。これが矛盾だ。今ここという時空間の先にある分かれ道は拓かれた未来だが、そこには今もここも無くなっている。しかも待っているのは分かれ道という不安な選択だ。これは明るい菜の花に内包される仄暗い矛盾であろうか。ものごとは常にこうして相反する矛盾の中に存在している。

 

春昼を淡く濁して筆洗う

今日を生き今日のかたちのマスク取る

 

筆を洗えば水が濁る。こうした質的転換も矛盾の特性である。私達は安定した日々とその中に潜む生々流転の矛盾の中に生きている。今日を生ききったマスクは今日一日の形状を記憶している。如何なる表情をしているのだろうか。明日は今日の延長かそれとも否定か。脱いだマスクとマスクから現れた顔に興味が尽きない。

 

以下の句にも惹かれた。

 

やわらかい言葉から病む濃紫陽花

冬いっぽん言葉の端に立てておく

毛糸編む噓つく指はどの指か

句集『式日』安里琉太を読む

連載俳句と“からだ” 167

 

愛知 三島広志

 

句集『式日』安里琉太を読む

 『式日』(左右社)は新鋭安里琉太(1994年生)の第一句集である。名前から想像できるように沖縄県出身で、俳句甲子園全国大会に出たことがあるという。句集全体の印象は構成が緻密で、静謐ながらもかなり挑戦的である。栞や章立てなど句歴十年の若い才能の仄めきを充分に知らしめる句集となっている。表紙に書かれた「到来し、/触発する/言葉。//書くことは、/書けなさから始まっていると、/今、強く思う。」は安里の書くことへの認識の深さを示して共感できる。書く対象は内在するが言葉は彼方から到来するのだ。両者の幸福な出会いが一句に結実する。

読み進めていくと「瓶」や「枯・涸」といった謎のキーワードに引っ掛かる。否、引っ掛けられて立ち止まる。

 

並べたる瓶に南風の鳴り通し

空瓶は蜥蜴を入れてより鳴らず

初雪が全ての瓶に映りこむ

コスモスの中の蛇口が枯れてゐる

式日や実柘榴に日の枯れてをる

涸るる沼見てをれば背を思ひだす

 

どの句も写実の顔を見せているようだが実は一筋縄では読めない。句がメタファーとして立っているからだ。瓶、南風、蜥蜴、初雪、コスモス、蛇口、式日、実柘榴、沼、背、涸れ。これらの言葉が重層な意味を含みつつ胸を抉ってくる。言葉達が共闘してこちらに訴えてくる。

 

 集中、先人へのオマージュも多く見られた。そこまでやるかとにやりとさせられる。

 

 あをぞらのさみしさにふる種袋

 しづけさに五月のペンは鳥を書く

 ひかり野に蝶が余つてゐるといふ

饑ゑつくす蛇の眠りはみづのやう

たそがれの雲間の凧をふと見たり

 

それぞれ原石鼎、寺山修司、折笠美秋、赤尾兜子、高浜虚子が顔を出す。ここにも作者の強かさを垣間見ることが可能だ。俳句の歴史を負うという決意の現れか。いずれも模倣や剽窃ではなく、本歌取りでもなく、先人の精神をなぞろうとしているようだ。伝統とはまさに先人の誠に迫り、かつ後輩へ繋ぐ努力をすることだ。安里の句は先人の句をなぞりつつその深奥に触れ、己の句として再構築していると思える。

 

岸本尚毅の文体に似た句を幾つか掲載しているが、これらもその一環であり先人への畏敬と挑戦と思われる。

 

ひいふつとゆふまぐれくる氷かな

なつかしき雨を見てをる麦茶かな

 

著名な岸本の「手をつけて海のつめたき桜かな」を彷彿とさせる。中七から下五への流れが繋がりつつ寸断されているのだ。以下の句も感性も素晴らしい。

 

摘草やいづれも濡れて陸の貝

永き日の椅子ありあまる中にをり