2023/01/21

寒中お見舞い申し上げます。

 

寒中お見舞い申し上げます。

 

元旦で69歳になりました。旧暦で勘定すると古稀になります。それでも仕事がいただけているので頑張って続けていきます。

俳句も落ち着いて深めていきたいものです。

三島広志

 

 

 

この写真は昨年のクリスマス。寝る前には何の気配も無かったのですが起床したら驚愕の積雪でした。珍しいので写真に収めました。場所はオフィス三島のバルコニーです。シマトネリコが寒そうですね。








 

 

初詣は近くの高牟神社。物部氏と関わりのある古いお宮です。昼間は大勢の人が参詣するので深夜に行きました。

 

2022/08/25

俳句とからだ 190 人にはどれほどの土地がいるか

 

連載 俳句と“からだ” 190

 

三島広志(愛知県)

 

人にはどれほどの土地がいるか

 

 2022224日、ロシア軍がウクライナに侵攻した。614日現在、戦火が世界に拡大する懸念を抱えたまま戦争状態が続いている。両国の歴史的経緯には詳しくないが、今の時代に武力による侵攻が易々と行われたことに驚きと怒りを禁じ得ない。

 

侵攻を機会にウクライナ民話『てぶくろ』やロシア民話『おおきなかぶ』が読まれているという。『てぶくろ』は森の中に落ちていた手袋にネズミやキツネ、オオカミやクマなど七匹の動物が仲良く入る物語。『おおきなかぶ』は巨大に育ったカブをおじいさん、おばあさん、孫娘、イヌ、ネコ、ネズミまでが協力して収穫する話だ。どちらも仲良く暮らし、助け合う物語である。ネット上にはこれらの素晴らしい民話を生んだ国同士が争うという現実に悲しみ、平和を願う声が溢れている。

 

生きかはり死にかはりして打つ田かな            

村上鬼城

 

 これらは古くから伝承されていた民話だが、ロシアの文豪レフ・トルストイ(18281910)1881年から86年にかけて民話形式の教訓的短編を書いている。今回の侵攻で思い出したのが『人にはどれほどの土地がいるか』(1886)である。『トルストイ民話集 イワンのばか』(岩波文庫)の中に納められている。翻訳は中村白葉(18901974)

 

教科書で学ぶ世界史も日本史もほとんど戦争の歴史である。戦争とは主に国家が軍事力を行使して他国に対し政治的目的を達成しようとする野蛮な行為である。多くは領地を奪おうとするものだ。トルストイの民話はその愚かさを農民が土地に執着する寓話で示している。

 

 農夫パホームは土地さえあれば幸福に暮らせると信じていた。ある時悪魔が化けた旅人に日の出から日没までに一周出来たらその土地が貰えるという魅力的な話を聞く。彼はその地に出向き、より大きな土地を手に入れようと必死で歩き、ついに広大な土地を手にする。しかしその途端、無理が祟って息絶えてしまう。民話は以下の文章で終わる。

「下男は土掘りをとりあげて――頭から足がはいるように――きっかり三アルシンだけ、パホームのために墓穴を掘った、そして彼をそこに埋めた」

 

これが自己完成を山上の垂訓を元とした原始キリスト教的世界観に求め、民衆のために国やロシア正教と闘った偉大なるトルストイの「人にはどれほどの土地がいるか」の答えであった。

 

あやまちはくりかへします秋の暮

三橋敏雄

俳句とからだ 189 表語文字と表音文字

 

連載 俳句と“からだ” 189

 

三島広志(愛知県)

 

表語文字と表音文字

 

 先月号に諸葛菜のことを書き、同時にたくさんの植物名を上げた。諸葛菜以外の植物名はカタカナで表記した。それには理由がある。NHK放送文化研究所のホームページ「放送現場の疑問・視聴者の疑問」に次のように書かれている。

 

Q 動物や植物の名を、カタカナ ひらがな 漢字と色々書いていますが、その基準はどうなっているのでしょうか。

 

A 動物や植物(含む野菜)を表す漢字が常用漢字表にあれば漢字。なければひらがなで書きます。学術的な場合は、カタカナで書きます。

 

ここに書かれているように学術的名称にはカタカナ表記が一般化している。とはいえ、法律で定められたわけでもないので、必ずカタカナで書かなくてはならないというわけでもない。カタカナ、漢字、ひらがなの使い分けは出版社や編集方針にもよるらしい。それならば諸葛菜と漢字で書いてもよいはずだ。むしろ文学の世界なら古くからのイメージを持つ漢字は表現を豊かにするだろう。

 

 かげろふと字にかくやうにかげろへる

富安風生

 

学術的に植物名はカタカナ表記でという決まりであったとしても、カタカナではその名の由来が伝わらないため漢字で書きたいこともある。諸葛孔明に由来する諸葛菜もショカツサイではその背景が伝わらない。試みに先月書いた植物名をカタカナと漢字で表記してみよう。ナガミヒナゲシ(長実雛罌粟)、オオイヌノフグリ(大犬の陰嚢)、スミレ()、セイヨウタンポポ(西洋蒲公英)、マツバウンラン(松葉海蘭)となる。漢字で表記するとカタカナと異なり意味が明瞭になる。カタカナは表音文字なので一字では音声を表すだけだ。それに対して漢字は表語文字(表音文字と表意文字を兼ねる)だから一字で意味と音声を示すことが可能となる。表意文字は一字でイメージを呼び起こす。ナガミヒナゲシは長実雛罌粟と表記することで長い実を付ける雛のように可愛い罌粟の花であると理解できる。

 

 文字には表音文字(phonogram)と表意文字(ideogram)があることは知られている。我が国の文字は中国の漢字を輸入したものだが、それを簡略化して片仮名が作られ、崩して平仮名が発生した。現代の日本語はこれら三つの表記に加えて表音文字であるアルファベットを混在させている。漢字は表意文字とされるが正しくは表音文字でもあり、その両者を併せ持つ表記を表語文字(logogram)と呼ぶ。日本語はこれらの表記を使い分けることで豊かな表現が可能となっている。

 

 皹といふいたさうな言葉かな

富安風生

俳句とからだ 188 諸葛菜

 

連載 俳句と“からだ” 188

 

三島広志(愛知県)

 

諸葛菜

 初夏になると路傍の草が開花し街を楽しませてくれる。仕事場へ行く途上、ナガミヒナゲシやオオイヌノフグリ、スミレ、セイヨウタンポポ、マツバウンランなどの草を目にする。お気に入りは諸葛菜。姿が大根の花や菜の花に似ており紫の花を咲かせる。同じアブラナ科だ。

 

諸葛菜は春の季語である。但し、手持ちの講談社日本大歳時記と新版角川俳句大歳時記、成星出版の現代歳時記には掲載されているが、平凡社の俳句歳時記や河出書房新社の新歳時記には採用されていない。角川大歳時記には以下のように書かれている。

 

諸葛菜 むらさきはなな おほあらせいとう 菲息菜 花大根

解説 アブラナ科の一年草。江戸時代に中国から渡来した。(後略)

 諸葛菜咲き伏したるに又風雨 

水原秋桜子『餘生』

 諸葛菜人に委ねし死後のこと 

福田葉子『夢幻航海』

 

 ところが諸葛菜は国立開発法人国立環境研究所の「侵入生物データベース」によると侵入生物となる。侵入生物とは「人間によって自然分布域以外の地域に移動させられた生物」と定義づけられる。諸葛菜の影響は「在来種との競合.スジグロシロチョウの分布拡大に寄与」するそうだ。植物だけで無く食草とする昆虫にも影響を与える。従って勝手に栽培してはいけないこととなる。実は先のナガミヒナゲシ、オオイヌノフグリ、セイヨウタンポポ、マツバウンランはどれも侵入生物である。現代は物流が海を越えて頻繁に行われるので侵入は避けられない。しかし、実は既に日本の景色として馴染んでいる植物は多い。

 

 諸葛菜は歳時記に書かれているように原産地が中国で江戸時代に渡来した。目的は観賞と食用油を採取するためと言われる。戦時中は食用として拡散されたという記録もある。ここで疑問に思うのはその名前である。精選版日本国語大辞典には「三国時代の諸葛孔明にちなむ」とあるがそれ以上の説明は無い。ネットを渉猟していたら龍谷大学経済学部竹内真彦教授(中国古典小説研究会会長・三国志学会評議員)が丁寧に調べられた「諸葛孔明は諸葛菜を本当に植えたのか?」に当たった。それによると日本人が広く諸葛菜を知ったのは吉川英治の『三国志』(篇外余録)のようである。諸葛孔明は移動するとそこに蔓蕪(諸葛菜)を栽培して食の確保をした。中国の諸葛菜は蕪の一種であり、日本でも混同されている。しかし教授は詳細に原典を紐解いていく。その結果はぜひ紹介した文章を読んで頂きたい。知識と同時に学びの醍醐味が伝わる文章である。

 

 病室にむらさき充てり諸葛菜

石田波郷

 

 

俳句とからだ 187 平井照敏編『新歳時記』

 

連載 俳句と“からだ” 187

 

三島広志(愛知県)

 

平井照敏編『新歳時記』

20219月、河出書房新社から平井照敏編『新歳時記』(全五巻)が復刊された。既に1989年発行の文庫版全五冊を所有しているが紙が劣化し読み難いので新版全五冊を買い揃えた。この歳時記は好評で初版の後、改訂版(1996)、復刻版(2015)と発行、今回は軽装版初版となる。

 

平井照敏(19312003)は加藤楸邨門の俳人であると同時にフランス文学、特に詩の研究者としても知られる。俳句結社「槙」を主宰し、私も20代後半に短い期間だが会員として参加した。また国文学誌に掲載されていた平井と草間時彦の対談で、期待される新人として黒田杏子という存在を知った。

 

藍の布ひろがりひろがり秋の風 照敏

 

俳句を志す者は歳時記を手にする。歳時記の名称は中国南方荊楚地方(長江中流域)の生活暦『荊楚歳時記』(西暦500年代)が嚆矢とされる。日本では十世紀以降、詩歌の暦として少しずつ拡充整備されたという。初めて書名に歳時記と謳ったのは『誹諧歳時記』(1804)だが、生活歴と季寄をまとめたもので現在の歳時記とは異なる。今日の歳時記の体裁は高浜虚子が『新歳時記』によって完成させた。(『俳文学大辞典』歳時記の項、角川書店等参照)。

 

 現在書架には数種類の歳時記がある。全五巻の百科事典的歳時記を一冊にまとめたものや、季節毎に分冊されたもの。カラー写真で愉しく眺める歳時記もある。さらにスマートフォンのアプリとして『合本俳句歳時記』(角川書店)があり、現実に最も利用しているのはこれである。

 

 平井編の歳時記に戻ろう。この本の特徴は三つある。一つは平井照敏一人で編著をしていることである。多くの歳時記はその情報量から大勢の書き手が担当しそれを複数の編集者が体裁を統一している。過去にも高浜虚子や山本健吉、中村汀女、村山古郷などが単独で編集しているが、平井の歳時記が最新であろう。二つ目は季題の本意に関して古典を紐解き詳細に解説している点だ。長い年月を費やして季語が深められてきたことが理解できる。そして三つ目は本意を最も表していると編者が考える句に*印を付けていることだ。

 

これらの新しい試みにより普遍的歳時記と言うよりも平井照敏にとっての季語宇宙が編まれることとなった。例えば冬の項は解説の前半で気象学的解説、後半の本意解説では『古今集』の歌、そして本意をもっとも特徴付ける句として「中年や独語おどろく冬の坂 西東三鬼」としている。これを肯うか否定するか、著者と問答しながら読むという読み物としての良さがある。

 

 いつの日も冬野の真中帰りくる 照敏

俳句とからだ 186 西川火尖句集『サーチライト』

 

連載 俳句と“からだ” 186

 

三島広志(愛知県)

 

西川火尖句集『サーチライト』

西川火尖の第一句集『サーチライト』(文學の森、2021)2006年からの277句を収めている。西川は1984年京都市生まれで「炎環」(石寒太主宰)所属。 詩歌俳同人「Qai(2018)結成、「子連れ句会」運営など精力的に活動している。受賞歴に「炎環みらい賞」「北斗賞」がある。句集名のサーチライトは探照灯のことで一方向に強い光を照射し遠くの敵などを捜索する光源だ。句集全体をサーチライトが照射し、あたかも作品の読み方を誘っているようなタイトルだ。

 

句集は「四隅」「波」「粒」「光」の四章から成り、いずれも光を連想させる。章立ての前に一句

 

映写機の位置確かむる枯野かな

 

が置かれ、句集のテーマを明示している。映写機も闇に光を照射する。枯野で映写機の位置を確かめる行為は示唆的である。西川は映写機の位置を確かめる表の句意と同時に、自分の置かれている存在の深層を模索する自覚存在を目指しているのではないか。自覚存在とは「人間が自分の存在を問題にし、自己を失っているような状態から脱して、真に自己であろうと努力するあり方をいう」(日本国語大辞典)

 

元来俳句は短さ故に作品が作者の意図しないメタファやシンボルになっている。自分も含めて凡庸な俳人はその点をあまり意識しないで作句しているが、西川は意図的に創作しているのではないか。その志向こそがサーチライトなのだろう。

 

枯園の四隅投光器が定む

陽炎へるまで試聴器を再生す

 

投光器や試聴器を通して、今、此処を明確にしようとする。即刻眼前である。しかし、西川の抱く存在への漠然とした不安は否定できない。

 

本当に薄羽蜉蝣なのですか

目隠しの布を引かれて青き踏む

非正規は非正規父となる冬も

 

現実の不安が「なのですか」という疑問形や、「目隠し」「非正規」などの言葉で表現されている。

 

未来明るし未来明るし葱洗ふ

どうしても影の整ふ雛かな

 

「明るし」の反復が却って不安を煽り、整然と並べられた雛のどうしても整ってしまう影に存在のもつ本質的な不安が詠まれている。

 

 堅苦しい読みばかりしてきたが「子連れ句会」を運営する西川らしく句集には子どもを詠んだ句を多く掲載している。その中から一句。

 

吾子褒める雪降る前に目一杯

俳句とからだ 184 岩淵喜代子著『二冊の「鹿火屋」』

 

連載 俳句と“からだ” 184

 

三島広志(愛知県)

 

岩淵喜代子著『二冊の「鹿火屋」』

原石鼎(18861951)は35歳のとき結社誌「鹿火屋」を発行する。譲渡された数誌を併合して誌名を変更したものだ。誌名は1914年の作「淋しさに又銅鑼打つや鹿火屋守」に因る。37歳で関東大震災(1923)に遭遇し以後65歳で亡くなるまで神経衰弱に苦しむ。発病後は妻のコウ子が結社の維持に努め、1974年、養子の原裕に継承、現在も原家が主宰している。

表題の書は俳句結社「鹿火屋」で原裕に師事し、現在は同人誌「ににん」代表の岩淵喜代子が著したものだ。岩淵は石鼎と神との関わりを研究している最中、少なくとも二冊の石鼎の為だけに発行された「鹿火屋」を入手する。神との関わりを調べていた理由は石鼎出身地島根では幼い頃から出雲神楽に馴染んでいると『石鼎窟夜話』に書かれていることと、石鼎が精神を病む過程で神を身近に感じていたのではないかと考えられることからである。

 

では何故石鼎のためだけに「鹿火屋」が発行されたのか。そこにメスを入れたのがこの本である。

「頂上や殊に野菊の吹かれ居り」は石鼎にとって特別の句である。作品舞台の鳥見山が偶然神武天皇の斎場であったからだ。この霊畤こそ石鼎のスピリチュアルな体質を示している。

 関東大震災のあと精神を病んだ石鼎は治療による薬物中毒に苦しむようになり、1940年(昭和15年)から41年にかけて精神病院に入院する。入院中、岩淵によると「天上界を行き来していたような」句を詠んでいるという。

また、偶然、新居の地名が倭建命が弟橘媛命を偲ぶ「吾妻」であったので一層神を身近に感じたのであろう。石鼎の創作意欲が極めて旺盛であったという。「鹿火屋」編集部はその量に困惑して石鼎用の「鹿火屋」を印刷したのではないかと推察される。何故なら現存が確認できているのは1941年(昭和16年)10月号と翌421月号であるが10月号の表紙裏には手書きで「この雑誌は病中の石鼎先生にみせるために特別に造本したもので、一般に頒布したものとはちがうものである 一男記」と書かれているからだ。一男は口語俳句の市川一男だ。

量的問題だけでは無い。岩淵は石鼎用「鹿火屋」には「外国語の詩が載り、自らの記名の上に神の称号を与えている。当時の軍事国家では忌々しい事態なのである」と推測している。43年(昭和18年)には軍による俳誌の統合が始まっている。おそらく石鼎と「鹿火屋」を統制から守るためと、同時に石鼎の矜恃を保つための二冊の「鹿火屋」なのだ。

一人の天才とそれを取り巻く人々。更にそこに忍び寄る軍靴の音。こうした状況がたったひとりの為に本を作って魂を救済していたのだ。震災や戦争。これらは常に人類が背後に背負っている問題である。二冊の「鹿火屋」は自然と戦争に翻弄された記録としても貴重である。