2019/08/24

名古屋弁 えらい

仕事でお世話になっているナーシングホームにネパールから働きに来ている優秀な女性がいます。
日本語が相当に堪能です。しかし、名古屋弁にはやや苦戦。

入居者Aさん「今日、出かけたらえらい人だったよ(名古屋弁ではえらい人は大勢の人の意味)」
ネパールBさん「偉い人がいたのですか?  どんな人?」
ここで話が食い違ってきます。
私が話に加わります。
「Bさん、えらいの意味は分かりますね?」
「はい、偉い人か疲れた人(名古屋では疲れることもえらいと言います)」
Aさんが言っている「えらい人」はものすごく大勢の人という意味だと説明すると驚いていました。

近い将来、介護業界は破綻しかねないほど現場の人が足りません。
それを行政では外国人で賄おうとしています。
しかし、英語のできるフィリピンやインドネシアの人は英語圏のオーストラリアやイギリスに行ってしまいます。
今、日本に大勢来て仕事をして下さっているのはベトナム人とネパール人。
特に一番多いベトナム人は英語が得意ではありません。
来日しているベトナム人はもとより指導する日本人も言語の問題で苦労しています。

今日の話題のようなことであれば笑って済ませますが、命に関わる問題の時は切実です。
日本人ワーカー、来日ワーカー、利用者、経営者。皆さんの努力で介護を崩壊させないよう工夫したいものです。


2019/08/12

鈴木牛後句集『にれかめる』










句友、鈴木牛後さんから句集をいただきました。
内容に負けない見事な想定です。

牛後さんは昨年、俳壇への登竜門として知られる角川俳句賞を受賞され、一躍時の人となりました。その活躍は「天声人語」でも取り上げられました。

そのご献本に感謝し、先だって所属結社誌『藍生』に書いた文章を転載いたします。


連載俳句と“からだ” 153

愛知 三島広志

牛後 純粋経験と描出
 鈴木牛後さんが2018年第64回角川俳句賞を受賞された。北海道の広大な土地で酪農を営む牛飼い俳人の活躍は俳壇を超えて大きな反響を巻き起こした。大手全国紙も一面のコラムで取り上げ牛後さんの存在を広く知らしめた。タイミング良くNHKの朝のドラマも北海道の酪農一家が舞台で、その光景が映し出される度に牛後さんを思い起こすのは筆者だけではあるまい。

かげろふに濡れて仔牛の生まれ来る

彼の俳句は上手いだけでなく読み手に強く訴えてくる。北海道の大自然と牛、一般に体験することのない酪農という生業が、俳句として言語化され読み手の身体に共鳴し、あたかも一緒に体験しているかのように感じられる。
 広大な土地で牛の世話をして暮らしている彼にすれば、遠景の陽炎と眼前の仔牛は日常の一コマであろうが、距離的対比として技巧的である。しかし、技巧を超えて内在する詩的表現があればこそ、読み手も共に「生まれ来る」仔牛を待ち望み祝福することができる。

牛死せり片眼は蒲公英に触れて

 牛後俳句の魅力は彼と対象の関係が直接であり、言葉が作為的でないことだろうか。「純粋経験」という概念がある。西田幾多郎は『善の研究』において「純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇なる者である」としている。  
牛の死もまた彼には日常の一部であろう。その「見る主観もなければ見らるる客観もない」純粋経験のありようが示され、詩は精巧な言葉として豊かに顕現する。事象の純粋経験を言語的に描出することが、牛後俳句の本質と思われる。

歴史には空白のある根雪かな

無論彼を稀有な環境にある秀逸な才能として只管称揚して私自身を満足させることは戒めなければならない。「角川俳句賞受賞のことば」において、北海道を襲った大地震後の長い停電によって「頭のなかのかなりの部分を占めていた俳句がやすやすと追い出され」たと吐露し「俳句と生活が私のなかで不可分に結びついているなどとは軽々しく言えないということを、私に知らしめることとなった」と述べている。  
彼は実に冷静に自身を俯瞰している。自分と俳句の関係、同時に読者が彼に何を期待しているのかをも。

満月を眼差し太き牛とゐる
(文中の句は全て鈴木牛後作)

2019/07/31

やまぼうし


 久しぶりに守山のそば処やまぼうしさんへ。

この頃大人気のおそば屋さん。

浮世絵は木曾街道の守山宿。
滋賀県の守山です。

やまぼうしさんは名古屋の守山にあります。

2019/07/30

オアシス

炎天下。
灼ける街を銀輪で通り掛かって見つけた蓮の花。
実は毎年楽しみにしています。
知らない方の玄関先で弾けます。