2024/02/28

追伸 ご恵贈

 



今池の大先輩三嶋さんからご恵贈。硬派な評論集。第17号です。

俳句を詠む身としては柴田白葉女を論じた文章が興味深かったです。柴田さんを襲った悲惨な事件は衝撃的なニュースでした。しかも私は表題になっている水鳥の句はことに大好きな俳句です。

2023/11/15

恩師増永静人の言葉

恩師増永静人の言葉

 「健康を云々する人間が病気になるのは情けないと思うだろう。しかし、僕だって病気をし、年を取り、死んでいく。だからこそ治療ができる。考えてみなさい。もし僕が病気もせず、年も取らず、死なない鋼鉄のような人間だとして、そんな人間に治療ができるだろうか。そんな鋼鉄みたいな人間に治療してもらって病人はうれしいだろうか。患者は不死身で頑健な理想的な健康体を期待するだろうが、それでは病人に真に共感することはできない。そこからは死や老いが見えてこない。自分自身、いつ病気になり、死ぬか分からない脆弱な存在だからこそ、ここまで真剣に医療について考えてきたんだ。指圧という民間療法を医療の視点で再構築して医療の一端を担うものとして、思想的には医療の根本を為すものとして研究してきたのだ。僕だって病気になる。窮す。でも僕は孔子の言うように乱れたりはしたくない」

2023/11/09

俳句と“からだ” 200 まなざし(黒田杏子先生追悼) 

 藍生俳句会の月刊俳句誌『藍生』に連載した「俳句とからだ」。丁度200回で終了した。これは黒田杏子先生の逝去によって藍生俳句会が幕を閉じたからだ。

黒田杏子先生にはたくさん書く機会を頂いた。ただ感謝するのみである。数日前、藍生俳句会の事務局から完全に会が終了する旨の連絡があった。黒田杏子先生の生涯のパートナーで写真家の黒田勝雄氏のご挨拶も同封されていた。この文章は「俳句とからだ」というタイトルにもっも相応しい内容になったと思っている。
今後会員はそれぞれの俳句の径に散っていく。
黒田杏子先生、運営に携わったスタッフの皆さん、藍生の会友、ありがとうございました。


花は咲き、花は散り、季節は一気に過ぎ去った。その間に黒田杏子先生も逝かれてしまった。山梨県で講演をされた翌日。巡礼者として生涯を全うされた。

 

みな過ぎて鈴の奥より花のこゑ 杏子

 

大きな喪失感を埋め合わせるため俳句を詠んだ。多くは桜と黒田先生に関係のある句となった。ところが推敲しようと読み返しているときあることに気づいた。俳句を詠むとき自分のまなざしだけで無く、同時に常に黒田先生のまなざしにも包まれていたのだ。勿論我々はあらゆるとき、自分と他者のまなざしを共有して物事を見ていることは知っている。大人とは、社会人とはそうあるべきである。実生活において自分の行動を相対化し、俯瞰して律することこそ道徳的に成長した人間である。

 

花を待つひとのひとりとなりて冷ゆ

杏子

 

実生活から離れた俳句などの創作においても鑑賞者を思いながら普遍的表現と独創的表現の狭間を模索する。それは自分の個性をどのように表現するかという作家的意識だ。そのことは十分理解していた。しかしそこに黒田先生のまなざしが常に自分を支えるように存在していたことに師を失ってから気づいたのである。

 

花巡る一生のわれをなつかしみ 杏子

 

黒田先生との縁はおよそ四十年前に遡る。今は無き牧羊社から刊行されていた総合誌『俳句とエッセイ』が若者向けに始めた雑詠欄「牧鮮集」の選者と投句者の関係だ。その後その関係は黒田先生創刊の「藍生」に移り、三十年以上継続した。その間、師弟関係は存在するのが当たり前のこととして無意識化されていた。

自分が俳句を詠むとき、読み手としての黒田先生のまなざしが無意識の下で影響していたのだ。自作の良し悪しを自分で判断するときも常に黒田先生のまなざしが方向を示して下さっていたのだった。

 

黒田先生亡き後、このまなざしはどうなるのだろうか。おそらく黒田先生のまなざしはこれからも変わらずに自分の脳裏で作品を照射することだろう。年月を重ねるうちに師のまなざしはすっかり身体化しているからだ。

 

黒田杏子先生。長い間大変お世話になりました。ありがとうございます。師恩の本当の深さや広さは未だ見えておりません。しかし、これからも我が句作の指針としてお導きください。身体化した黒田先生のまなざしは今後も圧倒的な力で私を指導し続けることでしょう。私はそれをさらに深く学び直します。これこそ師恩に報いることに違いありません。

 

花に問へ奥千本の花に問へ 杏子

俳句と“からだ” 199 歳時記 鮓 

 


俳句初学の頃、先輩から「馬手に歳時記、弓手に字引」と教えられた。ともかく小まめに歳時記と向き合い、辞書を引けという指導だ。

 

比較文学研究者前島志保氏の書評によると、東聖子・藤原マリ子編『国際歳時記における比較研究――浮遊する四季のことば』(笠間書院2011)において、歳時記には「①一年中の季節に応じた祭事、行事、自然現象など百般についての解説を記した書。②誹諧で、季語を四季順に整理、分類して解説した書物。季寄」の二種類があるとされている。また同書中の東聖子「『増山井』における詩的世界認識の方法」では、なぜ北村季吟・湖春親子の『増山井』が現代の歳時記スタンダードとなったのかについて論じられる。季吟が刊行した『山の井』が初めての独立した季寄せであり、「現代の歳時記の形式そのものである」として、「季吟が新文学の誹諧における〈俳言〉の重要性を認識していたことがわかる」と述べられている。中国と朝鮮半島には「①の意味での歳時記のみが存在している」ともある。

 

鮒鮓や三たび水打つ石暮れて

水原秋桜子

 

『俳文学大辞典』(角川書店)の「歳時記」の項に「歳時記の名称は本来、中国の『四民月令』『荊楚歳時記』など行事歴・生活歴に関する書」と書かれ、「詩歌の暦としての歳時記の先蹤としては、十世紀後半に成った『古今六帖』の歳時部が挙げられる」とある。俳句を作るとき参照するのは②に分類される歳時記であり、これは明確に「俳句歳時記」と称するべきではないだろうか。

 

 今月の季語は「鮓」を取り上げる。鮓は通年の食物だが季語としては夏に分類される。何故なら元来鮓は夏、鮒鮓のように魚の腹に飯を詰めて作る発酵食品だったからだ。近世以降特に関西では箱鮓(押し鮓)が一般化し、江戸後期には今日の主流である握り鮓が広まった。

 

鮒ずしや彦根が城に雲かかる  蕪村

 

季語は季節の客観的事物や事実のみならず人々に共通の歴史的・社会的認識も備えている。例えば鮒鮓は鮓実体を超えて近江の歴史や琵琶湖の波風を纏っている。さらに季語には作者個人の経験も絡みつく。句が鑑賞されるとき読み手の思いも重ねられる。字義通りに読んだとしても自ずから作者の表現を超えた読み手の世界が産まれる。私事ながら箱鮓は夏休みに母の里を訪れた時、祖母が必ず作ってくれたご馳走である。今でも箱鮓を食すと田舎の家を囲む山容や祖父母の面影、幼い自分の様子などが偲ばれる。

 

季語には(季語だけではないが)このように字義を超えた意味の伝達や状況の展開という可能性が秘められている。

俳句と“からだ” 198 季語 紫雲英


 『俳文学大辞典』(角川書店)には次のように記載されている。

 

季語とは連歌・誹諧・俳句において季を表す詩語。古くは「四季の詞」「季の詞」「季詞」といい、「季語」という言いかたは大須賀乙字(『アカネ』明治四十一年六月号)に始まる。

 

このように、季語は伝統的詩歌において用いられる季節を表す言葉である。したがって有季俳句、無季俳句に関わらず季語を勉強することは詩歌に関わる者にとって必須の課題となる。そこで今回、自分なりに季語に対峙してみようと思う。

 

 鋤き込みし紫雲英に満たす山の水

斎藤夏風

 

 日本は北海道から沖縄と南北に長い国だ。また太平洋側と日本海側では背骨に当たる山脈を介して全く異なる気候となり季節もずれる。北の地が雪で囲まれているとき南の地では櫻が咲き始める。季節は暦通りではない。さらにその土地には土地の文化と歴史があり、日本全体を統一出来るものではない。それを宮坂静生氏は地貌季語と称してその土地のいのちの言葉を見出そうとされている。季語は普遍的な歳時記的意味に加え、その土地独自の意味を包摂している。さらに季語には一人一人の想いも託される。それらによって季語の彩りが豊かになるのであろう。

 

 どの道も家路とおもふげんげかな

田中裕明

 

今回取り上げる季語は春の「紫雲英」である。マメ科の紫雲英は空気中の窒素を蓄える根粒菌と共生しているため鋤込めば有用な窒素肥料となるため化学肥料が普及する前の緑肥として利用された。前年の秋、農家が種を撒いて田植えに備えておく。決して自然発生ではない。また、紫雲英の「英」は「はなぶさ」で中央の凹んだ花を表す。これは蒲公英も同じことだ。子どもの頃、田植え前の田圃を紅紫に染める紫雲英田は春の彩りであった。遙かに聳える伊吹山や養老山系。蜜蜂が飛び回る辺に座り子ども達は花の首飾りを編む。中には相撲を取って農家の人から叱られた思い出もあるだろう。紫雲英のしっとりとした湿り気は今でも身体の記憶として残っている。

 

これら様々な情報が季節感を超えた紫雲英のイメージを形成する。読み手は鑑賞を通して詠み手の紫雲英からさらに自分の紫雲英世界を展開させる。そこには両者による新しい世界が立ち上がっていることだろう。その世界を産み出すためには教養や想像力が求められるに違いない。つまり季語は教養なのである。

 

げんげ田や昼は遺影が家を守る

鈴木鵬于

連俳句と“からだ” 197 『語りたい兜太 伝えたい兜太』

 

 董振華が聞き手と編集を担った『語りたい兜太 伝えたい兜太』(コールサック社)が上梓された。黒田杏子監修のもと、中国出身で日本在住の董が金子兜太に深く関わった13名へ行ったインタビューをまとめている。同社から再刊され話題を呼んだ『証言・昭和の俳句』(聞き手・編者黒田杏子)の形式を踏襲し、各人各様の兜太観が対談によって燻り出され興味深い。ぜひ一読を勧めたい。

 

 特に共感した部分を紹介しよう。

関悦史は「岡本太郎とか丹下健三とかみたいに昭和史と絡み合うように大成して、そのことで俳句の世界から外の世界への窓口になってしまい、それを引き受けていた」という見解を示している。たしかに金子は時代を引き受ける役割を担っていた。国会デモなどで使用された「アベ政治を許さない」という言葉。澤地久枝の発案で揮毫を依頼されたのが金子であることは俳句界では知られており、大胆な「一発書き」だと本人が述べている。

 

人体冷えて東北白い花盛り

 

 宮坂静生は「あなたによって俳句史は生きた人間の心の表現史に書き換えられた」として、「秩父の『山国の田舎っぺ』の兜太さんが土に培われた『美の型のようなもの』に俳句表現の源があると気づかれた」と述べている。この着眼点もこれからの俳句にとって欠かせないものとなるだろう。

 

 強し青年干潟に玉葱腐る日も

 

 筑紫磐井の話は戦後俳句史の講義のようだ。「金子さんの場合は(中略)同時代と競い合って生き残り、それから下の(稲畑)世代と競い合ってほぼ同じ時期まで生きて二世代分の活動をしたけれども、まさに活動をしながら亡くなった」と位置づけ、「誰も兜太の後を継げるような人はいないのではないか」としている。

 

 朝はじまる海へ突込む鴎の死

 

 最年少の神野紗希は「人間であり続けるということを選んだ人だったと思います。俳人である以前に、人間である。いや、俳人とは人間である。その当たり前の真実を、愚直に強く広く実践された作家でした」と64歳年長の金子を偲ぶ。

 

子馬が街を走っていたよ夜明けのこと

 

高山れおなの帯文は「我々の俳句は、これからも、なんどでも、この人から出発するだろう。(中略)李杜の国からやってきた朋が、これらの胸騒がせる言葉をひきだした」と核心を突いている。

 

他の証言も興味深いが字数の関係で紹介できない。改めて思う。畢竟、兜太とは語り尽くせない存在者なのだろうと。

(句は全て金子兜太作品)

2023/11/08

俳句と“からだ” 196 賢治と米

 

「悦凱陣(よろこびがいじん)」は四国香川県琴平にある酒造の醸す銘酒である。ラベルを読むと原料米が「花巻亀の尾」とある。地名と米の名前から即座に宮澤賢治(18961933)が想起された。賢治の人生は稲と深く関わっていたからだ。

 

生きかはり死にかはりして打つ田かな

村上鬼城

 

1893年、山形の農民阿部亀治が、冷害で倒れた稲の中に3本だけ元気な稲穂を見つける。彼はそれを譲り受け4年かけて新品種を産み出す。これが「亀の尾」である。倒れ難く害虫に強く早く育つという利点がある。彼はこの種を無償で提供したため瞬く間に広がったという。現在人気のササニシキ、コシヒカリ、ひとめぼれ、あきたこまち、つや姫などのルーツである。今日、「亀の尾」自体は飯米ではなく酒米として人気がある。(山形県庄内町観光情報サイト参照)

 

その後、「亀の尾」は秋田県の農事試験場で「陸羽(りくう)20号」と交配され「陸羽132号」という米が生まれる。味の良好な「亀の尾」と冷害に強い「陸羽20号」の良いところを活かした品種だ。 (「農業共済新聞」より)

 

「亀の尾」と「陸羽132号」は宮澤賢治が農民のために無償で肥料設計をしていたとき推奨していた稲だ。詩「稲作挿話」には「君が自分で設計した/あの田もすつかり見て来たよ/陸羽百三十二号のはうね/あれはずゐぶん上手に行つた/肥えも少しもむらがないし/いかにも強く育つてゐる」と詠んでいる。

 

宮澤賢治は詩人・童話作家として知られる。同時に皆の幸福を願った社会活動家としても評価されているが、過大評価や毀誉褒貶もある。生まれた明治29年が明治三陸大津波、亡くなった昭和8年は昭和三陸大津波といういずれも東北大震災に匹敵する災害の年だった。1932(7)1934(9)は大凶作で、当時の貧困な農民達は食べることに困窮することも多かった。凶作に活躍したのが「陸羽132号」だ。早生で冷害を免れたのである。現在、秋田県の新政酒造はこの米を自家米として育て、賢治の思想を纏めた「農民藝術概論綱要」にちなんだ「農民藝術概論」という酒を造っている。

 

賢治の亡くなった1933(8)は豊作だった。賢治は917日から19日まで晴天の下で実施された鳥谷ヶ崎神社の祭を家の前で見た後、辞世となる歌を詠み21日、家族の見守る中で息を引き取った。37歳。その歌は生涯を象徴する稲への想いと豊作の喜びだった。

 

方十里稗貫のみかも稲熟れてみ祭三日そらはれわたる(稗貫は地名)

病のゆえにもくちんいのちなりみのりに棄てばうれしからまし