2020/09/03

経絡指圧と利休百首

1997年12月に書いた文章です。お茶を稽古されている方はよくご存じ利休百首。茶道具の扇にも書かれています。この歌はお茶だけで無く稽古一般論としてとても優れています。経絡指圧創始者で恩師の増永静人先生はこの中から指圧の稽古に流用できるものを幾つか紹介されていました。今回はその再録です。


経絡指圧と利久百首

 右の手を扱ふ時はわが心左のかたにありとしるべし

 これは千利休が茶の湯の稽古の心構えを説いた「利休百首」のひとつです。全くの門外漢のわたしが何故に茶の湯の道歌を知っているのか。それは経絡指圧の師・増永静人の著書に度々出てくるからです。

 増永静人は卓越した理論家指圧師として知られていましたが、昭和五十七年に惜しまれて亡くなりました。享年五七才。無念の夭折でした。

 増永はそれまでの理論的根拠を西洋伝来のマッサージの理論である血液・リンパ循環論やカイロプラクティク(米国で生まれた脊椎矯正法を主とした医療。米国では六年間の大学教育を終了してドクターの資格が必要。日本では無認可)の脊髄神経反射論に依存していた指圧を東洋的な観点からまとめ経絡指圧として体系づけた功労者です。

 どうして日本生まれの指圧を西洋的でなく東洋的に理論化することが斬新であったかは不思議ですが理由はその歴史に準拠します。

 もともと指圧の原型である按摩術と鍼灸術は中国に発し、朝鮮半島を経て日本に伝えられました。婆羅門導引(ヨガのこと)天竺按摩という言葉もありますから、中国以前にインドで原型が生まれている可能性もあります。これは中世以前の他の外来文化と軌を一にしています。

 按摩は古くは按蹻導引(あんきょうどういん)と呼ばれ、黄河文化圏に起こり日本には五六二年に伝わったとされています。「按」は揉んだり押したりすること、「蹻」は手足を動かして骨格を整えること、「導引」は大気を導き体内に引き入れることで今日の気功体操に分類されます。

 奈良時代の大宝律令(養老令)(701)には医生・医師・医博士の制度と共に按摩生・按摩師・按摩博士という制度が明文化されています。同様に鍼生・針師・鍼博士。灸生・灸師・灸博士も。湯液(漢方薬)は医師や薬剤師が、鍼灸は鍼灸師が、按摩術はあん摩マッサージ指圧師が引き継ぎ、今日まで続いています。江戸時代以降、鍼や按摩術は視覚障害者の職業としても伝承されました。

 按摩術は軽医療として家庭でもできる簡便さがありますが、同時に医療体系の中に止めておきたいという人達も多くいました。その具体的なものとしては江戸時代に生まれた按腹術があります。これは字の通り腹部を重点的に処置することで疾病治癒を目指したもので思想的、原理的には中国医学の古典である『黄帝内経』という本に拠ります。

 明治になって、西洋からマッサージという按摩にそっくりの技術が伝わってきます。按摩の理論的根拠は漢方医術で言うところの「気血の巡り」を良くすることで、そのために《経絡》というスジを用いることです。経絡はいのちの元となるエネルギーである《気》や、栄養分である《血》が流れるというスジのことで内臓に関係し、心理面も反映するとされています。このスジ上にツボがあるのですが実態は明らかではありません。

(追記:近年、ファシアという組織間物質が注目され、これと経絡の実体が近いと考えられています)

 対してマッサージの理論は筋肉や血液・リンパ循環など解剖学や生理学を根拠としていて科学性があり、名称もハイカラなので按摩を自称する人は減り、いつしかマッサージと名乗るようになりました。しかし、それでもまだ治療対象が血液循環改善や疲労回復に止まっているという不満がありました。手技と言えども、もっと幅広い分野の治療が可能ではないかと模索する人達も大勢いたのです。

 そんなところにアメリカからカイロプラクティックという脊椎矯正法がやってきました。これは神経生理学的に自律神経を調整し得るという一見科学的整合性があり、多くの病気に対応できるということで多くの治療師が飛びつきました。しかも技法は在来の柔道などに伝わる活法に酷似しています。活法とは姿三四郎などの映画で気絶した人の背中に膝を当てて「エイッ!」と気合一閃、蘇生させるというあれです。

 というような顛末で、明治末期から大正、昭和の始めにかけて独自性を主張する〇〇療法が雨後の竹ノ子のごとく発生しました。戦後、政府はそれらを法的に整理するために紆余曲折の果て、指圧として統合しました。按摩業界から猛然たる反発があったとは今でも語り種です。なお、指圧という名称は大正時代に玉井天碧という人が使用していたのが最初と言われています。

 今日でも、カイロプラクティックは指圧ではないから法的に指圧に統合されては困る、わたしの療法は神のお告げによって生まれた独自の技術で如何なるものとも異なると称していろいろな治療術が雨後の竹ノ子どころか雲霞のごとく大発生しています。

 何故なら、正式な業者として指圧とか按摩とかマッサージと名乗るためには最低三年間学校に通い、国家試験を受けなければなりませんが、我が国には違う名称さえ名乗れば免許は関係ない、いかなる法的拘束は受けないというすばらしい抜け道があるからです。

 ちなみに鍼灸のための学校は京都に大学が一校、大阪に短大が一校、その他全国に十数校の専門学校があり、さらに各都道府県の盲学校でもそのための教育がされています。鍼灸学校を出た後、大学の医学部の研究室で研究し、医学博士を授与された人も昨年から今年にかけて愛知県で三名います。まさに大宝律令の鍼博士を地で行くものですね。

(追記:現在は鍼灸大学、鍼灸専門学校が大変増えています。マッサージの専門学校は増えていません)

 さて、最初の「利休百首」と増永静人に戻ります。
 増永静人はわたしにとっては指圧の先生というだけでなく、医療の思想や人生哲学など実に多くのことを与えてくださった人です。増永から授与された認可証は次の文面で、今も書斎に掛けてあります。

     証

                        三島広志

  右者医王会に於て現代医学を基礎とし東洋古来の経絡治療
  と日本独自の按腹術を加えた高度な指圧療法を学び証診断
  治療の指圧臨床技術を習得されたので本状を授與します
昭和五三年五月廿日

日本東洋医学会員
日本臨床心理学会員
日本指圧協会理事
                   医王会会長 増永静人

 昭和53年ですからもう二十年も前のことになります。増永の肩書に東洋医学会員(後に評議員)と指圧協会理事というのがあります。これは当然ですが、日本臨床心理学会員というのは不思議でしょう。書いてありませんが日本心理学会員でもありました。これはなぜかというと、増永は京都大学の哲学科心理学部を卒業しているからなのです。

 大学卒業後、増永は「指圧の心、母心。押せば命の泉湧く」で有名な浪越徳次郎先生の日本指圧学校を卒業し、そのまま教員として後進の指導にあたりました。そこでは心理学と病理学、症候概論、漢方概論などを教えていたようです。しかも増永の恩師は西田幾多郎の弟子ですから、増永のバックグラウンドは心理学と西洋医学と東洋哲学ということになります。これらのことが先の認可状の文面に反映されているのです。

 そんな増永の好きなもののひとつが茶の湯です。やっと冒頭の利休にたどり着きました。わたしは増永から利休の道歌「利休百首」を指圧用に作り替えたことがあると直接聞きました。しかし、増永が著書で紹介しているのは冒頭の「右の手を」と

  茶を振るは手先をふると思ふなよ臂(ひじ)よりふれよそれが秘事なり

でした。これを「指圧をば指で押そうと思うなよ肘より押せよそれが肘なり」と替え歌にして紹介していたのです。

 それに習ってわたしも二十年前、自分なりに利休百首を読み、替え歌にしてみました。増永に「五十首くらい変換できた」と言いましたら氏は、「いや、七十首以上できるはずだ」と答えました。残念ながらそのノートは行方不明ですが、もう一度本を読んでいくつか紹介したいと思います。

 今日、受験勉強(この場合、受験だけを目的とした勉強であって、受験を通過点として学習することとは違う)の弊害で習うとか学ぶということが知識の伝達だけになりがちですが、元来文化の伝達には稽古という技法があり、これには「教える側が習う側よりさらに学ぶことができる」という利点があります。学生側が成長するためには早く一派を起こし教える側に回ることが大切だったのです。かくしてさまざまな流派が乱立するという問題点はあるものの、身をもって学ぶという意味で稽古は古臭い言葉ではありますが重要な方法なのです。

 冒頭の歌「右の手を扱ふ時はわが心左のかたにありとしるべし」とはどういうことでしょう。右手を使うときに右手を意識すると緊張して堅くぎこちない動作になるからあえて左手を意識してごらん。右手が無意識的な自然の動きができるから・・というような意味です。これは全ての身体技法に共通する原理と言っても過言ではありません。
 類似した歌に

  何にても道具扱ふたびごとに取る手は軽く置く手重かれ

があります。

 さて、気に入りの歌をどんどん紹介しましょう。

  その道に入らんと思ふ心こそ我身ながらの師匠なりけり

 決意こそが心の中にある師匠なのだと言うのです。

  ならひつゝ見てこそ習へ習はずによしあしいふは愚なりけり

 まずはやってみなさい。体験してみなさい。あれこれ言うのはその後だよということでしょう。体験する、これが稽古の基本です。体験を経験にするという内的処理こそがヒトが人間であるゆえんなのです。

  心ざし深き人にはいくたびもあはれみ深く奥ぞをしふる

 志の高い人でなく深いというところに意味があるようです。そういう人には奥深いことまで教えるのです。ここにすばらしい弟子を持つ喜びがあるのでしょう。師弟は相互に高め合う関係こそが素晴らしい。アメリカの大学教授はうるさく質問する学生を歓迎します。それによって自分が高まるからに外なりません。

  はぢをすて人に物問ひ習ふべしこれぞ上手のもとゐなりける 

 こちらは教わる人の心構え。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥ということわざもあります。

  上手には数寄ときようと功つむと此の三つそろふ人ぞよくなる

 数寄とは興味や好奇心。好きの当て字。きようは器用。功つむとは努力して励むこと。この三つがあれば成長する。

  稽古とは一より習ひ十をしり十よりかへるもとのその一

 これはわたしの大好きな言葉。一から習って十を知ってまた一に帰るのですが、この一は決して最初の一ではありません。次元の異なる一。

  もとよりもなきいにしへの法なれど今ぞ極る本来の法

 本来の法に行き着きたいという強い志。人類未到の世界を目指そうというのです。

  規矩作法守りつくして破るとも離るゝとても本を忘るな

 規はコンパスのこと。矩は物差し。どちらも測定の基準となる道具で手本を意味します。中国では修行の段階を守破離に分けます。書道で説明すると楷書・行書・草書に置き換えることができます。まず先生から教わったことをそのまま守って練習することを。次にそれを少し壊して自分なりに変化させることを。外見的には全く異なるまで自分のものにしてしまうことを。しかし本質は変えないというのです。ここに芸事の流派がどんどん増える理由の一つがあります。

 百首のうち、冒頭と最後に一般性のある、どの道にも通じる歌を置き、真ん中にはお茶の具体的な技法の教えを説いています。その演出は見事なもの。ここで紹介した歌はすべて芸事一般に流用できる歌です。すなわち「本意」の歌なのです。

 お茶の技法という特殊性を歌ったものも指圧に置換すれば、指圧を習う歌に替えることができます。むろん、料理でも裁縫でも踊りでもなんにでも流用できるところにこの歌の妙味があります。

 道はともすれば形式主義の塊、形の上にほのめいている観念的なものと言えるでしょう。しかし形の上、もしくは奥に潜んでいるあらゆるものに共通する普遍性を垣間見ることは重要なことです。そこに今日一部の西洋人が道(ダオイズム)に関心を抱く理由があるのです。

 増永静人の書いた「禅指圧」はアメリカでロングセラーです。指圧と言えば増永静人というほど知られています。外国人に「君の指圧のスタイルは何だ」と聞かれ「増永のスタイル。禅指圧だ」と答えるととても驚き、さらに直接の弟子だと知ると大喜びします。

 わたしの所に来る西洋人は指圧に対して医療の側面と道の側面の両方を求めています。それに答えたのが増永静人だったわけです。これも西洋人の東洋回帰、物事の奥に本質を見いだそうとする道、ダオイズム大好きの流れに乗っています。

 「虎は死して革を留め、人は死して名を残す」
 増永静人先生は没後もわたしを助けてくださっています。わたしが遺せるのは・・・借金ぐらいかなぁ。

 ところで千利休はこんな歌も遺しています。

  釜一つあれば茶の湯はなるものを数の道具を持つは愚な
  数多くある道具をば押しかくしなきがまねする人も愚な

 うーむ。お茶の先生はこの歌を知っているのでしょうかね。形式の中の本質を見ようとしない時、形式主義は形骸主義になり、道は奈落への道、ダオイズムはダメイズムになります。

 

2020/08/25

青は藍より出でて・・

 1997年10月に書いた文章。改めて読み返してショックを受けました。それは文中に出てくるサクソフォニスト原博巳さんのことです。彼は高校の同級生でクラシカルサクソフォンの世界でとても有名な服部吉之君の教え子です。そのお陰で何度か演奏を生で聴きました。文中には日本一と書いてありますが、その後、2002年、ベルギーで行われたの第三回アドルフ・サックス国際コンクールで優勝しました。アドルフ・サックスはサクソフォンの発明者です。その名を冠した権威ある国際コンクールの1位は素晴らしいものです。2019年11月に行われた同コンクールでは日本人が大活躍。以下をお読み下さい。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019111000166&g=int

日本人が1位、2位、6位に入ったのです。しかし丁寧に読むと「日本人の栄冠は2002年大会の原博巳さん(今年8月に死去)以来、2人目」とあります。44歳の急逝。これからますますご活躍という年齢でした。改めて哀悼の意を表します。

青は藍より出でて・・

 十月三日、名古屋のザ・コンサートホールで高校の同級生服部吉之君とその夫人真理子さんによるサクソフォン(吉之)&ピアノ(真理子)のリサイタルがありました。

 服部君は小学校からサックスを始め、東京藝大から同大学院を経てパリの音楽院を一等賞で卒業。以後、ソロやサクソフォン・アンサンブル「キャトルロゾー」などの活動。指導者としても洗足学園や尚美で後進の指導に当たっています。(現在は洗足学園音楽大学の教授です)

 奥様の真理子さんとピアノの出会いは幼少3歳。幼稚園にもいかずにピアノにしがみついたそうです。その精進の結果、東京藝大付属高校から同大学卒業。演奏活動、主として管楽器の伴奏者として活躍しておられます。歌手の故藤山一郎に可愛がられていく度も伴奏したと聞きしました。尚美で芸大を卒業したプロのピアニストの指導をしています。

 二人は個々の活動を精力的に行っていますが、それとは別に、東京、名古屋、北海道などでほぼ毎年一回、「デュオ服部」として夫婦でリサイタルを行っています。今回はなぜか趣向を変えての特別企画でした。

 特別企画。
 それは服部君の弟子で昨年度の日本サクソフォンコンクールで見事一等賞に輝いた原博巳君(尚美・東京藝大)と服部君によるサクソフォン・デュオ。
 もう一つは真理子さんが3歳から親炙(しんしゃ)している師の吉田よし先生(東京音楽学校現東京藝大卒業)と真理子さんによるピアノ・デュオという変則のプログラム。即ちピアノとサクソフォンの師弟デュオということです。デュオとは二人で演奏することでデュエットのこと。

 今回はなぜ師弟なのでしょう。それは文化一般から考えてみる必要があります。
 そもそも文化とは歴史と社会を持つことで初めて成立する人間独自の営みです。他の生物には決して見られないものなのです。蜂や蟻が社会を形成しているといってもそれらは本能のままに営まれていて、歴史に裏打ちされたものではありません。後代に教育的に継続させるものではないのです。

 文化は広義には科学技術から料理、スポーツ、格闘技、政治、経済、産業などあらゆる分野を含みます。狭義に限定すれば文化庁があつかう音楽や美術、書道や文学、歌舞伎や文楽、演劇、映画などの芸術や芸能がその代表的なものとなるでしょうか。

 もし文化が歴史を持たなければその人限りで滅んでしまいますし(多くの人間国宝がその危機にある)、同じようにもしそれが社会性を得ることがなければ単なる孤立、独りよがりに終始してしまいます。

 そういう意味で師弟とはまさにその歴史性を担う極めて重要な関係であり最小単位の社会なのです。
 40歳を過ぎて服部君も先代から受け継いだモノに自分の得たモノを付加して後代に伝えるという仕事に比重を置いてきたのでしょうか。彼もまた立派に歴史と社会に生きている人と言えます(おお、それに引き換えわたしのふらふらした根無し人生・・自嘲)。

 ついでに社会性のことを言うなら芸術の受け手が社会性の大部分を支えています。同時に俳壇や画壇、文壇のように作り手の側の社会性もあります。

 さて当夜の演奏は毎度のことながら素晴らしいものでした。

 「俺は原博巳君の師匠ではない。原君のファンなのだ」
と公言して憚(はばか)らない服部君は実にうれしそうに愛弟子と共演していました。例えて言うなら一人前に成長した若鶏をそっと優しく抱くような師匠らしい喜びとゆとりのある暖かい演奏でした。
 弟子の原君は170名の中でトップに立ったというだけあって21歳とは思えないテクニックとステージ度胸、立ち姿や音色の良さなど器の大きさを師匠を前にしてなんら臆すところなく発揮していました。

 服部君と真理子さんの演奏は時に争うような緊張感(夫婦喧嘩ではない)を醸し出していましたが、当日の師弟コンビはそういった緊張感は漂わせてはいませんでした。むしろほのぼのとした雰囲気を客席まで伝えて来ていたのです。
 ただし知り合いの演奏家に聞くとプログラムは非常に高度なもので相当な技量を要する曲ばかりだそうです。そうした難しい曲を演奏しながらも客席にはゆとりある至福感として伝わって来たということは両名の音楽技量がいかに高いかを証明するものと言っても過言ではないでしょう。

 ピアノはどうだったでしょう。
 吉田よし先生は女性ですからお齢を書くことは失礼ですので控えます。ただ、原君が21歳でよし先生は彼よりほんの半世紀だけ早くお生まれであると記しておきます。

 率直に申し上げて、先生の演奏は齢のことを考慮する必要の無いまるで若々しいものでした。ピアノに向かった美しい姿勢から時に激しく、時に幽かに、あるいは情熱的に、あるいは冷ややかにと鍵盤の上を自在に動き回る指から奏でられる演奏は全く現役の演奏家でした。
 演奏歴はおそらく60年を超えられるのではないでしょうか。まさに練りに練られた動き、それは難曲をあたかも魚が水中を泳ぐがごとくの自然さで弾きこなされるのです。円熟の極みというものでしょうか。日ごろのたゆまない習練の成果以外のなにものでもないでしょう。であればこそ音楽を深く理解し、頭でイメージしたように自然体で奏でることがお出来になると思うのです。

 よし先生の音色は甘く、真理子さんの音は聡明。
 お互いがそれぞれの音をきっちりと受け止め合い、音楽としてまとめていく。服部君たちと同様、まことに師弟の演奏とは素晴らしく、拝聴していて気持ちの良いものでした。

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 「出藍の誉」という言葉があります。
 「青は藍より出でて藍より青し」
とも言います。これは荀子の次の言葉に基づきます。
 「青出于藍而青于藍」
 広辞苑によれば、青色は藍から作られるが藍よりも青い。弟子が師よりもまさりすぐれるたとえ、ということです。
 余談ながらわたしの属している俳句会はこの故事からとって「藍生(あおい)俳句会」と言います。主宰は黒田杏子。

 一般には辞書にある通り、青は藍より出でて藍より青いから出世しと解釈します。だから「出藍の誉」。けれども本当にそうなのでしょうか。ささやかながらも異論を申し上げたいですね、仮に荀子がそういう意味で言ったとしても。

 「出藍の誉」とは言うものの決して青が藍より優れているということではないはです。それよりも藍という個性から青という新しい個性が藍を踏み台として花開いたと見たほうがいいのではないでしょうか。

 確かに「出藍の誉」とは言いますが、決して青と藍を比較して青が優れているという意味ではなく、師から教わったことに、わが個性を加えて新しい世界を開くことができたというように考えたいのです。師を乗り越えるとは師から受けた教育の成果を通して質的に転換をなし得たということなのでしょう。
 本来、優れた師とは本来乗り越えられないほどの境地にある人なのですからその境地が超えられるならその人は最初から師匠ではないのです。

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 演奏会の後の酒宴で元全日本レベルのサッカー選手で今は酒屋を継いでいるA君が言いました。

 A君が服部君に質問しました。
 「おい、服部。ちょっと聞きたいけど、上手な弟子が出てくるとうれしい反面、追い越されるという焦りを感じないかい」
 体力を必要とする元スポーツ選手らしい率直な質問です。
 「そんなことは全く無い」
と服部君は切り返します。
 「弟子が自分の技量を引き継いで、自分を追い越してさらに成長してくれたら師匠としてはうれしいもんだ。弟子の成長ぶりは自分の励みにもなるし」
 お店の商品をおなかに一杯詰め込んで既にいい気分でやって来たA君はそれには納得せずさらに突っ込みます。

 「弟子の進歩を喜ぶのはある意味でもう敵わないからと、弟子の成長ぶりに目を細めるというポーズで逃避することではないか」

 「体力が技術の大きな部分を占めるサッカーと違って、音楽などの芸能はその年齢に応じた魅力が出せるのだから、追い抜かれるという気持ちはそんなに起きないのではないかな。サッカーみたいにレギュラー人数も決まっていないし。俺は俳句をやっているからそう思う。青春の俳句、働き盛りの俳句。老境に遊ぶ俳句。音楽も同じでは・・」と、わたしも議論に参加しました。

 「そうそう、みっちゃん(わたしの小学校からの愛称)の言うとおり」
服部君も同意します。

 「ま、話し合いもそれくらいにしとかんと、パパラッチのみっちゃんがまたこのやり取りを密かに取材して前みたいに通信に書かれるぞ。ネタにされてまうぞ」
 元不良で今はこわもて刑事のT君が職業意識のこもった配慮で穏やかに話の中に入って来ました。

 「だいたいよー、Aは天才肌で、途中でクラブを止めても戻って来たら即レギュラー。また止めても戻ってきたらすぐレギュラー。まじめにずっと練習しとっても一回も試合に出れんかった奴もおるのに。俺だってレギュラーになれんから勉強に精を出せとやんわり退部勧告されたんだ。天才のおまえにとっては後進に指導とかは縁のない話だ」

 「いや、実は俺、今、小学校のクラブを指導しているんだ・・・」

かつての天才サッカー少年もすでに歴史に参加しているのでした。

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 わたしの指圧の師匠は増永静人という人でその世界では有名な人です。師事できたのはほんの3年ほどで、先生は亡くなられてしまいました。晩年、先生が言われた言葉で記憶に残っているものがあります。

 「論語に
   朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり
  という言葉がある。
 これは朝、真理を知ったらもういつ死んでもいい、それほど真理とは得難いものなのだと解釈されている。しかしわたしは別の解釈をする。それは朝、弟子に真理を伝えることができたらいつ死んでもいいということだ」

 当時、先生はガンに罹っていました。心底切実な思いがあったに違いありません。50代半ばで死を自覚された先生はまだ自らの研究が途中であることと、自分を本当に理解している弟子が一人もいないという二重の寂しさを直視されていたと思うのです。それが論語の解釈になったのでしょう。
 その寂しさは歴史が途絶える寂しさです。先生没後十八年。わたしは未だに不肖の弟子どころか弟子と呼ばれるレベルにも達していません。(没後40年、未だし)

 それを思えば服部君が原君という優れた弟子に出会えた喜びは計り知れないものがありましょう。同様ににサッカー小僧を相手にし始めたA君や、まるで刑事ドラマさながらに異星人のような若手刑事を現場教育しているT君にも同じ思いにつながるものがあることは想像に難くありません。

 不肖の弟子にもなれていないわたしに弟子が持てるはずもなく、また、現実にいるはずもありません。それは寂しいことですが、まだ成長過程にある、いうならば青春期にある万年青年と呼ばれるわたしにとっては当然のことでしょう。今、中途半端のままでいっぱしの師匠気取りになればそれはおそらく師匠でなく支障にしか過ぎないことは自明のことなのです。

 (附記:文中に出てくる真理子さんとはFBでやり取りしています。原さんの逝去のことを尋ねたら、「あんなに哀しいお葬式は無かった」と痛切にお答えになりました。)

今野義孝著 『癒し』のボディ・ワーク(学苑社)

 1997年9月に書いた書評です。

今野義孝著 『癒し』のボディ・ワーク(学苑社)

 20年来身体のことにかかわってきた私にとってとても興味深い本「『癒し』のボディ・ワーク(学苑社)」。著者は長年障害児の動作法などを身体運動と心理の両面から研究実践してこられた今野義孝先生。現在は(出版当時は)文教大学教育学部教授。専攻は、障害者心理学、臨床心理学、健康心理学。

 今野先生の「『癒し』のボディー・ワーク」は東洋の手技療法の研究をしてきた者にとってはその一般論的な有効性を実験検証的に証明してくれているというありがたい本です。「まえがき」の今野先生の心情吐露は学者として画期的なもので、そこまで内省的な思いを研究者が表明していいのだろうかと心配になるほどのものですが、クライアントの立場に立てばこれほど素晴らしい先生は滅多にいないだろうという感動的なものです。

 意訳抄出すれば

 「自分の発見した『腕あげ動作コントロール訓練』という動作法は、それまでの脳性まひの身体動作の援助を中心とした指導法から、こころの動きの援助する方法へと飛躍を遂げた。身体とこころの調和的な体験を援助することが自己活動の再体制化をもたらすことをあたらめて確信できた。
 しかし大きな不安が渦巻いてきた。それは『腕あげ動作コントロール訓練』はクライアントへの一方的な指導・訓練的なかかわりが中心で、真のコミュニケーションを欠いていたのではないだろうか。今にして思えば、私は功名心のとりこになり、自分が他者によって生かされているということや他者の存在の大切さを忘れていたのである。

 そうして辿りついたのが『とけあう体験の援助』である。これは『指導者・クライアント』や『援助者・被援助者』といった主従の対立的な関係を乗り越え、快適な心身の体験を互いに共有することによって真のコミュニケーション関係の確立を目指すものである。つまり、『指導者による一方的なかかわりから、相手との相互のかかわり合いへという視点』や『相手を対象化した客観的理解から、相互のかかわり合いによる間主観的な理解へという視点』が基調になった」

と言われています。

 ご自身の成果を大転換してさらに成長して行こうという態度が率直に書かれていて極めて好感と信頼を感じる文章です。その根底にあるのは学者・研究者としての態度ではなく、障害者にかかわって指導すると同時に学び、その成果を自らと障害者で分かち合い、さらなる発展を共に目指そうという姿勢からくるものでしょう。

 今野先生がこうした大きな変化の渦中にいる間に出会ったものに、ボディー・ワークと東洋的な行法があります。

 おなじく「まえがき」に

「それらに共通すること。ひとつは自分自身の身体の体験に浸り、味わうことによって自分のこころを捉え直すこと。もうひとつは集団で互いに援助しあうことによって、身体の体験やよこに漂う雰囲気を共有することができること。これは『他者とともに存在し、他者とともに癒される』ということであり、個人のレベルや自-他の境を越えた癒しの世界につながる。
 援助を受ける人も援助をする人も互いに癒される関係にあることこそが、“健常者”と“障害者”の違いを越えた真の“共生”の実現につながるということである」

とあります。

 この場合の“障害者”や“健常者”は字面だけでとらえることなく、ひとつの比喩として大きく“何らかの基準によって区別される者”と受け取った方がいいでしょうね。

 さて、この本のうれしいことはもう一つあります。それは私が直接講習会に出て指導を受けた人や縁あって出会った人、あるいは直接の出会いは無いものの書かれた本に深く親しんだ人の研究が多く掲載されていることです。今までこうした学術的な本にはなかったことで、大変驚くと同時に喜んでいます。多少なりとも縁のある人を紹介しましょう。それがある程度この本の内容の紹介にもなるでしょう。

 原口芳明先生は15年くらい前でしょうか、気流法(身体技法のひとつ。坪井香譲師提唱)の名古屋セミナーに何回も参加しておられて知り合いました。障害者教育のために裾野を拡げて貪欲に研究されておられた方です。現在(当時)愛知教育大学の教授。障害者を持つ親から絶大な信頼を集めておられます。この本には「『さわる』ことは相手をモノとして扱うことであるのに対して、『ふれる』ということは人格をもった相手への働きかけである」という意見が紹介されています。

 増永静人先生は私の指圧の先生。亡くなって15・6年経ちます。「指圧の時、相手を指導者に持たれかけさせ、指導者も相手にもたれてゆくとき、それがもちつもたれつの状態である。これが生命的一体感の状態である」と引用してあります。

 西村弁作先生は言語療法の大家。直接お会いしたのは一度だけです。西村先生の奥さんは優秀な心理療法士でしたが数年前48歳で亡くなられました。西村先生とは彼女の亡くなる数日前にお見舞いに行き、病室でお会いしただけなのです。夫人とは神経難病ALSの患者を協動で担当したことがありました。彼女が心理面を私が身体面を主に受け持っていたのです。
 亡くなる数日前、彼女をマッサージしました。「寝たままで腰が痛いでしょう。マッサージして上げるから横向きになってよ」と言いましたら、「三島先生の名人芸を見せて頂戴」と冗談を言いながら腹水の溜まった体をさっと横向きにされたのを昨日のことのように覚えています。

 野口晴哉(はるちか)さんは有名な野口整体の創始者。今日の民間医療の思想的な面で多大な功績を遺しています。明治以降、民間医療界最大の巨人と呼んでも差し支えないでしょう。私が整体協会へ勉強に行ったとき既に鬼籍の人で、息子さんが指導していました。無意識運動を発現させる「活元運動」と手のひらからの「気」を送るという「愉気法(ゆきほう)」は有名ですがフロイトやユングを彷彿させる自在な人間観察は見事なもの。生前、作家の間で大変な信頼を得ていました。

 野口三千三(みちぞう)先生。野口体操、別名コンニャク体操で知られています。長く東京藝術大学で体操の教授をしておられました。「からだは水の詰まった革袋である」という持論からなるユニークな体操です。増永静人先生とも親交がありました。藝大の演奏家の卵たちは、授業でコンニャクのようなくねくね体操をさせられて、「なんじゃこれは」と無為な時間を過ごしていたのですが、一人前になって、特に体の無理がきかなくなって演奏に行き詰まったとき、無性にこの体操が懐かしくなるそうです。

 高岡英夫さんは今日、武道やスポーツ界で最も精力的に活動しておられる方の一人。ただし、権力や権威からは最も遠い存在での活動です。東大大学院で運動科学を修めた後、野に下って今は自ら興した運動科学研究所所長。ご自身武道家でもあります。現在、武道・スポーツの分野だけでなく音楽家や舞踏家などさまざまな人が氏の指導を受けています。この本には著書「身体調整の人間学」の一説が紹介されています。
「世界はそれ自体では意味のあるものではなく、主体によって意味づけられるものである。そのときの主体とは、意識以前の主体、すなわち身体的実存である。(中略)空間を意味づけているのは身体の『運動性』である」

 竹内敏晴教授は名古屋の南山短大の教授(当時)。主として演劇を身体と言語の表現の場として教育されています。故林竹二先生と同行の教育活動でも知られています。林竹二先生のことは昔《游氣風信》に書きました。竹内さんの「ことばが闢かれるとき」は感動的な本でした。

 以上のようにアカデミズムの方も市井の方も同じ土俵に上げて説かれている点でも「『癒し』のボディ・ワーク(今野義孝)」はユニークな本です。学苑社刊、3800円(現在AMAZONで中古ですが購入できます)

2020/08/22

逢うは別れの。。。禅指圧Zen Shiatsu の縁

1995年に書いた文章です。

この頃、私の小さな指圧教室に大勢の外国人が出入りしていました。この中に書いたうちの何名かはその後Facebookで交流が復活しました。いきなりパソコン画面に知り合いかもと出てきて驚きました。現在の状況がはっきりしている人に関しては附記しました。

逢うは別れの。。。(禅指圧の縁)

1995年6月

 

 逢うは別れの始めと言います。これは白居易の「和夢遊春詩」の句「合者離之始」を出展とすることばで、逢った人とはいつかは必ず別れなければならないという無常(無情ではありません)を表した有名な詩句です。(大辞林参考)

 会った人だけでなく、出会った風景とも必ず別れなければならないことは昔の人ほど身に染みて分かっていたのだと思いませんか。現代と違って新幹線も飛行機も自動車も電話も無い時代には、遠方の人と次に会えるという確たる信念など持てなかったに違いありません。

 また、世に戦乱が続き、病気に対しても手をこまねいてただ看病するのみという厳しい時代にあっては、人との出会いと別れは今よりずっと真剣なものであったの思うのです。 戦後五十年もの間、国内においては全く平和であったという希有な時代を生きて来た者としては、別れをさほど深刻には考えません。「またいつか会えるさ。」という思いがあるからです。

 茶の湯の文化の基本理念のひとつに「一期一会」がおかれているのは、四百年続いた戦乱の世に生きた千利休の切実な思いの反映に外ならないでしょう。同時に武将達に茶の湯が愛されたのもその理由でしょう。

 最近、私は三名の親しい外国人と別れを経験しました。二人はアメリカ人、一人はカナダ人です。仲よくしている外国人がぽつりぽつりと帰国することはいつものことなのですが、特に親愛の情をもって交流していた人達が三人ほぼ同時に帰国するというのは初めてでした。そこで冒頭のことば「逢は別れの始め」が身をもって響いてきたのです。

 今日のように飛行機が飛び交う時代となると、たかが日本とアメリカやカナダ、いつでも会いに来ることができるし、行くこともできるという気持ちはあります。現に彼らが三名とも「今までは自分が日本に来たのだから次はそちらが我が国にくる番だよ。」と同じことを言い残して帰って行ったのです。おそらく今の日米加の距離は、江戸時代の人達が江戸と京都に離れ離れになることよりずっと身近な距離であることは間違いないでしょう。

 彼ら三名はわたしの指圧教室の生徒であり、身体調整のクライアントでもありました。(彼らは特に病んでいたのでなく、養生法として調整を受けていたので、患者ではなくクライアントと呼びます。意味は心理療法に訪問した来談者のこと。広告の依頼主の意味もあります。)

 五月末に帰国した米国人女性のBさんが初めてここへやって来たのははもう5年くらい前になるでしょうか。アメリカ人男性と結婚している日本人女性Sさんの紹介で指圧が習いたいとやって来たのです。ところが通訳と期待したSさんがすぐに妊娠され、通訳なしで教えなければならなくなってしまいました。しかしこれはいい経験になりました。はるか昔に習った英語の単語を乏しい脳みそを絞りながらの会話はそれは楽しいものでした。わたしのとんでもない英語を聞かされた彼女はいい迷惑でしょうがしかたありません。ここは日本なのですから。

 体の細いBさんはその体躯通りに神経質で日本の生活とはうまく馴染めないようでしたが、それでも多くの日本人の友達を作っていろいろな活動をしていました。彼女はつごう12年近く日本で暮らしましたがついに日本語は上手になりませんでした。そのかわり彼女の英語は日本人にとってとても理解しやすいもので、わたしの拙い英語力でも互いに話し合いができたのです。その理由の一つとして彼女が上げたのは興味深いものでした。

 彼女の親族に耳が聞こえない人がいたのです。Bさんはその人が理解できるように、唇の動きやことばの使い方を工夫しながら成長したので、自分の英語は日本人にも理解しやすいのではないかというのです。これはおもしろい見解です。

 そもそもなぜ外国人が指圧を学びにくるのでしょう。
 海外に指圧を広めたのは、国内に指圧ブームを作った例の「指圧の心母心。押せば命の泉湧く。」で知られる浪越徳次郎先生です。そのブームを学術的に固めたのがわたしの恩師増永静人先生でした。

 増永静人先生は五十才を過ぎてから外国人の弟子ができて、必死で英会話の勉強をしておられたのをよく記憶しています。カッセトテープを片時も話さず、外国人生徒と英語で丁々発止とやっておられました。発音はお世辞にもうまいとは言えませんでしたが、ともかく根性で聞き取り、情熱で理解させるという感じ。いかに三高・京都帝大という秀才コースを履歴に持たれる先生とは言え、敵国語禁止の時代に十代を過ごされた方ですから大変だったと思います。

 先生のそうした努力で指圧は海外に広がり先生の本の英語訳(数カ国後に訳されています)はベストセラーになりました。今日でShiatsu(指圧)は英語としてかなり知られています。そのお陰でわたしも外国人生徒を持つことができたのです。なにしろ、何人かの生徒はアメリカで買った増永先生の英語版テキスト「禅指圧」Zen Shiatsuに一杯赤線を引いてぼろぼろになったものを持参したのですから。

 わたしは東京の先生の治療センターにしばらく泊まり込んで勉強させていただいたのですが、そこにイタリア人Mさんがいて、彼とはなんとか英語でコミュニケーションをとっていました。そのとき、言葉などなんとかなるという経験があったので、Bさんとも案外平気で指圧授業ができたのです。

 Bさんの夫のお父さんが亡くなり、年老いた姑ひとりになったので帰国して世話をすることになり、急遽アメリカへ小学生の娘さんを連れて立ちました。嫁が姑の面倒をみるというのは日本と同じですね。
 Bさんの夫R氏は日本にあと数年残って大学教授を続けるそうです。
 「タンシンフニン(単身赴任)デス。」
と寂しがっていました。

(附記:このご夫妻の娘Fちゃんは大学生の時日本に二ヶ月来て、わたしのところの指圧を勉強していきました。Twitterで交流が繋がっています。)

 このBさんから多くの外国人生徒が派生しました。
 Bさんは自分のパートナーに友人のアメリカ人女性Sさんを連れて来たのです。彼女はアースデイ(地球の日)という世界的な環境保護市民運動の名古屋のリーダーで長良川河口堰の反対運動などでも活躍していましたが、2年前帰国して、マッサージの学校に進みました。驚いたことに、わたしのところで勉強していた時間が考慮されて、向こうの学校の授業時間が短縮できるのだそうです。わたしはSさんに頼まれて証明書を2通書いて送ったのです。

 SさんはD君というハンサムな米国人青年を連れて来ました。今度はそのD君がカナダ人のT君という大きな熊のような青年を伴って勉強するようになりました。
 D君はニューヨークに住む母親が肺ガンで余命いくばくもないという理由で帰国し、その後アフリカに2度ほどわたり、現在ニューヨークに戻っているそうです。今、彼の弟のC君が調整に来ています。D君がカメルーンで買ったお土産のお面が施術所に今も掛かっています。

 熊のようなT君はいったん帰国して大学に戻り、先生の資格を取りしばらくパートの教員をしていましたが、前から興味のあった禅の勉強のために再来日、広島県にある国際禅堂で9カ月修行したのち、今年の5月末に帰国しました。
 帰国の数日前、わたしのところに調整を受けがてら別れの挨拶にきました。プレゼントに白隠禅師の「夜船閑話」という健康法として有名な本をくれました。その表紙裏にメッセージが書いてありました。

Misima-sensei,
You are a perfect example of living Zen.
Your work, your effort and your compassion
shows the true spirit of a BOSATSU.
Thank you, Gassho(合掌).
                   呑海

 呑海というのは得度を受けた彼の仏弟子としての名前です。
 メッセージの意味は、気恥ずかしくて訳せません。辞書を片手にどうぞ。
ことほどさように彼は真摯に禅を日常生活の中に取り込み、あらゆるものを我が師匠としてとらえた行き方を念願しているのです。実に人当たりのよい好青年でした。カナダにはJさんという以前からのガールフレンドが待っていますから、近い将来結婚の報が入ることでしょう。彼女も私のところに出入りしてました。

(附記:カナダ人TさんとJさんは子どもを一人得て三人で仲良く暮らしています。Tさんは二度来日、息子さんも一緒に来ました。また、私の息子がカナダへ旅行したとき大変お世話になりました。今もJさんは毎日Instagramを更新しているのでカナダの雄大な風景を楽しむことが出来ます)

 T君からA君、A君からS、R、P、M、R、C・・・という具合にもう数えきれない程の外国人がやって来ては帰国していきました。

 さて、親しかった3人のうち、Bさん、T君については書きました。最後のひとりはJ君です。
 J君はアメリカでアマレスを8年練習し、日本では合気道を2段までとって帰国しという格闘技の好きな青年です。優しい顔と頑丈な体と周囲に対する気配りの行き届いた心の持ち主でした。その幅広い心くばりはアメリカの大学でユングの心理学を学んだためでしょうか。
 現在アジア各国を旅行中で、9月からアメリカのマッサージ学校へ通うそうです。わたしは彼のために入学に必要な紹介状を書きました。

 この紹介状の中にアメリカ的な考えを表すおもしろい例があります。
 たくさんの質問のうち、彼の人生観、知的能力、他人から見た長所、短所などはまだ分かるのですが、中に、

  彼がこの学校に入ることで我が校はいかなる利益を得るか

という項目があったのには驚きました。

 生徒として我が校に入学するからには当校から生徒に利益(知識・技術・資格)を与えると同時に生徒も我が校に利益をもたらす人物でなければならないという考えでしょう。何につけ自主性・自立性を重んじる国民性です。自分を中心に世界を眺め、そのために負う責任を明確に自覚することを大切にするのです。なるほど、こうことがアメリカ的なのかと深く考えさせられました。

 その点日本人は自分が益を得ることばかり考えて、先方に自分がいかなる益を与えられるかをあまり考えないのではないでしょうか。その代わり相手の責任もあまり深追いしないのです。自分も権利を主張する代わりに相手の権利も尊重するという二方向性の視点、これは日本人も大いに学ばねばならない点でしょうね。

 今、大リーグで野茂投手が活躍しています。その実力と活躍をアメリカ人も素直に評価してくれています。すごいものはすごいと。それに対して、横綱曙が勝つと座布団が舞うという日本人の狭量さ。自分の応援チームが不利になるとグラウンドにものを投げ込むという幼稚さ。敵味方を越えて素晴らしいプレーを評価できないのです。今後、野茂投手のように日本人もどうどうを自分の実力を示していけば、だんだんこうした島国的劣等感はなくなっていくのでしょうか。そうありたいものです。

 J君は5年間の日本での生活でアメリカの独立心と日本人の相互にもたれ合う生活を体験し、今は日本の方が暮らしやすいと言っています。名古屋が一番リラックスできるとも言います。確かに彼の目配りには日本的な印象を受けました。いつも皆の調和を取ろうという正確でした。どちらかというとアメリカ人は集団の中で常にリーダーであろうとします。

 その点ではJ君は日本に住むほうが気楽なのかもしれません。しかし、彼は他国の文化を素直に認める腹の大きさを持っています。タイの文化も、韓国の文化も素晴らしいもの、同様に日本人も好き、つまり、物事の良いところを素直に掬い上げることができる性格なのです。これはアメリカ人というより彼の独自のものでしょう。国際関係で練り上げられた真の国際人と言えるかも知れません。こうした好漢が日本にも大勢増えることを願います。

(附記:彼は帰国後マッサージ師になりましたが、その後Naturopathyというアメリカ独自の医療のドクターになって海の近くにオフィスを構え、暇があるとサーフィンをしています。彼ともFacebookで再開できました。)

 今、わたしの教室にはアメリカ、オーストラリア、イギリス、オランダ、ニュージーランド、ブラジル、ルーマニア、カナダ、日本の人が来てわいわいがやがややっています。そのわたしとオランダ人の会話の仲立ちをルーマニア人が英語でするという奇妙な組み合わせ。

 そこに共通している感情はとにかく指圧の勉強を通じて、みんなでうまく仲良くやっていこうというものです。この互いに互いを思いやること、これは洋の東西を越えた人類の持っている共通の優れた感情であり、知性なのだと思っています。そしてそれは努力を必要とするものであることも特記しなければならないでしょう。

 

2020/08/18

宮澤賢治生誕百年(1995年)

 宮澤賢治生誕百年(1995年)

賢治生誕百年で映画や出版が騒いだのはついこの前だと思っていましたが、1995年のことでした。もう25年も経つのです。以下の文章は1995年8月に書きました。

 

 先だって、敬愛する俳句仲間で鳳来寺在住のOさんのお母さんが九十九歳で亡くなられました。九十九歳と言えば俗に言う白寿。世間的には天寿を全うしたということになりましょう。

 しかし、ここ数年、忙しい山の管理業の傍ら、献身的にお母さんのお世話をしてこられたOさんからは、六十三年間ずっと一緒に暮らしてきた母との決別の寂しさはとても深いものであること、またその寂しさは時間によって解決してもらうしかないという内容のお手紙をいただきました。

 特にお父さんが亡くなってからの二十五年間の自分の人生はお母さんの大きな愛に支えられてきたと言われるのです。なぜなら、江戸時代から続く広大な森を相続し、それを維持し、働く人達の生活を保障しなければなりません。円高で輸入材がとても安く、国内の林業不況は深刻です。林業家にとって相続はもっとも厳しい選択と言えます。

 森は景観と空気と水の最後の砦です。今、その森を保護している人達が大変苦しんでいるのですが、Oさんはあえて、森を相続して維持するという厳しい道を選びました。売って相続税を払ってしまった方がどんなに楽か分からないと言います。

 そんなOさんをお母さんが励ましてくださった訳ですね。もちろん、日常の生活全体にお母さんとの掛け替えのない交流があったことでしょうが。
 そのお母さんとの六十三年に及ぶ暮らしが終わってしまったと言う寂しさの中におられるのです。

 他人は九十九歳という年齢を聞くと
「大往生だね。」
と簡単に言いますが、当人にとっては年齢は関係ありません。

 俳句仲間の話では、Oさんのお母さんの訃報は林業に多大な功績のある人の死として新聞にも書かれていたそうです。長寿であり、業績も果たした、つまり、功なり名とげた立派な人生を静かに終えられたのです。
 ご冥福をお祈りいたします。

 ところで、Oさんには大変失礼ですが、わたしは全く別の意味で感慨を覚えました。それは、Oさんのお母さんが明治二十九年生まれとお聞きしたからです。

 この《游氣風信》にも度々書いたようにわたしは少年時代から宮沢賢治が好きで、二十代には拙いながら研究論文を書いたり、作品の舞台になった岩手県を徒歩や単車で旅行したことがあります。当時はまだ今ほど賢治ブームではなく、地元の人もなんで宮沢賢治なんか訪ねてきたのか不思議そうでした。むしろ、空襲を逃れて賢治の実家にやって来て、そのまま花巻の田舎に生活の場を求めた高村光太郎の方を地元の人々は尊敬していました。
 その宮沢賢治が生まれたのも明治二十九年。賢治とOさんのお母さんの生まれが同じ年と知って、ひとしお感慨深いものがあったのです。

 賢治は昭和八年に三十七歳で亡くなっています。当時不治の病であった結核でした。

 わたしが初めて賢治の童話「どんぐりと山猫」を読んだのが小学校五年位の時でした。その時すでに賢治は遥か昔に死んだ偉い人という印象だったのです。なにしろ、図書室の本棚には賢治の偉人伝まであったのですから。これではまるっきり歴史上の人ではありませんか。

 ところが、Oさんのお母さんを知って、賢治の人生が本当はさほど遠くないのだと改めて思い至りました。賢治と同じ時代の空気を呼吸した人が身近に生きておられたのですから。

 このことは意外な驚きと同時に、賢治をより身近に感じる契機ともなったのです。しかし、これは本当にOさんには失礼な感慨でした。お詫びします。

 折しも、来年は宮沢賢治生誕百年。出版業界を中心として演劇やテレビ、その他で大きなイベントが計画されているようです。

 とりわけ、近年、賢治の生態学を先取りしたような環境に対する付き合い方の先見性や、教育者として卓越した感性(八十才を過ぎた教え子たちが今でも賢治から受けた当時の授業を再現して懐かしむことができるのです)を持っていたことなどが評価され、以前からの詩人、童話作家、広範な芸術活動、農村運動家、信仰者、土壌科学者などという実に多くの側面を見せていた賢治像にまた、新たな照明が当たりそうなのです。

 生誕百年に先駆けて、筑摩書房から新校本「宮沢賢治全集」の発刊が始まりました。これは二十年前に刊行された校本が改定されるものです。前回は十四巻(十五冊)、今回は十六巻に別巻一冊という計画だそうで、現在までに四冊出ています。

 校本というのは遺された賢治の原稿はもちろん、手紙、絵画やいたずらがき、学校の作文や手帳のメモまで全ての遺墨を明らかにして世に示そうというものです。さらに原稿の書き直した所はもちろん、消しゴムで消したあとの凹みまで光を当てて解読して明らかにしてしまおうという徹底的な試みです。それによって、賢治の創作や思考の後を、逐一時間的変化を鑑みながら辿るという他の作家全集には行われていない画期的な個人文学全集でした。

 二十年前は、わたしはまだ貧乏学生でしたから、食費を削って一冊数千円の本を買ったものです。何しろ、わたしの一カ月の小遣いでは買えない額でした。今回は驚いたことに当時とそんなに値段が変わらないので助かります。ただし、本の置き場にはいささか困窮していますが。

 また、すでに「宮沢賢治の世界」展が各地で行われており、名古屋では九月十四日から二十六日まで栄の松阪屋本店大催事場で朝日新聞社主催で開催されます。東京では新宿の小田急美術館で開催され大好評だったようです。
展示品は賢治の原稿や手帳、初版の心象スケッチ「春と修羅」、童話集「注文の多い料理店」、作曲した楽譜、手紙、賢治の画いた絵、当時の写真、愛用のチェロなどで、わたしも今からわくわくして待っています。

 先頃、宮沢賢治学会から「賢治イベント情報 賢治百年祭」というパンフレットが届きました。それを見ますとあるはあるは・・・。

 賢治の出身地岩手県花巻市主催の「賢治百年祭」。色々な展示、講演、映画、劇、外国人が見た賢治、合唱、縁(ゆかり)の地のウォーキング、トークショウなどが、文化会館や河川敷、賢治設計の花壇の前、市内の公園などで行われ、同時に東京でも有楽町マリオンで外国人研究者の講演が行われるようです。

 その他、各地でもさまざまな催しが計画されています。
 全国的に活動して評価の高い林洋子さんの薩摩琵琶の弾き語り「なめとこ山の熊」。作曲家林光さんのクラシックコンサート「セロ弾きのゴーシュ」。オペレッタ「かしわばやしの夜」。映画観賞「風の又三郎」。茨城大学による公開講座「イーハトーブの世界-宮沢賢治入門」。賢治の学校主催の「よむ・キク・話す・舞う・演じる プラス オイリュトミーとクラウン」。オペラシアターこんにゃく座によるオペラ「セロ弾きのゴーシュ」。花巻出身のベテラン女優、長岡輝子による朗読会。その他、合唱、リーコーダー、偲ぶ会、エスペラント大会、農民劇。
とても書き切れません。

 変わったところでは阪神大震災チャリティー「賢治白寿祭 映画と朗読の会」や、俳句大会、なんとイーハトーブレディース駅伝まであります(イーハトーブについては後述)

 出版の方ではいくつかのCDや、カレンダー、絵葉書など。研究書や賢治の作品集などの計画は目白押しでしょう。

 それらが地元の岩手県だけでなく北海道、東京、関東、愛知、大阪、神戸、徳島。その他、広い地域で行われるのですから驚きです。
 主催も大学や愛好者グループから子供会、地方自治体や教育者のグループ、詩人を中心とした会、宗教団体などさまざま。

 紹介した中にイーハトーブという聞きなれない言葉がありました。これは宮沢賢治が生まれ、生涯を過ごした岩手県をドリームランドとして呼ぶときに名付けたもので、エスペラント風に呼んだのだとされています。
 エスペラントとは「希望のある人」という意味で、ポーランドのザメンホフという眼科医が考案した世界共通語です。明治時代に日本エスペラント協会ができていますが、賢治はその理念に打たれて一生懸命勉強したようです。

 「世界が全体に幸福にならないうちは個人の幸福はありえない。」

と望んでいた賢治にとって世界共通語はまさに理想の言葉だったのでしょう。

 今日、実質的な世界共通語は英語ですが、これは大英帝国の植民地が世界中にあったという名残でしかありません。つまり強者の言語に従わなければならなかったという歴史的な現実主義によるものです。
 同様にアジアにおいて、今でも韓国や台湾の高齢者が日本語を上手に話すのは、戦前の日本の植民地政策によって母国語を禁じられ日本語を無理強いされたという歴史の証なのです。英語のアジア版と言えます。

 しかし、エスペラントはそういう弱い者が強い者から無理やり押し付けられた言葉ではない点で高く評価できます。が、現実的な実用性でははるかに英語に劣っています。それが、エスペラントが広がらない理由でしょう。

 それから、知り合いのアメリカ人が興味深いことを言っていました。
 「言葉にはその国の文化がある。しかし、エスペラントにはそれが無い。だから僕はエスペラントの理念に賛同はするけど勉強はしない。それなら、タイ語や日本語の勉強をしたほうがいいのだ。」
 これも優れた見識です。彼は各民族の精神を研究していました。アジア、中でも特に日本に興味があって、日本に住み、いろいろな体験をしたのち、アフリカのセネガルに二年ほど暮らし、今はニューヨークに戻っています。

 賢治に話を戻しましょう。なぜ賢治は岩手県をわざわざエスペラント風にイーハトーブなどと名付けたのでしょう。
 賢治は厳しい気象と、封建性の厳しかった時代の岩手に生活する貧しい農民たちに、宗教・科学・芸術を統合した精神革命を通して、希望を持って欲しかったのです。そのために農村の青年を集めて、ささやかながらオーケストラを結成したり農民劇を作って貧しく暗い農村の生活を少しでも明るく創造性あるものに変換したかったのです。

 「そこでは、生きることそれ自体が芸術なのだよ。」

と。大ざっぱに言えば、それが岩手県をイーハトーブとエスペラント風に名づけた理由なのです。

 この試みは今日でも多くの人々によって静かに各地で実践されています。

古書店の思い出

 古書店の思い出

1993年8月

 最近なかなか行けないのですが、わたしは古本屋が大好きです。


 薄暗い店内にカビとホコリの入り混じった湿っぽい匂いが立ち込め、帳場には鼻眼鏡をかけたおやじが新聞を読みながら時々積み上げられたカウンターの隙間からぐるっと店内を上目使いに見渡します。

 客はうしろめたいことをしているかのごとくうつむきがちに本を立ち読みしながら、 何か堀り出し物はないかと物色するのです。物色と言っても古書マニアのように売値の高い希覯書を探しているのではありません。読みたくても新刊書では高くて手が出 ない本だとか、すでに絶版になっている本などを探しているのです。あるいは探すという行為自体を楽しんでいる場合もあります。

 古書には深い思い出があります。それは宮沢賢治が自費出版した2冊の復刻版を苦労して買い求めたことです。

 宮沢賢治が大正時代に自費出版した詩集「春と修羅」や童話集「注文の多い料理店」 は現在1冊200万円もの値がついているといううわさです。希少価値ゆえの投機的な側面もあるようですが、賢治ファンは別の意味で「春と修羅」や「注文の多い料理店」 を入手したいのです。


 理由は、それらの本の紙の質から表紙の材質、挿絵、色まで賢治自らが細心の注意 を払い当時の技術で望める最高の本として発行していたからです。つまり今日の本の ように出版社が装丁をいっさい仕切るのではなく、すみずみまで賢治の心が配られて いたからこそ、何としてもその本を手にしたいのです。ですから本物が無理なら実物 に近い復刻版でもかまわないわけです。


 実際問題として古書店で本物を入手することは金銭的問題だけでなく困難でしょう。誰も手放さないからです。

 ということで実物の入手は現実的に無理でしたが、わたしはこれらの本のレプリカ (本物そっくりに作られた偽物)を手に入れることができたのです。それは学生時代 のことですからすでに20年近い年月が過ぎ去りました。

 当時「ほるぷ」という出版社から日本の名著復刻版シリーズが出たのです。その中 に賢治の「春と修羅」「注文の多い料理店」はともに別々のシリーズとして発行され ました。わたしは先に述べた理由からレプリカでもそれらが欲しくてたまりませんで した。
 けれどもそれらは何十冊かのシリーズの一巻として出ましたから、その中の一冊だ けを入手することはできません。そのためには大枚をはたいて全部買わねばならない のです。両方を手に入れるためには2つのシリーズを買わなければなりなせんからそ れは貧乏学生としてはなっから無理な話でした。

 しかし希望は簡単に諦めるものではありません。東京に指圧の勉強にひと夏の間行っ たとき、わたしは日本一の神田の古書店街を数日かかって何百件も回りました。ここ なら絶対あるという信念があったのです。けれどもそれは徒労に終わりました。
 名著復刻版シリーズの本はばら売りで結構陳列してあるのに目当ての本はどこにも ないのです。当然でした。そのシリーズを買った人だってその中の数冊あるいは一冊 が目的だったのです。要らない本は売りに出して資金を少しでも回収しようとしたに 違いありません。そして宮沢賢治の本を目当てに買った人も多いに相違ないのです。意外に思われるかもしれませんが、賢治の愛読者はけっこう熱烈な人が多いのです。わたしでもお金さえ自由になるならそうしたに決まっているのですから。

 それでも東京に来る機会はそんなに無いのだからと諦めませんでした。神田がだめ なら高田馬場があるさと、古書店マップ(地図)を買って、時間のあるときはあちこ ちと足を延ばしました。そしてついに所要で訪れた荻窪の小さな書店の高い棚の上に 置かれている復刻版「春と修羅」を発見したのです。その本は復刻版と言えども貧乏学生にはかなりの値段でした。

 さてもう一方の「注文の多い料理店」の方はひょんなことから入手できたのです。

 弟が地元一宮の古書店に行ったとき、家に電話をよこしました。なんとそこに復刻 版「注文の多い料理店」がある、しかしお金がないから店に購入予約をしてもいいか と言うのです。わたしはもちろん頼むと答え、すぐに財布を持って書店に向かいまし た。思い返せばこのときばかりは、我が人生に弟がいてよかったと心底思いました。正直言って、わたしはそれらの復刻版が欲しいという理由だけで大学を卒業したら ほるぷ出版に就職しようかと真剣に考えていたくらいなのです。

 名古屋の本山は学生街ですから、ご多分に漏れず何軒かの古本屋があります。10年 くらい前、その付近の一人暮らしのおばあさんのお宅へ定期的に往療に行ってい ましたが、その往路復路、ふらふらと古書を見に立ち寄るのが楽しみでした。

 ある日、大学生が不要になった学校のテキストを売りに来ていました。

 「どうして、上巻しかないんですか。」気難しそうな店のおばさんが聞いていまし た。
 「上巻だけでは買ってもらえないでしょうか。」
 「だめということはないけど、上巻を売り払って下巻だけ手元に置くなんておかし いでしょう。」
 「下巻は大学の講義ではやらなかったから買ってないんです。」
 「講義でやらなくても、わたしが学生のころは自分で下巻を買って読んだものです よ。もっとやる気を出さなきゃ。大学に行きたくても行けない人が一杯いるのに。し かもあなたは○○○大学でしょう。もっとしっかり勉強しなさいよ。国立大学だから 税金だって無駄になります。」
  学生の向学心の無さが信じられないという呆れと怒りの声が店中に響いていまし た。

 同じ店で風采芳しからぬ青年がときどき古ぼけた詩集や格安の美術書や俳句の本を購入していました。店のおばさんは眼鏡の奥の大きなまなこをぎょろぎょろさせてそ の貧相な男に興味があってたまらないという顔をしていました。ある日ついに興味が高じて勘定のとき口を開きました。

 「あなたは良く買いに来るわね。学生さんにしては年がいっているし、昼間からふ らふらしているけど何をしているの。」
 「いや、まあ適当にやってます。」
 「まさか失業中なの。」
 「まあ、仕事はしてますが失業者と似たようなもんです。」
 「本が好きなようだけど、無理して買っているのではないでしょうね。家族に苦労 をかけてはだめよ。仕事は何。」
 「指圧や鍼。」
 おばさんは目をぱちくりさせて失業者風の青年を哀れみとも励ましともつかぬ顔で 見ながら、どうしても欲しい本があって支払えないときは分割にしてあげると言いました。そしてその青年の買いたい本の値札よりほんの少し安くしてくれたのです。

 こういう気概のある店主が古本屋には多いので大好きです。
 先の風采の上がらぬ貧相な青年ですか。あれから10年たって今はこうしてワープロ が買えるまでになりました。

追記)いつだったかこの店の近所へ行く機会がありました。既に建物は跡形も無く大きなビルになっていました。