2020/08/18

宮澤賢治生誕百年(1995年)

 宮澤賢治生誕百年(1995年)

賢治生誕百年で映画や出版が騒いだのはついこの前だと思っていましたが、1995年のことでした。もう25年も経つのです。以下の文章は1995年8月に書きました。

 

 先だって、敬愛する俳句仲間で鳳来寺在住のOさんのお母さんが九十九歳で亡くなられました。九十九歳と言えば俗に言う白寿。世間的には天寿を全うしたということになりましょう。

 しかし、ここ数年、忙しい山の管理業の傍ら、献身的にお母さんのお世話をしてこられたOさんからは、六十三年間ずっと一緒に暮らしてきた母との決別の寂しさはとても深いものであること、またその寂しさは時間によって解決してもらうしかないという内容のお手紙をいただきました。

 特にお父さんが亡くなってからの二十五年間の自分の人生はお母さんの大きな愛に支えられてきたと言われるのです。なぜなら、江戸時代から続く広大な森を相続し、それを維持し、働く人達の生活を保障しなければなりません。円高で輸入材がとても安く、国内の林業不況は深刻です。林業家にとって相続はもっとも厳しい選択と言えます。

 森は景観と空気と水の最後の砦です。今、その森を保護している人達が大変苦しんでいるのですが、Oさんはあえて、森を相続して維持するという厳しい道を選びました。売って相続税を払ってしまった方がどんなに楽か分からないと言います。

 そんなOさんをお母さんが励ましてくださった訳ですね。もちろん、日常の生活全体にお母さんとの掛け替えのない交流があったことでしょうが。
 そのお母さんとの六十三年に及ぶ暮らしが終わってしまったと言う寂しさの中におられるのです。

 他人は九十九歳という年齢を聞くと
「大往生だね。」
と簡単に言いますが、当人にとっては年齢は関係ありません。

 俳句仲間の話では、Oさんのお母さんの訃報は林業に多大な功績のある人の死として新聞にも書かれていたそうです。長寿であり、業績も果たした、つまり、功なり名とげた立派な人生を静かに終えられたのです。
 ご冥福をお祈りいたします。

 ところで、Oさんには大変失礼ですが、わたしは全く別の意味で感慨を覚えました。それは、Oさんのお母さんが明治二十九年生まれとお聞きしたからです。

 この《游氣風信》にも度々書いたようにわたしは少年時代から宮沢賢治が好きで、二十代には拙いながら研究論文を書いたり、作品の舞台になった岩手県を徒歩や単車で旅行したことがあります。当時はまだ今ほど賢治ブームではなく、地元の人もなんで宮沢賢治なんか訪ねてきたのか不思議そうでした。むしろ、空襲を逃れて賢治の実家にやって来て、そのまま花巻の田舎に生活の場を求めた高村光太郎の方を地元の人々は尊敬していました。
 その宮沢賢治が生まれたのも明治二十九年。賢治とOさんのお母さんの生まれが同じ年と知って、ひとしお感慨深いものがあったのです。

 賢治は昭和八年に三十七歳で亡くなっています。当時不治の病であった結核でした。

 わたしが初めて賢治の童話「どんぐりと山猫」を読んだのが小学校五年位の時でした。その時すでに賢治は遥か昔に死んだ偉い人という印象だったのです。なにしろ、図書室の本棚には賢治の偉人伝まであったのですから。これではまるっきり歴史上の人ではありませんか。

 ところが、Oさんのお母さんを知って、賢治の人生が本当はさほど遠くないのだと改めて思い至りました。賢治と同じ時代の空気を呼吸した人が身近に生きておられたのですから。

 このことは意外な驚きと同時に、賢治をより身近に感じる契機ともなったのです。しかし、これは本当にOさんには失礼な感慨でした。お詫びします。

 折しも、来年は宮沢賢治生誕百年。出版業界を中心として演劇やテレビ、その他で大きなイベントが計画されているようです。

 とりわけ、近年、賢治の生態学を先取りしたような環境に対する付き合い方の先見性や、教育者として卓越した感性(八十才を過ぎた教え子たちが今でも賢治から受けた当時の授業を再現して懐かしむことができるのです)を持っていたことなどが評価され、以前からの詩人、童話作家、広範な芸術活動、農村運動家、信仰者、土壌科学者などという実に多くの側面を見せていた賢治像にまた、新たな照明が当たりそうなのです。

 生誕百年に先駆けて、筑摩書房から新校本「宮沢賢治全集」の発刊が始まりました。これは二十年前に刊行された校本が改定されるものです。前回は十四巻(十五冊)、今回は十六巻に別巻一冊という計画だそうで、現在までに四冊出ています。

 校本というのは遺された賢治の原稿はもちろん、手紙、絵画やいたずらがき、学校の作文や手帳のメモまで全ての遺墨を明らかにして世に示そうというものです。さらに原稿の書き直した所はもちろん、消しゴムで消したあとの凹みまで光を当てて解読して明らかにしてしまおうという徹底的な試みです。それによって、賢治の創作や思考の後を、逐一時間的変化を鑑みながら辿るという他の作家全集には行われていない画期的な個人文学全集でした。

 二十年前は、わたしはまだ貧乏学生でしたから、食費を削って一冊数千円の本を買ったものです。何しろ、わたしの一カ月の小遣いでは買えない額でした。今回は驚いたことに当時とそんなに値段が変わらないので助かります。ただし、本の置き場にはいささか困窮していますが。

 また、すでに「宮沢賢治の世界」展が各地で行われており、名古屋では九月十四日から二十六日まで栄の松阪屋本店大催事場で朝日新聞社主催で開催されます。東京では新宿の小田急美術館で開催され大好評だったようです。
展示品は賢治の原稿や手帳、初版の心象スケッチ「春と修羅」、童話集「注文の多い料理店」、作曲した楽譜、手紙、賢治の画いた絵、当時の写真、愛用のチェロなどで、わたしも今からわくわくして待っています。

 先頃、宮沢賢治学会から「賢治イベント情報 賢治百年祭」というパンフレットが届きました。それを見ますとあるはあるは・・・。

 賢治の出身地岩手県花巻市主催の「賢治百年祭」。色々な展示、講演、映画、劇、外国人が見た賢治、合唱、縁(ゆかり)の地のウォーキング、トークショウなどが、文化会館や河川敷、賢治設計の花壇の前、市内の公園などで行われ、同時に東京でも有楽町マリオンで外国人研究者の講演が行われるようです。

 その他、各地でもさまざまな催しが計画されています。
 全国的に活動して評価の高い林洋子さんの薩摩琵琶の弾き語り「なめとこ山の熊」。作曲家林光さんのクラシックコンサート「セロ弾きのゴーシュ」。オペレッタ「かしわばやしの夜」。映画観賞「風の又三郎」。茨城大学による公開講座「イーハトーブの世界-宮沢賢治入門」。賢治の学校主催の「よむ・キク・話す・舞う・演じる プラス オイリュトミーとクラウン」。オペラシアターこんにゃく座によるオペラ「セロ弾きのゴーシュ」。花巻出身のベテラン女優、長岡輝子による朗読会。その他、合唱、リーコーダー、偲ぶ会、エスペラント大会、農民劇。
とても書き切れません。

 変わったところでは阪神大震災チャリティー「賢治白寿祭 映画と朗読の会」や、俳句大会、なんとイーハトーブレディース駅伝まであります(イーハトーブについては後述)

 出版の方ではいくつかのCDや、カレンダー、絵葉書など。研究書や賢治の作品集などの計画は目白押しでしょう。

 それらが地元の岩手県だけでなく北海道、東京、関東、愛知、大阪、神戸、徳島。その他、広い地域で行われるのですから驚きです。
 主催も大学や愛好者グループから子供会、地方自治体や教育者のグループ、詩人を中心とした会、宗教団体などさまざま。

 紹介した中にイーハトーブという聞きなれない言葉がありました。これは宮沢賢治が生まれ、生涯を過ごした岩手県をドリームランドとして呼ぶときに名付けたもので、エスペラント風に呼んだのだとされています。
 エスペラントとは「希望のある人」という意味で、ポーランドのザメンホフという眼科医が考案した世界共通語です。明治時代に日本エスペラント協会ができていますが、賢治はその理念に打たれて一生懸命勉強したようです。

 「世界が全体に幸福にならないうちは個人の幸福はありえない。」

と望んでいた賢治にとって世界共通語はまさに理想の言葉だったのでしょう。

 今日、実質的な世界共通語は英語ですが、これは大英帝国の植民地が世界中にあったという名残でしかありません。つまり強者の言語に従わなければならなかったという歴史的な現実主義によるものです。
 同様にアジアにおいて、今でも韓国や台湾の高齢者が日本語を上手に話すのは、戦前の日本の植民地政策によって母国語を禁じられ日本語を無理強いされたという歴史の証なのです。英語のアジア版と言えます。

 しかし、エスペラントはそういう弱い者が強い者から無理やり押し付けられた言葉ではない点で高く評価できます。が、現実的な実用性でははるかに英語に劣っています。それが、エスペラントが広がらない理由でしょう。

 それから、知り合いのアメリカ人が興味深いことを言っていました。
 「言葉にはその国の文化がある。しかし、エスペラントにはそれが無い。だから僕はエスペラントの理念に賛同はするけど勉強はしない。それなら、タイ語や日本語の勉強をしたほうがいいのだ。」
 これも優れた見識です。彼は各民族の精神を研究していました。アジア、中でも特に日本に興味があって、日本に住み、いろいろな体験をしたのち、アフリカのセネガルに二年ほど暮らし、今はニューヨークに戻っています。

 賢治に話を戻しましょう。なぜ賢治は岩手県をわざわざエスペラント風にイーハトーブなどと名付けたのでしょう。
 賢治は厳しい気象と、封建性の厳しかった時代の岩手に生活する貧しい農民たちに、宗教・科学・芸術を統合した精神革命を通して、希望を持って欲しかったのです。そのために農村の青年を集めて、ささやかながらオーケストラを結成したり農民劇を作って貧しく暗い農村の生活を少しでも明るく創造性あるものに変換したかったのです。

 「そこでは、生きることそれ自体が芸術なのだよ。」

と。大ざっぱに言えば、それが岩手県をイーハトーブとエスペラント風に名づけた理由なのです。

 この試みは今日でも多くの人々によって静かに各地で実践されています。

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