2020/08/16

佐久総合病院若月俊一先生二題

 今回紹介するのは長野県の佐久総合病院を田舎病院から日本を代表する地域医療の中核病院に作り上げられた若月俊一先生(1910~2006)に関する文章です。「権利と責任」は1993年9月、「信州に上医あり」は1994年2月発行の個人通信「游氣風信」に書きました。当時も今も多くの病院が佐久総合病院をお手本にし、沢山の医師が若月俊一先生を尊敬しています。

 私は一度だけ病院の食堂で若月先生をお見かけしました。患者さん達とにこやかにお話しされていましたが、戦争末期に赴任されたときは地元の人に受け入れられず大変なご苦労をされたようです。

 ここに書いた二つの文章は今から30年近く前のことになります。その間に佐久市は周囲の村を飲み込んで大きくなっています。病院のあった臼田町も今は佐久市臼田になっているようです。病院を取り囲む社会情勢や、日本全体を覆う経済状態も大きく変化しています。

権利と責任

 この夏長野県に行ったとき、所用で地元の病院にでかけました。病院の名前は佐久総合病院。千曲川に沿った小さな町の驚くほど大きな農協系の病院です。総合の名に恥じず、歯科から脳外科・精神科まであらゆる専門科を網羅しています。設備も常に時代の先端をいく病院ですが、初めて見た時は何ゆえ山間の町にこんな大規模の病院が必要なのか、経営的に存在できるのか不思議でした。町の人全員が入院できるのではないかと思うほど大きいのですから(これはまあ大袈裟ですが)。

 一つの科に常に先生が2人から5人ほど詰めていて大勢の患者さんと親切に応対しています。また受付には英語・タイ語・ポルトガル語などのパンフレットが置いてあって急増している外国人にも医療サービスを心掛けているようです。

 創立者は現院長の若月俊一先生です。NHKテレビでもおなじみだと思いますが老人医療と農村医療、とりわけ農村医療の先駆者として著書も多く書かれておられます。

 病院創立は戦争末期だそうです。戦後、医師や看護婦が各村を回って公衆衛生や予 防接種、栄養の知識などの重要性を村芝居の形式で啓蒙に励んだことは有名です。

 その病院の壁に病気の説明や医師・看護婦の画いた絵とならんで[患者さんの権利と責任]という文が掲示してありました。読んでなるほどと感心しましたのでここに 無断で紹介します。

患者さんの権利と責任

1 適切な治療を受ける権利
2 人格を尊重される権利
3 プライバシーを保証される権利
4 医療上の情報の説明を受ける権利
5 関係法規や病院の諸規則を知る権利など

 これら人間としての倫理原則をお互いに大切にしなければならない。しかし患者さ んも病院から指示された療養については専心これを守ることを心掛けなければならな い。
 医師と協力して療養の効果をあげることこそが大切なのである。
1983年1月
佐久総合病院

 どうです。見事なものですね。
 ともすると最近は患者の権利ばかりに目が向かいがちですが、この文では患者さん も療養については医師の指示を守ること、医師と協力することというように権利に付 帯する義務を果たすことが必要と書いてあります。

 調整にみえた方々の中には嫌な経験をお持ちなのでしょうが、病院や医師を誹謗する方がいます。しかし重度な病気や障害に対する医療は医師や医師を取り巻く医療職 にある人達(看護婦、薬剤師、理学療法士、臨床検査技師、放射線技師、心理療法士、 社会福祉士など)と患者およびその家族のチームワークによって初めて成立するもの です。一度医療に身を委ねたならお互いに全力を尽くして協力し合わねば治る病気も 治りません。
 ただし医師側に上記の1から5がまったく守って貰えないようなら医師を変えるべき でしょう。これは指圧や鍼灸の施術でも同じことです。

 社会福祉士という患者の側に立っていろいろと相談に乗ってくれる専門職が国家資格になりました。鍼灸専門学校の同級で大きな病院に理療師として努めている友人も かなりの難関を乗り越えて見事にこれに合格しました。
 医療やそれにかかわる経済的問題、在宅ケアなどは彼らに相談すると親身になってくれます。大きい病院ならたいてい何人か勤務しているはずです。

 医師と患者との意志疎通を図ることをインフォームドコンセントと言いますがこれ によってともすれば秘密主義的になりがちな医療の内容を患者が知る権利が保障され ます。しかし同時に今までよりずっと患者に責任が覆いかぶさってくるということで もあります。何事も医者任せにしないで自分自身の知性と理性を総動員し、強い意志と自覚をもって病気と向き合っていかなければならないということですから。

 テレビで人気司会者逸見政孝氏がガンの宣告を受けたから、仕事を休んで闘病に入 る、全力でガンと戦うという意志を表明しましたが、彼にガンを宣告した医師たちは 全力で治療に取り組むでしょうし病院のスタッフも協力を惜しまないでしょう。家族も以前に増して支えあっていかなければなりません。逸見さんがあそこに至るまでにそうとう厳しいインフォームドコンセントがなされたに違いありません。

 これからの医療は従来の「死なせない医療」から、人は必ず死ぬのだからより人間 らしく「尊厳をもって生をまっとうさせる医療」が求められています。

 そのよりよい成果を生む原動力の大半は患者側にあることは何より明白ですね。逸見さんの緊迫した顔が示していたように決して甘くはないのが現実です。

信州に上医あり
 -若月俊一と佐久病院-
          南木佳士著 岩波新書

 長野県南佐久郡臼田町(現在は佐久市)は浅間山と八ケ岳に挟まれた佐久平の千曲川沿いの小さな町です。その川の堤防沿いにまるで要 塞のごとくそびえているのが佐久病院です。
 佐久病院と院長の名は当時すでに知ってはいました。しかし実際に建物を見て、足を踏み入れてみますと、何でこんな田舎にこんな巨大な病院があるのか、経営は成り立つのか、そもそも若月俊一とはいかなる人かという疑問がふつふつと沸き出たのでした。

 その疑問はわたしだけでなくそこを昭和51年、採用試験のために訪問した若き著者、南木先生も同様の感慨を持たれたのです。次のように。

「佐久平と呼ばれる田園地帯を四十分余り走ると、いきなり右側の車窓に七階建ての巨大な建物が姿を現した。(中略)いよいよ八ケ岳山麓の過疎地帯に入って行くのかいささか心細くなっていた私の目に、この建物の大きさは異様に写った。(中略)実際に周囲のひなびた風景を背景にして見ると、佐久病院はあたかも城のような大きさであった。その依って立つ基盤は何なか。交通の便も悪いこんな田舎町になぜこれほどの大規模な病院が建てられたのだろう。誰が、いかなる情念で・・・。」

 著者の興味は院長の若月俊一先生にあります。あるときはその理想に感銘し、またあるときはその俗物的側面に落胆もしますが、著者自身がタイの農村医療に関わった経験から、若月院長が初めて赴任した昭和19年当時の農村とは現在目にしているタイの農村の状況と同じではないかと思い至り、若月院長の心に深く共感を覚えるくだりはなかなか感動的です。
 著者南木医師はタイの現実の前にこう考えました。

「貧しいタイの農村を前にして、絶望感しか抱けなかった私は、これとおなじような状況の戦後の信州の農村で、文字どおり『病気とたたかった』若月のバイタリティーに素直に脱帽した。(中略)私の胸の中に若月に対する尊敬の念が湧いたのはこのときが初めてだった。『あなたはえらい』」

 著者はタイの極貧の農民の現実に対して全くの無力感にさいなまれてしまいます。腹部にガン性の腫瘤を触れた患者に入院を勧めても金が無い。医者にかかるのは大変な贅沢なこと、これは佐久地方に限らず日本中の戦前から戦後のある時期までの農村の実態と重なるのです。

 若月院長はそこでの現実に屈せず、学生時代に学んだ理想的マルクス主義と現実主義の間を縦横に駆け回ってついに小さな村の診療所を今日医師総数130名という大病院に作り上げました。

 もともと若月院長が東大医学部卒業というエリートでありながら何故佐久くんだりまで来たのかと言えば、学生時代反戦運動をし、その後1年間留置された結果、都落ちしたというのが事実であって決して最初から農村医療、地域医療に貢献しようという高邁な理想からスタートしたのではありません。悲惨な医療状況を目の当たりにして学生時代に描いた理想を彼の地に実現しようと持ち前の不屈の反抗心で腐心したのでしょう。

 我が国の農村医療、地域医療の目標とされる病院として、国の内外に高く評価されている佐久病院はこの傑出した院長の力量とそれを支えてきた医師や医療従事者の手によって今日の巨大な近代化された総合病院として発展成長してきたのでしょう。

 この本で特にうれしかったのは次のくだりです。昭和20年11月に医師や看護婦など病院勤務者によって劇団が創設されたのです。

 病院で手遅れの患者ばかり診せられてきた若月は、病気の早期発見と予防のためには自ら村に入って行くしかない考えたのだった。診療も大事だが、予防のための啓蒙活動はより重要だったから、演劇を通じて予防医学を分かりやすく説明した。
 若月が農村演劇に力を入れたのは宮沢賢治に影響されてのことだった。若月は松田甚次郎の著書「土に叫ぶ」の中で、次のような賢治の言葉と出会った。
 「農村で文化活動をするに当たって、二つのことを君たちにおくる。一、小作人たれ。二、農村演劇をやれ。」

 松田甚次郎は明治42年山形県最上生まれ。盛岡高等農林の賢治の後輩に当たります。19歳の時31歳の賢治を訪問し上記の言葉を受けました。
 卒業後村に帰り賢治の教えを実践すべく「最上共働村塾」を主宰し、農村演劇を頻繁に行い、農村活動に奔走。その記録を「土に叫ぶ」と題して出版しますが、昭和18年35歳の若さで世を駆け抜けてしまいました。詳しくは([「賢治精神」の実践 松田甚次郎の共働村塾]安藤玉治著 農文協出版“人間選書”)を参考にしてください。

 長年の賢治ファンとしては「ああここにも賢治が生きていたか」と感じいるばかりです。

 さてこの本にはきれいごとが並べてある訳ではありません。佐久病院と若月俊一をテーマに据えながら、現代の医療の抱える問題のみならず、農業問題やそれを取り巻く社会、さらには理想を実現するために生まれた組織が逆に理想を封じ込めようとする矛盾にも言及されています。初期には理想に燃えた組織の求心力が人を呼び込みますが、組織の肥大化ととも遠心力が高まり分裂を生み出すというどこにでも見られる困難な現実です。

 現在、佐久病院では内視鏡検査を早朝6時から行っているそうです。仕事前に受診できるので検査を受ける人は大変助かりますが、そのための医師や看護婦の労力は大変でしょう。人件費も莫大なものになります。

 気になる点もあります。
 送り手の努力ばかりが見えて、受け手はいつも受け手とし てしか現れてこないのです。
 送り手と受け手の相互浸透が発展を呼ぶのが唯物論の基本にあるし、そこから若月院長が若い時情熱を傾けた共産主義が生まれてきたと思うのですが、その観点からすれば一方的に送る側の努力ばかりが犠牲的に継続できるとは考えられません。むろんこんなことは若月院長にはとうにお解りのはずですからそこに何か大きな壁があったのかもしれません。宮沢賢治も現実にぶち当たって「その真っ暗き大きなものが俺にはどうにも動かせない」と嘆いていましたから。

 今日、巨大化した佐久病院は新たな問題と矛盾を抱えています。医療費抑制策から平成になって赤字にあえいでいるとも書かれています。若月院長の理想がもう若い医師たちには届いていないとも。なぜなら純然たる農村などもはやこの国には無いのですから。

 今日の農民は金も土地も持っていてある意味で都会人より実質裕福になっています。ただそのお金が農業収入でなく給料であるところに農村のみならず今の社会の矛盾が象徴されているように思えます。

 また理想は実現に尽力した人には燦然と輝くものですが、後から実務的に引き継ぐ者にはえてして重荷になるものでしょう。

 それらを踏まえて著者は最後に次のように文学的に見事にまとめます。

 「旅人の目に、小海線の電車の車窓から見える佐久病院の巨大な建物と周囲のひなびた風景がミスマッチと映るのは、旅人の目がおかしいからではなく、若月の抱え込んだ矛盾がいかに大きなものかであるかの証明なのである。佐久病院は若月と昭和という時代の間にできた子供だと書いたが、もしかしたら、この子は人工交配のために子孫を残すことができない一代かぎりの雑種かも知れない。(中略)若月が赴任した当時の理念を失ったとき、佐久病院は単なる大病院の一つに過ぎなくなってしまうのだろうが、少なくとも私は、そうなってしまった佐久病院については二度と書くことはないだろう。」

 農村医療、地域医療に関心ある方のみならず、一人の傑物の一代記として、また組織論としてとても興味深い本に仕上がっています。さすがにすぐれた筆力です。しかもこの手の評伝は何よりその人に対して愛情ある人が書くべきという証明です。さもないと批判のための批判になりがちですから。その点この著者は若月俊一とい言う人物に魅了されながらも、努めて平静に中立にと自らの立場を注意深く保って書かれているところがとても読後感、後味の良い一冊になっています。どうぞ一読を。とても読みやすい文体ですから。わたしの紹介文の読みづらさがこの本の読書欲をそぐとしたらとてもつらいものです。

 

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