2020/08/07

論語読みの論語知らず「師・増永静人の思い出」

 

かつて発行していた月刊個人誌「游氣風信」の2000年6月号と7月号に増永静人先生の論語について書きました。

 本文の終わりの方に書いた以下の言葉は私にとって増永静人先生の遺言です。

 「健康を云々する人間が病気になるのは情けないと思うだろう。しかし、僕だって病気をし、年を取り、死んでいく。だからこそ治療ができる。考えてみなさい。もし僕が病気もせず、年も取らず、死なない鋼鉄のような人間だとして、そんな人間に治療ができるだろうか。そんな鋼鉄みたいな人間に治療してもらって病人はうれしいだろうか。患者は不死身で頑健な理想的な健康体を期待するだろうが、それでは病人に真に共感することはできない。そこからは死や老いが見えてこない。自分自身、いつ病気になり、死ぬか分からない脆弱な存在だからこそ、ここまで真剣に医療について考えてきたんだ。指圧という民間療法を医療の視点で再構築して医療の一端を担うものとして、思想的には医療の根本を為すものとして研究してきたのだ。僕だって病気になる。窮す。でも僕は孔子の言うように乱れたりはしたくない」

 

游氣風信 No,126 2000,6,1 論語読みの論語知らず「師・増永靜人の思い出」(上)同2000,7,1(下)

《游々雑感》

 ある名人落語家の枕(落語の本題に入る前の軽い話)に「無学者は論に負けず、無法は腕ずくに勝つ、などと申しますが・・・」というのがあります。

 これは主として学を見せびらかす人を揶揄する話(「薬缶」や「千早振る」など)の枕に使われるようです。これについては以前《游氣風信》で「知ったかぶり IN 落語」として取り上げました。

  「学問の無い人は、理論的に筋道だった話をすることなく自分の思いを強弁するので、学のある人が論を持って諭そうとしてもかなわない。同様に、法を守らない無法者は暴力的に意を通してしまう。どちらも困ったものだ」というような意味合いでしょう。

 元憲法学者で今は著名な国会議員になっている女性党首が一時「駄目なものは駄目!」「やるっきゃない!」と言い張ったのはこの類いの強弁でしょう。学者を出自をする人でも政治家になると論理を吹っ飛ばす発言をするのだと驚いたことがありました。

 もっともこれは永田町という魑魅魍魎の巣窟、百鬼の夜行する不条理世界に伝わる「永田町の論理」に対抗するために取った特別措置であるとも考えられますが。

 先程の落語の枕に戻ります。前述したように「無学者は論に負けず、無法は腕ずくに勝つ」は、無学者や無法者を困った存在と見なしていますが、別の見方もできます。それは学があっても知に溺れ、行動力のない人をからかっているのではないかということです。

 諺(ことわざ)にも「論語読みの論語知らず」というのがあるではありませんか。

 「論語読みの論語知らず」の意味は、蛇足ながら辞書を引きますと 

「書物の上のことを理解するばかりで、これを実行し得ない者にいう」(広辞苑)

ということです。

 一般的には学識のみで常識のない人を揶揄することばですね。

 論語!?

 さる国の総理大臣が好みそうなテーマですが、今月はなんと論語の復習をすることにしました。なぜかと言うと、わが指圧の師の増永静人先生が晩年「論語」を愛読されていたからです。

  ある日、先生が病気をおしての講習の後の会食のときでした。先生はしみじみと言われました。

 「この頃、論語の『朝に道を聞けば、夕べに死すとも可なり』が身に染みてくるんだ」と。

 続けて

 「今の僕は孔子の言うように、もし朝に、誰かが僕の言うことを本当に分かってくれるなら、もう夕暮れには死んでもいいという心境だ。本当に伝えたいことはなかなか伝わらないし伝えられない。おこがましいが、孔子の気持ちが分かる気がする。孔子は生涯を通して君子という理想を追い求めた人であって、決して自らが君子ではなかったはずだ。だったら僕が自分の心境を孔子のそれに置き換えても決して偉ぶったことにはならないだろう。もし、孔子が君子でわれわれが凡人としてそれに遠く及ばないなら、孔子が凡人に道を説く意味がない」

 当時まだ二十代前半、しかも無学者のわたしはなるほどと頷きながらも生意気に口を挟みました。

 「先生、『朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』は、学ぶ側の心境ではありませんか。つまり朝、ものごとの本質を知ることができたら、夕方には死んだっていい、それほど道とは得難いものである、ということではないでしょうか。確か学校でそう習ったように記憶しています」

 増永先生は穏やかに答えられました。

 「それは教室なら正解だ。しかし僕の心境からすると僕の解釈も成り立つと思う」

わたしは今度は「成る程」と納得したのでした。

 なぜなら増永静人先生の生涯は、常に中国医療の古典をご自身の指圧臨床体験を通して再措定されるものだったからです。古典医療を現代の目でもう一度再検討し、臨床で確認し、現代人にも納得のいく指圧理論として編成されたのでした。

 それゆえに、今日海外では指圧と言えば増永静人先生創案の「経絡指圧」を指すようになったのです。ただし出版社の意向により海外では「禅指圧」という名称で広がっています。
 
 残念ながら指圧のお膝下、日本では指圧は既に忘れられかけた存在になりつつあり、医療としての本分を忘れ、慰安行為としてのみ細々と命脈を保とうとしています。これはわたしどもにも大なる責任があります。

  さて、早々と断っておかなければなりませんが、わたしは「論語読まずの、論語知らず」です。あるいは「論語読めずの、論語知らず」。

 わたしの論語に関する知識。それは高校の古典の時間に少しばかり論語に触れただけです。これはおそらく皆さんも同じだと思います。

 戦前の教育を受けた方は、儒教が社会の制度的安定のための根本思想であった意味合いから、修身の根幹を為すものとしてしっかり学ばれたことでしょうが、わたしのように戦後に生まれた者はほとんど習っていません。

  まして今の高校の教科書を見ますと、漢文という独立した教科書はなく、古文の教科書の終わりの方に申し訳程度に漢文のパートがあるだけで、その量はわたしたちの頃(約三十年前)よりずっと少なくなっている感じです。そうなると近い将来、「論語(内容でなくそのことば自体)」は一般教養としてではなく特殊な素養の部類に入るやも知れません。いや、既になっていると言っていいでしょう。


 今回は論語の有名な部分をいくつか紹介します。論語を知らない人も、昔習ったけど忘れてしまっている人も、論語なんか大嫌いな人も、とりあえずわたしと一緒に論語に入門(再入門)しましょう。

  参考は高校の教科書、大修館書店の「新制高等漢文」、明治書院の「漢文」と講談社学術文庫の諸橋轍次著「中国古典名言辞典」です。


 ところでそもそも「論語」とは何でしょう。また孔子とは。

 例によって「広辞苑」に当たってみます。

論語

 四書の一。孔子の言行、孔子と弟子・時人らとの問答、弟子たち同士の問答などを集録した書。(中略)孔子の理想的道徳「仁」の意義、政治、教育などの意見を述べている。わが国には応神天皇の時に百済より伝来したと伝えられる。

 孔子の語ったことを弟子たちが書き留めた語録集。これが論語です。

 辞書の説明の中に色々難しい言葉がたくさん出て来たので同じく広辞苑で細かく調べます。

四書

 大学、中庸、論語、孟子。儒教の枢要の書。

 まあ、中国の儒学の最も重要な本のことですね。

 そもそも孔子とはいつの時代のどんな人でしょうか。

孔子

 中国、春秋時代の学者・思想家。儒家の祖。名は丘。字は仲尼(ちゅうじ)。

今の山東省出生。古来の思想を大成、仁を理想の道徳とし、孝悌と忠恕とを以て理想を達成する根底とした。諸国を歴遊して治国の道を説くこと十余年、用いられず、時世の非なるを見て教育と著述に専念。その面目は言行録「論語」に窺われる。(前551~前479)

 
 孔子は紀元前500年前後の中国の思想家ですね。結局、役人として採用されることはなくフリーターとして諸国を旅した人のようです。その頃日本はまだ縄文時代。おそるべし中国4000年の歴史。

 
 ギリシャの「イソップ童話」もこの頃のものです。
 中国では「老子」もこの頃編纂されています。

 「論語」は孔子の死後ですからもう少し後の紀元前450年頃。

 同時代の著名な思想家(宗教家)として釈迦(前566~前486)やソクラテス(前470~前399)がいます。


 こうしてみると古代中国に孔子や老子、古代インドに釈迦、古代ヨーロッパにソクラテスなどのギリシャ哲学という具合に、人類の文明の黎明はほぼ同時に世界各地に散在して始まったようです。果たして文化の交流はあったのでしょうか。

 もう一度言いますがその頃、即ち孔子が旅に仁を語り、釈迦が菩提樹の下で慈悲を説き、ソクラテスが悪妻にいじめられた鬱憤(うっぷん)を弟子との対話で哲学していた頃、日本はまだ縄文時代末期。竪穴式住居に住んで平和な集落を作り、採集・漁労・狩猟という採取経済に基づく生活をしていました。時あたかも弥生時代との端境期です。

 考古学では縄文時代は「先史時代」と呼ばれ文献の無い時代に分類されます。弥生になれば文献が多少存在する「原史時代」となります。

  弥生時代の中頃(57年)、日本の倭奴国から後漢に遣使を送り光武帝から金印を授かり、弥生の終わり(239年)にはかの邪馬台国の女王卑弥呼が魏に遣使を送ります。これらは中国の歴史書「魏志倭人伝」に登場します。

 魏は有名な「三国志」の三つの国つまり魏(曹操)・呉(孫権)・蜀(劉備)の一つです。後漢の滅んだ後のいわゆる三国時代。ついでに言うと呉服は呉の織物を起源とします。

 日本にとって中国は圧倒的に進歩した国だったのです。

儒学

 孔子に始まる中国古来の政治・道徳の学。(中略)日本には応神天皇の時代に「論語」が伝来したと称せられるが、社会一般に及んだのは江戸時代以降。

 儒学の歴史はいろいろ複雑なようです。日本で広まったのが江戸以降というのはちょっと意外でした。

 孔子の思想の中心にあるのが「仁」です。これは何でしょう。仁丹というおじさん好みの口臭防止薬がありますがこれは関係ないでしょう。

 フーテンの寅さんが、中腰になって右手を差し出し
「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又、帝釈天で産湯をつかい、姓は轟、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します」と仁義をきります。高倉健などのやくざ映画でもおなじみです。

 仁義は孔子の思想の中心をなすものですが、では、果たしてフーテンの寅さんは儒者でしょうか。どうも少し違うようです。

 1 孔子が提唱した道徳観念。礼にもとづく自己抑制と他者への思いやり。忠と恕の両面をもつ。(中略)封建時代には、上下の秩序を支える人間の自然的本性とされたが、近代、特に中国では、万人の平等を実現する相互的な倫理とみなされるようになった。

 2 愛情を他に及ぼすこと。いつくしみ。おもいやり。博愛。慈愛

 学生時代、少林寺拳法を習っているとき、「仁」の字はずばり「二人」。つまり人と人との関係を表すと習いました。

 1 いつわりのない心。まごころ。まこと。まめやか。
 2 君主に対して臣下たる本分をつくすこと。

  これも少林寺拳法で「忠」は「中心」、つまり嘘偽りの無い心の真ん中であると聞いたことがあります。これは1の意味になります。

 しかし一般的には2の意味に使われるようになり、これが武士の心構えとなり、後には軍国主義と結び付きました。武士は軍人ですから当然でしょう。戦後、軍国主義と一緒に「忠」という言葉を排除する傾向にあります。孔子にとっては「忠」はいつわりのないまごころのことですからこれは不本意でしょう。言葉は手垢にまみれるという分かりやすい例です。

(じょ)

 1 おもいやり。同情心。
 2 ゆるすこと。寛恕。

 「恕」はあまりなじみのない字です。字を分解すれば「心の如し」。心素直にあるがままの意味でしょうか。

 1 道理。条理。物事の理にかなったこと。人間の行うべきすじみち。
 2 利害をすてて条理にしたがい、人道・公共のためにつくすこと。

  これも少林寺拳法では「羊(大切なものの意味、羊は大切な財産だった)と我」で、自分を大切にする意味だと習いました。

 よく父母に仕えること。父母を大切にすること。

  少林寺拳法で「孝」の字は「老と子」からなり、子が老人を背負うて歩く姿の象形だと教わりました。

  こうして見ると「忠」とか「仁」、「義」などの元の意味、即ち孔子の唱えたものと日常生活で用いる場合とは意味が異なっているようです。

 今日一般的に使われているのは長い歴史の経過の内に、為政者が治世に便利なように意図的に歪曲させた意味合いが強いようです。それによって孔子の考え全般が忌避されるようになるとすれば、孔子の本意ではないと考えられます。

 「仁・義・忠・恕・孝」とは人間関係において、我を大切にして、心の中の本当の心に従い、思いやりの心を持ち、父母を大切にすることだというのです。それを拡大解釈して行くと臣下としての忠誠心や自分を殺してまでも主君の言い付けを守れなどということになるのではないでしょうか。

  フーテンの寅さんの「仁義」は二人の人が出会ったとき、互いの素性を明らかにして、すじを通す裏街道を生きる人たちの知恵が生んだ格式なのでしょう。

これもやはり孔子のいう「仁・義」から派生したものと言えます。

 孔子の言葉は「仁義」「義理」「任(仁)侠」「忠誠」など政治家とある筋の人の共に好む言葉でもあります。どちらの世界も強引な秩序を好むからでしょうか。

  さて、ざっとおさらいをしたところで、「論語」に入りましょう。読み下しと口語訳はわたしがしました。間違いがあると思います。仮名遣いも現代仮名遣いにしてあります。

 

子曰、「吾十有五而志于学。三十而立。四十而不惑。五十而知天命。六十而耳順。七十而従心所欲、不踰矩。」

  子曰(いわ)く、「吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こえ)ず。」

  孔子先生は言われた、「私は十五才で学の道を志した。三十才で自立した(方向を定めた)。四十才で惑うことはなくなった。五十才で天命を知った。六十才で人の意見を素直に聞き、理解できるようになった。七十才で心の欲するままに行動をしても軌道を誤ることがなくなった」

 孔子が自分の人生を振り返ってみるとこうであったというのです。なかなか耳の痛いことです。

  わたしは十五の頃は漠然と生きていました。三十の頃は生活に追われていました。四十はもっと生活に追われています。五十はきっと生活に疲れていることでしょう。

 六十才や七十才になると自然体に生きてもそれが道を踏み外すことが無くなるというのですが、現実にはどうでしょうか。孔子が自らの生涯を振り返るとこうであったということで、誰もがこうしろ、こうなるべきだとは言ってはいないようですね。助かります。

 わたしもあと数年で天命を知る年ですが、天命がどういうものか分かりません。

 天命は辞書では「天によって定められた宿命。天運。または天から与えられた寿命」とあります。

 宿命は「前世から定まっている運命」。

 運命は「人間の意志にかかわりなく、身の上にめぐって来る吉凶禍福。それをもたらす人間の力を超えた作用。人生は天の命によって支配されているという思想に基づく」

 
 一般的に解釈すれば天命を知るとは天によって定められた自己の社会的存在意義を明かにするとなるのでしょうか。天という形而上学的存在を認め、それに従って生きるというのが孔子の理想だったです。

  同時代の老子の道教は逆に無為自然を旨として人為的秩序を廃し、宇宙の本体である「道」に沿って生きることを理想としました。柔道や茶道の道はここに由来します。「道」はタオイズムとして欧米でも人気があります。

 孔子の儒教、老子の道教。これら全く異なる思想が同時代すでに存在していたことは面白いですね。

 
 老子も天の存在を重要視しています。

 老子に「天網恢々、疎而不失」という言葉があります。「天網(てんもう)は恢々(かいかい)として、疎にして失わず」です。
 天は大きな網を張っていて、その目は粗いが何事も漏らさずすくい取り、決して漏らすものではない、天は全てを知っている。あるいはすべてはその仕組みの中でうまく動いているという意味でしょう。

  いずれにしても天という思想は古代中国において孔子・老子という二大思想家に共通する概念です。もしかしたら人格化されていませんが、キリスト教の神のような大きな存在だったかもしれません。

 先の論語に戻ります。

 孔子は加齢により人間的成長を遂げるとしています。孔子自身がそうであったというのです。しかし現実にはどうなのでしょう。

 人は六十才になると耳順というより耳が次第に遠くなりますし、七十になれば、心欲しても体動かずという点が無いとは言えません。現実には難しいが、努力することが大切だということなのでしょう。

 人生をトータルに把握する時、よく引用される一節です。

子曰、「学而不思則罔。思而不学則殆。」

 子曰く、「学びて思わざれば、則ち罔(くら)し。思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し。」

 
 孔子先生は言われた、「学んでも自分自身や社会に当てはめて思うことをしなければ、学んだことの道理がよくわからない。反対に、狭い経験や知識に頼ってさまざまに思いを馳せても、深く、謙虚に学ぶことをしないと独断におちいって危険である」

  立派な大学を出た人がどうしてあんな過ちを犯すのか、ということが巷間よく囁かれます。それは孔子によれば、学ぶだけで考えることをしないからだというのです。学ぶことと思うこと。この両方のバランスが大切なのですね。

 日本の学校教育はどちらかと言うと学ぶに比重が片寄り、思うことの機会が少ないようです。

 
子曰、「温故而知新可以為師矣」

 子曰く、「故(ふる)きを温(あたため・たずね)て新しきを知れば、以て師為るべし」

 孔子先生は言われた、「古いことをしっかり学んで、そののち新しいことを知ろうとするならば、それはすぐれた師を得たようなものだ」

  これは「温故知新」として今日でもよく使われます。「温」は「たずねて」とも「あたためて」とも読まれます。

 現在は過去の集積ですし、未来の原因になりますから、新しいことを学ぶときは過去の成果や歴史などをあたらめて勉強してみればよい。そうすれば古臭いと思われることも良き師匠のように道を示してくれるということでしょう。


子曰、「其身正不令而行。其身不正雖令不従。」

 子曰く、「その身正しければ、令せずして行わる。その身正しからざれば、令すといえども従わず。」

 孔子先生は言われた、「その身が正しい生き方をしていれば、命令しなくても民は行動を起こす。その身が正しく生きていなければ、どんなに命令しても誰も従いはしない」

  これは為政者に身を正しく修めることが肝心であると説いたものです。「修身」は政治家こそが学ぶものなのです。


子曰、「君子和而不同。小人同而不和。」

 子曰く、「君子は和して同せず。小人は同して和せず。」

  孔子先生は言われた、「君子は道理に従って一つに和すが、他人に調子を合わせたりはしない。小人は仲良く調子を合わせているように見えるが、真に深い交流はしていない」

 
 君子は徳の備わった品格・人格の立派な人のことです。聖人君子と並列されることもあります。聖人は万人の仰いで師表とすべき人と辞書にあります。どちらも知徳の秀れたお手本となる人、あるいは理想的な人物像を示している呼称です。

  君子は人と交わるとき、仲良くするが道理からはずれてまでも一緒にいこうとはしない。つまり付和雷同はしないということでしょう。それに対してわれわれ小人は仲良く群れても道理に沿った深い協同調和はしないというのです。

 そういえば「君子の交わりは淡きこと水の如し」とも言います。心の奥深くで互いに響きあうものがあればべたべたくっついていなくても十分満たされた交流はあるのだということでしょうか。

 
 君子でなく、われわれ凡人にだって懐かしい心満たされた交流はありますね。否、そうした交流をしているとき、人は君子なのかもしれません。

 
 余談ですが酒に四君子という名を持つ商品があります。四君子とは「梅・菊・蘭・竹」のことで、君子の持つ高潔な美しさにたとえたものです。

 
 増永靜人先生は大病をされ、57歳でこの世を去られました。そのとき、ご自身を励まし叱咤されるためでしょう。論語から次の一節を引用されました。

 
子曰、「君子固窮。小人窮斯濫矣。」

  子曰く、「君子固(もと)より窮す。小人窮すれば斯(ここ)に濫(らん)す。」

  孔子先生は言われた、「君子といえども困窮することはある。しかしそれで乱れたりはしない。小人は困窮すると乱れて道に反するものだ」

  この一節のあと、次のように言われました。

 「健康を云々する人間が病気になるのは情けないと思うだろう。しかし、僕だって病気をし、年を取り、死んでいく。だからこそ治療ができる。考えてみなさい。もし僕が病気もせず、年も取らず、死なない鋼鉄のような人間だとして、そんな人間に治療ができるだろうか。そんな鋼鉄みたいな人間に治療してもらって病人はうれしいだろうか。患者は不死身で頑健な理想的な健康体を期待するだろうが、それでは病人に真に共感することはできない。そこからは死や老いが見えてこない。自分自身、いつ病気になり、死ぬか分からない脆弱な存在だからこそ、ここまで真剣に医療について考えてきたんだ。指圧という民間療法を医療の視点で再構築して医療の一端を担うものとして、思想的には医療の根本を為すものとして研究してきたのだ。僕だって病気になる。窮す。でも僕は孔子の言うように乱れたりはしたくない」

 
 この言葉は今でもわたしの心に深く沈殿しています。


 論語は我が国に最初に渡来した文献で、そのために最も日本人に好まれた古典となりました。古人は論語などの漢文の勉強を通じて、語学と同時に中国の哲学を学んだのです。

  それは後世になってドイツ語の勉強をすることで西欧の哲学を学んだのと同じ軌跡です。すなわち言語を通じて文化を学んだのでした。今日の英語学習の大きな欠点は、その実用性にのみ目を奪われて、英語によって築かれた文化の学習がおろそかになりがちなことです。

 
 言語と文化は不可避です。
 万国共通語という崇高な理想を抱いたザメンホフによって人工的に作られたエスペラント語が、その内に文化を有さないがゆえに逆に広がって行かなかったという皮肉な結果を生むことにもなったのはそのためでしょう。
 

〈後記〉

 七月七日は七夕祭りです。同時にこの日は経絡指圧の創始者であり、わたしの師匠でもある増永靜人先生のお亡くなりになった日でもあります。昭和56年(1981年)のことでした。大正14年生まれで享年57歳でした。

  決して長くない人生を指圧のために駆け抜けた方でした。最近、西欧で国際指圧シンポジウムが開かれましたが、海外では指圧と言えば増永靜人の影響なしには語れません。その日のパネラーのほとんどが先生の直接の教え子だったようです。

 最近、イギリス人がロンドンの指圧カレッジの教科書を持参しました。その本は完全に増永先生のものを踏襲していました。愚直と思えるほどに。もはや海外においてはバイブルの如しです。
 
 西洋医療を主体とした国家により制定された医療(正統医療)に対し、民衆の間で伝統的に保存されて来た医療を非正統医療もしくは代替医療(オータナディヴ・メディスン)と呼びます。アメリカや英国では医療費の高騰から代替医療に注目を集めています。その中には鍼や指圧も含まれます。

  19世紀まで人類を苦しめた感染症が正統医療によってほとんど駆逐されたことが、逆に民間医療に目を向かせることにもなりました。

  現代は仕事や人間関係からくるストレスから心身共にがちがちにされる社会になりました。その傾向はこれからもますます厳しくなるでしょう。そんなときこそ、指圧などの代替医療がもっと必要とされていくことでしょう。

 そのとき、論理的普遍性を持つ増永靜人先生による経絡指圧は有力な存在感を示していくに違いありません。
 

 それに引き換え、国内では指圧はあまりに低迷しています。
 わたしも微力ながら経絡指圧の普及に努めては来ましたが、残念ながら全く不如意に終わっています。しかしそれで諦めることなく、これからも、先生の意志を引き継いで、先生に「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」と心から安心していただきたいものです。

(游) 

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