2023/11/08

俳句と“からだ” 193髙田正子著『黒田杏子の俳句』後編


 黒田の7冊の句集には〈花を待つ〉を詠んだ句が21句ある。髙田は「当然のように〈花を待つ〉を季語として受け止めてい」た。ところが髙田の所持する歳時記には〈花を待つ〉を季語の見出し語とした本がないという。試みに手持ちの数種の歳時記を確認したがその見出しの季語はない。

髙田が抽出した〈花を待つ〉で最も古いのは平成7(1995)刊の『一木一草』にある。

 

 花いまだ念佛櫻とぞ申す

 

季語は〈花を待つ〉そのものではなく〈花いまだ〉であるが「紛れもなくそのこころが汲めるので抽い」たと記している。平成5(1993)44日、西国吟行第6回滋賀県長命寺の作である。髙田はその場にいたと記しているが、実は私もその場にいた。黒田から「寒い中、花を持つ気分を花未だというのよ」と直接声を掛けられた記憶がある。本書によれば当日の表記は「花未だ」であり、句集に掲載するとき「花いまだ」に添削されたようである。漢字と平仮名の誓いを吟味するのは興味深い。

 

 実際に〈花を待つ〉が登場するのは平成17(2005)に刊行された次の句集『花下草上』である。髙田は〈花を待つ〉を「季語」とカギ括弧で括り「哲学の領域に入っている」として、その理由を「三十歳で櫻花巡礼を発心し、自ら満行とみなし得るまでおよそ三十年。日常生活を送りながら千日回峰行を修めるに似た荒行である。その行を果たして初めて流麗に口をついて出るようになったことばを、思想、概念と呼ぶと抽象的に過ぎ、語と呼ぶといささか部品っぽいと考えたところで、はたと膝を打った。季語とは両者を兼ね備えたもの、まさに言霊そのものではないかと」述べている。

 

花を待つひとのひとりとなりて冷ゆ

 

高田は3年間、「藍生」誌上にて師黒田杏子の句を、季語や「ちちはは」などのキーワードを基に整理し、年齢的変化や身辺環境からの影響を熟慮しながら鑑賞した。同時に黒田の師である山口青邨や同時代の俳人の句を視野に入れて読み解いていった。その過程で高田自身の俳句観にも変化が生じたのではないか。先の引用はその好例である。あたかも黒田の7冊の句集という山嶺を巡礼者として一足一足吟味しつつ歩いていく行であったに違いない。読者もまた髙田と同行二人、杏子俳句の新しい表情を見せて貰うことが出来た。黒田は7年前、大病で斃れた。しかし治癒後の結社や協会を超越した活躍には目を見張るばかりだ。その功績に、所属していない現代俳句協会からも大賞を受けた。黒田の巡禮者としての歩みはこれからも続く。

この書は遊行の軌跡であると同時に新たな発心の道標ともなるだろう。

0 件のコメント: