2020/08/01

「まるごとひとつ・野口三千三・増永静人」

游氣風信 No52「まるごとひとつ・野口三千三・増永静人」

三島治療室便り'92,12,1

およそ30年前に書いた文章です。

改めて読み返してみました。

少し直してあります。 

三島広志

E-mail h-mishima@nifty.com

https://sites.google.com/site/ofisumishima/


《游々雑感》

 

まるごとひとつ

 

 「今日は肩がひどく凝っているの。だから肩だけしっかりやってちょうだい」

身体調整に来られてこのように言われる方があります。 そんな時は次のように答えます。「それじゃあ、とりあえず肩だけ取りはずして置いて帰ってください。明日までに治しておきましょう」

 

 これではまるで一休さんのとんち話みたいですね。調整に来られた方はきょとんとしてしまいます。もちろん言うまでもなく身体調整と機械の修理とは違うのですから肩だけ分離して置いて帰ることは不可能です。機械は部品の集合体、それに対して身体は全体が有機的につながっているのですから。(以上は操体法創始者橋本敬三先生の逸話)

 

 いつからか、わたしたちは身体を手や足や胴体、肩や胃や骨盤などの部品の寄せ集めのように考えるようになってしまいました。けれども実際には一体どこからが肩でどこからが首でどこからが背中なのでしょうか。

 

解剖学ではしっかり分類してあります。カルテをつけたり手術するとき客観的に誰もが場所を間違えないために約束事として取り決めてあるのです。しかし、実際にわたしたちが身体から受ける感覚はそんなに厳密なものではありません。漠然と首の辺りが凝るとか、肩から腕の付け根にかけてしびれるとかという感じです。

 

 腰が痛いと言う人の腰に手を当てて「この辺ですか。」と聞きますと「そう、そこそこ」と返事があります。もっと場所を限定しようともう一度触り直しますとこんどは全然違うところで「そう、そこです」と答えます。こちらは「あれっ」と思ってもう一度最初の所を押して「ここでしたね」と質問すると「いえ。もっと上です」「じゃあ、ここ?」「違う違うもっと左」。だんだんいらいらしてくるのが手に伝わってきます。「なんだこいつは。痛いところくらいさっさと見つけんかい」。そんな気配がひしひしと伝わって来るのでこちらもあせって「するとここですね」などとあてずっぽうに言ったりしてますます感情を害されてしまいます。「感情」を害されると「勘定」が貰いにくくなるのが商売の常ですからこうなっては大変です。

 

つまりかかる具合に身体の感覚とは当てにならないので、冒頭のように肩だけやってくれという指示は根本的に正しくないのです。感覚だけでなく、身体は全体が一つの目的すなわち生命の維持発展や運動のために協力しあっています。別の言い方をすると肩が凝るのは身体のほかの部分に理由がある、肩凝りはその結果ということが多いです。凝りは明確に意識できますが、その他の問題は意識上に上がってこないのです。

 

 医療の現場では肩凝りに対してさまざまな捕らえ方をします。多角的に原因の確定を試みると言ってもいいでしょう。

「筋肉疲労による乳酸の蓄積」

「頚椎椎間関節の問題」

「筋肉か関節での神経の圧迫」

「筋肉リウマチ」

「骨粗鬆症」

「何らかの炎症」

「神経自体の損傷」

「コンピューターに向かい続ける姿勢からくる慢性疲労」

「胃やすい臓などの内臓からの関連痛」

「目からの関連痛」

「がんの骨転移」

などなど。こうした医学的鑑別は状況に応じて治療法を決定するためにとても重要です。

 

しかし、私達施術者はそこに止まらずにもう一歩考えを深めたいのです。それは医療を離れて、どうして自分の肩が凝るのだろう、何がいけないのだろうと自分をとりまく現状の認識をすること、および今をより良い将来への礎とするための積極的な捕らえ方です。そうしないとせっかく肩凝りのために莫大なエネルギーを費やした我が生命力に申し訳がないというものです。(肩凝り自体のためにかなりの栄養やエネルギーが浪費されています。さらには苦痛、不快感も。これは周囲の人をも不快にしますのはどなたも体験済み。)

 

 前置きが長くなりました。今月のテーマはまるごとひとつでした。

わたしたちの身体から冒頭に書いたように肩だけ取り出せません。これは言い換えると私達の身体は分解できないもの、全体でまるまるひとつということです。

 手を高く上げてみてください。その時の手を支えているのは肩であり背中でしょう。さらにお尻や足が身体と床の間にあって身体全体を支持しています。でもわたしたちの関心は手にあって他の部分にはいきません(痛みがあれば別です)。手を意識している限り、凝りに対しては最も自覚的な肩にさえ関心は向かないのです。凝りとは身体が悲鳴を上げるとき肩の存在を訴える方法なのです。

 

「右手をよく使う仕事をしているのになぜ左の肩が凝るのでしょう」

とはよくされる質問です。それに対する解答はすでに「左・右」の漢字の中にあるのです。 小学生に戻って漢字の復習をしましょう。「右」という字を分解すると「ナ」と「口」です。「ナ」は手の象形、「口」は口の象形です。すなわち右手とは食べ物を口に運ぶ手という意味です。「右」は一字で右手のことを示しているのです。

では「左」はどうでしょう。これは「ナ」と「工」から成立しています。「ナ」は右と同じく手。「工」はものさしのような工具の象形です。これも「左」一字で左手の意味があります。「左」とはものさしをきっちり固定している手のことなんです。

 

 ここから類推すれば右手は動的な働きを表し、左手は右手を補佐する静的な働きを表現していることになります。よって右手を使うときは目立たないが左手も固定という緊張を強いられていると考えられます。これが前述の質問の答えです。手の問題をさらに拡大解釈していけば身体全体が支え合い助け合って働いているといっていいでしょう。両手を使っているとき胴体が両手を支えています。そのとき手には関心が向かいますが胴体のことは忘れているでしょう。 一生懸命手作業をしていて腰が痛くなるのはこうしたことの反映です。本を読むとき、目は意識しますが本を持っている手には無関心です。万事がこんな調子なのです。

 

 明らかな症状(結果)には必ず原因があるのです。肩凝りはそうした身心の状態の犠牲者、あわれな生贄(いけにえ)というわけです。けっして目の敵にする対象ではないことがお解りいただけるでしょう。ですから冒頭の「肩だけ揉みほぐせ」 という感覚には身体に対する一種の傲慢(ごうまん)さを感じるのです。その根本に身体は精神に隷属(れいぞく)しているというおごった考えがあるのです。それが時として他人にも向けられますから争いが絶えません。今はやりの太極拳や気功法、ヨガなどはそうした身体観を是正する体操という側面も 持っています。

 

 こうしてみると肩凝りに対する意識のしかたが、身体の問題だけでなく会社や家庭の人間関係、さらには経済や教育など幅広い分野にわたる根幹の問題意識ということが理解されますね。東洋の医療は基本的にこの考えに立っていますから肩凝りひとつとっても全身の処置をするわけです。

 

現代医学は肉体と精神をとりあえずはっきり分けて、特に肉体の方を微にいり細にいって研究した結果すばらしい成果を上げ、わたしたちは膨大な恩恵を受けています。その成果は医療だけでなく保健衛生や介護、スポーツ科学にも及んでいます。さらに経済発展による食生活の充実、高度な教育などとあいまって長寿社会を築き上げました。

 

現代医学の細菌駆除による伝染病駆逐という成果や素晴らしい手術、それらを支えている精密な検査や組織的な看護の発達は素晴らしいものです。しかし反面、あまりに専門化し過ぎて全体を統一する見方や心と体の相関に関してはいま一歩軽視されてきました。分化し過ぎ、専門化し過ぎの欠陥が全体を見えにくくしてしまったのです。細分化は研究においてとても重要なことですが一般の臨床にはいろいろと不都合があるのです。そこから生まれるのが肩なら肩だけという患部中心の見方です。あるいはそのように定められた医療制度です。その反省から今日では心療内科や神経科などでその間隙を埋める方向にきています。 これが今日、未解明ながらも生命の全体性と心身相関を重視してきた漢方に代表される伝統医療に関心が集まってきている理由でしょう。

 

だからと言ってひたすら漢方がいい、古い伝統が正しいと考える狭量な視野は危険です。医療と衛生と栄養の整備という社会的な下部構造の充実があって初めて伝統の知恵が上部構造として生かせる時代が来たということを忘れてはいけません。

 

そもそも私たちの身体は膨大な数の細胞(37兆とされています)から成り立っています。それは37兆個の細胞の寄せ集めではなく、一個の受精卵が37兆に分裂したものなのです。けっして寄せ集めたものではないのです。そしてそれらの細胞は脳によって統御されて全体として統一した行動ができるようになっているのです。その脳も他の器官によって育まれている点では同じ身体の一員なのです。ちょうど夫婦が一対で夫婦であって一対一ではないように身体も全体で一つの生命体であって、各器官がばらばらで自己主張しあっているのではないのです。こういう状態をまるごと全体と呼ぶのです。

 

 さて、あなたがもし肩凝りやぎっくり腰などちょっとした身体の訴えを得る機会があれば以上のようなことを考えてはいかがでしょうか。次の人々のことばは身体および身体と環境とのかかわりにおいて大きなヒントになることでしょう。私達の身体は環境があって存在することが可能です。環境とは歴史によって育まれてきたこの星の自然と人間社会です。

 

野口三千三(野口体操創始者 元東京芸術大学教授)

「生きている人間のからだは、皮膚という生きた袋の中に、液体的なものがいっぱい入っていて、その中に骨も内臓も浮かんでいるのだ」

「地球上のすべての存在は、今、地球の中心との関係にによって、確実に結ばれている」

「自分自身のまるごと全体のからだが重さという生きものになり得る能力いう」

「野口体操からだに貞(き)く」柏樹社刊より

 

増永静人(経絡指圧提唱者)

「自分の生命を大切にすること、そのことが相手の生命を尊重し、自分のまわりの生命をすべて大切に扱うことに連なっていくという実感を味わってほしいのです。これはいくら言葉で知って頭で理解していても、ものを中心にする生活をしている間に、バラバラに離れた存在になって、自分しか見えない幻想のとりこになってしまいます。今までの健康法は、そうした個人だけの長生きだけを目的としたため誤ってきたのです。」

「スジとツボの健康法」潮文社刊より

 

 

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