2020/08/18

哀悼 佐藤勝治先生

「哀悼 佐藤勝治先生」は1992年10月に書いた哀悼文です。佐藤先生はこの前再録した「宮沢賢治は何故舞ったか」を書く切っ掛けと「盛岡タイムス」掲載の機会を創って下さった方です。

哀悼 佐藤勝治先生

 佐藤勝治先生・・決して広く知られている名前ではありませんが、宮沢賢治の研究書にいささかでも関心を持つ人なら誰でも知っている名前です。

 先生は市井の学者・野の宮沢賢治研究者としてその持てる情熱と才能全てを(あるいは多くの時間と経済も)宮沢賢治研究に費やした類いまれなる意志の人です。 

 その佐藤勝治先生が去る1992年8月28日に幽明境を異にして、鬼籍に入られました。大正2年(1913)生まれ、79歳。実に一途な充実した人生を送られたことと思います。

 わたしと佐藤先生の出会いはおよそ15年前に逆上ります。
 大学2年の夏、以前から愛読する宮沢賢治ゆかりの岩手県を旅行し、賢治作品の舞台の地を徘徊してきました。次いで大学を卒業した夏、オートバイで再び訪問しました。前回のテーマは自然との触れ合い、二回目のそれは人との邂逅を目指したものでした。そしてそれらはとても具合よくことが運んだのでした。

 旅に出ると旅先の書店でその地方でだけ出版されている本を見ることにしています。当然岩手でも大きな書店に寄っては地方出版物を探しました。ですから昭和51年に花巻市の店で賢治や啄木の研究誌「啄木と賢治」(みちのく芸術社)を見つけたときはそれはうれしかったものでした。その主幹が佐藤勝治先生だったのです。もちろんその頃には佐藤勝治という名前はよく知っていました。わたしの書棚にも「宮沢賢治入門」という氏の本が収まっていたのですから。


 帰宅して早速今後の購読とバックナンバーが欲しいという由を書いた手紙を出しました。何冊か送っていただくうちに、突然先生から原稿を依頼されたのです。しかも「啄木と賢治」に載せると言うのです。

 そこで、自分なりの賢治観を書いて送ったところ「プロの評論家には書けない云々」という褒められたのか要するに素人の作文という意味なのか分からない批評のお返事を戴きました。さらに「どんどん書いて下さい。」とも付け加えてありました。

 それではと、さらに勢い込んで「宮沢賢治は何故舞ったか」という文を書き上げました。こちらは先生から激賞されました。

 ところがいかなる理由でしょうか。原稿不足か経営的な問題か、あるいは先生の体調のためか、「啄木と賢治」がなかなか発行できなくなりました。個人誌や同人誌にはよくあることです。しばらくして、佐藤先生から「貴君の原稿は盛岡タイムスに載せる・・」という連絡を戴きました。

 盛岡タイムスにはその言葉どおり一作目は「今こそ賢治と共に」というタイトルで二回連載、「宮沢賢治は何故舞ったか」は四回に分けて掲載されました。昭和56年のことです。

 肩書がなんと「宮沢賢治研究家」、当時のわたしが27歳。母親からおおいにひやかされたものです。しかし、いかに発行部数の少ないローカル紙とはいえこうした形で活字になることはしがない施術師にとって生涯何度もある経験ではないので感動的でした。(後に至文社刊「国文学解釈と鑑賞 宮沢賢治特集号」で「宮沢賢治は何故舞ったか」の方が新聞掲載論文と認知されましたからこれは素人として自慢していいでしょう。)この点で佐藤勝治先生はわたしの恩人なのです。

 しかし佐藤先生とはついに一度も直接お会いすることができませんでした。写真で拝見したお顔は「頑固な意志」が白い長髪のかつらを被ってこちらをにらんでいる風貌。現代に少ない筋の一本通った雰囲気がひしひしと伝わってくるものでした。

 佐藤先生の労作には『宮沢賢治の肖像』と『宮沢賢治批判』があり、昭和49年両方をまとめて『宮沢賢治入門』とされました。わたしが所持しているのはこれです。

 『宮沢賢治の肖像』には仏教、とりわけ法華経の視点から賢治作品が深い信仰と実践からなることを解き、有名な「雨ニモマケズ」は、仏教の十界、四諦八正道、苦集滅道が曼陀羅のように織り成されていると解釈されています。
 それが『宮沢賢治批判』では一転して共産主義の立場から、賢治の持つ現実不条理に対する認識の甘さを衝きます。つまり宗教は「慈悲」という概念を用いることで階級性を革命的に打ち砕き平等の世界を作ろうとするものではなく、上部構造から下部構造に対する「施し」という形でごまかし是認するものだと批判しているのです。

 この佐藤先生個人の大転換は、実は賢治の評価の歴史でもあります。戦前、谷川徹三氏に代表される「賢者の文学」「善意の文学」という賢治観が軍部によって戦争中の耐乏生活のために利用された事実があり、戦後、共産主義が強く広まったとき中村稔氏や国分一太郎氏などによる賢治批判があったのです。とりわけ農地解放に対する賢治の考えの甘さがその標的となりました。

 わたしは当時『宮沢賢治入門』を読んで、前半と後半のあまりの極端な差異に戸惑ったものでしたが、佐藤先生があとから来る賢治愛読者や研究者にいろいろな論点を提供するという意味で両方の意見を一冊にまとめたというところに先生の賢治に対する愛情と見識を感じます。

 どんな作品も人も時代にさらされて、鍛えられていくのでしょう。賢治の作品は時代の変化やさまざまな毀誉褒貶を超えてますます広く深く読まれています。それは作品の深部に真の古典となるべく条件を包括しているからに相違ないでしょう。

 昭和59年、519頁という分厚い本が送られて来ました。タイトルは『宮沢賢治・青春の秘唱“冬のスケッチ”研究』〈増訂版〉十字屋書店刊。著者はもちろん佐藤勝治。

 賢治の習作期の作品と言われる「冬のスケッチ」を詳細に研究したもで、そのエネルギーたるや大変なものと想像できます。この労作を贈呈されたのでした。

 わたしは感想を簡単に葉書にまとめてお送りしました。すると昭和61年、今度は『佐藤勝治著“冬のスケッチ研究”読後感想書簡集』という小冊子が届きました。その内容はタイトルの通り先の大著に対して寄せられた書簡をアルファベット順に集成したものです。わたしの文章も載せてありました。

 先の大著は惜しむべくは研究書として少し感情が表面に出過ぎていました。論文とするからには「理」でものごとに切り込んでいく、その過程と成果のみをたんたんと書き記さねばなりませんが、この本は個人的な感情が出てしまったのです。せっかくの研究がその点で減点されてしまうのはとても残念なものでした。内容には見るべくものがたくさんあるからです。市井の学者ということでアカデミズムからどうしても無視されがちな経験がついそうさせたのかもしれません。情熱家の熱情があふれてしまったのかもわかりません。

 わたしは感想書簡の最後に「もっと感情を押さえられたほうが良かったとも思います。」と書きました。

 佐藤先生は小冊子の後書きに「これらのお手紙を寄せられた方々へ、重ねて心から厚く御礼申し上げます。中にも御注意やら御忠告を(御遠慮がちに)お書き下さった方々の御友情は特に忘れません。(後略)」としたためておられます。

 いろいろとお世話になりながらついにお会いして御礼をいうことができなかったわたしとしては、この後書きを読むと、ささやかながらもご恩を少しはお返ししたことになるのかと思いにふけるのです。

 佐藤勝治先生のご冥福を心からお祈り致します。

 

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