2020/08/08

たかが、されど万年筆

万年筆が好きです。しかし収集家ではありません。今はウオーターマンのGreen色の美しいものを使っています。モンブランのスウィフト仕様は頂き物で所有していますが勿体ないので新品のまましまってあります。古いモンブランの149と146もあるのですが、残念ながらインク注入機構が壊れているので付ペンにしかなりません。

 今回は筆記論です。例によって例のごとくだらだらと書き殴っています。

《游氣風信》No,125 2000.5.1

 いつもどんな筆記具をお使いでしょうか。

 今日、ボールペンやシャープペンシルがその実用性をもって筆記具の世界を凌駕しています。せせこましい日常は利便性に優れたものに価値を与えますから。しかし同時に実利から離れた無駄なものに価値を認めるのも人間の特徴です。その証拠に実用の世界からは遠のいたものの芸術や素養としての毛筆は健在ですし、過去に追いやられたはずの万年筆も一部の人の間ではステータスシンボルとしてまだまだ珍重されています。

 今月は筆記具全般についてざっと眺めて、さらに万年筆にも少し触れようと思います。

儀式の喪失

 子供達の間では小学校の低学年以外はシャープペンが主流です。若い世代に特徴付けられる丸文字(少女変体仮名)はシャープペンシルの普及とともに始まったというルポがあります(山根一真氏による)。筆記具は書体に影響を与えるという現象に現場の裏付けをもって取り組んだおもしろい意見でした。

 それはさておき、シャープペンに普及により現在の学習の場から消えたものがあります。それは勉強の初めや合間に鉛筆を削るという儀式めいた行為です。経験者はお分かりのように鉛筆に小刀を当て、丁寧に木を削り、芯を尖らせると、結構精神が落ち着くものです。一種の三昧境。わたしが遠い昔、一応受験生だったころ読んでいた「中三時代」なる学習雑誌には

「気分を落ち着けるために試験の前にナイフで鉛筆を削るといい」

などと書かれていました。

 試験前に厳かに鉛筆を削る。これはまさに戦場に向かうもののふの心につながるものでした。が、それはもはや時代錯誤の物語です。

 シャープペンは鉛筆のように芯がだんだん太くなるということはなく、最初から終わりまで0.5ミリに保たれ、折れたり短くなったらカチカチとボタンを押して芯を繰り出すだけ、その作業は極めて簡単です。かくして子供の机から鉛筆を削る儀式と鉛筆削りという道具が消えました。

 消滅、それはナイフどころか文明の香りをふんぷんとさせて登場したかの電動鉛筆削りにおいてやです。それ以前の取っ手をごりごり回す旧弊な手動式鉛筆削りは骨董品と化し、いわんや危険であると子供達から取り上げた小刀や肥後守の類は持っていることすら犯罪にされてしまいます。生活の利便性と共に子供の卓上から木の温もりをたたえた鉛筆と、刃物で木を削るという人類創成期からの営みを追体験させてくれる鉛筆削りはすでに伝説と化してしまったのでした。

利便という圧力

 職場などではボールペンが全盛です。

 一度書いたら「消えない」、容易に「消せない」というボールペンは、筆記具の重要条件である記録の保全という点で極めて優れています。さらにこの道具は非常に安価であることとあいまって最も利用されている筆記具となりました。その上、毛筆に対して硬筆と称せられるようにペン先が硬いので、相当に筆圧を強くできますから、複写用紙にももってこいです。

(追記:最近は消せるボールペンが大流行ですがこれは公文書には使用できませんし、コピーすると消えてしまいます)

 さらにもこのボールペン、なぜか未だインクが残っているにもかかわらず必ず書けなくなるという特性を所有していますから、やたらと机上に転がっています。(追記:今日のポールペンはこんなことはありません)

 ボールペンがのさばる前は、事務所の机にはペンとペン立てとインクビンが鎮座していました。事務のおじさんの手にはいつもインクが染み付き、服が汚れないように袖にはおかしな袋をかぶせていました。吸い取り紙という専用の道具もありました。机の周辺には常にインクの匂いが漂い、それは厳粛な職場という雰囲気を醸し出していたのですが、これはもはや懐古趣味にほかなりません。

 ペンはすばらしい筆記具です。今日までの筆記具の歴史をほとんど担ってきた道具です。けれどもインクは水分ですから、乾きにくい、にじみ易い、ぽたりと垂れるなどの水分そのものの特徴を露呈するため、やや使いにくい面がありました。いわば善きにつけ悪しきにつけ、水の持つ表面張力や毛管現象に完全に支配された世界です。

 そうした物理的な弱点を油性インクという手法でやすやすと克服したのがボールペン。軸の中にインクを貯蔵したボールペンの登場によってペンとインク瓶は職場から追放されてしまったのです(今は水性ボールペンもあります)。

 ボールペンの実用性はインクペンの持つ垂れる、滲む、乾きが悪いという欠点を劇的に打ち破るものでした。その簡便性はペン字の持つ味わいという芸術的利点をも一蹴してしまったのです。効率を旨とする非情な事務という現場では必然の帰結でした。

「書く」は「掻く」

 「書く」の語源は「掻く」だという説があります。

 非常に古い記録方法として亀甲文字とか、楔形文字が知られていますが、これらは亀の甲羅や陶板、ヤシの葉などを何かで引っ掻いて傷つけ、文字として残したものです。すなわち「書く」とは本来「掻く」行為なのです。

 その後、上質な紙が発明されて、「掻く」という素材を傷つける方法から、インクなどを「塗りつける」あるいは「擦りつける」という今日的な「書く」に変化しました。

 個別に筆記具を見てみましょう。

 鉛筆。これは炭素でできた柔らかい芯を紙に擦りつけて記録するものです。掻いて傷つけるものではありません。むしろ鉛筆の芯の方が擦り切れて痕跡を残すものです。

 では、ボールペンはどうでしょう。これはボールを転がしてインクを塗りつけるものです。紙を傷つけることはありません。

 ペンもインクを塗りつけるものですが、その感覚には「掻く」という原始的な記憶を呼び戻すものがあります。ペンを改良した万年筆になるとペン先の工夫から書き味はとても滑らかになり、「掻く」という感じはなくなりますが、例えばシェーファー社の万年筆などにはいかにも掻いているという味付けが残してあります。しかしあくまでも感覚的にです。

 忘れてはならない筆記具に東洋の誇る毛筆がありました。毛筆はペンと原理的には同じで、毛管現象を利用してインク(墨)を紙に送るものです。両者にはペン先が金属か動物の毛であるかの差があるだけです。毛筆は文字の太さを自在に変えられるという表現力の豊かさにおいて最高の筆記具ですが、反面、使用のための技術を要しますし、小さな字に限界があります。今日では趣味・儀礼・芸術の世界にのみその存在を輝かせています。

 筆文字は紙にインクを塗っていく(吸い込ませていく)もので、掻くものではありません。

 最先端の筆記具はどうでしょう。

 ワープロ専用機のプリンターのインクリボン。すごい早さで印刷していきますが、仕組みは紙にインクを焼きつけていくものです。ワープロ専用機のプリンターには感熱紙という方法もあります。これは紙に薬品処理がしてあり、印画紙を焼くという写真の技法に近いものです。

(ワープロ専用機はとても優れており、文字情報ならインターネットも可能でしたが、今日その存在を知る人は少なくなりました)

 現在のパソコンプリンターの主流であるインクジェット(バブルジェット)はインクの吹きつけ。塗装の原理です。

 事務用に用いられるドットプリンターは叩きつける昔のタイプライター風。ページプリンターはコピーのようなものです。

 筆記具を歴史を追って調べてみると、書く行為が、「掻く」ことから脱却したのは筆記具の進歩だけではなく、字を書き込む素材(紙)の進歩と相互に影響しあっていることがわかりました。

 以上のように、今日では書類の作成はもとより、学生のノートや一般の人の手紙まで、もはやほとんどがボールペンやシャープペン、あるいはパソコンやワープロが大きい顔をして、ペンの出番はほとんどありません。

 では、ペンはすでにその命脈を閉じ、古典的筆記具として博物館に行く運命となってしまったのでしょうか。ところが、そうではありません。万年筆は書くことと同時に保持することを満足させる道具としてしっかりと生きているのです。

我が愛蔵の万年筆

 わたしは子供のころから人並みはずれた悪筆にもかかわらず、筆記具に大変興味がありました。とりわけ万年筆の美しさには幼少の頃から憧れたものでした。

 しっとりと暖かみのあるエボナイトの軸。タイヤで知られるグッドイヤー氏が生ゴムと硫黄から偶然発明(1851)したこの素材には何とも言えぬ光沢と手に馴染む質感があります。高級万年筆の軸は熟練工によって轆轤(ろくろ)で丁寧に削られます。

 ペン先の流麗な形状と金の輝き。ペン先がいわゆるペン型に剥き出しになっているのが好きです。金とイリジウムからなるペン先はホーキンスの発明(1852)です。エボナイトとイリジウムペン先。これらの発明によって酸性度の強いインクに耐える素材ができ、万年筆を生み出す契機となったのです。

 それらの素材を利用して今日の万年筆機構を完成したのは生命保険のセールスマン、ウォーターマンであるとされています。

 保険のセールスマンであった氏は、契約を決意した顧客がいざサインをしようとしたとき、インクが垂れて契約書を台なしにしてしまい、別の契約書を取りに戻っている間に他社のセールスマンに横取りされたという苦い経験を持ち、これが万年筆を考案する契機となったということです(1883)。

 ウォーターマンの万年筆は毛管現象という極めて単純な物理現象の応用です。先に述べたようにインクの欠点は水分なるが故のものでした。ところがその水分からなるインクの欠点を毛管現象で乗り越えたのは実に興味深いことではありませんか。しかも名前がウォーターマン氏。出来過ぎたような話です。

 万年筆には書き味や外観の美しさだけではありません。持ったときやキャップを開けるときの質感、重心の位置によるバランス、インクを注入するときの充実感など出来の良い万年筆にはクラフトマンシップが横溢しています。

 わたしは万年筆の収集家ではありませんから、現在四本しか持っていません。他にも何本か購入したのですが、高校生のとき買った中国製の英雄はすぐ書けなくなり、シェーファー社の万年筆は人にプレゼントし、日本製のある万年筆は使用に耐えず怒ってメーカーに送り返しました。

 世の収集家と呼ばれる人は数十・数百から数千本も所蔵しているそうです。しかし一本の万年筆を大切に愛蔵している人もいます。いずれも愛好家と呼んでいいでしょう。

 現在手元にあるのは、大学のとき買ったプラチナ製のごく普通の万年筆。これが意外と書き易いペンで、細かい字はもっぱらこれで書いていましたが、この頃はワープロで書くことが多いのでインクを抜いて机の引き出しの奥にしまってあります。たまには命を吹き込んでやらねば。

 23歳の頃、一点豪華主義とばかりに無理に無理を重ねて買った万年筆があります。当時28000円。どう逆立ちしても、清水の舞台から飛び降りても手が出ない値段でした。ところがある日、名古屋駅前の専門店に特価6000円で出ていました。その頃、大卒初任給70000円位だったでしょうか。わたしは鍼の学校の貧乏学生でたいした収入はありませんでした。当分、昼飯は無いものと覚悟してショーケースの万年筆を握り締めたのでした。

 これが万年筆の代名詞とも称されるモンブラン社のマイスターシュッティック149。太い軸にプラチナコーティングされたペン先がついている万年筆の中の万年筆という名品です。おそらく日本の作家に一番愛用されているものではないでしょうか。毛筆に近い書き味と言われています。

 現在買えば60,000円位(今は77,000円くらいです)。興味の無い人には高いものでしょうね。

 高い万年筆を使うと上手な字が書けるのかと聞かれますが、残念ながら、そうはいきません。その辺りは高級化粧品に近いものがあり、本人の満足感の問題としか言いようがありません。

 もう一本、モンブランのマイスターシュッティックを所有しています。購入したのは30代半ばだったでしょうか。こちらは146。149よりやや細みです。ペン先の大きい万年筆は金の高騰と同時に価格も高くなり、これは確か39000円で入手したと思います。

 149も146もインクはポンプ式。軸のお尻を回転させてインクを軸の中に直接吸入します。その作業はいかにも万年筆を使っているという趣があり、原稿用紙に向かうときなどは満タンに満たしてからおもむろにペン先を原稿用紙に下ろします。一種の儀式です。

 最後に買ったのは三年前。これはいつも鞄に入れています。

 知り合いのアメリカ人がフランスを旅行するとき頼んで買って来てもらったものです。ウォーターマン社の万年筆ル・マン100パトリシアングリーン。万年筆の発明者の名を冠したウォーターマン社は氏の創設によるものですがいろいろあって現在経営母体はアメリカからフランスに移っています。

 重量感ある鮮やかな宝石の翡翠(ひすい)を思わせるグリーンの軸は、発明者の名をいささかも汚すことのない輝きで持つ者に喜びを与えてくれます。

  このペンは重心がやや軸のお尻側にあり全体のバランスが良く、書き易いのでお気に入り。インクはスペア式ですが、吸入式の道具をスペアの代わりにセットしてあります。ペン先はモンブランのものよりやや固め。

萬年筆くらぶ

 神奈川に物好きな高校の先生がいます。「萬年筆くらぶ」を主宰し、「fuente(フエンテ)」なる怪しげな会報を発行し、全国の万年筆愛好家の秘密アジトとなっているのです。首謀者はその名も怪しい「中谷でべそ」。

 事務局は

  https://fuente-club.webnode.jp/

 手元にある会報(19号)にはインクの検討や、万年筆の思い出、収集の苦労と喜びなどが書かれています。また万年筆のバザールや「売ります買います」なども。文章を読んで気が付くことは万年筆が親との思い出につながっていることです。すでに初老に達した方が、一本の万年筆に親を思い起こす。そんな文章を良く見かけます。

 確かに子供にとって万年筆は大人の香りのする筆記具でした。万年筆を用いる大人に一種の尊敬の念を抱き、高校生になるとついに親から万年筆を贈られたのです。万年筆を手にする、それは成長の証しでした。筆記具にも世代的な区分けがなされていたのです。万年筆の持つ魅力は、道具として字を書くという価値やモノとして工芸的な価値(デザインや機構)だけでなく、成長過程のノスタルジーでもあったのです。

 上質な万年筆のどっしりとしたスキのない重厚感はどこかに「人生かくありたし」という思いが込められているような気がしてなりません。

 
参考図書 平凡社カラー新書「万年筆」梅田晴夫著

ワールドフォトプレス「世界の万年筆」

モノ・マガジン「文房具現役博物館」

 

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